異郷を渡る人食いの狂女   作:ポジョンボ

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霞峠の怪物ミルドレット

 

 

 

 

 

同族を見たのは久しぶりだった。私の庭に現れた彼女は、嘗て何度か見た他の同族と同じく、私の知らぬ物を知り、私の知らぬ物を宿していた。彼女はきっと遠く、私の想像も出来ぬほど遠くから来た異郷の同族なのだろう。

 

 

────────────────────────

 

 

 

 

 

 

霧が深く立ち込める山道、左右をそびえ立つ崖に挟まれたその道は長く先まで続いていた。

 

 

 

「ハァ…ハァ…ッ」

 

 

その場所を一人の男が息を上げながら走っていた、平凡な布服に平凡な革ズボン。髪は短く、痩せ型でもふくよかでも何方でも無い体型。背負ったバッグは大きく膨らみ、中には食料や替えの衣類、彼は何処かを目指して歩く一人の平民だった。

 

彼が何処を目的地として来たのか知る者は彼以外には居ないだろう。

 

 

その顔は恐怖に歪み、背にしたバッグを捨て去る発想さえ忘れて平民は走る。背後から来る脅威がそうさせていた。

 

 

 

背後から小走りで追いかける一人の人物、何も身に着けていないも同然のボロ布を纏った女。顔は覆面のようなズタ袋で隠れていた、それが小走りで迫る姿はある意味で滑稽ですらあった。

 

 

走りながら右腕に振り上げられた、光を鋭く反射する厚く巨大な解体包丁さえ無ければ。

 

 

その要素だけ見ても少なくともこの女が男にとって友好的な存在では無い事が明白だ。

 

 

女の名はミルドレット、男を追うその理由は言うまでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハァ…ッ…ハァ…逃げられたのか?」

 

 

走り疲れた男が息も絶え絶えに安堵の表情を浮かべた、この山道を渡っていた際に出会った謎の襲撃者。男は体力に特別優れている訳ではなかったが、周囲の環境が味方をした。

 

 

「この霧が…役に立ったみたいだな」

 

 

 

何とか霧のおかげで襲撃者は此方を見失ったようだ、ソレと出会った時、霧の奥から歩み出た襲撃者を見た瞬間、危険な存在だとすぐに理解できた。

 

この場所の噂は真実だった、男をまた湧き上がる緊張と恐怖が襲う。

 

 

 

「霞峠の怪物…アレが…」

 

 

 

最近、この先の王都のみならず付近の村々にまで不穏な噂が蔓延るようになった。男がいた村でも語られた霞峠の恐怖。

 

 

霞峠を年中覆う濃霧に紛れて、道行く旅人や行商人を襲う人食いの怪物。それは刺激に飢えた村の子供達や、仕事を終えて酒場に集まった大人達にとって格好の娯楽と暇潰しになった。

 

しかしそれが噂ではない事実だと解った今、楽しむ気になど到底なれない。

 

 

怪物の正体は人間の賊であった、だが正体がどうあれ襲撃者は明確な殺意を持ち、非力な自分が立ち向かえるような相手には思えなかった。

 

 

あの普通の料理に使うには余りに大きい解体包丁に込められた真意を想像すれば身震いが止まらない。

 

 

 

「だけど…王都へのマトモな道はここぐらいだ」

 

 

 

そう呟いて辺りを警戒しながら男はまた歩き出す。この平民はこの山道の先にある王都に用があったのだ、だから噂のあるこの峠を一人渡ろうとした。噂を信じていなかったというのもあるが。

 

 

 

(王都に到着して用事を済ませた後は、怪物の正体を衛兵に報告して討伐隊を向かわせてもらおう)

 

(アレが何とかなるまで何日か王都に留まる事も考えるか、もう一度一人でこの峠を越えるなんてあり得ない)

 

 

 

 

男はそう考えながら、できるだけ早く霞峠を越えようと無意識に早足で歩き出す。

 

 

