文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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可能性

 

重傷を負った辻村をドヤ街に医院を構える闇医者の元へと連れて行こうとして本調子でない異能に導かれた先は武装探偵社。本調子でないというには語弊があるな、寧ろ今日も今日とて得手勝手な能力だった。 

 

連休中の探偵社内に事務員はおらず物静かで、与謝野と太宰と国木田がオフィスで無聊を託っていた。呼び鈴も鳴らさずに訪問した俺に国木田が息の限りに絶叫を駆け巡らせ、与謝野と太宰も角膜が全部顕になるほどに見開き仰天し…程なくクレームの電話も鳴り響いた。謹厳を字でいく質の国木田は自身が苦情の一因になったことが余程衝撃だったのか顔面を蒼白に狼狽して、見ているこっちが居た堪れなくなったほどだ。 

とまれ、辻村という早急の問題があったので与謝野の力を借りるべく福沢を呼び立てると社長は留守だと返ってくる。如何したものかと倦ねていると完全に動転している社長代理の代わりに逸早く事態を察知した与謝野が俺の腕から辻村を掻っ攫って医務室に駆け込んでくれた。その後、太宰による平手打ちで我を取り戻した国木田と、己の無実を主張したうえで折衝した末に辻村の治療代を俺が支払うことで特別顧客として扱うことで融通を利かせてくれた。 

 

初めての患者は大事をとって治療にはそれなりの時間を費やすらしく、明らかに俺を煙たがっている連中の応接間で寛ぐほど図太くもないので階下の喫茶うずまきにて暇を潰すことになったのだった。 

 

...レトロの代名詞ともいえる馴染みの店は相も変わらず元号を遡ったような復古調の念に満ち足りていた。時刻は昼飯が終わった頃合い。近所の常連も腹を拵えおのがじし午後の日常へと戻った店内は暖房機から流れる生暖かい風の行方を感じ取れるくらいの静けさに包まれていた。快適な静けさだ。 

 

「今日の珈琲はエチオピア、じゃないな。」

「ええ、今回はウエウエテナンゴです。」

「グァテマラか。」

「御名答。」 

 

正式名称はウエウエテナンゴトドサンテリタ。聞いただけでマリンバを演奏したくなるような珈琲だ。 

無数の星々が清冽に煌めく情景を聯想させる店主拘りの瀬戸焼のカップに立つ湯気は、日差しを直に浴びているような室内の温かさと相俟って心に染み入るものがある。ローストナッツの香ばしさとベリー系の余韻の残る甘酸っぱい香りが怒涛の連日に凝り固まった肩をほぐしてくれた。 

 

「修理屋と値段交渉するだけでこんなにも疲れるなんて、やっぱ年取るとガタが来るな。」

「銃のお手入れですか。」

「…オーナーも大分街に馴染んできたようで。」 

 

言わずもがな横浜の裏側である。仮にも便利屋が修理と呟いただけで勘案なく銃火器方面に思考が行き着くとは…探偵社とマフィアと組合とその他諸々に煽りを食った奇禍な立場が容易に斟酌できた。 

ジャケットを捲って腰に挿した一挺を机に置く。Qが銃身を凹ませてしまったSAAの臨時代替として気難しい職人に渡された半自動拳銃、グリズリーマークV。アメリカのL.A.R.マニュファクチャリング社が開発した大口径拳銃で二千年代に突入する前に生産終了しているモデルだ。 

 

「拳銃というのは随分と大きくて重たそうなんですね。」

「まさか、これは拳銃弾の中でも最高威力を誇る.50AE弾っつーものを撃つ為にイカれたアメリカンが改良を重ねた大口径拳銃なんだ。銃身が長かったりグリップを鉄や木材にしたりとハンドガンでも多種多様だが大抵はもっとましな見た目をしている。」

「成程。何事も奥深いものですね。」

「仰る通りだよ。」 

 

