花袋は相も変わらずしどけなく寝そべっていた。呼び鈴を鳴らしても出て来ないのでこじ開ければ彼は分かり易く飛び上がった。決して別れを告げたりはしない都合の良い
「邪魔するぞー」
汚い。丸まった紙屑や脱ぎ捨てられた靴下がディスプレイじみた並びをつくり、脳にも眼球にも有害そうなブルーライトが照明代わりに室内を明らめている。何年も人が住んでない塵屋敷に居座る浮浪者と謂れても納得できるくらいだ。おまけに埃も酷い。背中で辻村が噎せるのが分かって俺は遠慮なくカーテンを開け放った。
「や、やめい!何するんじゃ!」
「換気くらいしろ」
「儂の勝手じゃろう!閉め…ぎゃあ!」
人工的な青とは正反対の強烈な茜色が雪崩込んできた。吸血鬼というよりは日光を浴びてしまったトロールみたいな悲鳴である。薄暗がりに克明に浮かび上がった輪郭に辻村がひっと声にならない怯えで喉を引き攣らせた。
「仕事だ。」
「無理じゃ無理。やる事溜まっとるんじゃからのう、依頼なら別の日に」
「花袋」
「や、やるやる!やらせてもらう!」
時間がない時に限って冗長極まるのはコイツの悪癖だ。恋人を引っぺがしてやろうと袖を捲れば匆匆にお手上げしてくれたのは今日は調子が善い方だろう。それにしても残念、折角不潔な芳子を浄化してやろうと思ったのに。
俺は持参した二人分の身分証を寄越した。
「船に乗りたい。俺とこの嬢ちゃんの招待状を作ってくれ。それから聡太とQの居所の目星が幾つかあってな、全部洗って欲しい。」
「多い多い。大体誰の話か分からんわ」
「そうか、なら仕方ねェな」
「やらんとは言っとらんじゃろ!」
鼻糞でも飛ばさん勢いで花袋はパソコンと向き合うと大至急電子の海に潜水した。まるでゾーンに入ったピアニストさながらの指遣いだ。あのルービンシュタインだってコイツの超絶技巧を目の当たりにすれば目玉を剥いたかもしれない。
「ええと、彼は…その」
「田山花袋だ。元探偵社って言やあ分かるだろ。」
「うーん、私は武装探偵社の担当ではないのでいまいち」
「優秀な情報屋とだけ認識しときゃあ善い。これから役に立つさ。」
芳子を人質に取れば種田の戻した焼酎の銘柄くらいまでなら調べられるだろう。捜査に有益な出不精のせっつき方を教えてやれば鬼を見るような眼で見られたのは解せない。
僅か数分も経たないうちに花袋がげっそりとした面を上げた。
「埠頭で未登録の輸送船と非公式の式典が開催される豪華客船が寄港しとるがもうちっと時間が要る。」
俺は黙して思案する。本当に考えて悩んだのか自分でも分からない間だった。案の定返答した際に「えっ、そんな簡単に決めて良いんですか?」と辻村が目を丸くするくらいには軽率だったのかもしれない。半年以上前、それこそ花袋との初対面時に図らずも拘うことになったコカインの密輸船を想起させる未登録の船舶と、軍警や外国要人等の関係者のみで完結する大規模の船上晩餐会。逡巡したところで誰かが解を教えてくれるわけでもなく、粗運任せか神頼みくらいでしか選定の術がないことに煩わされるのは滅法苦手だった。
「うううむ、然しのう」
「なんだ、肝臓の調子でも悪いのか?」
「いーや、頗る良い」
「なら日本酒は飽きたのか、ワインとかウイスキーでも良いぞ。ルパンだってまだやってる」
「そういうわけじゃなくてのう、何と言ったら良いか」
「何が欲しいんだ、お前も好い加減はっきりしろ」
「あれ、これ儂怒られてる?夏目殿にも叱られたことないのに?」
とまれ、殊前者の密輸戦に関しては俺と共に甚だしい迷惑を蒙った花袋は訝しげに肯んじるのを躊躇っている。例の一件以外にもこちらが寄越した依頼には悉く渋る癖は変わらずである。あーだのうーだの適当な尻込みをほざいては三分も経たぬうちに説得を観念するので、こうして互いに面倒な手順を踏むのが常だった。それにしてもコイツに肝臓の調子を聞くなど俺も随分と土俵際に追い立てられたものだ。何も誘拐されたちびっ子どもの生死を按じてるわけじゃない、あの小鬼と謂うには度が過ぎるトリックスターが何かをしでかして周囲が泡を吹く前に茂木聡太を保護してやる必要があったのだ。
