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ぞぶり、と嫌な音が聞こえた。
「ぁ、え……?」
その音の出所がどこなのか確かめようとしても、体がうまく動かない。思いのほか近くで聞こえたはずなのに、思考がぐらぐらして、うまく働かない。……いや、足が、腕が、動かない。それどころか、どこも、動かない。
いつの間にか地面に伏していて、視界がぼやけていく。
「敵性反応、衰弱確認。後に停止することを予測。ここに留まるのは非効率と判断。もう二つの敵性反応を排除することを選択します」
頭上で聞こえてくる声に反応することも、確認することもできず。そして、先ほど聞こえた音が、自分の腹を貫かれたために発せられたことにも気づけず。
何か恨み言を言う暇もなく、自分の状態を確認することもできず、いっそ慈悲深く、残酷に
文無影緋の命は、そこで途絶えた
「……たー、お……たー、……い……」
微睡んでいる中、誰かの声が聞こえる。聞き覚えのある声のはずなのに、その名前がはっきり出てこない。なぜなんだろう、と疑問に思っても、それを確かめようという感情が湧いてこない。このまま、眠ってしまいたい。このまま、ずっと、ずっと……
「おーい、いい加減起きねぇと、マスターのとっておきのフォンダンショコラ食べちまうぞー」
「それはだめだ‼」
聞き捨てならぬ言葉を聞き、勢いよく起き上がる。が、声の主の姿を見て、影緋の体は硬直した。そんな影緋の姿を見て、声の主は心底面白いといわんばかりに、くすくすと笑う。頭に巻いたバンダナを揺らしながら。
「よーっす、マスター。久しぶりってところか?」
そこにいたのは、影緋が最初に召喚したサーヴァントである、アンリマユであった。
「あ、アンリマユ?何でここに、というか、お前その姿……」
「うーん、何の面白みもないセリフをありがとう。ここはよくある三流小説に出てくる『ようやく目覚めましたか?勇者よ』とでも言っておこうか?……うっわ、勇者ってなんだよ勇者って。鳥肌立ったわ」
「勝手に鳥肌立ててんじゃねーよ。ぐいぐい腕を近づけるな!つーか肌黒すぎて鳥肌自体わからんわ‼退去したときはちゃんと肌色だったよな、お前!?」
起きがけにいきなり罵倒され、ボケられるとは思わなかった。条件反射で突っ込んでしまう影緋。だが、そんな彼女の様子を見て、アンリマユは満足そうに何度か頷く。その反応の意味が分からずに困惑していると、アンリマユはにっこりと、よく影緋に見せていた笑顔を浮かべた。
けれど、その笑顔を見て、影緋の背筋に寒気が走る。信頼できる存在のはずなのに、なぜこんなにも、怖く感じるのだろうか。
そんなマスターの心情を知ってか知らずか……それとも知ったことではないのか、にっこりと笑顔を浮かべたまま、アンリマユは口を開く。
子供のような無邪気な声で、残酷な事実を言葉に乗せて。
「いやー、万が一のことがあったからちょぉっと不安だったけど、その様子だと大丈夫みたいだな。槍で貫かれたのが、頭じゃなくてどてっ腹で助かったぜ。さすがに頭の場合は、修復に時間かかっちまうからなー」
「…………は?」
言われた言葉の内容に、思考が追い付かない。一体こいつは何を言っているんだ、と凍り付く影緋だが、ぞわぞわと背筋に感じる悪寒は止まらない。むしろ、その悪寒に続いて、ガタガタと勝手に体が震えだす。気づきたくない事実に気づいてしまいそうで、回転する思考を必死に止めようとするが、これまでの経験が、それを許さない。だって、思考を止めてしまえば、死んでしまうから。
死んでしまうか、ら……
「ぁ……」