物珍しげに耳を傾けてくれる店主にベレッタやグレイゴーストを出して比較してもらう。こんなモンを向けられれば素人どころか赤ん坊ですら涙を引っ込ませるくらいに猛々しい本体をしている。借りたての今朝に一度試し撃ちしてみたが、鼓膜を破らんばかりの爆音と弾けた水風船みたいに飛び散る臓物にどん引いたのは新鮮な黒歴史となった。足首に挟めるサイズのリボルバーを頼んだのにハンドキャノンの亜種みたいな物を寄越された俺の心境をどうか汲んでほしい。如何して横浜のガンスミスは揃いも揃って偏屈人しかいないのか。此処は銃大国アメリカじゃないぞと何度言ってやろうとしたか数知れない。  

 

…何処からか猫が一匹カウンターに登ってきた。煤を被った白と黒味を帯びた焦茶と日焼けしすぎて黄ばんだ本のような半端な茶色の三色の毛並みを持つ珍しい雄の三毛猫だ。オーナーがミィちゃんと呼びかけた。 

 

「ミィちゃんというのか。」

「ええ、妻がよく小魚をやって面倒を見てるんですよ。珍しい雄の三毛猫です。」 

 

XXYという遺伝的に特殊な形態をもって生まれる確率は三万分の一らしく出会うだけでも幸甚だという。招き猫のモデルにもなる程の幸運の象徴だが、何やら俺の前に鎮座する個体は通常の猫種とは違っていた。 

 

ミィちゃんはしなやかな猫撫で声も出さず、喉を鳴らして主人を褒めそやし、鈴を張ったような目で愛情を表現することもなかった。丸みを帯びた背中は太々しく、ニャッではなくアオーンと鳴く音色はまるで睡眠の浅い老人の欠伸だ。オーナーにお披露目していた三挺の拳銃のど真ん中に尻を落とすと片付けろと言わんばかりの眼光を鋭く光らせる。愛嬌たっぷりの三毛猫というよりかは街中の猫社会を纏め上げるボス猫だ。 

 

「ミィちゃん、ね。」 

 

アオーン。アオーン。 

催促するように二回、三回とミィちゃんは鳴いた。仕方なしに指図されるがまま銃を片付けて椅子を引く。オーナーにバタートーストを二人分頼むと、彼はカウンターに背を向けて作業に掛かる。 

仄かな光が揺らめき、春陽を先取りするように淡い光暈を放出する。

室内の輝度の微々たる変化を肌で感じ取ったオーナーが顧みたときには老人は俺の隣に座っていた。 

 

「い、いらっしゃいませ。」

 

入店ベルの報せもなく居座っていた老紳士に気抜けしつつも歓迎した。出し抜けの出現がどれ程の震駭を与えるかを自覚していないのか、神出鬼没の老人は鷹揚な手付きで杖を掛ける。数日ぶりの土色のインバネスコートは皺一つない。野良猫として放浪ばかりしていて何時服をクリーニングに出す暇があるのだろうか。

 

「遅い。」 

 

どうしようもなく詰るような物言いだった。横目でちらと盗み見れば横浜の事実上の支配者ともいうべき老人は、いつも通りの何もかもを只事ではなくしてしまうような手厳しさを顔中の皺に沈めている。

全能の双の目に湛えられているのは落胆とも冷厳ともつかぬ神妙さだった。まだケツの青い餓鬼の頃、将棋対戦で同じ手口で三連敗した俺を良く言えば純真、悪く言えば単細胞だと憐れんだ実の親父と同じ目付きだ。 

 

「遅い。全てが後手に回っておる。」 

 

静電気でも発しているのか物々しさをピリピリと纏わせて、夏目はもう一度不満の針を突き刺してくる。それが何を意味するかは一昨日人間姿の彼に呼び出された俺は重々承知していた。 

 

「そう言うなよ。マフィアの息がかかった武器庫を破壊したことを種田にどやされたばっかなんだぞ。そうでなくとも俺みたいな末端の犯罪者が棲みづらい街でどうにか立ち回ってんだから。」 

 

大体事件が発生するのを薄々でも勘付いていたなら下手にはぐらかさずに教えてくれれば事前に阻止だってできたというのに。手掛かりにもならない命令文で言うだけ言って他人任せにして、いざ為損えば重箱の底をつつくように片手落ちばかりを俺にだけ駄目出しする粘着質な癖は老害以外の何者でもない。と、敢えて珈琲を啜って婉曲に反論すると夏目は思い当たる節があったのか二、三度屡叩いた。どうやら魔都に憚る度重なる障礙に一人で布石を打つには俺が力不足であることを理解してくれたらしい。   

