最初の一人は若々しくも貧相な体貌の男でランクに異能の自覚を与えた人物だ。そこはかとなく底気味悪さを抱かせる眸と弓形に撓った薄唇が紡ぐ言葉には魔力があった。
北国訛りの英語の抑揚、杖を振るかの視覚に訴えかける手振り、夢物語に息を吹き込むような巧みな話術。か細くも透き通る声音は己を意のままに操るのではないかというランクの疑念すら最後には払拭してしまった。既に失うものも得るものもない身で、恰も死人が蘇ったような痩せこけた手を取ることはランクにとって思い倦ねるまでもなかった。
翌朝、ランクは別人のように変わっていた。地元民が彼と面様の似通った兄弟の帰郷を誤解する程に。主張少なく小胆な藪医者の面影はどこにもなく、是迄に汚名を濯がんとしてきた懸命な精励を自ら溝に棄てた。病院で詐欺を働くに飽き足らず職員の数が減ると今度は研修医に医院を委任して近郊国へと外遊に出た。
男に教唆された通りに世界中の異能力者を模倣して軽犯罪を繰り返し、欧州の取締当局に睨まれると待ち焦がれたとばかりに犯行を過激化させた。遂に彼はある犯罪者へと辿り着いた。国際的A級危険異能力者として指名手配されている、遡っては異能大戦より幾多の伝説を生み続けてきた男へと。そう、グレイである。
ランクは早速グレイとの接触を図った。だが出だしから低調だった。世界中の法執行機関の資料庫を徹底的に漁り自身が模倣せんとする人物の詳細を捜索し、またある時は異能警備隊に扮して時計塔の秘密倉庫にまで侵入し命辛辛逃げ出した。挙句何処からかオットーの詮索を聞きつけたグレイの信奉者が忠告とは名ばかりの脅迫を突きつけることもあった。
それでもランクは諦めなかった。病質的な執念だった。それが己の意思か、将又悪魔の悪戯かすらも分からぬまま[[rb:何人 > なんぴと]]にも蔑ろにされぬ絶対的な征服者として君臨する未来を思い描いていた。
そうしてやっとのことでグレイへと辿り着いて、彼は酷い失望を覚えた。
強者の無粋な色調、説得力のない威風。ランクは怪物と畏れられる男の非凡なまでの凡庸さに肩を落とした。これが各国の首脳部が地雷と同一視し国際逮捕に半身に構えておきながら、地下を通じて折衝を乞い願う黒幕の気配か?これが私が魔王もかくやの憧憬を抱いていた大罪人か?
…蓋し以降の凶行は野望の挫折に対する念晴らしとも謂えよう。グレイと接触し人真似の権利を独自に得た彼はグレイの顔と名を使い悪逆の限りを尽くし始めた。早々に正体は明らめられ、オットー・ランクの名は闇世界から表の治安機関にまで轟渡った。ある意味で彼の夢は成就したのだ。多くの追跡者に暗殺者が送り込まれたにも拘らず彼が一度として包囲網に引っ掛からなかったのは偏に獲得した異能の賜物であろう。のべつ幕なしの転移で世界各地を飛び回るランクを掣肘できる者などもはや本人を除いて存在しなかった。
一転機に己を変身させた恩人と再会を果たし然る窃盗話を持ち掛けられた翌日、ランクは奇妙な老人と邂逅した。感興の赴くままに半年ぶりに故郷に帰った孟冬の或る一日のことだった。
——他人を模倣して回生を果たしたとでも思うておるのか。
それが遊歩道のベンチに腰掛け一ヶ月早く凍りついた湖畔を無為に眺めていた老人が放った最初の台詞だった。刺客を疑ったランクが身構え銃口を突きつけようが男は歯牙にも掛けず、さも偶然巡り会った通行人に世間話でも持ち掛けるかの姿勢で、されど陰気な棘の籠った声調でランクを諌めた。