再度意思を伝えれば彼は「否でも応でも聞かんじゃろ」と尤もな愚痴を溢してまた電子の海へとダイビングした。水飛沫の代わりに浴びるのは矢張りエネルギーの高い可視光線だけだ。
以降作業に打ち込みぱったりと物静かになった花袋に、クルーズの下船時間終了間際には全ての用意を済ませるように告げてから俺は辻村を伴い塵屋敷を後にした。
*
時刻は午後一時、六時の晩餐会には時間が有り余っていた。一度特務課に戻るなどと抜かした辻村を近場の百貨店へと引っ張り、懇切丁寧に晩餐会の意味を教えて諭してやることになるとは一体誰が予測出来ただろうか。外国の異能組織の幹部も招かれた式典に何だって淑女が黒スーツでやって来るというのか。
兎も角、お受験ばかりできたのかは知らないがエチケットという概念を今一つ理解出来ていない辻村をイブニングドレスの専門店へと強制連行したのは必然の流れであった。寸法を測って生地から仕立てるには猶予が足らず、適当に見繕うように店員に指示してから俺は一旦店を出た。
…どうにも女という生物はともすれば仕事と与太話をマルチタスク処理するきらいがあるらしい。俺が諸々の用事を済ませて戻ってくれば猶猶色の採択すら見当付いておらず、辻村は二人の店員に素っ裸にされん勢いでドレスを押し付けられていた。
そのうち逆光で白光りした顔写真みたいに白い歯を輝かせるのではと思い描いてしまう程の喜色満面が、俺を捉えるや否や大層な笑顔でメイド喫茶もかくの挨拶を交わしてくるものだから顔が倦厭に引き攣った俺は悪くない。これが一から誂えるとなればどれ程の時間を要するのかなど想像したくもなかった。
「まだかかるのか。」
「旦那様、女性のドレスは一着一着が一生に一度の晴れ着なのですわよ。況してやこんなにも別嬪さんなら[[rb:私 > わたくし]]達の腕も鳴りましょう。」
「…父親だ」
その瞬間、アンナ・ブロンスキーに焦がれすぎたような厚化粧を塩顔に塗りたくったヴェテラン店員の眼光が、つい見失ってしまった変装相手を見定めたかの如く眇められたのを見逃さなかった。
あーらぁ、娘さん?此処にメル・ブルックスが居れば完璧だったろう…否、あわよくば俺を陽気な配偶者に仕立て上げようとしている旺盛さが隠しきれてなかった。パチモンのアンナ・ブロンスキーは俺の手袋の下にある何かを透視しようとしている。
まるで童貞狩りにあった青臭い餓鬼のように俺は薄い革越しに薬指に触れた。……感触がない。朝暮肌身離さず接触しているプラチナが。付け根をぐるりと回る円形が。
人目を気にせず手袋を外して、指環の不在が俺を絶望の底に叩きつけた。
「どうされました?」
何処で失くした?何時?と懸命に脳内を弄るが一向に心当たりは引き出されてくれない。店員が尋ねる。焦慮を紛らわすように横かぶりすれば、女は安堵を滲ませて誰にともなく点頭した。俺が愛の誓いを失くしたことに満足しているような癪に障る相槌だった。
「娘さんだけですか?」
「いや、息子もいる」
「えっ?」
まあ!不思議とこの口喧しい女の音色には他人に秘密を暴かせる特異な魔力でもあるようだった。うっかり口を滑らせたと、瞠目する辻村から然りげ無く目線を外した俺に対してどんな下世話な妄想を巡らせたのかは知らないが、偽アンナは矢庭にバックルームからコサージュを持って戻ってきた若い店員へと話し掛けた。こっちは片桐夕子みたいな造形だった。
「ちょっと私びっくりよ。ねえ貴方、こちらの好漢サマ、お父さんですって!信じられる?しかも息子さんも!」
「ええっ嘘ぉ!