託児所代わりに花袋を預かるならまだしも、原作キャラ絡みの別冊付録みたいな厄介事を早期穏便解決だなんて最初から無理があったのだ。無論、今回のドッペルゲンガーに関しちゃ白目を剥くレベルの盗難品が関わっている以上夏目に指示されずとも介入する腹づもりだったが。 

 

「あの童をお前の紛い物なんぞに渡してはならんぞ。」 

 

口に含んだ珈琲を思わず吹き出しそうになった。 

前言撤回、矢ッ張り親爺の頭は俺よりも一足先に錆びついてしまったらしい。 

 

「せめて主語を言ってくれ、主語を。」

「文脈から分からんか。茂木聡太に決まっておろう。まったく、お前は昔から殊学業成績を除いてはてんで間抜けておった。」

「親父なのか親爺なのかはっきりしろよ。」 

 

一方通行の会話は今に限ったことじゃない。俺は更なる姑根性の小言が繰り出される前に夏目が解決を催促する事件の一環へと話頭を戻す。 

 

「フォトグラフィックメモリーつったか。映像記憶の異能がそんなに厄介か。」

「あれは単なる副作用に過ぎん。」

「というと?」 

 

問いを重ねる俺を一瞥すると、次いで側めた視線をカウンターの先へと向ける。 

チンッという終了音にトースターから食パンを二枚取り出したオーナーがこんがりと香ばしく焼けた表面にバターを塗っていた。指先に触れた粉雪のようにしっとりと溶けゆくバターの黄色が食欲を掻き立てる。一応夏目の分も頼んだのだが果たしてお気に召すだろうか。案外鰹節のおにぎりの方が好評かもしれない。なんて密かに慮っていれば猫の地獄耳を発動した夏目が俺の心を読み取って恐ろしく睨め付けてきた。 

 

「無盲な衒学者(げんがくしゃ)ほど手古摺ることはない。盲蛇に怖じぬのであれば、賢しき蛇も狩りは容易かろうて。」

「…七面倒臭いな。」

「うむ。ランクは救えん。」 

 

俺への面当てである意味鋭角的に物事の核心を抉ることを避ける夏目が、いつにも増して饒舌にせっつく理由が漸く判った。

 

言わんとするところ、自身が疑似餌であるという自覚のない真似っこ藪医者などは夏目の眼中になく、横浜という猥雑な泥海に投じられた一本の毒牙付きの漁具に端なくも呑舟之魚が引き上げられることを回避したいのだ。いくら旧知とはいえ俺みたいなお遊びの枠を出ない異能力者を頼みの綱にするくらいには。

ではエデンの園で赤い蛇に擬態した悪魔の如き賢き蛇があわよくば一投で漁ろうとしているモノとは…。 

最高回数の箱根寄木細工が編み出す精緻で幾何学的な工芸品にも等しい、内外に複雑な仕掛けの施された詭謀を舌なめずり一つで索したであろう者の輪郭がはっきりと脳内に浮かび上がって苦虫を噛み潰したような不快感が迫り上がってきた。 

口を変えたくて胸ポケットから煙草を一本取り出す。 

 

「儂が何を最も憂いておるのか判るか、馬鹿息子よ。」

「いいえ、まったくです親爺さん。」

「猫も杓子もお前の異能が覚知されることじゃ。」 

 

うっかり吐き出した紫煙が一笑を肩代わりした。 

俺の異能の覚知?蓋然性の高低すら定まってない異能に日毎夜毎翻弄される、赤恥も一周回って肌色の通常運転な不格好男だぞ。主要キャラの認知も糞もあるか。精々が雑魚の魚交じりを再認識するだけだろう。遡っては大戦での異能トライアル期間から将校の見たくもない不倫ポロリを含めて数多の汚点を積み重ねてきた俺に雲隠れさせるほどの恥話はない。…寧ろどれがどれか区別すらできない。 

 

「瞬間移動の不調不発なんて今更晒されるほどの内容でもないだろ。大体場所を間違えりゃ律儀に謝ってんだから糾弾される謂れもねェよ。」 

 