——お前がお前自身を取り戻さぬ限り凄惨な結末が待ち構えているだろう。
最後にそれだけを言い残して、ランクが言葉を反芻しているうちに老人は泡沫の如く消えてしまった。その日は灰雪がしんしんと降っていた。彼がどのような絡繰りでランクの居所を突き止め、不可解な発言をして去った理由は今に至るまで明らかになっていない。けれども凄惨な結末とやらが訪れようなどとは、譬え己が隠伏していた船舶が出航予定の半刻前に奇襲を受けても尚、疑問符を浮かべずにはいられないのである。現に軍警と特務課によって予め用意していた逃走経路が封鎖され、剰え最後の逃亡手段へと追い詰められていようとも。
…矢先、前触れのない狙撃が彼が身を潜めていた場所付近の積荷に命中した。恰も炸裂弾の如き火花が燻し始めた時には手遅れだった。そのコンテナ船はリチウム電池を輸送する船舶だったのだ。
ランクは脱兎の如く踵を翻したものの僅かに足りず爆発の巻き添えになった。頭部の強打で卒倒しなかったのは不幸中の幸いだった。
拭っても拭っても雨と己の血に片目を奪われて、彼は破片の刺さった左脚を引き摺り人差し指と親指の飛んだ左手を支えつつもアタッシュケースを持った。
「そうだ、あんなモンはただの老耄のチョッカイだ。どうせ自分を占い師とでも勘違いしてるんだろう。呆け爺いが、このクソ野郎」
自身が慢罵する老人の説法が無意識下にどれ程胸奥に刻み込まれているのか、自覚もせずにランクは沈没しにゆくコンテナ船から脱出した。
そうして最悪の折で、最も厄介な追跡者と邂逅した。
——自身が放った弾丸が虎の爪に弾かれるとランクは舌打ちを溢す。鉛色の大空の哮けりが盡く計画を狂わされた彼の痛憤を手負いの獣の雄叫びさながらに増長する。それは怨嗟の仕手を振り下ろさずにいた鼬ごっこの参加者をかくも爽快な鬼の笑顔へと昇華させた。
「弱点その一、模倣はできるが一日に使える異能の限度は五回のみ。貴様には適宜の見極めも付かなかったようだな。」
種田が齎したランクの異能の二つの欠点、内一つは模倣相手の異能の使用限度であった。事前に有益な使い道を吟味していれば摺鉢街での転移で上限に達することはなかったのだが、如何せん己が認識の範疇外で前後不覚に陥るランクは浅慮を克服することが出来なかった。
明け透けな煽り文句にランクは衝動的に指先を動かした。
閃光とマズルフラッシュ、壮絶な自然の猛りと重複して機銃めく発砲音。引鉄に掛ける重みは弾倉が空になるまで緩められることはなかった。
自身の急所を狙い撃ちする精度の良い射撃を前に綾辻は微塵たりとも動かなかった。音速未満の高速で撃ち出された.50AEは目標に達する寸前に白虎の猛々しい爪甲にいとも容易く分断された。
つと、デザートイーグルと人差し指との間に小隙が生まれる。弾切れと見定めた敦は迅速が易しと脚力に力を結集する。バネのように跳躍し、颯と距離を縮めた。
瞬間、綾辻が叫んだ。
「中島君っ退がれ!」
「ぇ」
間二秒以下、装填の予兆のない構えられたままの腕にランクの小細工を察知した綾辻に次いで、敦の…幻獣の動物的生存本能が急速に刺激される。グレイの面構えが卑屈な快楽に歪められた。
超回転する銃弾が眼前に拡大する。間に合わない。その場の誰もが一指弾後の光景を想像した。
——パァン!
