一寸先も見えない暗闇を雄叫びと銃声が飛び交う。自身の現在地すら定かでない暗澹とした空間を音だけを頼りに四肢を動かす。強烈な爆音と共に放たれるマズルフラッシュに視界を奪われそうだった。鼻腔を擽る悪臭も酷いものだ。
それでも闇雲に手脚を振り回していると、やがて一切の音が途絶えた。俺は何処にいるかも分からない同伴者に向かって叫んだ。
「綾辻ィ、明かりを頼む!」
靴音が鳴った。硬い沓底がコンクリートを踏み締める音が響く。…数秒の間があって照明が付けられた。
裸電球が三つ、気怠そうにグロテスクな現場を鈍く照らし出した。巧みに偽ればスプラッタの分類でピュリッツァー賞を獲れるんじゃないだろうか。ピストルばかりか手榴弾なんて物騒な代物を持ち込んで無明の闇にぶっ放せば自爆するに決まってる、予想以上の凄惨な光景だ。
「ぅオぇえエ!」
破落戸の配達員が階段付近に寄せられた檻の傍で激しく嘔吐を繰り返している。吐き出された汚物に綾辻が面白いくらいに柳眉を顰めていた。一糸乱れてないところを見るに俺が自衛に厨房の死体から頂戴して渡してやった銃で助太刀もせずに傍観してたらしい。徹底した傍観っぷり、見事な度胸である。かくいう俺も物陰から乱射するという卑怯な手を使っただけなので人の事はとやかく言えまい。
少しばかり上擦ったシャツの襟足を整え、頬を伝う生暖かい感触を拭う。誰かの痰混じりの血がべっとりと手にへばり付く。腹の底から気色悪さが込み上げて吐き気を催したのですかさず壁に塗りつけた。
全体を見渡し死体を数えてみる。…一人足りない。逃げられたか?いや、この建物は此処が行き止まりだ。仕方ない、改めての捜索は面倒だが最後の一人は断念するか。
退散するべく体を半転させて、「そうか。幼年から少年、青年を分類して…」 「いや、司法局長殿だけじゃない。これを見てみろ。」と、物々しい檻をくまなく検分して物思いに耽っている。是迄で出会って来た原作キャラの中でも類を見ない畸人ぶりに呆れ果てるばかりである。もはや放置して帰ってやろうかと目論みはじめたところで、巨大な冷蔵庫が偶然目に留まった。
高さ大の大人よりも少し高いくらいの小像が四頭程収納できそうな業務用の縦型冷蔵庫だ。中を開けてみる。
…俺と同じくして隣から覗き込んだ男が腰を抜かして空室の檻へと駆け寄った。間を置かずに嘔吐きが聞こえてくる。大方内容物すら知らずに大金に目が眩み運び屋を引き受け威張り散らしていただけの雑魚だろう。そして俺はというと、溜飲するでも眼前の状態を謗るでもなく只々言葉を失い絶句していた。
庫内温度がマイナス二十度に保たれた分厚い冷蔵庫の中には尋常でないモノが納められていた。
医療用とは訳が違う、真空パックに保存された大量の血液に袋詰めにされた臓器、どれもこれもが子供の物だ。乱雑に切り落とされて始末に窮して仮置きしたのだろう、野菜室で萎れた法蓮草みたくなった小さな手が開けた拍子に転げ落ちてきた。胸を締める不快感を堪えて、解体された少年の局部が入った硝子容器を持ち上げてみる。所謂ホルマリンの中で揺れ動くソレがドナーが提供したものではないことは自明だ。
血液パックに記されたアドレナクロムという単語が強烈に俺を刺戟した。何度か耳にしたことがある。以前子供が好きかと問われて頷いた俺をある食わせ者の政治家が自宅に誘われたことがある。てっきり家族にでも合わせるのかと思い土産を片手に訪れれば、招かれたのはソイツの豪邸に数ある寝室のうち一室。錠をされ寝台に繋がれた未成年の青年、恐怖にくしゃりと顔を強張らせる年端もいかない少年に下卑た面を近づける男を俺は躊躇いなく撃ち抜いた。……そういう儀式めいた集いに勧誘されるうちに嫌でも実情が垣間見えてしまった。
