残暑も衰えかけた九月尽、爽やかな秋風に便乗してツクツク法師が夏の終わりを告げている。嵐の前触れのかくやの曇天の下、神奈川の港街は今日も今日とて忙しない現代人の雑踏を山で海で大地で抱いている。頬を撫でる涼やかな風が心地よく、俺は一つ伸びをすると青信号に変わった交差点を進んだ。
今度こそ台風が到来すると気象予報士が口忠実に言い及んでいたから家に篭っている予定だったのだが、生憎今日に限って囁かな用事が出来てしまった。
俺には彼此数年顔を見ていない家族とも謂うべき存在がいる。大戦後に欧州で生活を営んでいた頃に事情があって家に住まわせていた三人の男女なんだが、俺の横浜長期出張に際して久方ぶりの夕食会を開くことになったのだ。退屈な日々を耐え抜いてきた甲斐があった。
俺の仮住居が荷解きが済んでない為に横須賀近くに住まう一人の家に集うことになったのだが、ピザを食べたいという二人の為に俺が遣いを引き受けたのが総ての発端だった。尚、三人目は仕事が忙しく都合が合わなかったので今回は断念した。達者な顔を見れないのは残念だが現実が充実しているに越したことはない。
とまれ、夜までの手持ち無沙汰に名にし負う店舗を下調べでもしようと街へ繰り出した俺だったが、如何せん元の世界とは絶妙に異なる街構造をひたすらに徘徊している現状だった。世界線が違くともレンガ倉庫や観覧車のような名所や大抵の高層ビルまでもが一致しているからこそ、住宅街の路地の本数や出店の微々たる差異が余計に土地勘を狂わせていた。家を出て彼此半刻ほど都会の中心部を練り歩いているというのに今日に限ってイタリアンの一軒にもお目にかかれないとは何事か。周辺の通行人に尋ねようと声を掛ければ誰も彼もが変質者でも見るかのような厳しい目付きで匆々たる歩調で去り行くものだか執拗く追うわけにもいかず…仕事に忙殺されてるのか知らんが最近の若者は朴念仁だなんて嘆きつつ、散策も兼ねて当てどもなく進んでいるうちにいつの間やら郊外にまで足を運んでしまった。
「ピザ屋どころか飲食店なんてもんもねェし、どうしたもんか。」
十数分前の大通りとは一転して人っ子一人居ない生活道路の中心で俺は立ち尽くしていた。ピザ屋を探すまでなどという意地はとうに消え失せていた。迷子の爺イは交番に突入しろなどと今となっては懐かしき反抗期の息子の声が幻聴として聞こえてくるが悪ィな息子よ、生憎指名手配犯の分際でぬけぬけと警官に面を晒せるほど父さんの脳味噌は老けちゃいないんだ。…ところで、俺の手配書は本当に発行されているのかというそもそもの素朴な疑問すら浮上するが即座に振り払う。
兎にも角にも行きずりの配達員でも捕まえて現在地の確認から仕切り直さなければ。だが最寄駅から一定の距離のある住宅街の只中、それも働き盛りの日本人が揃いも揃って出払っている平日の午前に誰かに遭遇できる蓋然性すら低い。観念して迷子覚悟で元来た入り組んだ路地を戻るべきか、適当に歩を進めていると不意と向小路のアパートの袖看板が目に留まる。
「綾辻探偵事務所」
道端で窮していたこの時の俺にとって、それは砂漠に点在するオアシスにも等しき救いの啓示だった。
………。
偶さか発見した探偵事務所という頼り甲斐のある羅列に、俺はまるで水を得た魚のように意気込みアパートへと足を踏み入れた。軽量鉄骨造の四階建ての寒々しい外観のアパートだ。奇妙なことに全ての窓にカーテンが掛かっており駐車場には自動車一台もなく、屋外ダストボックスも空っぽとまるで生活感が感じられない。賃借人が誰も彼も浪費が罪悪だと思ってなけりゃここまで殺風景にはならないだろう。よくよく顧みてみれば近辺も異様に閑散としていた気がする。若しや幽霊屋敷や曰くつきの物件だったりするのだろうかと、今になって躊躇いつつも錆びた階段を昇って三階へと向かう。
