文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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守護生者

 

八階の半分の面積を占めるコンサートホールから大会議室を二室飛ばして船尾側にクラブ1996と謂うラウンジがある。国際色豊かな宣伝の為にメインデッキより上階は各階毎にアジアや欧州から厳選して十カ国のコンセプトが反映されており、就中巨頭会談を念頭に置いて船の国籍を高らかに主張する口実で八階は英国の特色が取り入れられている。

 

クラブ1996はコンサバトリーという十八世紀の住宅形式が落とし込まれており、園芸仕立ての内装が酒場でありながらアフタヌーンティを樂むかの快然たる心地になれると評判のラウンジだ。同階の他の峻厳な議場とは趣が異なり、英国の光と風と匂い、暮らしの景物の片隅を切り取った古拙な内装は客足を絶やさない。大陸から離れた大海原の文明で太陽又は月が地球と一直線上に並び全天が天体の色に染まる被造物的な光彩陸離。典麗な文章に書き現さんとペンを走らせる文字書きや、ボンボヤージュの実現に唇を重ね合う二人連れ、感動をアルコールとともに飲み下す孤客等々ラウンジは盛況していた。 

 

水平線が寒寒とした夜に閉ざされ、闇に飲み込まれた海面が時折月光に当てられては灯籠の如く閃いている。まだ闇夜に向かって出航する兆しのない船体はそれ自体が人工的な陸地として恰も不夜城のように海の始まりに聳えていた。

午後六時を過ぎて英法に則り十八歳以下の未成年の捌けたラウンジは酔狂なさざめきに充たされ、着飾った貴婦人らが夫の目を盗んで強かな逢瀬を試みる姿が、漣に見立てた藍色のソファの背後から散見される。シャンパンやらチャームやらにサロンで手入れした値札の付いた指先を伸ばしては媚態と羞恥を混在させた眸を瞬かせて、斯様に明瞭な魅惑に安易と踊らされる相手の恍惚とした面輪は一夜限りの恋愛の成就を告知しているかのよう。 

 

「あなた私の顔を見て笑ってらっしゃるの?」

「うん、こんなにも綺麗な目鼻立ちに出会ったことがなくて嬉しくって。」

「まあ!お世辞が上手いのね。」

「僕の本心だよ。現世に降りてきたアフロディーテ、どうかな?来週なんかは」

「駄目よん、旦那が商談があるの」 

 

甲板にまで瀰漫するクラシックピアノの音色と足恭な駆け引きの波に紛れて、辻村は焦慮を一口の白ワインと呑み込んだ。無理もないことである。二人の子供の捜索に屋上から順当に下り続けてきたものの、分陰を遡及して付添必須の階で単独行動していたことを警備員に見咎められ、折良く居合わせた同年代の男の腕を取ったのはある意味必然と謂えよう。直後にラウンジへと誘われ快く承諾したのは当然の流れであった。 

 

「突然呼び止めてすまない。どうも困っているようだったので間に入ったが迷惑だったか?」 

 

面前で謝礼の一杯のみならず喋喋喃喃と語り合うことを望んでいるのは明々白々だった。今宵、八階に一般人が迷い込むことはない。詮ずるところ、可及的速やかに密やかに遂行するべき任務の以前に、辻村の喫緊の新たな任務はこの賓客をあしらうこととなってしまった。

今この頃、味方と見做せば秘密兵器よりも心強い男がその規格外の器量を以て下層で捜索に勤しんでいる様を想像すればこそ、早急に誘いを断らねばと焦燥感に苛まれるのは当然の心の作用であう。彼女は罷り間違っても美人局(つつもたせ)の為に乗船したのではないのだ。されども役人教育一筋で特務課へと上ってきた仕事人間にとって都合の良い言い訳を繕うのは報告書を百枚書くよりも困難だった。 

 

「迷惑だなんてとんでもない!先程は助かりました。」

「なら良かった。」 

 

年代物のワインを勧めておきながら、自身は一杯の水で満足する男を辻村はまじまじと観察してみる。 

 

気高い背筋、適度な痩躯、見るものの警戒心を忽ち解いてしまう優面。謂うなれば波打ち際に佇む精緻なアポロンの肖像が現実化したかの如き見事な顔貌であった。石膏さながらの白皙、色調を合わせるかの水光を聯想させる金髪は後頭部で厭らしくなく纏められている。紳士的な燕尾服の下に秘められているであろう雄々しく引き締まった胸筋が見れないのは口惜しいと思わせるほどにその者には神秘があった。孤高の狼にも似た俊敏且つ溌剌なイギリス英語の発音はまさにこの最盛期を迎えたシカモア・ギャップもかくやの若者に釣合っていよう。 

 