裏稼業に足を突っ込んだ俺も断じて善人とはいえないが、イカれたペドフィリアの兇行なんざ想像すら及んだことがない。一体どれ程の悪徳を蓄積させ悪鬼へと成り果てればあのような外道を成せるのか、今となっては土の下に眠る奴等に訊いてみたいものだ。
あの卦体糞悪い光景が現状と重なって忌々しさに奥歯を噛み締めれば、突として耳に届いた物音に意識が現実に引き戻された。先程から胃をむかつかせては吐瀉し続けていた男が遂にぶっ倒れていた。丁度ソイツが半端に半身を預けた段ボールの山が頂点から崩れ落ちる。いい加減に積み上げられていた箱の中身は袋詰めにされた乾燥大麻だった。どうやら連中はありとあらゆる犯罪に手を染めていたようだ。
地下室を一通り調べ終えたらしい綾辻が戻ってきた。片手にホチキス留めされた資料を抱えて。一瞬だけ捉えられた表紙には名簿らしきものが印刷されている。推し図るにこの件に深く関与している顧客と運営者の名簿だろう。しきりに廃れた地下倉庫を巡っていた理由も得心がいくものだ。であれば尚更何故事前に事情を打ち明けてくれなかったのかという蟠りも残るが。
「用は済んだか?」
「ああ。必要なものは揃った。」
「なら——」
とっとと此処を離れるぞ。そう云おうとした矢先に微かな機械音が出し抜けに俺達の耳を脅かした。
ピッ、ピッ…綾辻が即刻目を走らせ発信源を見定める。それは散乱した大麻の袋に埋もれていた。
無機質な四角の一点が明滅を繰り返している。不穏な赤色は警告を発しているようだ。
鳴り止むどころか一層音量と速度を加速させるソレに、俺は綾辻の肩を掴むと速やかに異能を発動させた。
*
所代わり横浜市西区、宮崎町の一角には山崎の邸宅が佇まっていた。
重厚感を醸し出すベイスギを柔らかな曲線に加工して構築された小屋組の大広間。和室に隣接し、アールデコ調の家具を設え和洋折衷の美的感性を忍ばせた、大正浪漫の感じられる奥行きのあるその部屋で二人は烈しい口論を交わしていた。
「追加の金なら幾らでも払う!」
「これは金銭の問題ではない。」
常日頃高給取りとして居丈高に振舞う山崎の横柄はすっかり塩垂れている。
横浜に複数存在する人身売買の出荷拠点、業者が
取引は円滑に進捗し捌かすべき在庫は残すところ一箇所となった。彼程に神経を擦り減らしていた軍警も探偵社も、況してや裏社会の資金循環には禿鷹の如く目敏いマフィアにも嗅ぎつけられることなく存外の事半功倍であったと肩の力を抜きかけた間際、事態が急変したのは数分前のことだった。
…更に遡及すること一日前、電子書面が特務課捜査官に盗視されたことで異能捜査官の内偵を恐れた山崎の要望により、大尉は当初の予定を急遽変更して彼の邸宅へと身を移すこととなった。横紙破りの要らぬ心配に辟易しつつも無線で部下と連絡を取り合いながら広々とした応接間で無為に過ごすこと数時間。果然、山崎の取り越し苦労であったと殆嫌気が差した頃だった。
「全てを見破られた?」
『はい。横浜市内に設営した二十四ヶ所全てです。』
一人の念を押した提案によって彼等は特務課対策に複数の擬似出荷庫を設えていた。簡明な位置に据えることで敢えて捜査網に引っ掛らせ尻尾を掴んだと思わせたところで、山崎が絶えず危惧する特務課きっての頭脳とやらを誘き寄せ迎撃する腹づもりでいたのだ。ところが部下の報告では用意しておいた地下倉庫のどれもが見向きもされずに無駄に終わったという。本物と比しても片付けられた死体の残滓、腐臭、隊員らの活動痕跡…どれをとっても見分けが付かぬほどに精巧に造りあげた二十四の地下倉庫が偽物と見抜かれたと。
