経済活動の活発化を支える物流空間を有する横浜港には百三の航路と公共と民間を含め二百六十七のバースが存る。なかでも大黒ふ頭は背後圏に横浜港を構え、国道の開通により道路網も強化された利便性の高い物流拠点だ。着工は一九七一年、外貿は約二千万トン、内貿は約七十万トンにも上る人工島。コンテナ、多目的、外航不定期船バースが設備されており、年百年中投揚錨されている。
東京湾中央部の西側に存在している為に気象による風向きや潮流、波浪の影響を受けにくく高精度の設備を誇る貨物の拠点として活躍している埠頭が颶風に煽られかくも甚大な被害を被ることになるとは、静謐な暮六つ時には誰も予想だにしていなかったに違いない。
行きしなに貨物船が橋桁に衝突している様が見られた。ひと収まりすれば即刻海上保安部が人員を派遣するだろう。高波による浸水被害にも見舞われ、物流に支障が出るのは明白だった。
「台風級発達?春の嵐? 記録的な大雨で埠頭各所に深刻被害」だなんて明朝の新聞の見出しが勝手に脳裡を過った。
ブォォオン!暴風が傘をひっくり返した。寧ろよく是迄に持ってくれたものだと感嘆を零したいくらいだ。傘が飛んでいかないようにと僕はハンドルから中棒を両手で把持する。こんな悪天候じゃメアリーポピンズだって飛びたがらないだろう。前を向けば覆った傘を片手で握って彼は外套を激しくはためかせて闊歩していた。
「綾辻さーん!」
轟音に負けないよう声を張り上げる。彼はピタリと歩みを止めると横顔を晒した。まるで如何してそんなに遅いんだと謂わんばかりの眼差しだ。僕からすればこの気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな嵐の中で平然と直進できている綾辻さんの方がよっぽど不思議だというのに。それに一々大声を交わさなければならないこっちの身にもなってほしい。
「如何した中島君、足が疲れたか?」
「いやそうじゃなくて…!本当に!此処であってるんですか!」
グレイさんが負傷した辻村さんを探偵社に連れてきたと国木田さんが告げた時の綾辻さんの形相は筆舌に尽くし難い。足跡の捜査に来た特務課の坂口さんの話ではベイクォーターで一文では詳述できない悶着があったらしく、二発もの大口径を辻村さんに撃ち込んだ人物が誰かのかは依然として詳細を掴めていない様子だった。特務課はグレイさんを疑っているものの綾辻さんはオットー・ランクという異国の異能力者——彼についてのあらましを聞いた時は突拍子もなさに俄には信じられなかった——の仕業だと疑念を差し挟まなかった。
一度事務所に帰るようにと云われた彼は肯んじて、手が足りない特務課に代わって僕が送り届けることになった。…まさか道中に既定していた画策を実行するかの如く帰路を外れて横浜中を歩き回らされることになるとは露ほども夢想だにせずに。
坂口さんと国木田さん、それから本人の話を妥結させるとなんでも辻村さんと綾辻さんは過去に難事件を通して社会的、生命的生死の瀬戸際を乗り越えた相棒ともいえる存在らしく割れ鍋に綴じ蓋ではないが誰が見ても好一対な相棒的関係を築き上げていたようだ。
血の付いた治療服を着替えてない与謝野さんを見て固く拳を握り込む背中からも彼の辻村さんに対する想いは敏感に伝わった。そうであればこそ、大切な相棒を己の手で掬い出したいという綾辻さんの希望を一刀両断することなんて出来なかった。何れにせよ坂口さんの上役から本件を別な角度から収拾させる任務を仰せつかっているという綾辻さんの提案で、護衛を名目にグレイさん達の轍を辿ることを僕は一つ返事で承諾したのだった。
