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「こんにちは、レディたち」
「あら、数学のおじさま!こんにちは」
「こんにちは、モリアーティ!」
カルデアのある一室にて。
そこにモリアーティは花束を手に持ちながら、その部屋に入る。部屋にはちょうど幼い少女……アビゲイルと、この部屋の主である少女がいた。
「これ、お土産だよ。どうぞ」
「ありがとう!きれいな花束だね」
「ふふふ、嬉しそうね」
「うん!」
花束を少女に渡せば、その手にある花のようなきれいな笑みを浮かべる。その姿に、アビゲイルはお姉さんのような目を向けている。まるで仲のいい姉妹のようなやり取りに、少しの微笑ましさと、何とも言えない感情を抱く。決して不埒なものでもないそれを抱えながら、モリアーティは今日あった出来事を面白おかしく話していく。その話を聞きながら、少女は楽しそうな笑い声をあげた。
「ふふふ、大変だったのね、数学のおじさま」
「全くだよ。何でもかんでも私のせいにするなんて、勘弁願いたいものだ」
「でも。モリアーティは悪いやつなんだろ?」
「ちょっと、それ誰から聞いたんだい?」
「えーっと、アンリマユに酒呑に茨木に、」
「間違ってないはずなのに、そのメンツに言われるのは納得いかないんだがネ!?」
「あははっ!」
和やかな時間は進んでいく。が、少女は話しつかれたのか、少しうとうとし始めた。それを見たアビゲイルは、毛布を少女にかけてやる。なるべく刺激を与えないように、慎重に、慎重に。
「んむ、アビー、私ねむくないよ。だいじょうぶだから、」
「いいえ、だめよ。眠い時はちゃんと眠らなければ。じゃないと、こわーい婦長さんに怒られてしまうわ」
「ついでに言うと、私たちも怒られるだろうね」
「む、むう……」
そこまで言われたら何も言えないのだろう。大人しく少女はごそごそと身じろぎをすると眠る体勢に入る。それを見届け、立ち去ろうとしたモリアーティだが、くん、と袖を引かれ動きを止める。その犯人はもちろん寝に入ろうとする少女で。
「ずっと、こわい夢を見るんだ」
「怖い夢、かい?」
「うん。何かが私の上に乗って、あしやうでに痛いことをするんだ」
「それは、」
「でも、いつもモリアーティが助けてくれるんだ。『痛くないか』って、泣きそうなかおで」
「……」
「だから、もりあーてぃ、なかないで。わたしは、だいじょうぶ、だから……」
夢と現実があいまいになっているのか、そうでないのか。そこまで言うのが限界だったのだろう。すう、と寝息が部屋の中に響く。その傷だらけの手はモリアーティの袖を握ったままで。その手を、モリアーティは両手で優しく握りしめ、自らの額に押し当てる。
ああ、まるで神に懺悔している人のようだ、とアビゲイルは思わざるを得なかった。
「おじさま、貴方のせいじゃないわ」
「……」
「この子がひどい目に遭ったのも、こんなことになってしまったのも、貴方のせいじゃない」
「……たとえそうだとしても、私は私を許さないよ。目の前で甚振られていたこの少女を救えなかったのは、事実なのだから」
そう言い切り、モリアーティは少女、マスターである文無影緋を見やる。眠るその表情は、どこまでも幼い子供にしか見えなかった。
あの日、令呪の発動が間に合わなかった。
命令を下す前に、マスターの、影緋の腕がその魔物に貫かれたからだ。その痛みで彼女は意識を失いかけ、言葉を発することすら困難になっていた。
その後のことは思い出したくもない。鋭利な爪で、槍で、遊びだと言うようにその細い腕や足を刺され続け、神経をぶちぶちと千切られ、苦痛に声を上げることすらできなくなったマスターの姿。その姿を、誰が見たいというのか。巨大な魔物に押さえつけられながら、影緋が物言わぬ体になっていくのを、見ていることしかできなかった。
