文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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鼬ごっこ、鼠ごっこ

 

ヨコハマ租界、日本近代化の扉を開いた開港の地から指呼の距離に擂鉢街と呼ばれる地区がある。戦前からの埋め立てにより沿岸の水際線が損なわれた為に、海の公園として複合型レジャー施設を導入することで港湾計画を補った人工島だ。

 

横浜市へと延伸する一本橋の架設とともに駅も開業され、六十年にも及ぶ開発計画の完遂当初は横浜内外の実に多くの漫遊客で賑わった。いざなぎ景気は長続きするかと思われた行楽地だったが、実際の好況は一筋縄に続きはしなかった。

総合型リゾート地と同時進行して設計された居住区域に元治外法権や事業の前線基地としての権益を獲得すべく魔都に巣食う悪達者が次々と流入したのだ。次第に連帯意識の希薄な一般住居者は隅に追いやられ、中心部には不十分な青少年教育を受けた無頼漢が集合するようになった。遂には激しい縄張り争いも勃発し、瞬く間に租界は夢の厚生施設から荒くれ者の吹き溜まりへと失墜した。

 

中でも格段に治安が最悪だったのが擂鉢街。今から八年前に超常的大暴発を引き起こし、天体衝突を起こして出来た巨大なクレーターもかくやの窪んだ地形となってから擂鉢と形容されるようになった区域である。 

まだ人工島が健全な時期に調子づきだした狼藉人に居場所を奪われた路上生活者や不法滞在の日雇い労働者、家出少年少女など退っ引きならない背景のある人々が集約された租界でも最下層と忌避されている。暴動に違法露店、不法投棄などは日常茶飯事、飾らない地域と加点評価する者はおらず斯様なまでに弱肉強食を可視化できるスラム街は関東において此処以外には存在するまい。 

 

現今、昼夜犯罪が横行する擂鉢街の一画で一目瞭然の誘拐を居合わせようとも道端で微睡む浮浪者は見向きもしないのである…。 

 

「ちょっとオジサン!僕を誰だと思ってんのっ、離してよ!」 

 

ガラクタを継ぎ合わせたような襤褸屋の隣に、二棟のガレージとオープンスペースを併合した調和を乱す倉庫が傾斜に合わせて底を斜めに切り取り杭で打ち付けたような出立で佇んでいる。普段は硬く閉ざされたシャッターが今日に限っては全開になっていようとも、瘋癲の乞食一人すら空き巣に入る素振りを見せない。

 

獰猛な大型犬を前にして立場を弁えないチワワの如き咆哮にランクは躾程度に拳を握り締めようとして、ふつりと緩めた。子供の反抗に逐一神経を逆撫でするほど癇性な性質ではなく、況してや非力な猪口才に見えてその実意識のみで無秩序を齎すことのできる異能使いの下調べをせぬような遅鈍でもなかった。少年に痣を作れば最後、ガレージ内に集う者達が半狂乱と化し厄災が拡まることを十二分に承知しているランクは陶器人形を扱う手付きで両脇に抱えた二人の少年を下ろした。 

 

「良い子にしてろよ。」 

 

流れる仕草で本物のグレイを完璧に模倣してみせる男に全身の総毛が電流を流されたように逆立つのを感じた。自身を、延いては保護者を土足にかけたランクの発言に内なる修羅が烈火の如く疼く。実際にはランクと然程譲らぬ残虐加減を幼年期に魂の中心に埋没させてしまったQは、無礼な誘拐犯を手痛い一撃を与えてやろうと近頃の特訓相手たる無彩三人衆の狡知な入れ知恵を巡らせる。

 

現況、最も手軽い術はグレイが再三再四諭した粗暴な言葉遣いを以て自身に擦り傷の一つでも付けるように仕向けることだが…生憎対象者は倉庫の入り口を閉ざすだけで手足の束縛もせずに二人から遠ざかってしまった。無論万策尽きたわけではない。多少手荒ではあるが、万が一にとグレイから渡されたサバイバルアンクレットと習得中の近接格闘術で一泡吹かせることはできる。但し、それにはもう一人の呼吸の合った協力が要る。 