違和感に気づき、おそるおそると言う様に、下に視線を向ける。いつも通りの変わりない礼装、傷だらけの手、足。何も変わり映えのない姿。
そう、腹に歪に空いた、黒い穴を除けば
「う、げ、ぇぇぇ……」
自覚したとたん、頭の中を記憶が通り過ぎていく。
白い雪の中を歩き、一人の少女に出会い、巨人と戦ったこと。
そして、異聞帯で培われていた文化を主人公とヒロインが否定し、ワルキューレと戦闘になったこと。そのワルキューレの槍に腹を貫かれ、命を落としたことも……‼
思い出せば思い出すほどに、生々しい感覚も思い出してしまう。自分を貫いた槍の感触と、体中を走る痛みと、零れ落ちていく命の感覚。それらに耐え切れず、胃の中のものを吐き出す。だが、胃の中に入っているものは何もなく、胃液のみが口を押さえた手の隙間からぽたぽたと落ちていく。
そんなマスターの姿を、あらら、と言わんばかりに見つめるアンリマユ。その目には同情も哀憫も浮かんでいない。代わりに浮かんでいるのは、過去の光景。
「あー、やっぱ一回目はきついよなー。わかるわかる。俺も最初の頃は一回の死でかなり引きずったからなー。痛いし気持ち悪いし、何より自分の体温ガンガン下がっていく感覚?あれがきつくてきつくて」
「げほ、ぁ、ぁあ……」
ことさらに明るく、何事もないように笑いながら言うアンリマユ。だが、その内容は彼にしか知りえない、残酷で、惨たらしい事実で。まともな言葉も発せず、嗚咽をこぼしながら吐き続ける影緋にはその言葉が届いているのかわからない。だが、彼本人としては、届いていようがいまいが、関係ないようだ。ただ、無様に蹲り吐き続けるマスターを慰めることもせず、見つめるだけ。
だが、不意にその黒い手を伸ばし、彼女が自身の口を覆っていた手を掴む。胃液まみれの手は生温かく、触れて気持ちのいいものではない。突然の行動に、条件反射でその黒い手を振り払おうとするが、死への恐怖が全く癒えていない影緋には、不可能であった。いや、彼に再会する直前の状態でも、振り払うことは叶わなかっただろう。
「まあ、そろそろ俺的にも待つの面倒ですし?ちゃっちゃと聞いておきたいんですよねー」
「は、はな、せ、アンリマユ、」
「いやいや、離しちゃったら、マスターはちゃんと聞いてくれないでしょう?一応、あんたのこれからを決める大事な内容なんで?しっかり聞いてほしいんですよねー」
「なに、を、」
「マスター、あんたはこのままだと、死にます」
ひゅ、と息をのむ音が響く。改めて突き付けられた事実に、一気に頭から血の気が引いていく。嫌だ嫌だと首を横に振り、普通の少女のように再びがたがたと震え始めた影緋の姿を見ても、アンリマユは手を離すこともなく、表情も変えることはない。
そして何の躊躇いもなく、もう片方の手で彼女の腹の空洞に突っ込む。ぐちゃ、ずちゃ、と内臓をかき回す音と、途方もない痛みに悲鳴も絶叫も上げることできない。どろどろと生温かい液体と臓物が、アンリマユの黒い手を伝って、流れ出ていった。
「この状態で生きているのも、俺がアンタの体に泥を入れ込んだから。けれど、これはあくまで応急処置であって、永続じゃない」
「ぃ、だい、や“め”、ぁら、ぁぃま“わすのや“め”で、」
「ここでマスターには三つの選択がある。……ああ、悪い悪い、もうやめるから、気をやんなよ?」
存分に影緋の腹の中をかき回して満足したのか、ずる、と音を立ててアンリマユの手が彼女の腹から抜けていく。ぼたぼたと黒いの手から落ちていく臓物と血を見ても、アンリマユは不愉快そうな顔をしない。むしろ穏やかな笑みを浮かべ、三つの選択肢を口に出した。