目の前に差し出されたトーストに俺はかぶり付いた。小麦粉とバターの相性の真髄を熟知したオーブンが生み出したバタートーストは天下一品である。四辺と対角線に切り込みを入れられた表面からじゅわりと満遍なく染み込んだ口当たりの良い塩分が究極の味覚を作り上げていく。バタートーストこそ職人技だ。そしてそんな絶品にオーナーが丹精込めて淹れた珈琲が合わないわけがない。 

口内に満ちる至福の舌触りに加えてクセの少ないウォッシュドの酸味を補うアークロイヤルの燻香を味わうことに夢中になっていた為か、夏目の意味深な目じらせに気付くことができなかった。 

 

「この期に及んで己の異能を転移などと思うておる(、、、、、、、、、、、、、、、)のか。」

「なんか言ったか?」 

 

直様訊き返すも、これ迄に一度たりとも同じ台詞を繰り返したことのない夏目は矢張り俺を凝視するだけで言い直してはくれなかった。 

 

徐に夏目は立上る。杖を握ると、トーストを食べないのかとの問いには答えずポーラーハットを深く被った。どうやら用事はこれまでのようだ。 

扉に手を掛け、最後に爪先をこちらに向ける。

——豊。 

 

「確りとせい。譬えお前が我関せず焉を貫こうとも魔人も英雄も実在しておるのじゃ。」 

 

俺のこころを捉えて離さないのは昔も今も変わらぬ超然とした星眼だった。次元を超えようとも世界の曖昧さを正確に見据える明敏な人格が、明哲や精薄や愚直、と清濁あわせ呑む各人を魅了してやまない真正の文豪の眼差し。 

 

「…ああ。分かってる。」 

 

余分を排除した簡明な応えを返すと、夏目は満足して去った。

 

………。 

 

ミィちゃんへの善意のバタートーストは俺が冷める前に食うよりも先に探偵社から降りてきた太宰が頬張ってくれた。 

 

「それで、社長不在の日に破壊神が態々何の用ですか。」   

 

朝飯を食ってないのか、将又胃袋の中身を戻しでもしたのか中々の食いっぷりだ。それにしてもよくもまあ馬鹿馬鹿しい渾名ばかりが次から次へと生産されるものだと苦笑は煙とともに呑み込んで、「国木田は」と尋ねると横かぶりが返ってきた。外套の外ポケットから萎れたカモミールを引っ掴んでオーナーがサイフォンで淹れた紅茶に落とす。ブレンドにしては些か比率が偏りすぎているが、太宰ならばと誤った料簡をしてしまうのは何故だろうか。 

オーナーの奥さんの手作りだというアップルパイの先端をフォークで刺して「彼、今日ちょっと胃弱いから」と上の空な口先で言ってのけると、大体を察して不憫を抱かずにはいられなかった。 

 

再度最初の質問を訊き直される。先程の夏目の言説を思い出し、「信じるかどうかはお前次第だがな」などと某都市伝説の語り手じみた前置きをする。 

 

「座標を間違えただけだ。」

「ああそう。」 

 

ほらみろ夏目、コイツの歯牙にもかけないあしらい方を。いつまで経っても浮気を認めない助平を人倫の最下層に位置付けするかの如き蔑視だ。...やかましいわ、愛の遍歴者はお前だろ。

此程までに冷え切った氷柱のような嘲笑と侮辱の滲んだ涙袋に軽んじられたことはあっただろうか。…残念ながら星の数ほどあった。 

 

不意に店の外でクラクションが鳴った。寝起きに耳元で放たれれば身の毛も竦むような荒々しい機械的な絶叫だ。

尻目に後方を覗く。スケボーに乗った少年が車道に飛び出してきたらしい。間一髪のところで停止したワゴンの持ち主が窓から半身を乗り出して怒鳴り散らしていた。轢き殺すところだったという終極の安堵が目尻あたりにぎゅっと幾つもの筋を引いていた。

オーナーが「あれはいけない、血が上ってますねえ。少し見てきます。」と言い残して小走りで外へと出ていった。人柄の良さが滲み出ている人徳者の背中だ。 

 

「今日、警察の要請があって敦君が赴いたんです。」 

 