自然光が射し込むどこまでも無風流な外廊下を進めば頼みの綱は中部屋にあった。
重量感のあるスチール製の扉の前で立止る。「綾辻探偵事務所」仰々しい楷書が刻まれた銘板が味気ない玄関周りで出迎えてくれる。ノックをしようとして、ついと僅かな隙間が開いているのに気付く。住人が余程急いでいたのか或いは…
「鬼が出るか蛇が出るか、それとも幽霊が出るか。いざご対面ってな」
意を決して取手を捻ると、俺は扉を開いた。
……縁起の悪い予想に反して事務所の中には人が居た。
二十坪ほどの面積の事務所は暗色を基調とした統一感のある空間となっており、幽霊の棲家にしては洒落ていた。木素材や植栽が随所に取り入れられ、ヴィンテージに拘った家具と釣り合いは取れている。玄関口のベラスケスのアラクネの寓話に見立てたタペストリーや雑貨の一個一個にしても家主の芸術性の高さと造詣の深さが窺える。鬼屋敷に蛇屋敷に幽霊屋敷だなんてとんでもない、其処は孤独癖が強いだけの探偵事務所だった。
盛年の、これまたシャーロックホームズへの愛を拗らせたような異彩を放つ格好をした男が窓際の書斎手前でキャスケットを被って立っていた。ノックもせずに現れ、開口一番依頼ではなく街案内を口にした俺に当然ながら訝しげな眼差しを突き刺して。
「どうやって入ってきた?」
「正面玄関が空いていた。偶々通りがかったんだが、迷惑だったか?」
お綺麗な眉間に名人に挑戦する棋士さながらの皺を深々と刻ませてこちらを睨め付ける様は大層な美男だ。黄色の遮光眼鏡の下からでも分かる、耿々とした古代エジプトを連想させるような黄金の眸と閉じ籠っているのはそれ故かと納得できるほどの眉目秀麗…唯一の減点は彼の顔周りを漂う一匹の蠅だろうか。此処に客どころか人も近寄らない所以が垣間見えた気がした。
ところでこの若者の見目形に妙な既視感がある。だが記憶の縁に引っ掛かる俺に反して先方のすげない反応を鑑みるに前の世界の記憶だと当たりをつける。以前にも似通った出来事があったのでな。
突如として事務所に転がり込んできた肉体と精神年齢がかけ離れた老耄を警戒を張り巡らせて注視する男を俺も同様に観察する。記憶を詮ずるところこの世界は文豪ストレイドッグスの世界線で見覚えがあるとすればそれは登場人物に他ならない。だが一目で認識できないほど影の薄い、しかも此程の美男子がいただろうか。紡がれる流暢な日本語は彼が外国人の登場人物ではないと自称している。殊敦ですら国籍も判然としない外見なのだから第一印象で出身地を推察するのはまず不可能だ。
この世界に来てから早二十年弱、とうに薄れて埋もれてしまった記憶を思い起こそうと苦戦していると、先程の玄関前の看板がはっきりと瞼の裏に浮かび上がってきた。
…綾辻探偵事務所、綾辻。そうだ、一聞すれば早々に忘れようもない個性的な苗字。手繰り寄せていた糸がピンと張り詰める。その先を辿って行き着いた記憶の欠片は文壇に名を馳せる一人の作家だった。
「綾辻行人か。」
囁かれた得心が彼の耳朶に届くことはなかった。
綾辻行人は前の世界では著名な推理作家だ。「十角館の殺人」をはじめ「Another」等々、克明かつ微細な表現で紡がれる人間の心理に働きかけるミステリー、ホラーといった題材で大胆なトリックや意外性のある結末が際立つ作品を次々と生み出し、ミステリー界の巨匠として人気を博している。彼の描くどんでん返しには俺を含めた数多の読者が翻弄されてきた。