銃声が鳴った。また、三人の感知せぬ処で。
敦の目頭の間に侵掠していた鉛の塊は、恰もスピアータックルでも受けたかのように何処かへと吹き飛んで行った。
混迷の瞬きが目睫の間で起こる。しかし一瞬早く我に返った敦は軽々と足先を蹴ると、ランクの胴体を抱え込み地面に押し倒した。
傷口に響いて悶絶するランクの身を捻らせ両手を背中で纏め上げると、彼の手から取り落とされたケースを駆け寄った綾辻がすかさず拾い上げた。
「ちっ、狙撃手か…卑怯な手ェ使いやがって!」
何ら自身の潜在力を発揮する場を持たずに彼は呆気なく拘束され、芋虫の如く悶えていた。嘲笑も侮蔑もない、只々白けたといった眼差しは彼が尤も忌み嫌い世の嫌われ者へと仕立て上げた故郷の者達のそれと同一であった。この期に及んで愚劣な罵倒を高らかに浴びせるランクを横浜の脅威と見做す者はもういない。それが持たざる男に悋気と怨讐の炎を滾らせ、決死の蛮行を決意させた。
——何でだ、どうしたってどいつもコイツも俺をんな眼で見やがる、馬鹿にしやがるんだ!
どれ程の悪行を他人名義で働こうとも何にとも知れぬ憤怒は晴れやしない。行き場のない煩悶懊悩は抜け道を見出せぬまま未練へと成り果てる。そして癒えぬ未練は筋違いな心火を燃やし、気抜けの出口のない地獄が衷心に出来上がった。
ランクは奥義を発動した。己の寿命を削る代償に能力の使用限度を倍増させる究極の非常手段を。
未だ嘗て使用したこともなく己の発見ですらない、
賤しさもここまでくれば立派なものだと、独り嘲謔するランクを京極が蔑視した。
「貴様は一つ忘れているな。」
逃げ道を確保したランクは慢心に任せて退却を中断する。どうせ直ぐに逃げられるのだ、一言くらい聞いてやろうじゃないかと。
「手持ちの空白を他人に依拠した時点で貴様の敗北は決まっていた。」
「…何だと?」
「理解できないのなら噛み砕いて言ってやろう。貴様は成り代わることでしか存在意義を満たせない雑魚だ。真正の哀れな愚か者だ。」
——哀れな愚か者よ、では聞こう。お前は自分の本来の姿が思い出せるか
途端、鋭敏な不安がランクを襲った。昆虫が耳元を這うような底知れぬ気色の悪さがぞわぞわと湧き起こってくる。噴き出た汗は衰えを知らぬ雨滴に洗い流された。
思い出せない。幼少期も親と兄弟の顔も、医者に至るまでの日々も彼程自分を癒したカプチーノの味も。血と怨嗟の滲む努力と葛藤と嘆きを吐き出した毎夜、己を揶揄した患者や遺族ら、地元民らの憎たらしい顔面だけが鮮明に瞼の裏に刻まれていた。
何故、何故老人が問うたときに自分は真面目に取り合わなかった?
…そうだ、もう一つはっきりと憶えていることがある。己に手を差し伸べた貧相な男。奴は老人と同様にさも凡てを承知していると謂わんばかりの全知の眸を湛えていた。今回の計画を聞かされた時も奴は微塵の憂色もなく云ったのだ。総ては神の采配だと。では
突然の永い
…革靴が青白く輝いた。雷鼓に掻き消されて聞こえぬ筈の靴音が如何してか三人の耳朶に届いてくる。片手に握った銀色の光沢が怪奇的に恐ろしい印象を敦に抱かせた。ハロウィンの夜の狂劇を思い起こさせる幻怪を。
感情の欠片も感じさせぬ声音で綾辻が呟いた。
「貴様の最大の弱点、それはドッペルゲンガーだ。」
「為変の最中に模倣相手と対峙すれば無惨な死に至る。俺の役目はこれで終わりだ。まったく、長官殿も嫌な仕事を押し付けてくれる。」
寸歩の幅でグレイは立ち止まった。
「グレイさん…」本物の恩人を前に敦は退きながら名を呼ぶ。少し遠くで奇麗なドレスの所々を切り裂いた辻村が聡太とQを伴い佇立しているのを綾辻は見た。