そして遊びに飽きたのだろう。とどめを刺さんと言わんばかりに大きく振り上げた魔物。やめろ、と叫んだモリアーティの耳に、小さな声が聞こえてきた。
『モリアーティ、たすけて』
その言葉は令呪の発動でもあったのだろう。急激に高まっていく力をそのままに、モリアーティは魔弾で全てを一掃した。影緋を甚振っていた魔物には念入りに、何度も何度も魔弾をぶち込んで。
そしてようやくすべての魔物を木々もろとも一掃した彼は、魔力の消費のせいで覚束ない足で、体で、影緋のもとへと急いだ。
『マスター、マスター……‼』
ぼろぼろの、甚振られた体は完全に戻らないことを察するくらいの酷い有様だった。ぐったりと意識の朧げになっている彼女にそう何度も呼び掛けて。ようやく影緋はうっすらと目を開く。
『もりあ、てぃ、』
『しっかり意識を持つんだ、マスター!すぐにカルデアに戻るから!っ、ダ・ヴィンチくん!見てるんだろう!?急いで帰還を、』
その言葉が途切れる。何故なら、くん、とそのマントを引かれたから。引いたのはもちろん、腕の中で冷たくなりかけている彼女で。
『もり、ぁ、て、いたぃ、よ』
『マスター、』
『どうして、わたし、いたいことばっかり、されなきゃいけないの……?』
ひゅ、とモリアーティの喉から空気の抜ける音がした。その言葉を飲み込んで、でも理解することを頭は拒んで。けれどモリアーティの優秀な頭はそれを理解してしまう。瞬間、目の前が赤くなった。
『マスター、君は何も悪くない。悪くないんだ……‼』
そう、腕の中で痛みに耐えるしかない彼女は何も悪いことなんてしていない。悪いのは「主人公」と「ヒロイン」で。でも、それを言うことは許されていなくて……‼
なぜ、影緋ばかりこんな酷い目に遭わなければいけない?こんな、理不尽な目に遭わなければいけない!?彼女が何か罪を犯したのか?ここまでされなければいけない大罪を、彼女が‼静かに生きていたいと、そう言っていた彼女が、いったい何をしたというんだ‼
けれど、その言葉を口に出すことも出来ず、モリアーティはただ唇を噛みしめ、レイシフトを待つしかなかった。
カルデアに戻った後、早急に影緋は意識を失ったまま治療室へと運ばれ、治療を受けた。一命はとりとめることはできたが、その代償は途方もないほど大きかった。
『……そうか』
目立った傷もなく、五体満足のまま見舞いにきたという立香とマシュを一瞥し、次いで二度と立ち上がることも、歩くことも出来なくなった、失った自身の足を見て、そう一言呟くと再び眠りに就く。そして次に目を覚ました時には
『えっと、あの、ここ、どこですか?』
カルデアでの記憶をすべて失い、幼子のような、いや、心が幼子になった文無影緋の姿が、そこにはあった。
『もう、限界だったのでしょう』
異常事態だと言われ、影緋を診断したナイチンゲールはそう呟き、唇を噛みしめる。その姿を、影緋の味方であるサーヴァントたちは見ていることしかできなかった。
幾度となく訪れる死への恐怖に、忠告を聞いてくれず、勝手に動いてすべてを台無しにする「主人公」と「ヒロイン」。そしてそんな彼らを讃え、こちらの事情などお構いなしの職員たち。いくらアンリマユがガス抜きを担当していたとはいえ、それで心の処理が追い付いているならこんなことにはなっていない。それほどまでに、影緋の心は限界で、そして足を失ったことで、壊れてしまったのだろう。
そんな彼女を一体誰が責めることができるというのか。これまで散々な目に遭い続け、それでも必死に生きようとした彼女を、いったい誰が。
『つまんねーの』
ぽつり、と呟く「名もなき道化師」から「必要悪」に戻った、戻るしかなかったアンリマユの言葉に返す言葉を持つ存在は、なかった。
「そういえば、おじさま。またあの人たちは怪我をして戻ってきてたわ」
「……そうかい」