大尉は吃驚とも混迷ともつかぬ表情で沈思した。
度々陳じるが彼等の肩書きは、実力はそこらの少しばかり厄介なゲリラと同等に見做されるべき軽微な程度ではない。従前は国家元首の警護から言論弾圧、修羅の巷での破壊工作に潜入等まかり罷り間違えれば国家の本義を揺るがしかねない、それこそ有衆の人口を左右しかねない大事を暗々裏に切り回してきた真正の手馴れなのだ。かくも練達の元軍人が一国の精妙な技術を駆使して造り上げたダミーを僅か半日で看破した男がいる。もはや取引など埒外に掃き出されていた。
彼は敵が一筋縄ではゆかぬことを瞬時に悟った。到底信じ難いがよしんば斯様に賢しい推理小説の探偵もかくやの男が存在するならば、今後彼等の活動に著しい停滞を齎すのは疑いようもなかった。横浜の何処かに眠る白紙の書を手に入れる為にも脅威は一刻も早く取り除かねばならない。
大尉は前もって案じていた幾通りもの計略を検討する。そして最も不覚を取らぬ一計を選択した。
「…作戦を変更する。作戦D-1a、店に誘導した後に迎撃せよ。」
『アイ、サー!』
それからそう時を置かずして部下から対象が罠に掛かったと連絡があった。当然男はほくそ笑んだ、如何なる敵も崇高な大志を掲げるイギリス帝国軍の行進を憚ることなど出来やせぬと。…よもやブービートラップに嵌まったのが仕掛けた本人だったとは微塵も疑わずに。
『——繰り返します!グレイの姿を確認しました!』
「なんだと…!」
「な、なんだ。何があった!」
驕り高ぶり万全を期さなかったわけではない。並大抵の対手ならば雑草を根こぎにするが如く土俵に足を懸ける隙もなく放逐されたであろう。だが、此度においては男は誤断を招いた。彼等の踏み締める地が鬼も逃げ出す魔境であると重々承知していながら、海千山千であるが故にあと一歩の警戒を怠ったのだ。偽の地下室が見抜かれた時点で更なる情報収集を図るべきところをそうしなかった。たった一度の過誤が最悪を凌ぐ最凶を招いたのだ。此処は戦場だった。
勝利の女神に見放されたも同然の窮地、切羽詰まった緊急報告に大尉は全身の血管が凍りつくかの錯覚に陥った。
『大尉、指示を!』
「………。」
『大尉!』
「…一度退く。直ちに撤退せよ!」
刹那、無線越しに銃声が鳴り響く。
怒号、絶叫、断末魔。そして通信が切れた。
握り込んだ通信機がみしりと音を立てた。
「ま、待て!私はお前達に大金を払ったんだぞ!」
後を追ってくる山崎など見向きもせず男は足速に応接間から去らんとする。
——もはや対価など唾を吐いて棄ててくれる…喫緊の課題は私自身の身命の安全の確保だ、部下を救うには手遅れ、一度此処を離れるべきか。
「グレイとやらが何だというんだね、そんな都市伝説紛いの男一人の為に尻尾を巻いて」
「貴様は何も理解していないようだな。」
自身を見下ろした眼光を占める侮蔑に、山崎は冷水を浴びたように身を竦ませた。今頃最後の砦を鏖殺しているであろう男への怨色に面輪を染め上げながら、大尉は己こそが心胆寒からしめられている事実を認めざるを得なかった。
グレイ、その三文字にどれ程の威力が込められているのか。世界中の兇徒が雁首を狙い、若しくは法執行機関が首輪を嵌めようとしては尽くしっぺ返しを食らってきた。彼と一度は対峙したものは皆一様に痛感し、新参者を除いて裏社会に身を浸す者で彼の忌み名を存ざぬ者はいまい。
「アレを相手取りたいなら正規軍でも呼びつけておくべきだったな。これは重大な失態だ、今に貴様の官界は怨嗟の炎に呑まれるぞ。」
