文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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灰春

 

「思い出した、山崎太郎だ!...ッつ、ぅ」 

 

覚醒早々、飛魚の如く跳ね起きた辻村の額が視界が白むほどの強烈な衝撃を受けた。

鈍痛に見舞われて辻村は額を抑える。正面切って打撲したのは彼女だけではなかった。 

 

「ってェな」 

 

自身の頭上で悪魔が低く掠れた呻きを漏らすのが聞こえて辻村は面を上げてみる。男は鼻頭を抑えてたたらを踏んだところだった。 

 

「ぎゃあああ!誘拐殺人犯!」

「石頭も良いとこだな。」 

 

まるで逢魔時の昼寝明けに妖に遭遇してしまった驚愕ぶりだ。一顧だにせずとも人間と分かる硬調な形相、何よりも衝突した際に接触した人肌の生々しさを実感しておきながらお経を唱える無稽な様。終いには六根清浄大祓と清め塩の代役に全力投球されたクッションをグレイは眼前で鷲掴んだ。鼻への追撃は避けられた。 

 

「大体殺人じゃなくて未遂だろ、お前は死んでんのか?」

「え…嘘」

「なに地縛霊になったことを自覚したみてェな顔してやがる。頼むから一々間に受けんな。」 

 

果たして彼女の認識を占領する自身の人品がどのようなものか気になるところである。今更ベイクォーターからホテルに逆戻りしている己の無傷な躯を触りたくってはすっかり泡を食っている辻村に、これでは埒が明かぬとグレイは彼女をダイニングに座らせた。 

一杯の珈琲を淹れて向かい合う。 

 

「これ、何の珈琲ですか。」

「ウエウエテナンゴトドサンテリタ。行きつけの喫茶店で挽いてもらったもんだ。美味いだろ。」 

 

謂うなれば極限に豆の量を減らし微温湯で三十秒間抽出したような水っぽさに辻村は相応しい言葉が見つからないでいた。されど鼻高々に差し出される食べ合わせのスノーボールクッキーに恐々と手をつける。 

アーモンドパウダーがたっぷりと配合されたコクのある食感が舌の上で蕩けた。辻村は眉を開く。クッキーの製作者を尋ねてグレイでないことが判明すると、彼の食材選びのセンスではなく料理の腕前が問題であることを解した。

やんわりと珈琲を断って空いた小腹と頭に糖分を足して彼女は話を切り出す。 

 

「誤解ってなんですか。なんで私生きてるんですか、あと此処貴方の部屋ですよね。」

「まあ待て、順を追って説明してやる。」 

 

矢継ぎ早に放たれる質問にグレイは横槍を入れる。早くも空になった小皿にキッチンから新たなクッキーを足す。自身も一個を口に放り込んで同じ珈琲を含み、背凭れに身を預けて寛ぐと順を追って説明しだした。 

 

…………。 

 

全てを聞き終わった辻村は序盤の件を忘れて珈琲を飲んだ。

不味い。けれどこの味覚に一切訴えかけるものがない不味さが却って拙い現実を受け入れるのに役立った。 

 

「オットー・ランク…ドッペルゲンガー。そういうことだったんですね。」 

 

数時間前に自身の身体に鉛の悪意を浴びせた兇徒と毛穴の数まで変わらぬ男が語った話は俄かには呑み込み難いものだった。尤も、世界最悪と公認される超越者殺しの部屋でコーヒーブレイクを共有している状況自体が現実離れしているが。 

次いで辻村の唇は歯痒みながら聡太を呼んだ。己が至らぬばかりに護衛対象を二度に渡ってかどかわされる事態を許してしまった少年を。まだ親の庇護が要るべき時期に母の情愛を失ってしまった不憫な少年の傷を広げてしまったことを。 

 

若くして特務課に入り絶えず変動する横浜情勢の只中で普遍の秩序と安寧の守護に努めてきた。衷心に抱く誇りと使命感と正義感は変わりやしない。でも、それでも…。

異能犯罪の予防活動として受け持った一人の危険異能力者の姿が瞼の裏に過ぎる。綾辻行人は善人ではないが罷り間違っても悪人ではない。冷淡で邪険で無愛嬌な男だがその実最低限の道理を持ち合わせていた。宿敵である京極の傲慢不羈も甚だしい蛮行を是とせず、天賦の英俊を腐らせることなく独自の倫理観を以てして老人を断罪した。

