目を覚ますとセピア色の天井を見上げていた。
石鹸の香りのする清潔なシーツに、柔らかい枕。ベッドの脇に置かれた花瓶にはスイセンが飾られ、窓の外からは小鳥の鳴き声と、木の葉が風に揺れる音が聞こえてくる。穏やかな朝だった。
上条は一昨日を思い出しながら身を起こす。
────『幻想殺し』
異能の力を使うモノであれば、神様の奇跡であっても問答無用で打ち消す右手。
それは原因不明の魔女がもたらした『イバラの呪い』に対しても問題なく機能した。そして……、
部屋を見回しながら寝ぼけた頭を整理していると、どこからか美味しそうな匂いが漂ってくる。
空腹に突き動かれるようにして、匂いのする方向へ足を動かす。寝室となる部屋を抜けると、薄暗い廊下に出た。左右には扉が並んでおり、正面には階段ではなくスロープが広がっている。
ミシミシと音を立てる床板を踏みしめながら階段を降りていくと、そこは見知った食堂だった。
外に繋がる扉の脇にはカウンターがあり、階段のすぐ横は厨房、広い空間の真ん中には四人がけの丸テーブルと椅子が並んでいる。運命の悪戯なのか、食堂の名前は『インデックス』だった。
そこでようやく人の気配に気付いたのか、厨房の方でカチャリと食器の触れ合うような小さな音がする。そして奥から出てきたのは昨日までと変わらない、車椅子に乗ったデディの姿だった。
「あ、おはようございます。よく眠れましたか?」
朝までグッスリだったよと肯定を返すと、彼女は嬉しそうに微笑み返してくれる。
結論から述べるなら、呪いは解けた。
女の子の生脚を触ることに人生をかける新種の妖怪(という名の変態)に誤解されるトラブルはありながらも、赤黒い痣のようなものは上条の右手が触れた瞬間、跡形もなく消え去った。
とはいえ、十年間も車椅子で生活をしていたら筋肉にも衰えが生じる。長期の闘病生活を終えた入院患者が歩行のリハビリから始めるように、少しずつ歩きに慣れていくことが大切らしかった。
「本日の朝ごはんは特製のサンドイッチです!」
得意げに胸を張る姿は、まるで母親に褒めてもらいたい子供みたいだった。
上条は席に着くと、目の前の皿に盛られた料理を眺める。サンドイッチは野菜だけのシンプルなものだが、蒸して歯触りを良くしたパンにシャキシャキ感を失わない程度に湯煎された野菜が使われているのがわかる。これが不味いはずが……、
「こ、このプルプルした寒天みたいな具材は?」
「ウナギのゼリー寄せ、バルサミコ酢和えです!」
想像以上に奇抜なメニューが潜んでいた。一八世紀を代表する料理として存在は知っていたが、実物を前にするとインパクトが強すぎる。透明なゲルの中にウナギの切り身が浮いているのを見ると、理科の実験でカエルの解剖をしているような気分にさせられる。なんかちょっとグロい。
青い顔でプルプルと震えている上条に、デディは釘を刺すように続けた。
「食わず嫌いはメッ!! ですよ。風土料理にはできるだけ早く慣れた方がいいと思います。今日から嫌というほど食べることになるんですからねっ!!」
今日から嫌というほど食べることになるらしい。そんなことされなくたって、最初から嫌だ。
昨夜、上条はすべてを包み隠さず説明した。
デディは少し驚いた表情で、目を真ん丸にしながらも話を大人しく聞いてくれた。
上条当麻はこの世界の人間ではなく、元いた世界に帰る手段を探していること。この世界を調べようにも明日のご飯も泊まる場所もないこと。
『それなら、このお店を宿代わりにして……』
都合のいい助け舟を拒むように、上条は首を横に振った。デディ=カートゥスという少女は控えめに表現しても他に類を見ないほどのお人好し、何事にも一生懸命なところが魅力的な少女だ。
きっと無条件に助けを求めても、返ってくるのは善意の塊のような答えだろう。
だからこそ、彼女の優しさを恩着せがましく利用したくはない。温情や寂しさにつけ込んで、好意を踏み躙る形にはしたくないのだ。
お金はない。だが、サービスは享受したい。矛盾の先にある回答は一つしかなかった。
「本当に、俺を雇ってくれるんだよな……?」
口内を蹂躙する生臭さに耐えながら尋ねる。
「もちろんですよ。お給料はあまり期待しないでいただきたいんですが、お部屋とご飯はきちんと提供させていただくので安心してください!」
あまりの緊張感のなさに頭を抱えそうになる。
警戒心を抱かせたくはないが、多少の危機感は持ってもらわないと困る。とはいえ、直接的な表現を使うのは生々しいし、犯行予告じみてくる。
「あのですね、上条さんは男子高校生です!」
「だんしこーこーせー、だんしこーこーせーです! だんしこーこーせーとは何でしょうか!」
抱えた頭を壁に投げつけたい気分だった。
「男と二人暮しなんて怖くないのか?」
「数年前までお爺さんと二人暮らしでしたよ?」
そう言って不思議そうに小首を傾げていたが、上条の視線が自分の胸元に向かっている事に気づくと、茹でダコのように赤くなって、両手で自分の体を抱き締める。物凄く希薄ではあるが、危機感らしきものは彼女の中に存在していたらしい。
「わ、わわわたしはそういう関係は初めてですから、あのそのお友達からゆっくりと進展させていきたいなって思っているからですね、はわわ……」
「違う違う違う、違う、違います、違うんです!! 変なことをするつもりはないから、信じてくれ。そういう危険を踏まえた上で、上で、改めて尋ねたいんだ。本当に俺を雇ってくれるのかって……」
「もちろん、最初から信じていますからっ!」
何の躊躇いもない快活な返事だった。そして、自分の体温を分け与えるように上条の右手を両手で包んでみせる。なんだか手をニギニギされている気がして、彼女の無防備さに息を吐く。
「どうしてそこまでしてくれるんだ? そりゃ変なオッサンに絡まれてるのを助けたり、呪いを解いたりはあったとしても、赤の他人を住み込みで働かせて面倒まで見るって言うのは流石に……」
「わたしと正面から向き合ってくれたから、です」
上条の言葉を奪うように、デディは続けた。
「この国の人達はみんな、わたしの足を見て顔をしかめます。自分達の平和を奪った怪物の仲間かもしれないんですから、無理もありませんよ。立場が変われば自分だってそうしていたかもしれません。でも、あなただけは違いました。他の人を見るのと変わらない瞳で、普通の女の子を見るような優しい眼差しで見つめてくれたんです……」
手を握る力が、きゅっと強くなった気がした。
「だから、今度はわたしがあなたの力になりたいんです。こんな何の力もない両手にできることなんて多くはありませんけど、それでもトーマさんの力になりたいって、そんなふうに思ったんです」
見知らぬ異世界で、大切なものを受け取った。
こうして上条当麻の異世界転生が幕を開ける。