文豪ストレイドッグス外伝、主人公の綾辻行人と、これまた現実で高名を轟かす作家京極夏彦が宿敵として頭脳戦を繰り広げる推理小説。流石に詳細は覚えちゃいないが決して少なくない犠牲を払って悪戦苦闘を乗り越えた末に痛み分けのような結末を迎えた物語だ。確か綾辻の推理によって絶壁から滝壺へと落ちて死んだ筈の京極は実際には幽霊だか何だかに変じたんだったか…あと綾辻には助手がいたような。
そこまで思い返して俺はやめた。朧げな記憶を無理に掘り起こしたって無駄に頭に負荷を与えるだけだ。
とまれ、推定綾辻は流離の旅人から不法侵入者へと成り下がった俺に未だ疑義を差し向けているようで思わず頭を抱えたくなった。今更自己紹介をしたところで不審者への対応は変わるまい。ならば…
「で、教えてくれんのか?」
後ろめたさを切り替えて図々しくも尋ねると、綾辻は即座に反問した。
「…何故俺に聞く?」
「アンタなら知ってるだろうと思ってな、とびっきりのピザ屋を。」
なんせ横浜在住なんだから。こういった飲食店のお勧めはインターネットに聞くよりも地元民に聞く方が手堅いのだ。俺の返しに綾辻は須臾の間考え込む仕種をして、やがて素っ気なく突き放した。俺は諦めて踵を返す。もとより勝手に人様の家に土足で踏み入り無礼を働いたのは俺であり彼の無情な態度に不満を覚える筋合いはない。図らずも外伝の主人公に出会えたのは幸甚だったと歓心を抱いて事務所を後にしようとして、またもや脳裏に新たな輪郭が浮上した。
「嗚呼、思い出した。苗字は辻村だったな。」
辻村深月、綾辻の助手…ではなく彼の監視兼いざという時に死刑執行を担う特務課の捜査官。かつて同姓同名の女と生死を賭した鬼ごっこのみならず、複雑な関係を築いていたが娘とはあまり遺伝子の繋がりを感じさせない容姿だったのでうっかり忘却していた。とはいえ思い出せたのだから俺の脳細胞も捨てたもんじゃないな。
「可愛い助手に会えなくて残念だ、一度くらい話をしてみたかったが。」
今度こそ去ろうとした俺をぞっとするほど鋭い声が呼び止める。顔だけを見返らせれば、黄土色と小豆色の組み合わせが映えるジャケットを羽織った綾辻がやけに挑戦的な眼光を注いできた。
「…丁度息抜きをしたかった頃合だ。案内してやるとも、
*
このような経緯で男二人で仲良く街へ繰り出したのが数時間前のこと。
候補があると断言した綾辻を信じて付いて行ったものの、足を運んだ先は何故か放棄された地下倉庫ばかり。何年も使われてないうえに地下なので換気もできず咽せ返るような悪臭が漂う最悪の密室で当の本人は隅々を観ては空中に向かって独り言を呟く始末。イマジナリーフレンドは大人でも珍しくない症状だ。彼の場合は傍らを飛び回る蝿を友と見立てているのかもしれない。俺の目当てなんぞそっちのけでチーズだのホットドッグだのと食いモンの名称をやたらと連呼している様ははっきりいって性悪な変人以外の何者でもない。それでも無断で事務所に侵入した負い目もあって只黙して行く先々に随行してやったが、遂に太陽が外面に沈み始めたところで我慢の限界を迎えた。
「綾辻行人。」
二十軒目を巡ったあたりから大体の事態は察していた。綾辻は人気のピザ屋など端から知らなかったのだ。日常的に自炊する質には見えないが判らないなら素直に正直に言ってくれれば良かったものを…余程己の神聖な事務所に立ち入られたのが癪に障ったのだろうか。腹いせに揶揄ってやろうと闇雲に連れ回して、一頻り満足したところで種明かしでもしようと目論んでいたに違いない。だが探偵を生業とするくらいだし何ら不思議はない。