「一つ目は、このまま大人しく死を受け入れること。まあ、死ぬ瞬間の感覚をもう一回自覚して受けちまうことになるけど、そこはご愛敬ってことで。んで、二つ目は生きる道を選んで、異性の神……クリプター、だっけ?そいつらの味方になること。あっち側はすぐに受け入れてくれるとは限らねぇけど、カルデアの情報売れば、あの女狐あたりが考慮してくれると思うぜ」
「そして三つ目だけど」と言葉を区切り、痛みに喘ぐ影緋と目線を合わせ、アンリマユはにっこりと笑う。子供のように無邪気で、けれどその目には黒い闇を湛えながら。
「異性の神もクリプターもカルデアも、すべてをぶっ潰す道を選ぶか」
影緋の黒い目が大きく見開かれる。考えもしなかった、生きている間は選ぶことさえ許されなかったそれは、彼女が決して選ばないはずの道で。どうしてそんなことを、と困惑を隠しきれないマスターの姿を、心底愉快そうに眺める。そして口から出るのは、飄々とした明るい声で語られる、これまで影緋が受けてきた理不尽の数々。
「だって考えてもみろよ?あんたは今まで散々あいつらに振り回され続けたんだぜ?何度もあいつらに巻き込まれて、勝手な偽善と蛮勇の代償を代わりに支払い続けて。終いには、そいつらのツケを払うために、あんたはあっさりと命を落とした。誰にも気づかれることもなく、観測されることもなく。そして、事の原因になった主人公様とヒロイン様は、あんたの犠牲をこう言うだろうな『尊い犠牲だった』って。反省することもなく、死んだあんたを勝手に神聖化して!」
「クリプターの連中だって、あんたを殺したようなもんだ。せっかく全てを終えて『普通』の日常に戻れるはずだったのに、それをぶち壊して。そして『自分たちが人理修復すれば犠牲は少なかった』『お前にその栄光はふさわしくない』と被害者ぶって!あんたが振り回され死にかけてる中、悠々と眠りに就いていたあいつらに、そんなこと言う資格なんぞないのになぁ」
「復讐したいとは思わないか?自分を振り回し続け、平気な顔をして生きている厚顔無恥な主人公とヒロインと、助けてくれなかった傍観者たちに!こっちの事情も知らず、手に入るはずだった平穏を、ようやく訪れるはずだった『普通の日常』をぶち壊した異性の神とクリプター共に!」
「さあ選べよ、マスター。このままおとなしく死を受け入れるか、カルデアの連中を裏切るか、カルデアも異性の神もクリプターもぶっ潰すために復讐の道を選ぶか、さ!」
まるで舞台に上がった、スポットライトを浴びる役者のような言い方。
けれど、語られる言葉はどこまでも残酷で、悪徳で……甘美なもので。
目の前で提示された三つの選択肢のどれを選ぶのか。影緋の前に跪き、回答を待ち続けるアンリマユを前に彼女は荒い息のまま、はくはくと口を何度も開閉させる。そして、何度か声にもならない息を吐き出した後、震える声で、彼女は言葉を紡いだ。
「すこしやすませて、くれ……。あ、あたまのなか、ぐ、ぐちゃぐちゃで、なにも、かんがえられない……‼」
しかし、それはアンリマユの望んでいた回答ではなかった。だが、影緋にとってはそう言葉を紡ぐのが精いっぱいだったのだろう。心の限界が来たのか、ひく、と小さく嗚咽を漏らし、自身の臓物と血によって作られた海の上に涙を落とす。
そんなマスターを前にアンリマユは少し間を置いた後、はあ、と溜息を吐く。しょうがない、と子供のわがままを聞く親のように。
「まあ、いいですよ。応急処置と言っても、あんたの休む時間くらいはありますし?俺の行動とかも決める大事な選択ですし、少しくらい待っててあげます。特別サービスってやつですからね」
「ぁ、」