市内の複数のホテルから通報のあった摺鉢街、茂木議員の亡くなった拘留所にまで寄った。足を運んだ全ての場所で何らかの端緒を掴んだ風に独言を繰り返す奇抜な言動を泰然自若として傍で見守っていられる程、僕は綾辻行人という偏屈探偵のあしらい方に慣熟できていた。要するに駄々を捏ねない乱歩さんとして対応すれば善いのだ。何はともあれ、熟慮の末に綾辻さんが下した目的地が此処大黒ふ頭だった。
食肉市場前でバスに乗ってスカイウォーク入り口に降りて、ベイブリッジでみなとみらいを眺望するのかと思いきや迷いない足取りが向かった先は横浜港国際流通センター。
今日の大型船入航予定情報を獲得して多目的バースに停泊中の豪華客船ウェストミンスターへと乗り込んだ。現状世界一位を誇る超巨大客船のようで成程確かに埠頭株式会社の二バースを専有するクルーズならば、ランクが忍び込んであわよくば国外逃亡を図るのも頷ける。そう唸った僕に綾辻さんは肯定を示した。
——辻村君との血縁を疑うほどに鈍間な質が似ているので精々が用心棒程度だと按じてはいたが、中々鼻が利くじゃないか。では訊こう。グレイの転移能力を悪用している犯罪者が一体如何して船に溝鼠の如く身を潜ませ出航を待ち侘びる必要があるのか君は判ったか?
遠回しな誹謗が口調から感じられてちょっとむきになって反論すれば、優しく鼻で笑われたのは今だに納得がいってない。ともあれ、最初の当てが外れたらしいのだけは判った。
綾辻さんが歩を転じた先は北側の在来船バース。船を降りる頃には土砂降りの雨に疾風迅雷が仲間に加わっていた。天気予報士だってこんな空模様の豹変っぷりは予測できなかっただろう。まるで局地的に複数人の天気に累を及ぼす異能力者が悪戯してるのではないかと無稽な勘繰りをしてしまうくらいには天候は最悪だった。
ウェストミンスターの次に覗いた船舶は工業製品専用のコンテナ船、けれどもこれも甲板に上がるや否や綾辻さんの顰蹙顔が的外れを告げた。それから四隻飛ばしてT-3号バースへと行く一直線の道すがら、傘の反覆を機に僕は根を上げた。
「せめて!何を!探してるのかっ、教えてくれないと手伝えません!」
そろそろ喉も痛くなってきた。折角の異議申し立ては生憎空の咆哮に遮られてしまった。
綾辻さんが戻って来る。水も滴る良い男というよりも単なるずぶ濡れの個性的な男なのに肌に纏わりつく衣服の有様が無軌道の奇行の持ち主に映らないのは如何してだろうか。
僕はもう一度同じ問いを投げ掛けた。
流石に強風に耐え得る強度のないサングラスを外して、心持ち切長の眼が矢庭に細められる。針で突き刺すような目角に思わず怯みそうになって、その目差しの対象が僕ではないことに気付く。彼の視線を辿って見返ってみる。
僕の後方から誰かが歩いてきていた。屡屡迸る雷光に胸下まである金髪を靡かせて。傘も差さずに僕等に向かって真っ直ぐに。指呼の距離に迫って、その人が燕尾服を纏った男性であることに気付いた。彼は僕達を交互に見詰めると遠慮会釈もなしに綾辻さんの傘の内に踏み入る。
…絶妙な沈黙が雨とともに降ってきた。
綾辻さんは話さない。男性も一言も発さない。遠目で見た時よりも小柄な彼は双眸が綾辻さんを見上げているだけだった。此程までの混沌を僕は経験したことがあっただろうか。…肯、よくよく考えれば探偵社内でさえ粗毎日が賑やかな無秩序に包まれていた。
誰よりも先に無声の睨めっこに耐えかねた僕が声を上げた。
「えっと、あの」