「あっはは」
遂に百舌鳥と五位鷺の合唱が始まった。いつの間に打ち解けたのか辻村は店員の口八丁を横目に心底愉しげに笑っている。勘弁してくれと叫びたいところだった。
頭痛でも抑えるように額に触れて、早巻きするように懇願してソファに腰掛ければ合唱は四方山話からドレス選びのパートへと移行した。ハーモニーは大抵が(お綺麗です)か(似合ってます)に違いない。俺でももうちっとましな世辞が云えただろうに。生憎連れは恋人でも愛人でも況してや妻でもない、脂が乗り始めたばかりのうら若き捜査官だ。
思えば此処の店員より数百倍も気配りの利くルーシーの服選びを除いては久しく婦人服屋には近寄ってこなかった。不本意とはいえ最後の付き添いがこの娘っ子の母親とはなかなかどうして運命とは数奇なものである。
「そういえばさっきの田山さんってお酒好きなんです…の?」
腰元に付けるような大柄のコサージュを弄りながら、つい今しがた自身を娘と紹介されたばかりであることを思い出した辻村が妙なお嬢様口調で尋ねた。
「ああ、お陰で酒を駄賃にできるから出費が抑えられる。」
「因みにあの部屋は」
「俺はよく知らんが探偵社を辞めるときに国木田が探してやったらしい。ああも散らかると判ってたなら渋々社員寮に寄生させてただろうさ。」
初対面にて酒豪という共通点を見出し勝手に親近感を抱かれてからは度々老婆の大家から苦情が寄せられるようになった。何やら許可もなく緊急連絡先の一番上に俺の電話番号を記入していたらしく、関与のない塵屋敷の責を擦り付けられちゃ溜まったものじゃないと詰め寄れば判ったと返されそれきり。連絡先は修正されず、妖婆の怨嗟を掛けられた真夜中には絶縁だって誓った。それでも俺が花袋との微妙な関係を引き摺っているのは彼の能力が類を見ないほどに優れていることやどこか憎めない性質、気軽に飲める唯一無二の酒友という由があった。何よりも実際に連絡を絶った翌朝に何故か俺のベッドに酒臭い花袋が泥酔していたという恐怖の事件がこの侮れない情報屋の底力に、軽率に敵に回すべからずという戦慄を抱かせたのだ。
「グレ…お、お父さんって本当に子供がいるの?」
束の間の自身の立ち位置を忘れて転び出た辻村の問いに室温が数度下がった。空調ではない、恰も取り巻きの如くドレスの色当てをしていた店員達が器用にも石仏みたいに笑顔のまま固まった所為で空気の流れが停滞したのだ。己の発言が踏み抜いた地雷にてんで心付いてない辻村に、今更隠したところでと思案して俺は首を縦に振った。
「だが息子よりも娘の方が可愛く思えてしまうのは父親の万国共通の悩みだろう?」
「あらあらまあ!うっふふ」
「きゃあっ」
少なくとも愛人との子の存在を隠していた間男から口前の上手い父親に印象が昇華されたのは微かな幸いだった。対して辻村は極自然体で甚だ納得していない娘もかくやの膨れっ面をするばかりか、続く爆弾発言をするものだから思わず黙り込んでしまったのは仕方のないことだ。
「…嘘つき」
——嘘つき。本当、天性のほら吹きね
「…魂消たな、深月に生き写しじゃないか」
嘘つきの後に人間が表現し得る限りのお淑やかな罵倒があれば本人と見紛ってたかもしれない。しみじみと感じ入っていると辻村はフィッティングルームから飛び出して駆け寄ってきた。
「矢っ張り、私の母のこと知ってるんですよねっ?如何してですか?初めて会った時から変だと思ってた。」
「如何しても何も深月は」
そこまで云って、図書館でのアイツの警告が過ってはたと言葉を止めた。
深月は娘が自分の生存を知らないと釘を刺してきたがそれ以上のことは告げてない。昔から子供との関係を拗らせてるのは存知していたがまさか自分の正体すら教えていなかったのか?つまりこの嬢ちゃんは自分の母親が特務課のエースとして世界中の異能犯罪者を相手にどれ程の暗躍をしていたかも終ぞ知ることなく、火遊びに興じるような輩だったと勘違いしたまま今日に至ってると…そういうことなのか?