ぐい、と影緋の腕を引き、アンリマユは自身の膝の上に彼女の頭をのせる。それに抵抗する体力もなく、行動に返す言葉もなく。痛みと混乱と貧血により思考も回らない影緋の意識は、徐々に薄れていく。
そして、優しく目を覆った黒い手の生温かく、しかし最後に残る冷たい体温に懐かしさを感じて。
「おやすみ、俺の
殊更に優しく、慈愛を込められた声を最後に
文無影緋の意識は闇に沈んでいった
すう、と小さな寝息を立てて眠るマスターを見下ろす。出血と心労から顔色も青白く、寝息が聞こえていなければ死んでいると勘違いするだろう。……まあ、実際彼女は一度死に至ったため、その勘違いも間違ってはいないが。だからと言って、今掴んでいる腕の細さは見過ごせない。カルデアから退去する際、自身の中指と親指で囲っても悠々とした隙間なんてなかったはずだったのに。目の下だって、クマで真っ黒に染まっている。ただでさえ、不機嫌そうな顔を常にしているのだから、これ以上人相悪くしてどうするんだ。目が覚めたら揶揄ってやろう。「余計なお世話だ!」と幻影の毛を逆立て、怒るマスターの姿を想像し、一人笑いをこらえるアンリマユ。
だが、不意にその笑いをやめると、眠っている影緋の腹部を見やる。先ほどまでは好き勝手腹に手を突っ込んでぐちゃぐちゃとかき回していたため、臓物やら血液やらがとめどなく流れていたが、今は泥の修復のおかげで徐々に塞がってきている。これなら、彼女が目を覚ます頃には完全に塞がるだろう。……まあ、自分が腹をかき回さなかったら、もう少し早く傷口は塞がっていただろうが。やってしまったことは仕方ない、と開き直り、幾分か痩せこけてしまった頬に触れる。自分と同じ、冷たい体温を感じた。
本当だったら、アンリマユは影緋に再び会うつもりはなかった。
影緋の最期まで付き合ってやろうとは思っていたが、それはあくまでずっと隣にいる前提だ。だから、カルデアの退去を命じられた際、『普通』の日常を望む影緋の人生に、自分の存在は必要ないと思った。もちろん、そんなことを素直に口にしようとも思わなかったし、することもなかったが。
ただ、一つ懸念があった。魔術協会や主人公、ヒロインがその『普通』の日常に首を突っ込まないか、というものだ。一部を除いた魔術協会は真っ黒で信用ならず、主人公とヒロインは脇役の事情など無視して『普通』を壊す可能性が高い。そんな不安要素を抱えながら「はいさよなら」ができるほど、影緋のこれまでを見てきたサーヴァントたちはのんきではなかった。
だから、アンリマユたちは考えた。魔術協会にもバレず、主人公とヒロイン、主人公・ヒロイン派に邪魔されず、影緋のもとに駆け付ける方法を。そして思いついたのが、影緋と直接契約しているアンリマユが、彼女に気づかれずに契約を交わすことであった。敵を騙すなら味方から……影緋にも知られずに、その作戦は実行された。
サーヴァントを通じてマスターは夢を見る。それを利用した。アビゲイルの銀色の鍵を使い、影緋が見ていたアンリマユの過去……夢の中に侵入し、夢と信じきっている影緋と契約を交わした。
…………そして、アンリマユは、全員を欺いた。
本来の契約と違う契約を交わした。
『文無影緋が危機に陥った時、顕現する』という契約を『文無影緋が満足のいく死を迎えられなかった場合、顕現する』に変えて。
アンリマユ自身、辟易していたのだ。
好き勝手に独善と蛮勇で突っ走り、脇役のことを気にも留めない主人公・ヒロインに、それを良しとして讃える傍観者たち。そしてその状況を知っても尚、見ているだけの中立派。そんな奴らのいる世界を本当に救う価値があるのか。何度も影緋に問いかけたかった。