その奔放さで幾度となく特務課を翻弄する奔放さを除いては、物の良し悪しを弁えた人となりの綾辻は無毒ではないがこの上なく憂いの希薄な監視対象だった。だからこそ探偵事務所の狭隘な空間で悠々と無難な監視任務というぬるま湯に浸かっていたのかもしれない。 

 

種田から直々に下された護衛任務から半日足らずで対象を見失うばかりか危険異能力者に略取され、挙句自身も深傷を負ってしまった。そしてあろうことか失態を演じた彼女を探偵社に連れて行き治療させたのは特務課が災害級異能力者に指定して常時動向を探っている男だった。あまりの粗漏、此れでは綾辻に痴れ者と揶揄され坂口にお払い箱にされても弁明の余地がないではないか。 

 

…釈明を終えたグレイはそれっきり深く項垂れる辻村を見詰めていた。起伏しの度に溌剌とかしましく騒ぎ立て、沈着を取り戻したと思いきや今度は青菜に塩といった萎れ具合を見せる。空旅を終えた悍馬の如く喜怒哀楽の烈しい起伏に富んだ身ごなしは側から鑑賞する分には感興をそそるものがある。そそりはするが、人生の春を謳歌できる時節の活発な女丈夫が実刑判決を受けた罪人のような虚脱の影を項に背負うているのは些か気が削がれるものだ。辻村が悄然とする理由は想像に難くなかった。 

 

——大方、ランクにQと聡太を目前で拉致された敗北感と負傷した不甲斐なさってとこか。

就職活動を経て意気揚々と挑んだ勤め先で出鼻から挫かれ職場に馴染むまでは何度も同じ轍を踏み直してきた己自身の若かりし頃を回想するのは自然な流れだった。最初の現場では護衛対象から目を離した軽率さは弁護できないが、度重なる事件の裏手で一捜査官たる彼女が関知しようもない蠢動が働いていたのもまた事実。ランクの裏事情を認知せずして二度目の誘拐を防ぐ手立てはなかった。この点においては捜査の錯乱を懸念するあまりランクの存在を隠匿した種田にも非はある。そうでなくとも過失は人類共通の通り道。だが任務の凡てが死活である特務課の捜査官に七転び八起きを単刀直入に投げかけるのもまたナンセンスである。 

 

自身に陰鬱とした頭頂部を向ける辻村を見下ろして暫し思案したグレイは、半端な鼓舞よりも追い風を吹かせてやることにした。 

 

「ちびっ子どもは少し前に擂鉢街でランクと共に見つけたが生憎逃げられたそうだ。ったく逃げ足だけは速いな。今は信頼できる筋を使って捜索中だ。それから大さん橋でのある客船の動きが怪しくてな、恐らく陽が沈んでから何かが起きるだろう。」 

 

何かというのは言わずもがなランク関連の案件である。

一緒に来るか、星を失った夜空を映し出した双眸に見透かされる。行く行かないなど考慮の範疇外、己が手放してしまった責任の始末を付ける以外など辻村の選択肢になかった。 

 

「お願いします、一緒に行かせてください。」 

 

決意の硬さを首肯で表明した辻村にグレイは満足げに頷き返した。 

 

「…ところで何を思い出したんだ?」

「え?」

「ほら、お前が石頭で頭突きしてきたときに何か言ってただろう。」

「石頭は余計ですよ。...眠ってる間に過去の事件が蘇ったんです。」 

 

山崎太郎、その名はグレイにとっても無縁ではない。未だ彼が横浜に来て間もない頃、ルーシーと春蝉との久方ぶりの夕食にピザ屋を求めて街を練り歩いた悪夢の一日。道を尋ねようと偶然通りがかった探偵事務所で綾辻と初対面を果たしたのが始まりだった。ピザ屋探しに乗り気な綾辻に附合って図らずも発砲騒ぎに巻き込まれた己の不憫はそう易々と忘却出来まい。辻村の言わんとしていることがグレイには判った。 