その背後からヒタヒタと素足で地面を踏む足音が聞こえてきた。

 

ハッとなって振り向いても霧の奥の景色は見えない、だがすぐ近くに何かがいる。そしてそれはあの襲撃者である可能性が高い。

 

 

男はまた走り出した、脇目も振らず、坂道を出来る限りの速度で走り抜けた。息が切れて立ち止まる、後ろから追いかけて来るような音は聞こえなかった。

 

辺りには静寂が満ち、男が呼吸を整えようとしたその時、

 

 

 

「お~い、誰かいるのかあ?」

 

 

 

男とは別の声が発せられる、問い掛けるその声は疑いようもなく人間の声だった。

 

 

 

「王都から峠の偵察に来た者だ!誰かいるのか、無事なのか?」

 

 

「…! 無事だ!ここにいる!助けてくれ!」

 

 

 

男は助かったと安堵し、その声に答えた。噂を聞きつけた王都の衛兵だろう、これでもう安全だ。

 

 

 

「賊に襲われた!まだ近くにいるかもしれない!」

 

「落ち着け、何処にいる?」

 

 

「ここにいる!!ここだ!」

 

 

男は声のする方に近づいて、出来る限りの声で居場所を知らせた。辺りには霧ばかりで声の主の姿は無い。

 

 

「そこか、見つけたぞ」

 

「何だって?見えないぞ?」

 

 

 

「いいや、私は見つけた」

 

 

 

その声は男の頭上から響いていた、男の上空に影が差して何かが落ちて来る。覆い被さった何かに押され、地面に倒れ伏した男。

 

もがく暇も、声を上げる暇もなく、首筋に強い衝撃を受けたと感じた男の思考はそこで断ち切られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこには形容の困難な何かがいた、一つ、一匹、一羽、何と呼べばいいのか解らぬソレ。一番近しい表現で表すのなら一匹の獣。

 

だがただの獣では無い、ソレの姿を見れば誰しもがそう思えるだろう。

 

 

胴体は鶏とも野鳥ともどこか似つかぬ、羽の付いた鳥の胴体。脚は蹄の付いた山羊のソレ、本来は尾羽根があるべき場所からトカゲの尾が生えていた。羽とは別に胴体から長々と伸びる毛の生えた腕、五本指の人に似たソレは猿の腕だ。

 

 

その頭部は真紅のトサカを携えた鶏、しかしその口内には本来鳥類には無い、肉食獣の如き鋭利な牙が細かく生え並び、口元から真新しい血が滴る。

 

バラバラの特徴が繋ぎ合わさって、全身に生える茶色の体毛がそれをまとめていた。

 

 

 

突如として飛来し、一人の平民を今、足元に転がる肉塊へと変えたこの何か。

 

死んだ男に語りかけ、今立つこの地点へと誘導したあの声は、この何かの口から発せられていた。

 

 

その風体は怪物と表現する他無いだろう、事実、この何かこそが“霞峠の怪物”そのものだった。

 

 

 

 

「賊に襲われた、か」

 

 

 

怪物が呟く、その声は高音と低音が混じるような不気味な発声。男なのか女なのか、込められた感情の起伏すら不明瞭だった。

 

殺した男の死体を貪りながら怪物は思案する、ここ数日、己を悩ます予期せぬ出来事について。

 

 

それはなにか、もっともらしく言うなら望まぬ訪問者と言ったところか。

 

 

本来、この霞峠に足を踏み入れた者は生きて峠を出ることは無い。

 

深い霧と怪物の擬声に惑わされ、彷徨う内にこの霞峠の怪物の餌食となる。今までの全員がそうだった。

 

 

その狩りの鉄則を乱す者が現れたのだ、ソレは何処からともなく現れた。そしてソレもまた、この場所の霧を己の狩りに利用し始めた。

 

 

人の目が届かぬ場所で獲物を待ち伏せ、身を隠して仕留め、その肉を喰らう。同族たる怪物の所業だった。

 

 