「答えてください!母は、母は若しかして人には言えない世界の住人だったんですか?」
「お前、自分が何で特務課に入ったかは理解してるのか。」
「何でって、私は坂口先輩に引き継いだ異能を見初められて」
「本気で、そう思ってるのか。」
「…え?」
坂口が深月の異能のみならず彼女の才幹そのものを評価して招き入れたのは間違い無いだろう。現に彼女は二十四の若さにして特A級危険異能者の監視役に任命されている。だが彼女が
そういや以前俺が辻村の額に付着していたソースを拭ってやろうとして、綾辻が異様に反応を示したことがあった。てっきりあの時は半ば兄や父親がそうするような人間的情緒を彼女に対して拗らせてるものだとばかり思っていた。だが若しもアイツにとっての辻村深月に腐れ縁で懇意にしている捜査官と監視対象以上のしがらみがあったなら…喩えば、用意周到な母親の不器用ながらの計らいというような決して表沙汰にはならない事情を抱えていたならとすれば。
「…これは調べる必要がありそうだな」
粗吐息のように囁けば泣きそうな声が訊き返した。声調に一致した曇り顔の彼女の心情を見透かすことは、現時点において事由を把握していない俺には出来ない。どうにか憂いを晴らしてやりたいところだったが口止めされてるうえに、当事者が不在だというのにこれ以上口を滑らして話をややこしくするわけにはいかなかった。
折良くアンナ・ブロンスキーがやってきて辻村の見た目を称賛してくれたことで詰問は中断された。またもや合唱を再開して張り切ってデザインカタログを取りに行こうとする片桐夕子を引き留めて強引に会計を望めば二人はさぞ口惜しげに
「お色はこちらで宜しかったですか?」
「あまり目立つと困るからな。」
黄金のスレンダードレスを身に纏い金の猿をダイモンに連れるどこぞの夫人みたいにきんきらきんになれば潜入が台無しになるのは自明である。謂うまでもない弊害を避ける為の俺の配慮は果然喋々しい詮索好きの二人によって、野郎の視線が我が子に釘付けになるのを断固として許さない親馬鹿へと塗り替えられた。ヘマをやらかして上司からの鉄槌を案じる新入社員もかくやの鬱屈した沈黙を微笑に湛える辻村の傍で、互いにこの店には二度と訪れないだろう意思だけは一致させていた。
*
「Westminster」はその高慢ちきな名に相応しいイギリス出身の豪華客船である。フィッツジェラルドが組合戦に際して買収した長期クルーズ船に次ぐ規模の、大型株を保有する投資家達が絶賛するクルーズ会社が手掛けている。造船費にして七百億円、よく豪華客船を動くホテルと形容するがウェストミンスターはさながら動く城かショッピングモールと謂えよう。高級客船を図鑑にするならば表紙のスポットライトを浴びる権利を争えるくらいの豪壮な船内となっている。
二十階建て、二十万トン越えの巨体の中には樹木を植栽したニューヨークのセントラルパークもかくやの公園や、飛込み選手しか使わないであろう高台付きのプール、二百室以上のシアタールーム、ジム、スケートリンクにショッピングモールと娯楽施設が満載の——尤も、大海原へと一千万以上の大金を払ってまで冒険心を唆られておきながら船内に籠る前提という如何にも変人が性癖を凝らして造ったような興醒め感は否めない——贅沢っぷりだ。近年の船造りは徐々に巨大化してきてるのでそのうち国会議事堂まで出来るのでは無いかと鼻白んだ期待を密かに抱いている。無論リスクヘッジは徹底しており、非常時の百十にも及ぶ対応策はさることながら、環境面の懸念に姦しい界隈からの苦情も留意した液化天然ガスという先進的な燃料と陸地からの電力供給や廃熱回収システム等を用いて運航に至っている。