 

「あの政治家の一斉摘発事件で犯罪組織と癒着している議員のリストに茂木隆也の名前が載ってたんです。何処かで見たことある顔だと思ったら…けどあの男だけ摘発されなくて、いつの間にか名簿から名前まで消されてたんですよ。」

「ああ、それは俺の仕業だ。」

「ちょっと、何してくれてるんですか!」 

 

悪い悪い。さして悪びれる風もない謝罪に辻村は呆れてものもいえなくなった。肝に銘じるべし、この男は戦後最悪とまでいわれる国際指名手配班…地球上で発生するテロ、スパイ活動、汚職事件の遍くに至るまでを己が影響力の範囲に治める監視人(オブザーバー)、という大衆認識である。 

 

携帯が小刻みに振動した。グレイは着信を取る。応答から直ちに耳朶に纏わり付いた度合いの強い呪詛に即刻切りたくなった。 

 

『今何処?』 

 

ケルベロスやヒュドラを生み出したエキドナが現実に実体をもって現れればこのような魔物の唸りそのものの口調で人間を脅しただろう。それは深月がグレイを仕留めんと佩刀してじっと構える際の常套句だった。 

 

「言うと思うか?」

——俺のタマが懸かってんのに 

 

含意は惜しくも精確な意味合いを伴って伝えられなかった。

受話器から沈黙が流れる。数秒置いて深月は自己完結した。まあいいわ、自分で探す…などとやけに薄情に突き返されると押し返しグレイは竦みあがりそうだった。

窓際に立って彼は後目を流す。電話主の娘は自身を按じる母親の存在を露ほども知らずに、ロイヤルコペンハーゲンの珈琲カップを上から下から物珍しげに鑑賞している。 

 

『ねぇ、豊。』 

 

夏目以外に長らく届かなかった呼称にグレイの内的世界が響動いた。

幾度聞いても深月の凛然とした声調は、清艶な仕種は彼の最愛の者に酷似していた。今や灰色となった青春が息を吹き返してグレイを感傷に浸らせるも、他でもない深月本人によって打ち崩されてしまった。 

 

『これ以上娘に何かあれば貴方を八つ裂きにするから』 

 

一方的に通話が切られた。回線が不通になった機械音が心緒を春の海へと沈める。室内の空気までもが繊細さを欠いた閑寂に煙った。 

 

「誰と話してたんですか?」 

 

何処となく倦怠感を漂わせるグレイの背に元凶の娘は無配慮な疑問を投げかけた。血筋は争えないものだ。

 

「おっかない鬼婆だ。」

 

瞬時もだしたあと彼は一言(いちげん)紡いだ。

 

つと、グレイが半身を翻す。

物を言わず大股で歩み寄ると傘の下の合間で彼女を見下ろす。珍妙な目遣いで己の隅々を一望しようとする二十センチあまりの上背の男に辻村は己の格好を見直してみる。…探偵社での治療で与謝野に服を脱がされた彼女は再びキャミソールへと戻っていた。 

実をいうと深月の悍ましい警告を受けて彼女の快気を今一度確かめていただけだが、そんな内幕を知る由もない辻村は「な、なに卑猥な眼で見てるんですか…!」と己を抱き締め後ずさった。与謝野の異能の成果を視覚的に見極めたグレイは安堵の溜息を飲み込んだ。と、己を変質者呼ばわりする辻村を二度(ふたたび)見入る。 

 

捜査官に相応しい程度よく引き締まった体躯、なだらかな首筋、髪色も眸も異なるものの目色に宿る混じり気のない良心は親子の繋がりを感じさせる。華奢な膝小僧を擦り合わせ頬骨に血色を乗せつつこちらを睨め付けてくる姿はまるで猫の威嚇。

...若い、男にはもう決して届かぬ咲き染める水仙の潔さが辻村の内から瑞々しく溢れ出していた。

 

全体を見渡して、改めて頭頂部から足の爪先までを観察する。如何にも一種妖精のような魅力を秘めているが、先述した通り若過ぎる。

つまり、要するに…

 

「…ないな」

「はっ倒しますよ。」

 

 

 

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