「そんなことしたって、罪滅ぼしにもならないって言われてるのにね」
「……」
憐れみを目に宿して呟くアビゲイルの脳内に蘇るのは、レイシフトして怪我をしてきたにも関わらず、治療を拒否する「主人公」と「ヒロイン」の姿。そんな二人を説得し、なんとか治療を受けさせようとする彼のサーヴァントたち。その光景を、影緋のサーヴァントたちはひたすら冷めた目で見ていた。
きっかけを知っているモリアーティは、それを聞いて思案する。思い出すのは、あの日のこと。
影緋のもとへと行こうとしたモリアーティの耳に、悲鳴と何かが割れる音が聞こえてきたのは本当に偶然だった。その声と音の出所は今まさに行こうとしていた彼女のいる部屋で。急いで彼女のもとへと走ったモリアーティが目にしたもの。
それは
『う、うぅぅぅぅぅ……』
壊れたテレビと、ぷらんと揺れる針のついた点滴
床にある、這いずったかのような血の跡
うめき声をあげながら部屋の奥へと逃げるように這いずる影緋の姿が、そこにはあった
『っ、マスター‼』
その姿を見た瞬間、モリアーティは入り口で唖然としている立香とマシュを押し退け、影緋へと駆け寄った。彼女の足に巻かれている包帯から流れ出た血が、その靴を汚すのにも構わず。そして跪いて小さくなってしまった体を抱きしめれば、わんわんと幼子のように影緋は泣き出した。
『もりあ、てぃ、もりあーてぃ……‼』
『大丈夫だマスター、落ち着いて呼吸を、』
『いたい、いたい、こわいよぉ……‼』
『もうやだ、いたいのはやだ、こわいのもやだ……‼』
『もうやだよぉ……‼』
ひゅ、と誰かの息を呑む音が聞こえた。だが、それを気にする余裕が、モリアーティにはなかった。
今までため込んでいた彼女の悲鳴や叫び。それが今、この場で放たれたことがどれほどのことなのか理解しているからだ。本当なら隠し通すはずだったであろうそれを、幼子の心になってようやく吐き出すことができた、なんて。どれだけ残酷なことか。
いたい、こわい、という悲鳴が響く中、第三者が現れるまで影緋以外、誰もしゃべることも動くことも出来なかった。
『なぜ二人に彼女の病室へと入る許可を出したのですか‼』
普段は声を荒げることのないナイチンゲールの怒号が部屋の空気を震わせる。言われた職員はびくり、と肩を震わせ、気まずそうに顔をそらした。
『二人が、影緋さんに会いたいと、謝りたいと言っていたので、』
『だからと言って、私の許可抜きに会わせることはできないと再三言ったはずです。それを忘れたのですか!?』
『それは……』
『幼子になってしまった彼女に、これ以上の傷を負わせてどうするのですか!!ただでさえ、心の傷が治っていないというのに……‼』
そう、立香とマシュは本来影緋の病室に入ることを固く禁じられていた。それもそうだ。彼女が傷を負った原因が彼らにあるからだ。加害者と被害者を会わせてどうするというのか。どうなるか、なんて分かりきっているはずなのに。だからこそ、ナイチンゲールは影緋への面会は、影緋のサーヴァント以外は自分の許可がなければ面会できないようにしていたのだ。
なのに、目の前の「主人公・ヒロイン」派の職員は、自分の考えで勝手に許可を出し、影緋にさらなる傷を負わせたのだ。これを怒らずにして、どうしろというのか。ぎり、と怒りのあまりに握りしめたナイチンゲールの手から、ぽたり、と血が一滴落ちていく。だが、それに気づいていないのか、それとも気づいていながらそれよりも大事なことがあるからと気づかないふりをしているのか。ナイチンゲールは言葉を続けた。
『……これで言うのは最後にします。「文無影緋への面会はナイチンゲールの許可がなければ行えない」これは絶対です』
『……』