とまあ大まかに紹介すると続いて湧き上ってくるのは此程までに贅を尽くした最先端の客船が、豪遊が目当ての船旅客に紛れて謎めいた式典の会場として採用された不思議。生まれて間もないウェストミンスターの運営会社が抱える、投資金にして千億円を超える巨万の富を持て余す顧客達と、遡っては大戦より遥か以前から各国の軍艦を秘密裏に手掛けてきた造船連合との密接な関係と歴史を鑑みればこそ一般客も滞在する当船舶を舞台にした故は察しがつく。それにしてもどの国々の何々議員や将官殿、或いは大企業やシンジケートの大幹部さんが何の目的でいらしてるのか、そして式典と晩餐会の旨味がどれ程甘美なのかは俺のような部外者がおこぼれに与れる余地はない。だが軍人どころか海外で我が世の春を謳歌する非合法異能組織を守衛に雇用するくらいには食事の横取りをされたくないという欲心は十二分に伺えた。
さて、花袋に用意して貰った招待状で難なく乗船した俺達は、それがつい数分前に偽装登録されたものであるとは知らずにやって来た担当者に慇懃に会場へと案内された。
歓迎的ではち切れんばかりの陽気な雰囲気の最中、次なる航海を待ち侘びて横浜に寄港する城の端から端までを満喫する一般人を迷彩色代わりにしたのは名案に相違ない。極秘の晩餐会を開くには最適といえよう。花袋曰く、式典と晩餐会は丸々八階で完結するようで特別応接室や大会議室、コンサートホールといった広域を占領してお偉いさんは陰湿にはっちゃけるらしい。如何であれQ達の捜索目的で潜入した俺達にとっては無用の情報である。
「いやあ、私どもの手違いでチェックインカウンターの場所を伝えそびれていたようで、この度はご不便をおかけして申し訳ありませんでした。」
「構わねェよ。誰だって手違いはある。」
「は、ご厚情痛み入ります。森田
件の怪しい集会の為に特別に用意された乗船ターミナルの時点で誤謬を犯してしまったのは偏に花袋の報告不足によるものだが、そうとも知らず無駄に低姿勢の担当者は勝手に誤解して平謝りを繰り返していた。この恭しさはきっとヤクザの部屋住みにも勝るとも劣らずの圧迫研修を怺えた末の自己洗脳に違いない。そうでなければ毎度客の姓名を呼ぶだなんてまだるっこい真似は並大抵の船員には出来まい。
デッキを歩いて外観から八階の案内を受けているうちにつと右腕に絡む手に力が込められたの。見下ろしてみれば娘の森田
とはいえ俺達の行先はあんな権力の根城みたいなコンサートホールではなく船内全域である。こうしてチェックインも出来たわけなので、ぼつぼつ二手に別れてちびっ子達を探しても良い頃合いだった。前を歩く男に隠れて一時解散の旨を伝えて無言で首肯した辻村の手首に、俺は偶さか綺麗なドレスとは相性の悪すぎる絶望的に野暮ったいブレスレットを見留めてしまった。
思わず足を止めた俺に辻村は不思議そうに小首を傾げる。
「理帆子、それは何だ。」
自身の手首を見遣って、「ああ!」と硬直化していた口辺を緩めると彼女は小声で囁いた。