端正な横顔を晒して電柱に背を預ける姿態は様になっているが、この探偵にいけしゃあしゃあと半日も無駄にしたと思えば苛立ちしか湧かない。寧ろ今までよく辛抱したものだ。
「良いことを教えてやる。場所が分からなけりゃ人に聞けば良いんだ。」
「何だと?」
恰も彼こそが行き暮れているものの言うに言い出せなくなったかの皮肉を込めて云う。そんな俺に綾辻は胡乱げな視線を寄越してきた。
キキーと、尻から疲労を漏らして一台のトラックが俺達の傍で停止した。男が一人降りてきて手慣れた動作でやけに大きな荷積みを降ろしていく。久方ぶりの人だ。漸くまともな人間に有り付けたと内心嬉々として、綾辻には黙っているように目線で釘を刺してから作業員に歩み寄る。
「失礼、訊きたいことがあるんだが…ピザ屋を知らないか?二人揃って地理に疎くてな、もう半日も探し回ってんだ。」
背後から声を掛けた所為かソイツは大袈裟に肩を揺らして振り返った。狐目の刺々しい顔つきの、何というか空き巣強盗でもしそうな粗野な面体の男だ。だが彼が纏っているのはほつれた古着でもなく配達員の制服、しかも襟章にはピザ専門のイタリアンであることを証明している…!
男は品定めするように俺と後方に控える綾辻を見回している。
「新規か?生憎だが商品なら昨晩売り切れた。」
折角の渡りに船だと思ったのに殆ツキがないものだ。落胆のあまりがっくりと腰を落としそうになって、はたと釈然としない心地になる。今日は大抵の飲食店が暖簾を掲げる月曜日から二日目の火日、平均的な適正在庫は四日程だと認識しているがこの店は異なるのだろうか。或いは近頃は衛生法その他諸々が五月蝿いのかもしれない。迚も斯くても目的の品が無いのなら仕様がない。
「残念、別を当たるとしよう。パスタで諦めてもらうしかないな。」
ソイツに背を向けて何故だが形容し難い珍妙な面相をする綾辻を引き連れて離れようとしたところで、背後から制止の声を掛けられる。呼び止めておきながら従業員は何処かへと連絡を駆けていた。
「ああ、分かった。…ラッキーだったな、売れ残りで良けりゃ安値で出せるそうだ。」
「嘘じゃねェだろうな。」
二度も同じ轍を踏むまいと詰め寄ると、途端に必死の形相が何度も首肯した。単なる八つ当たりだと自覚して気紛らわし程度に口端をしならせると、俺は綾辻を振り返った。
「良いか綾辻、こうやって当たって砕けてみろ。ピザ屋っつーのは案外何処にでもあるんだ。」
「都合よく働き手に巡り逢えればの話だがな、是非とも今後の参考にしよう。」
ああ言えばこう言う男であった。
この意固地で臍の曲がった探偵を伴い、思い出したように従業員にアイスクリームも付けるように頼んでから運転席に乗った。念願のピザ屋が後少しで俺達を待ち詫びているとばかり思い込んで。
………。
いやはや実に長い旅だった。まさかピザたった二枚の為に横浜の郊外という郊外を歩き回る羽目になるとは、今晩の肴にでもしなければ労力に見合わないだろう。
濃い疲労を漂わせている俺の隣にトラックから降りた綾辻が並んだ。イマジナリーフレンドと共に。
「お前、いつまでその蝿連れてくつもりだ。」
出会い頭から心持ち避けていた問題に遂に踏み込んだ。虫を友達にするのは構わないし、独り言が酷くても何ら問題はない。白けるどころか俺の代わりに変わり者の探偵の話し相手になってくれた蠅には感謝しかない。だがな、飲食店にまで連れ込むのは流石に非常識が過ぎるだろう。そんな意を込めて問い糺せば綾辻は顔色一つ変えずに「やはり視えているのだな。」と蠅を見詰めた。内省の素振りもない天晴れなまでの臆面のなさに言葉に詰まったのは俺の方だった。