ボロ布と解体包丁の狂女、ミルドレットである。

 

 

 

 

(遠巻きにヤツを見たときはアレが噂に聞いた魔女かとも思ったが)

 

(ヤツの狩りを観察すればどうやら違うらしい)

 

 

 

魔女、この世界に数多いる怪物の中でも特に強力な存在。

 

澱んだ魔の力と汚れた忌血を持つとされ、時として他の怪物を生み出し、或いは従えることも可能だと言う。

 

 

 

(この地の伝承の魔女は呪殺の叫声を修めたというが、あの女が狩りで声を使う所は見ていない)

 

 

「だがそれならば…」

 

 

怪物はミルドレットに興味を抱いていた、怪物の特別な目は霧の中でも遠く見渡せる。観察を続ければ次第にミルドレットの実態も掴めてくる。

 

 

ミルドレットはその筋力や生命力こそ人外のそれだが、肉体の構造は人のそれだ。つまり、怪物が餌とする人間と同じ。

 

 

 

(純粋な人では無いのだろう、感覚で解る)

 

(だが食える、惹かれるのだ 他の獲物よりも…)

 

 

 

程よく肉の付いたあの体、隠されず晒された二の腕、腹、太腿、ことさら肉付きの良いだろうボロ布の下の胸部や尻部も。

 

 

常人の目には異質にしか映らぬミルドレットの風体も、怪物には食欲を大いに唆らせる魅惑のドレスコードに映っていた。

 

兼ねてより霞峠の怪物が密かに夢見ていた同族の肉の味、今まで出会ったどの同族達にも食指が動いた事は一度も無い。ミルドレットが食欲の湧く初めての同族だったのだ。

 

 

 

同族故に抵抗されては命を落とす可能性もある。

 

 

今の怪物にとってはそれさえも狩りの興奮を煽るだけであった。

 

 

 

「観察は終えた、そろそろ動いても良い頃合いだ」

 

 

 

怪物は音もなく羽ばたいてその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

怪物が羽ばたくのを止めて、近くの崖上に降り立つ。この勝手知ったる霞峠の中でミルドレットを見つけ出すのはそう難しくなかった。

 

 

見下ろした視線の先にいるのはやはりミルドレット、何をするでもなく、ただ次の獲物を待ち、佇んでいた。

 

 

此方に気付いた様子は無い、この濃霧の中で気配を潜めた怪物を、それも上空を移動しているのだから意識を向けるなど出来るはずがない。

 

 

暫し眺めてみても怪物の考えはやはり揺るがなかった、情欲にも似た暗い感情が湧き上がり、今すぐその体に牙を突き立てたい衝動に駆られる。

 

 

 

既にやるかどうかの段階は通り過ぎて、どう仕留めるかの思案に考えは移る。

 

 

怪物の牙は容易く皮膚を切り裂いて骨まで達する。

 

怪物の両足は鎧の上からでも簡単に人体を蹴り砕く。

 

怪物の両腕はその気になれば岩石すらも握り潰す。

 

怪物の尾は放たれた矢よりも速く獲物を絞め上げる。

 

 

 

(決めたぞ…)

 

 

 

もう待ちきれないと怪物が一歩を踏み出した、全身に力を込めて、かつ無音の動作で飛びかかる為に余計な力は入れない様に。

 

 

 

(私の両腕で奴の両腕を、私の両足で奴の両足を)

 

(押し倒して拘束する、尾で武器を弾いて…)

 

 

(この牙をまず首筋に突き立てる!)

 

 

 

これ以上なく高ぶりながらも、早まらず突撃のタイミングを測る怪物、だが次の瞬間、その思考がピタリと止まる。

 

視界に映った光景は見過ごせず、高ぶった怪物の本能の熱を一息で冷まし尽くした。

 

 

 

 

獲物であるミルドレットの足元の地面が、一瞬だけ眩くも妖しげな緑の光を放つ。

 

光が起きた後の地面には、円形の中に別の形や記号、細かな文字群などが刻まれた光る模様が浮かび上がる。

 

 

その模様がまた光を放ったと思った途端、その中から青白く痩せ細った長い腕が飛び出した!