 

「ねえねえ、聡太…聡太?」 

 

早速助力を仰ぐべく囁いて、Qは声を失う。ベイクォーターから転移した時から物言わず身動きのないもう一人の被害者は本当に陶器人形になってしまったかのようだ。 

小首を傾げて顔を覗いてみる。…栄養失調を疑うほどに青白い面差しが壊れたマイクのように独口に強弱をつけていた。 

 

「め、召使が…おねえさん……つ、つじむらさんも」 

 

早朝に己を身を挺して守った召使に続いて、半日も経たぬ間に新たな犠牲の瞬間を目撃した聡太はパニック発作に陥っていた。

中学にもなって父親に怯えるばかりの己はすっかり不甲斐ない小動物の性が定着してしまった。その結果過酷な茂木家で必死に足掻く母親の足を引っ張り、呑気に悲嘆に暮れるあまりに身近の味方をみすみす死なせ、剰え直視できぬ現実を召使という呼称で辻村に押し付けた。そうしてまた己の所為で不幸が伝染していくのだと、聡太は過去最大の自責の念に駆られていた。 

 

されど立て続けに聡太を襲った不幸を知らぬQは二度に渡る誘拐のショックで挙措を失っていると思い込み腕を組む。脳髄を絞り穏健な春蝉の言いそうな台詞を思い浮かべては首を振って。

到頭分からなくなったQは聡太に寄り添うとその小さな手で背中を撫でてやることにした。逃亡は後回しにして、見通しの立たない窮地に体を震わせ怯える少年を慰めることを決断した。あわよくばこの隙にも保護者が駆けつけるか、ランクらが寇して殺し合わぬかと願いながら。 

 

…同所、聡太に付き添うQを後方にランクは倉庫の所有者たるセタニアの一派と向かい合っていた。 

 

「俺の部下から連絡があった。どうやら大ぼら吹きに俺たちゃ一杯食わされたってな。何事かと警戒すればこのザマだ。」 

 

金髪の、カウボーイだかイージーライダーだか分からぬ帽子を被った男が自分に語りかけるように云った。子供二人とアタッシュケースという大荷物で現れた男の風格を舐め回すように見て、腰回りに仮挿しされたデザートイーグルを打見すると溝に顔面から突っ込んだような顰めっ面を作った。 

 

「この野郎、舐め腐りやがって…」 

 

銃こそ握ってないものの抑えきれぬ憤怒が自制力を奪おうとしているのは見てとれた。親玉の傍で同様に瞋恚に燃える三人の男達を見留めるとランクは自身の計画に綻びが生じ始めているのを認めざるを得なかった。 

彼等がグレイの風貌をしたランクに猛り立つのも宜なることである。魔都横浜における版図の拡大を度々同一人物——譬え能力や容姿を真似ようとも本質は異なるが——に挫かれ、取引に派遣した別班が全滅した上に年分の収益額を警察に押収された痛憤は計り知れないものがある。 

 

一方、煮え湯を飲まされ心地に打ち震えているのは何もセタニアだけではなかった。

 

詳密な画策の元遥々オーストリアを飛び立ったランクもまた今朝方から首の皮一枚で繋がっている状況にゆとりを奪われつつあった。 

特務課の捜査員を仕留め損なった挙句あわや主たる目的の聡太を見失い持参物を見す見す本物の手に渡らせるところだったのだ。

茂木邸での間一髪の予期せぬ弊害に始まりベイクウォーターでの擾乱…万全を期して組み立てられた略奪と棚ぼた式の戦略上の儲け話の筈が、一体どの段階で齟齬が生じたというのか。しかし奇妙なことに沙汰止みになりつつある計画の日延を考慮するばかりか、立ちはだかる障壁を突き破ってでも続行する以外の選択肢という概念は彼の脳裡にはなかった。いつからかは定かではない、自重や叮寧といった感覚がランクの気質から消しゴムで鉛筆の跡を消すように抹消されていた。 