ときに辻村とて見劣りしていない。ノースリーブのワンショルダーのイブニングドレスは彼女のなだらかな曲線を強調しており、必要な美点を押さえた瑞々しい顔立ちも相俟って意思の強さが表れている。際立っては黒鳥の如き生地に銀河のようなグリッターを散りばめたスリットの小隙から覗ける肉の締まった脚線美、胸元に添えられた本絹の水仙のコサージュが彼女を一つの芸術品へと創り上げていた。 

十角形の窓際を準えるようにして設られたカウンターの一角のハイテーブルで肩を並べる男女に、ピアノと酔いの夢半ばに乗じて眷恋を注ぐ異性は尠くない。しかし周囲で繰り広げられる夢物語が身を結ぶ気配を微塵も感じさせず、才子佳人は窓外の景色と自身らとを不規則な間隔で眺め合っていた。 

 

「私がお前とこうして話しているのには理由がある。」 

 

妙に堅苦しい声調で男は云った。 

 

「先程、君と一緒にいた男が居ただろう。気の所為だったらすまないが私の顔見知りに似ていてね、お前の同伴者か?」 

 

不意打ちの質問に辻村の心臓が跳ね上がった。さもあろう、グレイという男の存在が俗世間においてはピクト人の如く曖昧模糊とした膜に覆われているのは、茂木隆也のように灰色に染まった高官らが恣意的に墓場まで持っていく腹積りだからである。種田のような極一部の剛直的人格者を除いて世の関係者筋は揃いも揃って脅迫の為、若しくは何かしらの私益の為に頑なに口を閉ざしてきた。以前、現代の暗い世相への黙認ともいえる大罪だと絢辻の口から零された慨嘆が辻村の耳に蘇った。

であればこそ、隣の聡そうな男がグレイとある程度の因縁を孕んでいる可能性は無きしにもあらず、そうでなくとも軍警や県庁関係者も招ぜられたウェストミンスターで軽率に国際的犯罪者の名を出すことは躊躇われた。今更になってグレイと手を組んだ己の選択が何か酷い大禍を惹起させてしまうのではないかと辻村は底知れぬ巨富に襲われた。 

 

動揺を隠すようによく冷えたワインを喉に流して、彼女は当初の設定を貫いた。

名前は?弘黎、森田弘黎です。…仕事は?商社の役員です。

男は須臾の間考え込む仕種をする。波紋の一波も生じぬ淡々とした物言いのわりに尋問じみた質問を繰り出す行為が益々不安を掻き立てているとも知らずに、男は同伴者の身分を執拗に問い続けた。グレイの正体を一目で確信しつつも、辻村の応答に己の見間違いを疑いつつある。そのような音色が絶えず紡がれた。

 

愈々縁起の悪さに追い立てられた辻村は柔な微笑で退いた。一刻も早く距離を置くべきだった。此程までに独りの心細さを感じたことはなかった。

 

「御免なさい、父と下のレストランで待ち合わせしてるんです。」

「なら送ろう、私も此処を出るところだ。」 

 

言い逃れを許さぬ眼光が迫った。心理戦も問答も等閑視して保護者との対面を果たそうという魂胆が、咄嗟に華奢な手首を掴んだ力に如実に込められていた。

船上の花園が瘴気を醸し始める。到頭剣呑な影を漂わせた男を積極的な肉食だと誤解した外野が静かに黄色い声をあげる様を顧みる余裕など今の辻村には皆無だった。不穏に共鳴するようにすぐ傍の窓辺に救い難く冷淡な雨滴が着地した。

 

一目を憚らなければ現況を打破することはできる。だがしかし要人だらけの公衆の面前で、しかも其処彼処に油断大敵の警備員らが巡回する中で着飾った可憐な女が武力に頼るのは自殺行為に等しかった。どうにか無謀を犯さずこの場で男を振り切る術はないか、されど切羽詰まった脚が勝手に振り上げられようとして… 

 

「俺の娘に何か用か。」 

 

不意に耳元に流れ込んできた音色に、それが誰かを認識するよりも先に辻村は胸を撫で下ろした。率直な動作で背後を振り返り、しかし最初に鼻先を掠めた鉛臭さに聞き分けの良い娘の笑顔で硬直した。困惑を顕在化させる辻村に反して、彼程異様に彼女の保護者への興味を募らせていた若い男はグレイの面を見た途端に熱を冷ました。 

 

「矢張り私の見間違いではなかったな。」

——グレイ 

 

唇が無音に名を紡いだ。グレイは妖しげに嗤った。 

 

「やあ、バッチグーか?結局日本に来たのか。俺の誘いを断っておきながら。」

「その奇妙な挨拶も久方ぶりだな。余計なお世話だ。それに一体いつから三人衆に新規を増やした。」

「只の同窓会って言っただろ。この嬢ちゃんは特務課の捜査官だ。訳あって俺と人探しをしてる。無論、お前の落とし物もな。」

「落とし物ではない、盗難品だ。少しは役立つかと待ってやったが一向に連絡が来ないのでもう使われたかと気が気でなかった。」

「止せよ、俺がそんな悪人に見えるのか。」

「見える。」 

 