太宰が何がなしに云った。「お前が行かせたの間違いじゃないのか。」と切り返してみれば案の定剽軽な微笑が張り付けられる。果たしてどれ程の人間が太宰の遊び心を装った悪てんごうに振り回されてきたのだろうか。とはいえ、只のむら気が引き起こすだけの一芝居ってわけでもないのが難儀なところだ。 

太宰が首を回してステンドグラスの外側を見通す。相当に刑事責任を嫌悪しているのか、或いは単に軽率に命を投げ出し掛けた幼い命を案じてのことか、車から降りて盛大な身振り手振りで硬直する少年に凄む壮年の男をオーナーや通行人が宥めていた。 

 

店外とは落差の激しい、静穏で贅沢なクラシック感満載の店内で太宰が茂木隆也の名をぽつりと零すと、彼がオーナーの不在を内内に狙っていたことを了得した。 

 

「軍警の勾留所で殺害されたそうです。誰かさんの望み通り。」 

 

知っている。 

茂木隆也、実際に会ったのはたった二回だがよく憶えている。出会い頭に銀色光沢の名刺を差し出し俺のファンなどと心にもない嘘を捏ね上げて自身の第一印象を貶めた男だ。

太陽の弱点を克服した吸血鬼のような不気味な口角でつらつらと媚態を示すものだから、寝業に長けた古狸どもの似たような悪臭を感じて知人に素行調査をしてもらったのだが…出るわ出るわ利権漁りに搾取三昧の未制裁の悪行の数々。正直金と隠蔽事を寵愛している陋劣な輩は今に限ったことじゃなくコイツもその手の風見鶏だろうと一度だけ目溢をしてやったのだが、まさか[[rb:横浜の夜 > ポートマフィア]]に背を向けてまで私利私欲を追求するとは思うまい。

とんだ拝金主義者もいるものだと二の句が継げないでいる間に奴は更なる業を背負わんとしていたものだから、何もそこまで来世を悲愴に彩る必要もあるまいと余計な不幸が撒き散らされる前に俺が始末をつけてやったのだ。 

 

「無彩三人衆にやらせたんでしょ?」

「無彩三人衆?...嗚呼、アイツらのことか。」 

 

俺も風の噂程度には聞いている。俺が春蝉やルーシーと一つ屋根の下で暮らし始めてから程なく、新たな同居者が増えた頃に立ち上げようとした事務所の看板名が日本語訳で無彩という意味だったのだ。春蝉たちが巣立ちしたことによって開設は頓挫することになったが…軍警に組合と我が子の目覚ましい躍進を祝えど事業の頓挫を厭う父親などいないだろう。 

とまれ、あの頃の懐かしの名を数年ぶりに聞き及んだ俺がルーシーに質してみたところどうも同窓会的な集いであることが判明した。どうせなら俺にも一言伝えてくれても良いものをと完全に思春期の子供に除け者にされた父親の如く捻くれれば両手をあたふたと振りかぶり、うら恥ずかしげに骨を折らせたくなかったと消え入りそうな声で零す姿は実の娘のよう。昔反抗期で口を効いてくれなくなった娘が誕生日に恥ずかしげに歯に噛んで手、作りの名刺入れをくれた尊さとルーシーとが重なって悶絶した俺がその晩どうやって寝付けたのかは記憶にない。爾来、彼等は定期的に同窓会の経過報告を寄越してくれるようになったのだが、大抵の内容が主語がないうえに政治情勢や裏社会の最新構造という世のエリート学生もかくやの重々しい題材についてで耳が疲弊しているのは秘密だ。 

 

「敦君のおかげで遅ればせながら私も乱歩さんに続いて一人の正体を突き止められた。…確かに、貴方と浅からぬ悪因縁をもつ社長が有事の際の対抗勢力も兼ねて設立した組織を見過ごすわけがない。」   

 

混乱に言葉を見失う俺の真横で太宰は独り得心する。けれど続け様の組合に潜入させたという語路で彼が誰を指していたのかを理解した。 

 

「潜入じゃないさ。彼女は自分の意思で就職した。」

「成程ね。なら今回は最後まで敦君に任せようかな。」 

 

果然、俺の返答に満足したとは思えぬ言い回しだった。 

 