 

「おまけにポートマフィアの本部の目と鼻の先でチャカを抜くなんざ何考えてやがる!」

「金を返しやがれ!」

「っふ、」 

 

口々に唱える男達に被せるようにランクは失笑する。己がけじめもなく事を引っ掻き回し進展を阻害したにもかかわらず——実際は何人にも口にできぬ只ならぬ困難があったのを彼等は知らない——非を認めるどころか滑稽とばかりに吹き出したランクにさしもの男達も呆気に取られた。 

 

「ま、マ。んなキレんなよ。金は返せねェけどこれはやるから。」 

 

野卑た笑みを湛えて差し出したのはランクが肌身離さず提げる一個のケース。思いも寄らぬ迷惑代に男達は戸惑いを互いに送り合う。 

恐る恐るも親玉の男がケースを受け取った。床に置き中身を改めようとした彼等をランクが素早く制した。 

 

「おっとォ、こんな汚ねェ場所で開けるのはオススメしねェなァ。ちょっと指先を引っ掛けただけでうっかり消し飛んじまうかもしれねェぜ。」 

 

事実、危険物の脅威を承知しているが故に自主的な強奪を控えた男達はランクの言説に納得して内容の確認を諦めた。本部と連携を取らず独断での使用は軽率且つ拙速に過ぎる。

紆余曲折ながらも取引の本懐を遂げた男達は出発の準備に取り掛かる。グレイを偽り派手に肩で風を切った命知らずを狙ってポートマフィアと警察機関のみならず無彩三人衆までもが横浜を探し歩いているという。 

 

「巻き添えに狩られんのはごめんだ。精々足掻くんだな、偽物さんよ。」 

 

明確な優劣意識を差し向けられて、ランクの瞼の裏にベイクウォーターでの一幕が蘇る。

流石は異能力者を専門とする機関の捜査官というべきか、辻村は.50AEを体内に留めておきながら直ぐには意識を飛ばさなかった。地面に雪崩れ落ち、それでも尚聡太とQに震える手を伸ばす彼女の無意味な藻掻きに無性に腹が立ったランクはその眼が光を失いゆく様を鑑賞してやろうと思った。眉間や心臓などの急所ではなく敢えて肩や膝小僧に弾丸を撃ち込み激痛に悶えさせてやろうと。

自動で撃鉄の起きたハンドキャノンの銃口を仕向けて引き金を引こうとして、つと野次馬の奥が騒がしいことに気付いた。自然と視線を滑らせて、そして本物の姿を捉えたのだ。 

 

彼は辻村を捨て置き、慌ててQと聡太を脇に抱えてその場から転移遁走した。何も一瞬だけ視界に入り込んだグレイの雰囲気に圧倒されたわけではない。寧ろ人混みを掻き分けこちらへと向かってくるグレイの風姿は好奇心を刺激されスクープの被写体に接近しようとするそこらの見物人と変わらなかった。ランクが恐れたのは自身の模倣相手と互いの視線が交わってしまう(、、、、、、、、、、、、、、、、、、)ことであった。 

迚も斯くても、ランクにとってグレイとは彼が異能を発現してから是迄に模倣してきた人並みの異能力者達と変わらなかった。 

 

「どいつもこいつもビビりやがって。俺の方がよっぽど超越者殺しの異名に相応しいだろ。」 

 

不貞腐れて爪楊枝を地面に吹き落としたランクにシャッターを開けようとした金髪の男が体を翻した。呆れ果てたとばかりの双眼には救いようのない男が映っている。

正気じゃねェな、男は一言溢した。もはやつける薬はないと空気を払いのける。 

 

「外に出てから倉庫に火でもつけてやろうかと思ってたが気が変わった。アンタは放っておいても八つ裂きにされる。今回は逃れられても近い将来必ずな。」

——お前がお前自身を取り戻さぬ限り凄惨な結末が待ち構えているだろう。

「…………。」 

 