旧知の間柄を窺わせる砕けた言葉の応酬だった。己の懸念とは裏腹に関係性が朧げに露呈された二人の間に挟まれて、辻村はグレイの服装に目を奪われていた。

…着ていない。綾辻の男優りな麗質にすら構いつけぬ男っ気のなさの特務課捜査官をしてあっといわせるような組み合わせの燕尾服を、着ていない。シャンデリアの下で魅力を倍加させる光沢のある拝絹も白の蝶ネクタイも。ドレスコードの規定されたラウンジで一時的にジャケットを脱ぐ者は度々存在するが、取分けグレイに至っては純白のベストに拭ききれずに滲んだ燻んだ朱色が不吉な所以を仄めかしていた。糅てて加えて左手に提げられた異常な大きさの立方体の箱が訊かずとも事態の来る一雨を予報していた。  

 

外は暴風雨が猛り狂っていた。ラウンジから僅か数十メートルの距離で辻村の編み込みのシニョンが解れて湿気るくらいに。辻村の手を引きラウンジを出たグレイは人気のない喫煙所に入ると彼女の肩を掴んだ。男も当然の挙動で付いてきた。 

 

「お父さん、それ」

「辻村、芝居は終いだ。此処にあいつらもランクも居ない。」

「じ、じゃあどうするんですか?」

「もう一箇所当たる。今から飛ばすから先に調べといてくれ。」

「え?けど」

「悪いが説明してる暇はない、直ぐに追いつく。」 

 

急調に言立てると、一挙に内奥を掻き乱された辻村が混迷を問いに転じる前に異能が発動された。転瞬、彼女の肉体はウェストミンスターから眩まされた。 

一人分の密度が薄まった喫煙所で二人の男は向き合った。 

 

「余程胃をやられたようだな。二日酔いか?」 

 

男派一見は穏やかな紳士の面相から稀有な混沌を読み取っていた。敢えて冗談を吐き捨てるとちらと目線を厳重な箱へと落として、「それは私の物ではないな。」されどそれがグレイの並ならぬ挙措の元凶であることを確信した声音だった。 

 

…雷鳴が轟いた。いつしか暗雲垂れ込む煌めく満天の夜空は、号砲を鳴らす機を今か今かと待ち侘びていたのだ。

グレイは舌打ちを溢した。その調子は急激に悪化した天候を恰も己の不運と同一視するかの面差しへと忽ち変容させた。

 

 

配賦が引き裂けるような叫びだった。聞く者に逃避の本能を呼び醒す気狂いじみた叫喚が至る所で理性をものともせず空気を圧倒していた。押し合うような混雑ではないのに空間に蔓延する狂気が何処か別の天体、ブラックホールの間近にある星にでもいるかのような途方もない時空の歪みに見舞われている錯覚を起こさせた。 

 

雨が降っている。泣き出したばかりの雨は直ぐに巨人が雲から引き千切って叩きつけるかの大降りへと変わった。雪解雨だ。杪冬の低くなった空と鉛色の海が突発且つ季節型の気圧に急かされて雷雲までもを呼び込もうとしていた。 

 

風も強い。真冬を思い出させる冷気が疾走する己の衣服に守られていない素肌を刺すように染みていた。そのうち血液や内臓まで凍ってしまいそうだと聡太は手足を振り乱しながら片隅でぼんやりと思った。時期に波浪警報が発令される程の大時化になるのは子供ながらに瞭然であった。 

 

尻目に背後を見ればある者は額を甲板に叩きつけ、ある者は此処が港に停泊するとトレーラーの縦横無尽に操縦士、またある者はまるで本当に映画のゾンビにでも成り変わったように人を貪り食おうとしていた。暴風が吹き荒び、黒雲が渦巻き、打ち寄せる大波が足場を崩そうとしなければ此処が自動車運搬船であることを忘れていただろう。 

 

「ほらちゃんと走って!」 

 

もはや何が引き起こしているのか分からぬ轟音の中で、Qの甲高い催促が耳朶に届いた。聡太は前を向く。度々もつれそうになる足を間一髪で引き留めてくれる手は子供らしく小さい。それでも繋いだ温もりは歯の根が合わぬ聡太よりも温かく、頼もしかった。 

 

「へへ、人呼んで狂人感染ごっこ!」

 

あ、これ僕が名付けたんだよ、グレイの命名ってダサいから。 

何が可笑しいのか、Qは前を行きながら得意げに歯を見せる。この極限的な状況が単なる悪夢であればどれほど救われただろうか。況してや自身の手を繋いで引っ張る年下の少年の仕業であるなどとは到底信じたくなかった。 

 

「うわあっ!」

「聡太!」 

 

夢半ばにして駆け続けていた所為で、遂に聡太は足首を縺れさせた。幸いQが最後まで片手を握っていた為に顔面から衝突することはなかったがワイドパンツ越しに膝が嫌な熱を帯び出した。 

 

 

 

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