是非とも問い返したい、ぶんぶんと羽音を立てて顔周りを飛び回る蝿に気付かぬ奴が居るのだろうかと。
…待てよ、外伝の最終章では京極は幽霊か妖怪の類になったと種明かしされていた。若しや京極は蝿になったのか?モリアーティが滝に落ちたら来世は蝿になっていたなんてインド映画じゃあるまいし。甚だしく馬鹿げた想像を俺は直ちに振り払った。大体前の世界ですら視えた試しもない御化けが今になって視えるだなんてジャンル違いな展開はお断りだ。どうであれ京極が霊体となり綾辻に付き纏っているのは小説版でも語られた事実なので、俺には視えようもない京極の代わりに蠅を妖怪研究家と称したらその筋から叱られるだろうか。
「望むなら俺が払ってやっても良いが。」
「祓えるのか?」
何を言ってるんだコイツは。思わぬ吉報とばかりに詰め寄ってくる綾辻に身をのけ反らせた。蝿叩きはないが大抵は手を振り回していれば離れていくもんだろうがと肯んずれば、彼は子供みたいに双の目を左右に彷徨わせる。そこまで思い悩ませるつもりはなかったと詫びようとして、彼は断固とした面を上げた。
「…いや、結構。これは俺自ら断ち切るべき因縁だ。」
「別に構わねェが邪魔はすんなよ。」
不衛生なパスタなんか食いたくないと釘を刺せば綾辻は深く首肯した。
気を取り直して二人揃って表に回ると、先程の配達員が待ち侘びたとばかりに手招きする。
「付いてこい。」 店の口コミは星一つ以外に有り得ない、綾辻以上の素気無い一言を告げるとこちらの当惑も他所に奥へと突き進んでゆく。綾辻と顔を見合わせる。神妙さを滲ませた瞳は、商品の注文は店頭でするものだと思っていたと俺の胸中に同意してくれている。
愈々一連の流れを怪訝に思いながらも素直に付き従えば案内された先は厨房だった。
「コイツらだ。」
アイランドとL型キッチンを組み合わせた間取りの、中央に独立する台所に屯する男達に本性を曝け出した配達員が声掛ける。途端に突き刺すような視線が俺と綾辻に注がれた。胡乱を仕向けるのは何も奴らだけじゃなかった。
イタリアンの従業員の身分を否定する野戦服、厨房にあるまじき煙草臭さ、三百六十度何処から見ても堅気には見えない男達、不審感を証明するかの如く腰元に提げられ、地面に粗雑に置かれる物騒な代物。
極め付けは彼等の左肩の見覚えのある紋章。配達員の制服を脱ぎ捨てた下から武装を露わにする目前の男の影からそれを覗き見るのと、俺が発砲するのとは同時だった。
パンッ!吸音効果の薄い室内に鼓膜を揺さぶる破裂音が響めく。
眉間に真っ赤なピアスを開けた男が糸が切れたように崩れ落ちてゆく様を誰もが唖然と見詰めていた。俺一人を除いて。
「敵襲ゥ!」
流石は玄人と謂うべきか、男どもは僅か〇・五秒も経たぬ瞬きの間に状況を把握した。背後の綾辻を端に設置された薪窯へと押し飛ばす。
寸秒、弾雨が降り注いだ。
烈しい射撃音が然程広くない空間に雷鳴の如く轟く。聞くに堪えないスラングの怒号と弾丸が跳ね返る音が厨房を即席の戦場へと変貌させていた。
俺は戦闘慣れした男達が容易く狙い撃ちできないように移動を続けながら乱雑に引鉄を引き続ける。カンッ、キンッと金属が弾けて一向に改善しない俺の下手くそな射撃を嘲笑った。お世辞にも善いとはいえない腕前の所為で苦労した末に発明した俺なりの銃撃戦打開策。
その一、相手が銃を抜く前に一人でも多く始末をつけること。二、精度なんざに拘らず攻撃の手を緩めないこと。心許なさにナイフも振って投げまくれば尚のこと生存率は上がる、気性の烈しい狂人の完成だがな。出鱈目な作戦なのは痛いほど自覚してるがそんな出鱈目な立ち回りと強運のお陰で生き延びてきたのだから馬鹿にできないもんだ。