だが、アンリマユはその問いかけだけはしなかった。彼女の答えなんて、とっくの前から分かっているのだから。『文無影緋』の最初のサーヴァントであり、彼女から新たな肩書をもらった自分が、一番わかっている。
だから、思ったのだ。『文無影緋』が生きる平和な世界、または『文無影緋』が満足のいく生を終えた世界なら、干渉することをやめようと。そのまま深い深い、泥にまみれた聖杯の中で微睡んでいようと。
そんな考えも、結局は無駄でしかなかったみたいだが
「いやー、まさかあそこまで酷いとはねぇ」
泥の聖杯までに引き込むまでの間、正しくは影緋が死に、その遺体に触れた時、彼女の記憶を見せてもらったが、それはそれは酷いものだった。
カルデアの襲撃でまた始まったいつ終わるかわからない、不安要素しかない旅。今までは確かな味方がいたはずなのに、生き残ったのはみな『主人公、ヒロイン』派の職員たち。カルデアにいた時点で難易度はハードを超えていたというのに、ベリーハードどころかルナティックときた。そのうえ、あのヤク中探偵と万能ロリっ子はボーダー内に不和を作りたくないから見て見ぬふり。あの太った新所長とやらも、おかしいことは感づいていたけれど、主人公とヒロインに助けられた手前、何も言うことはできず。一つ目の異聞帯のあの色白坊主には「腰ぎんちゃく」やら「君がいなくても世界は救われてた」なんて言われるわ。まともな味方もいない中、そんな生活を送っていれば、痩せ細って眠れない日も続くはずだ。
そしてとどめにあの惨状だ。異聞帯で培われていた文化を全否定。ましてや、ろくな戦力もない状態で、高尚なことを言って隠れることもせず突っ込んでいくなんて、愚かとしか言いようがない。
……そしてもう一つ、気に食わないことがあった。影緋は知らない、アンリマユだけが見た光景。白い雪の中、腹に穴を空け倒れ伏す影緋。一人隠れながら戦い、誰にも看取ってもらえず死んだ彼女を探していたのか、あわただしい足音を立てて『主人公』と『ヒロイン』は来た。そして影緋の死体を見ると、大きく目を見開き、涙を流し始めた。そして言い放ったのだ。彼女の、『主人公とヒロインのせいで死んだ脇役』の前で、はっきりと。
『どうして、どうして影緋がこんな目に……‼』
『先輩、影緋さんの分まで、私たちが頑張りましょう……‼』
その言葉を聞いたとき、思わず思考が停止した。
どうして影緋がこんな目に?それをお前が言うのか。勝手なことを言って、無理やり戦闘に引きずり込んだお前が‼影緋さんの分まで私たちが頑張りましょう?今まで散々影緋を蔑ろにしながら、今更仲間面をするのか‼
お前たちのせいで、文無影緋は死んだのになぁ‼
本当はそう叫んでやりたかった。あいつらの前で顕現して、そう叫んで、目の前で影緋を引きずり込みたかった。だが、そうするよりも、あいつらを絶望に叩き落す方法を思いついた。だから、あいつらの目の前で、伸ばされる手をはじいて、影緋を引きずり込んだのだ。一体どんな言い訳するのか。まあ、興味なんてかけらもない。それよりも重要なものがあるのだから。
ふと下を見れば、未だ目を閉じて眠る影緋の姿が。だが、先ほどと違って少しだけ穏やかな寝顔になっている。腹部に空いた穴も修復が進んでいるようで、出血も微量になっている。これなら、そう時間も経たずに起き上がるだろう。ちゃんと泥の操作ができていることに、小さく息を吐いた。
実は、アンリマユは影緋に言っていないことがある。
本来、アンリマユは『必要悪』として存在していた。だからこそ、聖杯の中に存在し、泥を扱うことが可能だったのだ。だが、それが不可能になっていた。何故なのかなんて、簡単な答えだ。
アンリマユが『必要悪』ではなく『名もなき道化師』として存在していたからだ。