 

 

瞬く間にミルドレットの右足を勢いよく掴んで引き寄せる、どうやら光る模様の中に引きずり込もうとしてるようだ。

 

 

しかしミルドレットが掴まれた右足を強く踏みしめて耐えれば、その腕の動きも止まった。

 

 

その腕目掛けて手にした解体包丁を振り下ろせば、血飛沫を上げて右足を掴む腕が切断される。短い断末魔のような女の悲鳴が響いて光る模様はかき消える。

 

 

 

後に残るは切り落とされたその腕のみ、ミルドレットはそれを持ち上げて暫く眺めた後、被るズタ袋を少し上にづらした。

 

そのままあらわになった口元を腕に近づけて、歯を突き立てて齧り付いた。咀嚼音を鳴らしながらその肉を、正確にはその肉に込められたミルドレットの求める物を取り込んでいく。

 

 

 

 

 

 

それを黙って眺める怪物、既に殺意と食欲は完全に失せていた。

 

 

 

(今のは魔女の呪いだ)

 

 

 

ミルドレットを襲った現象を怪物は知っていた、死を悟った魔女が敵対者に掛ける道連れの呪い。

 

魔女は死後も敵対者の命を狙い、隙あらばあの世から腕を伸ばして引き釣りこもうとするのだとか。

 

 

遥か昔、同族から聞いたことがあった、そう容易く逃れられる物とは思えない。だが事実、ミルドレットは無事だった。

 

 

それに何よりその呪いを受けているということは、獲物と定めたこの女が魔女を殺した事があるという事実を指し示している。

 

 

 

ミルドレットが咀嚼し終えた魔女の腕を投げ捨てる、所々骨まで見えているソレから、暗い影のような何かが僅かに吹き出した。

 

よく見れば血の滴るミルドレットの口元からもその何かが、冬の日の吐息の様に零れ落ちて漂った。

 

 

 

(魔女の力を取り込んでいるのか)

 

 

 

 

怪物は無言で佇み、長い思案の後、また音もなくその場から羽ばたいて立ち去った。

 

楽しい狩りの時間は終わった、ここで手を出せばその先に己の求める物は何一つ無いのだと怪物は理解した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何ダ、来ナイノカ」

 

 

 

魔女の腕を投げ捨てたミルドレットは、上空を見て呟く。

 

先程から此方を眺める視線は、この場所に最初にいた先住の者であろう事に気付いていた。時折、此方の様子を眺めに来ていたその者が等々今日、殺意を持って現れた事に。

 

 

「邪魔ガ入ッタカラカ?」

 

 

打ち捨てた魔女の腕を見下ろしながら、ミルドレットは逃した“獲物”に思いを馳せる。

 

 

 

「最下層ニ居タ鼠ミタイニ、アイツモ“溜メ込ンデ”ソウダッタ」

 

 

 

ズタ袋で隠された表情は確認できず、その下では残念そうな顔をしているのだろうか。暫く、空を見上げていた。

 

 

上空を飛び交う相手にもう手は出せない事を知ったミルドレットは、解体包丁を下げて地面に片足を放り出して座り込んだ。

 

 

求める暗い温もりに寄せられてここに来たミルドレット、しかし一番の目的である獲物を仕留めるチャンスをふいにした。またこの場所で二番目の獲物が来るのを待つことにしたようだ。

 

 

「何日カ待ッテモ近ヅカナイ様ナラ、場所ヲ移スカ」

 

 

 

その呟きは深い霧の中に溶け込んで消えていった。

 

 

 

そしてそれから数日間、霞峠に居座ったミルドレットが何処かへ立ち去るまで、霞峠の怪物が峠に姿を表すことは無かった。

 

だがその間も、“霞峠の怪物”の被害は続き、永きに渡って人々の間で語り継がれる事となる。

 

 

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