銃槍を通さぬ災害と対峙し砕け散るなど冗談じゃない、遠回りになろうとも自分だけでも生き延び悲願を果たさなければ。
積年の
「こんなところに居たのか。」
——ラッキーだったな。
「は、」
後方から聞こえてきた山崎とは異なる声に翻ろうとして、視界が揺れた。
突発的な衝撃がじわりじわりと後からやって来る。妙な温もりが喉から広がってゆく。
「カッ、カハッ」
息ができない。著しく体の機能が低下してゆくのを感じる。落日の如く傾く体を立て直すことも出来ずに、大尉はその者の降臨に魅入っていた。初めて業火の修羅場で正対して以来、彼が何度も悪夢に視た怪物を。
無数の未練と憎悪が重複し浮かんでは消えていく。
相変わらずの邪悪に反した雲煙過眼の上辺でグレイゴーストをくるりと回す男を最期の視界に捉えて、完全な闇が大尉を襲った。
*
イギリスのスパイ映画にも負けず劣らずの派手な爆発に巻き込まれそうになったところで、危機一発、俺達は何処かの邸宅に移っていた。目的地を定めてない咄嗟の転移だったが、まさか敵の隠れ蓑に移転するとは…これでクリスティの依頼を達成できたのは幸運だった。
斃れた男の側で突然の騒動に熟年の男が腰を抜かして声を引き攣らせた。
「な、何故此処が!誰だね君達は!」
「誰?少なくとも俺を知っていてもらわねば困るな、山崎司法局長殿。」
「…まさか」
綾辻がお馴染みの得意顔で薄ら笑った。正義の探偵よりかは仕方なしに探偵をやっているモリアーティと謂う方がよっぽど言い得て妙だ。
異能の所為で起きた不本意な家宅侵入なんざとうに両の手の数を超えている俺は特に動揺もせず煙草とライターを取り出した。どうやら綾辻もこの家に用事がある様なので一服でもして待っといてやろう。流れるように視線を遣ると、意図を察した探偵は一つ肯き山崎という男に向き直った。
「さて、司法局長殿。お前はもう終わりだ。」
嗚呼、コイツ人身売買の関係者だったのか、どっぷり浸かってんな法務省。尤も、政治と金は相即不離なのだから司法局長が人身売買に一役買っていようが予算を着服していようがなんら不思議じゃない。政治資金の横領や公職者による賄賂犯罪、今や汚職は国のシステムの一部となっているのだ。ついこの間だって俺にアイドルの殺人依頼を持ち込んできたのは国会議員だった。志高く挑んでも結局は権力欲や金銭欲に突き動かされるのが人間の性か。
「ホットドッグは青年男女、幼年から少年の男子をパスタ、女子をチーズ。そしてアイスクリームは男娼。」
アイスクリームと云ったところで意味ありげな視線が俺に寄越された。まさか大衆迎合的食べ物にそんな暗喩が秘められていただなんて知る由もないだろうと、俺は肩を竦める。道理で配達員の時点で絶妙に話が噛み合っていなかったわけだ。詮ずる所山崎は精粋の
「端からメールを覗き見た辻村君を始末する算段だったのだろう?俺達を誘き寄せ始末さえしてしまえば、あとは特務課を圧するだけと。残念だったな、こちらも
「くそっ!」
それにしても滔々と謎を解き明かしていく綾辻はまさに小説の中かで出てきた探偵のようだ。
淡々と筋の通った論理責めに愈々言い逃れに窮した司法局長は綾辻を突き飛ばし逃走を図る。だが、目の前を通った脚を俺が引っ掛けたことで彼は盛大に転んだ。暖炉用の火鉢に額を打ち付け撃沈した無様に口笛を吹いた。すかさず野次が飛んでくる。
「おい。」
「殺してないぞ。」
死んでもなけなしの良心が痛まないくらいには糞野郎だが。
とまあ二転三転を経て、推理劇まで辿り着き満足したらしい綾辻は俺の隣で煙管に火を付けた。