チリン。

店先での瑣末な諍いから成果を得たオーナーが戻ってきた。俺よりもずっと物事を円満に帰着させるのが上手いらしい。路肩でラップバトルと勘違いするくらい主張を乱れ飛ばしていた運転手と周囲の人間は、一転して耳目を驚かすほどに和気藹々とめいめいの日常に溶け込んでいった。

 

通行止めのなくなった車道では対向の花屋のように色とりどりの車輌が走り去り、車道外側線の内側や歩道では私服姿の学生や自転車が通り過ぎてゆく。取り立てる話題もない日々を送る常民と共にこの街は生きていた。 

 

「以前、いつでも扉は開いてるって貴方は言ったけど」 

 

突として絞り出すような真面目くさった調子が耳朶に触れた。

太宰の発言を受けて暫し沈黙する。失われかけた記憶は案外快く戻ってきてくれた。 

おそらく太宰が言っているのは交通事故に遭った院長を助けた時のことだろう。敦の人生相談を受けた流れでつい口を突いて出た誘いかけ。 

 

「若し、今、私が同じ問いに頷いたなら…」

——貴方は私を受け入れるのか 

 

カップがソーサーとかち合う音がやけに大きく響いた。眼前のカウンターでは蛇口から止めどなく流れる水が食器類を洗っている。入り口付近の台に飾られた蓄音機からは分厚いセレナーデがうずまきを理想の喫茶店へと高めている。 

 

俺は太宰を見る。

道化は消え失せ謹直な趣が彼の様相に帯びていた。取り澄ました敵意も、いざ肉薄すれば忽ち適宜な自儘を境界に挟んでしまう陰気も、刹那的に彼の脳裏に取り憑いた何かに食い潰され混じり気のない空虚だけが正体を見せていた。 

 

人生も二周目の領域に入り人間の資質や人柄を見抜く観察眼は相応に養われたと自負している。一生涯では得られない学殖、何気ない語らいに潜む言行不一致、身持の方々に散りばめられたその者の全体沿い明鏡な全体像。それらは会社のオフィスでパソコン作業に向き合う普通の生活だけでは培われなかったものだ。だが俺は夏目みたいに世の論理的、物理的実態に通暁しているわけじゃない。夏目だってあれでいて神仏のように全知全能でもない。いくら本質を精査する能力が備わっていたとして、心悸の移ろいやすい人間同士の関わり合いにはだし明るいわけではないのだ。 

 

太宰の言で、眼界に収まる疎通で彼の魂胆を見抜くような高度な心理術はない。だが、滅入るような雲翳を正視してきた男の眸は澄明に磨かれ、人生行路を引き返すほどの瓦解の兆しは見受けられなかった。ぼやけた境界と漠然とした衷情、だから俺は感じたままの心証を述べた。 

 

「何考えてるかは知らねェが止めておけ。」 

 

俺が福沢に憎まれ口を叩かれるとか、問題児が増えるとかそんなみみっちい話じゃない。黒の時代を抜け、社会の奥深くで薄明に忍び、清々しいばかりの朝露に闇を溶かし始めている人間を再び夜に突き落とすなんて下劣な真似ができるほど俺は外道じゃない。それに… 

 

「それはあの男に面と向かって言えることか。」

「っ!...はは、これは敵わないな。」 

 

憂鬱でも晴朗でもない色づきが太宰の面輪を彩った。今後太宰が俺の便利屋業を手伝うこともマフィアに回帰することも決して起こり得ない。若し俺の異能の成功率に等しい可能性で起きたとしたならば、きっとそれは織田作之助の存在が彼の世界から消えた時だろう。 

 

入店ベルが奏でられた。

与謝野が治療を終えたことを国木田が知らせてくれる。珈琲の最後の一口は残して、支払いを済ませて尻を上げる。 

ふと、以前エリスがメランコリックな歌を口ずさんでいたのが過って背後を見返る。太宰は食べかけのアップルパイにフォークを突き刺して内心の思考に耽っているようだった。 

 

「それと、自殺も程々にしとけよ。」 

 

前々から言おうとしていた留意喚起を言い放って、これじゃ口煩い親爺と変わらねェなと内で自嘲しながら俺はうずまきを後にした。

 

 

 

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