グレイは一瞥のみを預けると、ランクを見下ろす。闇夜に妖しく浮かぶ二つの黒が物言わず呪詛を吐き捨てている、ランクはそんな怖気付いた錯覚に陥った。覚醒前、幾度となく夢想した死が現実に実体をもって顕現したのだと。それを理会した瞬間、亮然とした異変が起こった。
「ゴッ、ゴボ…ギ」
骨が孤り手に折れた。変な声が肺で響めいた。
辻村が急いで聡太とQの目元を覆うが少し遅かった。
直後、表皮がレンジで加熱されるパンケーキのように膨張し始める。細胞レベルで赤面した肌は凸凹に歪み人の形を失ってゆく。誰かの悲鳴が引き攣った。
ガき、コッ…キキキ
敦が蹲り口許を抑える。綾辻ですら眉間に不快感を表明した。
グレイだけが磨滅した黒曜石の如き双眼で確りと自身の偽物の変容を見詰めていた。恰も己の不手際を黙して甘受するかの心得は誰にも見留められることはなく。
遂に分裂が限界を超えようとした時、グレイは出し抜けに手に提げたグレイゴーストを打懸けた。ランクの不道徳が此度の大惨事を招いたとはいえ、不必要な惨苦を与えるつもりは毛頭なかった。寛恕の餞別が僅かばかり遅れたことを心中で詫びて、己の手で精算を果たした亡骸をじっと見詰めた。亡骸というにはあまりに残酷な原罪の成れの果てであった。
暫くの間誰も言葉を発さなかった。否、発せなかったといった方が正しかろう。子供を除いた全員がランクだったモノが波と雨とに流されて横浜港に溶け込むまで、ずっとずっと惘然のうちに見送っていた。肉体崩壊の寸前に自動的に本来の顔面へと回帰したのはグレイを慕う敦にとっては幸いだった。
ハーバースタイルの茶髪、目元に雀斑の集中した面長顔。強いていうなら黒子の数が多い、苔のような深みのある双眸の素顔だったと綾辻は静かに思った。たった一年、されど一年、何色にも染まらぬ一筋の流星として流れて堕ちるにはあまりにも実直な、普通の市井人の顔立ちだったと。
波乱の終焉を告げるように大嵐はあっさりと止んだ。早速遠方で海上保安庁の船艇が癇走った警笛を響かせてきた。漸く出番が回ってきたと謂わんばかりの張り切り様である。喧しい音に現実に引き戻されて、綾辻はグレイに声掛けた。最後の仕事が残っていた。
一言も二言も云いたげな眼差しを受けてグレイは笑った。双方、苦労を強いられたような疲労を口端に湛えていたものの野暮な言及はしなかった。Qが小走りでやってくるとグレイは彼の突進を難なく受け止めた。
「
それには応えずに綾辻はケースを差し出した。グレイが受け取ると次いで辻村を見遣る。彼女は歩み寄った敦と一緒に聡太に今し方の出来事を忘却させようと真剣に迫っていた。穏和で散漫で清艶な姿態だ。綾辻が日常で飽くほど見てきた辻村深月だ。
「辻村君を探偵社に連れて行ったのは貴様だな。愕かされたよ、偶には選択を誤らないこともあるのだな。」
殊、身内に関してはまるで多感期の青年もかくやの意地っ張りに変貌する自覚はさらさらなく、素っ気ない謝意を告げた綾辻にグレイは困ったような微笑が滲むのを堪えるのに苦労した。
先程の第三の狙撃手や辻村の衣装、ランクやケースについて等すべき詰問は山ほどあるのに綾辻はそれ以上語りかけることなく歩を転じた。辻村の元へと一歩を踏み出し、ついと首を上へ下へと動かす。
夜空はまだ鼠色に曇っている。憂鬱と絶望と嫉妬と激憤が惹起した醜貌な暴走の帰結は渺渺たる大海原へと消えていった。
あの熱烈な嫉視を育んだ一因も、彼の小さな後継者も綾辻の視野の澱みから蜃気楼のように居なくなっていた。霞と化したのか雲に隠れたのか、今この瞬間の殺人探偵にとってそれはさしたる謎ではなかった。