「若しかして酔い止めバンド知らないんですか?」
万が一酔ったら大変だと思って。言葉を失う俺が船酔いに苦しんでるとでも思ったのか彼女は自身のバンドを外すと寄越してきた。汚らしい鼠が二本足で立ちアメリカ国旗を振ってるワッペンが付けられたポリエチレン製のピンク色のバンドだ。つつがなく乗船する為だけに正装を用意したと打ち明けた際は晩餐会への不参加を嘆いていたくせに、よりにもよって社交界には必然の美的感覚がこれか。
受け取って直ぐ、俺はそれを笑顔で海に投げ捨てた。
「ああっ!何するんで…の!?」
「ダサい。止めろ。」
「だからって捨てなくったって」
「如何されましたか?」
担当者の男が振り返った。丁度人払いの適当な理由を繕う手間も省けたと俺は辻村を近くの椅子へと座らせる。
「どうも娘が船酔いしたみたいだ。昔から乗り物には滅法弱くてな、悪いが此処で少し休ませたい。」
「そうでしたか!気が回らず申し訳ありません。直ちに酔い止めを持って参ります。」
「頼んだ。」
男の姿が見えなくなると辻村は即座に立ち上がった。酔い止めバンドのデザインが余程好みだったのか恨めしげな眼差しを突き刺してくる。如何にも緊張感が緩まってしまったらしく、子供染みた反応に今一度目的を言い含めれば今度は反抗期の娘みたいな不貞腐れた頬が出来上がった。
「理帆子、お前は屋上デッキから虱潰しに探せ。良いな?」
「お父さんは何処に行くの。」
「俺はメインデッキから降っていく。」
「了解。」
船の出航は夜々中の十二時。何処にランクが潜んでいるやも判らない以上館内放送で人の流れを観察するわけにはいかない。通例の人質事件とは異なるものの大抵は時間の経過とともに奪還側の成功率が低落していく。最大の障碍は圧倒的に人手も時間も足りていないことだった。
時間が惜しいことは重々承知していると頭を振った辻村の面構えはもう捜査官へと切り替わっていた。早速案内人が帰ってくる前にと身を翻した彼女が角の向こうに消えるまで見届けると俺もエレベーターを使って近道するべく踵を転じた。
…次の瞬間には別の場所にいた。
ドロロロ!ゴゥォオオ!
メインアリーナでもここまでは響かないだろう強烈な音響が狭隘な空間に響めいている。三十分も居れば難聴になってしまいそうな騒音だ。世界中の電化製品を集めて稼働させているかの、血液レベルで伝わってくる振動と目前の水密扉と、天井を配管が這う殺風景な光景が此処がまだ船内だと教えてくれていた。緊急時に限っての蒼卒な転移は幾度となく経験してきたが、絶対に置き去りにできない同伴者のいる今回ばかりは流石に肝が冷えた。
何はともあれこの隔たりの向こうが機関室で幸いにも三等客室階、とりもなおさず目当ての最下層であることは判じられた。
最も俺が有力視していた場所が眼前に閉ざされている。稀有な異能の計らいに舞い上がりそうになって、つい先程辻村に気を引き締めるように諌めたばかりだと突き上げようとした拳を謹んだ。尚郎色は納められずに速まった鼓動のまま俺は扉に手を掛けた。
ハンドルを回して機密室へといざ突入して……開けた視界に飛び込んできたのは機械設備の密林。残念ながら其処に聡太とQは居なかった。ランクどころか機関士も見当たらない。代わりに一つ…
「嘘だろ…」
機械の手足が複雑に絡み合う室内で決して其処にあってはならないものが在った。