いつの日か、分岐点に立った地で邂逅した不思議な人物の言葉が再生された。不穏な台詞を吐き捨てて蜃気楼のように眼前から消えた謎めいた老人の姿が。

何故あの夜の場面が今になってセタニアの構成員の言葉によって想起されたのかランクには判らなかった。ただ絶妙な不快感が喉を通ってせり上がってきて、知らず腰元に手を伸ばした。

 

 

——狙撃銃か散弾銃か、或いはそれ以上の大音響が大気を振動させた。それが地震ではないと断じられたのは突発的に揺れたのが足場ではなく建物全体だったから。本能的に槍で突かれたように飛び退ったのは正解だった。 

 

壁脇にずれたランクは拍子に捻りそうになった足首を上手く持ち直すと拳銃を握る腕を伸ばす。破城槌での突入を彷彿とさせる手法でシャッターが丸々蹴り飛ばされた。 

爆音の振動が擂鉢街全域に波紋を及ばせる。ガランガッシャンと吹き飛んだシャッターが完全に動かなくなく頃には、それよりも早く心臓の鼓動を止めたセタニアの構成員らが見るも無惨な有様で転がっていた。 

 

…デザートイーグルの銃口が聡太を睨むのと目にも留まらぬ俊足でランクと目睫の間に急接近したフードを被った男の切先が宙停止するのは一遍の出来事だった。 

 

「動くな」

「ッQ!」 

 

グレイと寸分変わらぬ面構えと声調で、紙一重で己の攻撃を避けたランクに春蝉は目元まで深く下げた被り物の下でくしゃりと顔を歪めた。軍警の最高峰に籍を置く強者のさも口惜しげな表情にランクは損ねた機嫌を少しばかり回復させる。春蝉の後方五メートルでルーシーが隙を窺っていた。 

 

「気ィつけろよ。ガキの頭はちっこいんだ、一瞬で脳みそが吹き飛ぶぞ。」 

 

顳顬に冷たい殺意を押し付けられて聡太が引き攣った悲鳴を漏らす。素早くQが反対から聡太を抱き締めた。恰もラーテルが外敵から子を守る為に威嚇するが如く目尻を吊り上げて。 

 

「お前なんかグレイの鼻毛にも劣るんだから!この犬畜生め!」

「口が悪いわよQ!」 

 

この場にグレイが居合わせれば叱る気も起こさず耳の痛い悪たれ口の出所を問うただろう。代わりに姉役のルーシーが嗜めるとQは頬を風船のように膨らませさぞ不満げに御免なさいと謝った。当然ながら謝意の行き先はランクではない。未成年が吐き散らした暴言に春蝉は心臓が萎縮しそうだった。

 

「どうやって此処を炙り出した?」

「俺だよ」 

 

突如、天井が崩れた。 

 

「俺にとっちゃア擂鉢街は庭も同然だ」

 

天の声にしては不敵な調子が赤黒い光を帯びた瓦礫を伴いランクの頭上に落ちてくる。 

一指弾に火薬が弾ける。音速で空気を引き裂いて喨喨と直進する弾丸が、落下物を避けようとするランクの手元を貫く。同時に空からの塵埃をくっきりと刀身に反映させた澄明な剣先が彼の指を斬り落とす熱願を遂げた。 

 

「ぐっぁアッ!」 

 

見事な断面からから源泉の如く鮮血が吹き上がる。生々しい柘榴の角切りが人指にして三本分ぽろぽろと零れ落ちた。 

攻め手は赦しを施さない。

一足間に春蝉が左足前の半身に移行し四十五度攻めの構えを取る。八相の構えだ。

右肩から左脇腹までの逆袈裟斬りで一撃必殺を試みようとして、忽然と目先に現れたアタッシュケースに三角筋が緩和された。 

 

ランクが驕慢に嗤笑を鼻から漏らす。己の小賢しさをひけらかしておきながらその鄙陋具合を自覚もせず「どうした、攻撃してみろよ。できねェよなあ!コレが起動しちまったらお前らも俺もお陀仏なんだからァ!」後退を指図するランクに三人は男が喚くたびに蓄積する余墳を手の甲や顳顬に浮き上がらせた。じりじりと名残惜しそうに距離を置く春蝉と中原にランクは奇妙に嗤った。 