文無影緋からもらった二つ名が、まさかここまで作用しているなんて思ってもみなかった。だが、手足のように扱えた泥を扱うこともできないことも事実で。アンリマユはその時になって、『必要悪』か『名もなき道化師』のどちらを選ぶか、選択を迫られた。
そしてアンリマユは何の躊躇いもなく、文無影緋からもらった『名もなき道化師』の二つ名を捨て『必要悪』に戻ることを選んだ。
だって、意味がないじゃないか。『名もなき道化師』として証明してくれる存在がいなくなってしまえば、結局『必要悪』に戻るだけ。なら、今捨てようと何をしようと変わりはない。……それに、これからやることを考えれば、『必要悪』として存在しておくほうが色々と都合がいい。
ぐちゃぐちゃと、いまだに地面から溢れ出る泥を手遊びながら、アンリマユはにぃ、とチャシュ猫のように口角を上げる。相も変わらず、アンリマユの膝の上で眠っているの顔色は悪いまま。だが、味方になってくれている存在がいるおかげか、幾分かその表情は柔らかいものだった。
「さあ、マスター。はやく目ぇ、覚ましてくださいね?」
べたべたと手についた泥を影緋の頬に塗りながら、アンリマユはそう呟く。黒と赤が混ざった泥は、するすると時間をかけ、ゆっくりと肌にしみこんでいった。
この泥は、アンリマユにとって攻撃の手段でもあり、防御の手段でもあり、願いを叶えるための手段にもなる。……もちろん、ろくな用途はないが。
だがこの泥と、例えるならそう、聖杯と同じエネルギーがあれば、あの大聖杯の中に入ってた時と同じくらいのことができる。そう、一つの街を滅ぼすことだって造作もないことだ。そして、死んだ人間を生き返らせることだってできる。
ただ、少しだけ難点がある。一つ目に、生き返った存在はもう元の存在には戻れない。これはまあ、まともな甦り方ではないのだから、当然と言える。二つ目に、エネルギーがなくなれば、その存在は泥となり消える。これも当然と言えるだろう。
そして三つ目、泥に汚染されたものは、人格に少し影響が出る。アンリマユの属性と同じく、悪寄りになるのだ。
だからこそ、彼は楽しみで楽しみで仕方なかった。
(ああ、愚かで、可哀想で、報われない、俺の可愛い可愛いマスター!)
内心そう叫びながら、アンリマユはくつくつと笑う。心底愉快そうに、まるでおもちゃをもらう前の子供のように、無邪気に。
一つ訂正しよう。アンリマユの泥は人格に少し影響が出て、アンリマユに寄る、と言ったが、それはあくまで軽く背中を押す程度だ。だから、しっかりとした意志の持ち主なら、そこまで左右されない。
しっかりとした、精神がまともな人間ならば。
(そう、俺はあんたが考えていなかった、考えることすら許されなかった選択肢を与え、ほんの少しだけ背中を押してあげるだけ)
少し前の、それこそ別れる前の影緋であれば、その選択肢を一蹴しただろう。けれど、今は違う。散々死にかけ、味方もおらず、誰に看取られることなく命を落とした。そんな彼女が、最初に召喚したサーヴァントであるアンリマユから垂らされる蜘蛛の糸を掴まないはずがない。
だって、そういう風に彼女の道を塞ぎ、殺したのはあいつらなのだから‼
「さあ、はやく遊ぼうぜ、マスター。カルデアもクリプターも、異性の神も全部ぐっちゃぐちゃにして、泥にまみれてわらってやろう?」
そのための力を、あんたが与えてくれたのだから
赤と黒に混ざった空間の中、『必要悪』は『脇役』の頭を優しく撫でる。二人の体温はどこまでも低い、死人の体温だった。
善意に振り回されて死んだ脇役の話
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