歳を重ねることの怖さを重々理解している俺は一度だって体力維持を怠ったことはない。日課の鍛錬の甲斐もあって銃の抜身とナイフ素振りの腕前だけは大会選手並に上達してくれたが、ボブ・マンデンや冴羽獠のように長けた射撃ができるわけじゃない。醜怪に叫び散らして周囲を幻滅させない為にも理想の伊達男の仮面を落とさないように心掛けるだけで精一杯だ。
閑話休題、普段の如く死にもの狂いといった様相を如何にかこうにか裡に秘めながら物陰から応戦していれば次第に銃声は止んでいった。
俺は両手に二梃を構えて警戒を緩めない。近場に転がる一人を靴先で突いてみる。目をかっ開いて天井を無限に仰ぐ男は確りと死んでいる。他の連中の死亡も確認して完全に危機が過ぎ去ったのを理解すると、静まり返った厨房で何処ともなしに声を張り上げた。
「殺人探偵、京極、生きてるか?いや、片方には不謹慎だったな。」
「これが無事にみえるか?」
「んな軽口が叩けるなら老後も安泰だろうよ。」
まるで風呂場みたいに音が反響した。新窯の薪用の架台からハンチング帽が覗けた。辛辣な綾辻節も健在そうで何より。あんな良い加減な乱戦でくたばるとは露程も思ってなかったが、此度の対戦相手が並大抵の敵じゃなかったが故に万が一流れ弾が掠めていたらと心配していたのだ。
紹介しよう、イギリス出身のピザ屋もとい国際武装ゲリラ専門傭兵だ。特筆すべきは元SAS対異能特殊部隊であり、大戦時には憲兵としての役割も果たした連合国屈指の怪物集団であるということだ。そして何を隠そう、クリスティが詳細を語らずに抹殺を願ったイギリスの傭兵の正体こそがコイツらだったのだ。道理で逸早く発砲した俺の狂気的な行為に対してではなく、顔面を見てから血相を変えたわけだ。
「何故撃ったッ?」
機先を制さなければ蜂の巣にされるのは俺達の方だったというのに、そうとも知らずに顰めっ面で俺の殺人を咎め立てる探偵を一瞥だけして歩を進める。清潔が保たれるべき厨房は血溜まりと硝煙に汚染されていた。
クリスティめ、面倒事押し付けやがったなと胸中で悪態吐くのも宜なることである。ただでさえ狭い厨房の面積を狭めていた男達は配達員を除いて十人、内明確に傭兵だと識別できるのは五人。横浜のギャングとでも組んだか、SAS上がりの精鋭にしては連携が成っていなかった。記憶が正しければ一部隊十人編成の筈、つまるところ五人足りない。
「おい配達員」
「ヒィッ!た、頼む…頼みます!命だけは!」
戦闘が始まると同時に混乱に乗じて収納棚の後ろに身を潜めていた臆病者が情けない悲鳴をあげた。振り返ればコイツも言動が怪しかった、歩き疲れていた所為で判断力が鈍ったか。
「他の奴らの所へ案内しろ。」
「は、はいっ!」
活きの良い魚みたいに飛び上がった男は仲間を売ることに罪悪を抱く素振りすらなく冷蔵庫に駆け寄る。
何がなしに視線を上げる。監視カメラが点滅していた。俺は空になった弾倉を入れ替えた。
壁を弄っていた男が動作を止める。程なくしてガコンと何かが噛み合うような音を立てて冷蔵庫がひとりでに横に滑り、目前には鉄製の階段が浮き上がってきた。
綾辻が納得したように唸った。要するに此処はピザ屋を隠れ蓑にした犯罪拠点だったわけだ。
「…覚悟しておけよ」
自分に言い聞かせるように云った。この先は何が待ち受けるか予測もつかないマリアナ海溝の如き暗闇、未知に包まれた地下倉庫。一歩踏み入れた時点で、鉛玉の応酬は確約されてるのだから。