 

「ひゅッ、うぅ」

「大丈夫大丈夫。見てよ、アイツあんな威張ってるだけじゃん。」 

 

足元に転がる指の欠片に吐き気を催す聡太にQが的外れな気慰みを掛けた。中原が侮辱の籠った玲瓏な口笛を奏でた。 

 

「相変わらず言うなァ!ポットーだかチャンクだか知んねェがテメェみてェな雑輩の寝床なんざ擂鉢にもねェよ。諦めて病院に帰ンな、患者としてな。」   

 

Qの人形に負けずとも劣らぬ軽蔑が揶揄うように窄められた肩に乗っていた。中原が太宰の次の次くらいに毛嫌いするもの。それは他人の威光で威張る薄汚い根性曲がり。ランクはまさに虎の威を借る狐であった。 

 

元、現マフィア二人による元来劣弱な意識に塩を擦り込む煽り文句にランクは激昂する。鋭利な舌打ちが穴だらけのガレージ内に反響する。明からさまな挑発に理性を揺さぶられたグレイの偽物は自身が剽窃した異能すら忘れ無防備にも地面に寝そべる拳銃に健常な方の腕を伸ばす。緊張の途切れる瞬間を待ち構えていた中原が速やかに地を蹴った。 

 

「ていやア!」

「ぐあ…!」 

 

重力を纏っていない強烈な一蹴がランクの腹部に減り込んだ。彼の手元から離れたケースを透かさず中原は奪還した。もはや手をこまねく必要はなくなった。

凄まじい破壊音を立てて壁を突き破ったランクに二人が追撃を仕掛ける。忽ち立ち込める土埃に向かってルーシーが引鉄を引き続け、弾道の合間を通って春蝉の疾風の如き斬撃が飛び交う。 

 

…だがしかし、目紛しい成敗の牙は対象を噛み砕気はしなかった。 

 

風塵が鎮まると、そこにランクはいなかった。微かな吐血の痕だけを残して、Qと聡太諸共消えていた。またしても偽物は逃げ果せたのだ。 

 

「んで、尻尾巻いて逃亡か。マジで雑魚だな。」 

 

地団駄を踏む春蝉とルーシーの傍らで中原は幻滅を零したのだった。とはいえ、戦禍の化身の風姿をした男に譬え紛い物であろうとも足蹴にできた千載一遇の機会に胸がすく心地でもあった。

 

「彼がこっちじゃなくて茂木隆也を担当してくれて助かったよ。きっとあんなグレイを見たら発狂して鎮める為に僕の腕が飛ぶところだった。」

「それは間違いないわね。それにしてもQったら、帰ったら情操教育なんだから。まさかシュンゼン達が余計なスラングでも教えてるんじゃないでしょうね?」

「勘弁してよ。」 

 

…いきなり、物音が響めいた。

ガタリ、ゴトリ、ガタゴト。中原が己を見下ろす。無機物が収められている筈のケースが掌に握られたまま奇怪に踊っている。 

 

三人は無意識に目配せを送り合う。 

中原がケースを慎重に床に置く。春蝉が柄を握り、ルーシーが銃を抜き取り、中原は即刻反撃できるように身構えた。

彼の靴先が器用に鍵を開ける。

刹那、夥しい白色が勢いよく外に溢れ出てきた。 

 

「キャァ!」 

 

甲高い悲鳴が大空の雲にまで届いた。 

 

「ア゛ァ?」

「...は?」 

 

太く威圧感のある濁り声が二人の男から放たれた。視界に入ったソレらに反射的に春蝉の背後に隠れたルーシーがおずおずと顔を覗かせる。

…鼠だ。柄一つない純白の毛色と怪しい紅の目を有する実験用ラットが数え切れぬほど解き放たれた。

即ち、オットーは端から略奪品をルーマニアで黄昏れる一犯罪組織に渡すつもりなどなく此処に身を運ぶ前に予め中身をすり替えていたのだ。

 