『もしもこの約束を違えた場合、私も実力行使でやらせてもらいます。今、私が守らなければいけない患者は「文無影緋」ただ一人です。それを邪魔するというのであれば、たとえ誰であろうと容赦はしません。患者の治療を邪魔するものは排除するのみ、です』
据わった眼と取り出した拳銃から、その言葉が本気であると察したのだろう。その姿に職員は小さく悲鳴を上げ、部屋から逃げ出した。その後ろ姿を見届けた後、ナイチンゲールは小さく息を吐き、まだ部屋の中にいたモリアーティへと声をかけた。
『Mr.モリアーティ。彼女の様子は、』
『さっきアンリマユくんたちから連絡があったよ。ようやく落ち着いたらしい。ただ、足の傷が開いてしまっているから、治療を頼みたい、だそうだ』
『……分かりました』
『ナイチンゲールくん、君が気にすることじゃないよ。すべては彼らが、』
『いえ、私の責任でもあるのです。Mr.モリアーティ』
そういうと、ナイチンゲールは己の額に銃身を押し付け、目を閉じる。まるで懺悔する天使のようだ、とモリアーティは思った。
『影緋に前、話したことがあるのです。「彼らの行動は尊くもあるが、その代わりに傷を負っているあなたの状況をわかっていない」と。私は、分かっていた。彼らの行動がいつか彼女に深い傷を負わせるかもしれないと。憶測でありながら、分かっていたのです。なのに、私は何もしなかった。ただ、彼女の傷を治療することしかしなかった。それがどれだけ罪深いことか……』
『……』
『私こそ、断罪されるべき存在なのです。彼女に合わせる顔が一番ないのは、私なのに……』
『それを言い始めたら、私こそ断罪されるべきなんだよ。ナイチンゲールくん』
モリアーティの言葉に、ナイチンゲールは困惑した表情で彼を見やった。目に映る悪の教授は、それは情けない顔をしていた。
『あの日、甚振られているマスターを救うことができなかった。力不足だった、なんて言葉を言い訳に使えるわけがない。それを言ってしまえば、これまでのこともすべてその言葉で片付いてしまうからだ』
『Mr、』
『君より罪深い存在がここにいるんだ。だから、自分を責めるのはやめたまえ。それに、少なくともマスターは、影緋くんは君が中立でいてくれたことに感謝していたよ。そして、治療を何度もしてくれたことも』
『彼女が、そんなことを……』
『私の方からも言わせてくれ。ナイチンゲールくん、マスターのことをそこまで思ってくれて、ありがとう』
モリアーティがそこまで言うと、ナイチンゲールは唇を噛みしめた。そしてゆるく目を閉じると、銃を仕舞い踵を返し、部屋を出ていこうとする。が、一度立ち止まると、口を開いた。
『……私の方こそ、ありがとうございます。Mr.モリアーティ。慰めの言葉だとしても、嬉しいです』
そう言い切ると去っていくナイチンゲール。その後ろ姿を見届け、モリアーティは目を閉じた。何も言わずに、ただ沈黙を守ったまま。
そしてあの事件から、立香とマシュは自分たちがどれほどのことをしたのかをようやく理解したらしい。自分たちを見る、怯え、苦しみ、怖がる影緋の姿を見て、ようやく。それから傷を負っても治療を受けることを拒むようになった。まるで罪滅ぼしのように。もっと痛いのは、辛いのは、苦しいのは影緋の方だったんだと言いながら。
……そんなこと、今更気づいても、その行動が罪滅ぼしになる訳がないというのに。自分勝手な行動は、自分の首を絞めるだけだというのに。
「これから、どうなるのかしらね……?」
「さあ、私にもわからないさ」
そう、これからこのカルデアがどうなるか、なんて分からない。分かる訳がない。けれど、せめてと願うことはある。目の前で眠る幼子になってしまった彼女が、これ以上傷つくことなく幸せでいられることを。
たとえ、不可能だと分かっていたとしても
失った脇役と後悔する悪役と少女の話
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