「綾辻行人と中島敦だな。いや結構、返事は不要だ。態々奴から聞かずとも調べはついていた。」
「え?」
「まったく清々しいまでに人遣いの荒い奴だ。」
突然名前を言い当てられて喫驚する僕を他所に、彼は瞬時の雨宿りを止めて何処かを指差した。
「急ぐといい。また逃げられるぞ。」
…発砲音と爆発音が鼓膜を侵したのは殆ど同時だった。
咄嗟に目線を走らせる。丁度綾辻さんが調査しようとしていたコンテナ船が雨にも負けずの火の手を上げていた。
辺りに警戒を配る。音響の発生した方角から狙撃地点として目ぼしい場所は対極の二十回建のウェストミンスターの屋上か、コンテナターミナル付近のガントリークレーンしかない。どちらにせよ知識の浅い僕だって此程までに暴力的な悪天と不明瞭な視界で狙撃を試みるのは無謀だと理解できた。しかも虎の聴覚は二度に及ぶ発砲を確と聞き届けていた。
今の出来事を把握しているのは一人しかない。首を捻って事の次第を問おうとして…
「どうしてコンテナ船が…ってあれ?」
其処に男は居なかった。何事かを訊こうと横目を流す。さしもの綾辻さんも一瞬にして光の錯覚が生み出した虚像を相手にしていたかの面相で炎上するコンテナ船を見上げていた。
貨物の爆発で破断した船体が転覆の体勢に入っている。甲板上のコンテナどころか船内の全ての積荷の焼損と喪失が予測できた。天気が静まらないことには消化活動もままならないだろう。
今のは一体全体何だったのか。僕と綾辻さんと二言だけ交わした人物が幻などではないことは、まだ嗅覚を撫でるそこはかとなく高貴な残り香が示していた。それでも理屈を超えた悪寒が身震いを起こして二の句が継げないでいる僕の側で、不図綾辻さんが身動いだ。
「呆け爺いが、このクソ野郎」
悪罵が暴風に乗って耳朶に触れる。聞き馴染みのある声だけど綾辻さんじゃない。
…彼が先程睥睨した男よりも鋭い眼光を突き刺す先には僕もよく知る人物がいた。
グレイさんだ。否、正確には見目形が瓜二つのグレイさんの偽物だ。船の真ん前で仁王立ちする綾辻さんに、額から血を流しアタッシュケースを脇に抱えながら引き摺るようにして歩いてきたランクはこちらの気配に気付いて脚を止める。
僕と綾辻さんを見留めるや否や、銃口に火を吹かせた。
*
医家に産まれ落ちたランクは定められた軌道をひた走り医者として錦を飾る未来を夢視ていた。されど菲才な彼には医院を存続させるほどの人望も資質もなかった。寝る間も惜しみ如何にかこうにか伝手を頼って経営難を脱したは良いものの、おざなりな治療が悪評を呼び老衰死の患者遺族に訴訟を起こされる始末。卵や色付きの飲料を投げられるのはまだ好い方だった。
両親はランクの事業承継時に夭逝し、不勉強な兄弟は長男に医院を一任してとうの昔に故郷を飛び出していた。今や行方も判らない。財政逼迫の次は友人知人への積み上がった負債の返済に診察時間までもを減じて馬車馬のように働き、ようやっと片が付いたと思いきやまたもや医療訴訟に手間取られ…。
ランクの人生を一言で表すならば不幸であった。騰落した病院の不名誉は挽回されることなく、彼は街一番の藪医者として自身の給料を職員に回し細々とした生活を送っていた。
彼にとって一日の贅沢はヴィルト湖を眺めながら仕事前に一杯のカプチーノを飲むたった三十分あまりの憩い。早朝の出勤時間に営業している店は珍しく、彼は湖畔沿いに構える長閑な喫茶店の常連だった。上がりも下りもしない不仕合せの日常に出逢った二人の男をランクはよく憶えている。何方も雪雲がダイヤモンドダストを散りばめ、蛍光を帯びた雪原が窓外に広がる朝旦だった。