さて、セタニアはまだしも己らが最初から欺かれていたと認めた春蝉たちの所感は如何であろうか。 

 

「ちょっと何よこれ!」 

 

向っ腹を立てて頬を林檎色に染めるルーシーの横で一匹の尻尾を摘んで宙にぶら下げる春蝉が「うーん、これはいただけないな」、強張った声音は笑っていない双眸と一致していた。ポートマフィアに所属して彼此十年弱、太宰を除いて此程までに苔にされるのも久方ぶりの中原も太宰が見れば愉悦を口端に浮かべて撮影機のボタンを押すであろう癇癪筋の走らせ方であった。されど且つまた、油の一滴も溢さぬ見込み以上の立回りに彼等は一驚もしていた。

 

恐らく多くの時間と手間を掛けて案じたのだろう策謀は余念がなかった。無彩三人衆とマフィアの登場を危惧して事前に備えを仕込んでいた辣腕——特にルーシーらは欧米で繰り広げられた追跡劇でも網をすり抜けられた経験がある——は真向かった際に彼等が抱いた肩透かし感とは悉く対照的なものだった。慮外に狡猾な窮地脱出と悪行の数々の代替策は半年までは辺鄙な街の藪医者らしからず、采配を振るう人物の影の疑団を肥大させるほどに。 

 

そこまで考え至って、中原が普段よりも幾分か覇気のない息を吐き出した。詰まるところ、如何足掻いてもマフィアはグレイという大波に撹乱される運命なのである。

深く屈んだ拍子に膝を鳴らすと、立ち上がって中折れ帽の鍔を直す。 

 

「マ、俺の仕事はここで終わりだな。ボスに深追いは厳禁だって言われてンだよ。」 

 

闇雲に租界を捜索していた際に偶さか中原と遭遇した春蝉は一足先に見当を定めていた彼と一時的な協定を結び擂鉢街へと至ったのである。ランクは再度行方を眩まし肝心の盗難品は完全に所在不明。先日グレイが破壊した港の復興にてんてこ舞いな状況で解決の目処も立たぬ間接的な難題を延々と追うわけにはいかなかった。

何れにせよ共闘の流れで代物の正体を確信した中原の最大の目的は達成されていた。 

 

「貸し一だぜ。じゃあな。」 

 

非合法組織の幹部としての風采が窺い知れる光を通さぬ漆黒の外套を風にはためかせて、適当な手振りで中原は立ち去った。 

 

半壊した倉庫は随分と風通しが良かった。新たな通り道を見つけたとばかりに空っ風がひゅるりと吹き荒ぶ。

特定少数の情報網からQの誘拐を聞き及んで武器と身一つで街に繰り出した己の首を杪冬の寒冷がそわりと撫でて、ルーシーは風呂上がりの犬のように体を震わせた。グレイがクリスマスプレゼントに贈ったニットマフラーを持参しなかったことを後悔するばかりだ。淑女の身震いを目の端で捉えて寒波到来のニュースを思い出した春蝉は自身のジャケットを彼女に羽織らせた。身分を秘匿するべき相手が去った今、フードを被り続ける必要はなかった。

 

崩壊したガレージに空虚な着信音が鳴り渡った。着信主も確かめずに春蝉が肩を落とす。辟易とした背中は態々訊かずとも相手の正体がもう一人の仲間であるのが悟れた。大方、先方は義務を遂行したのにも拘らずこちらが獲物を獲り損なったことを静かな毒舌で指弾してくるに違いない。 

 

鬱屈とした雰囲気を漂わせる春蝉に、着信が自身の携帯でなかったのを良いことにルーシーが応答ボタンを押す。彼女の暴挙に携帯を取り落としそうになりながらも観念した春蝉は受話器を耳元に近づけた。 

端末越しに忍気呑声が犇と届けられるまであと二十秒…

 

 

 

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