文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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嘘八百

 

谷崎ナオミはこの日、同僚の春野綺羅子と共に鎌倉へ訪っていた。古都の趣を肌で感じられる名勝でありながら観光客の乏しい、御成町の一角に。指月庵を北にして角を右へ回り、湾曲の先にある鎌倉第四生命ビルや大塚ビル等複数軒が駐車場を共有する御成レジデンスビルの商店地区である。

兄の谷崎潤一郎は稀有にも昨日月曜日から三泊四日の修学旅行に鳥取へと旅立っていた。数年前の修学旅行で兄弟関係の許容を逸脱した振る舞いをした為に学校側から兄弟揃っての旅行、遠足を禁じられるという異様な処罰を下されていた為に彼女は泣く泣く留まるしかなかったのだ。

同様に事務職に就く春野の提案により、先週の三連休の初日、法定休日に電話番を担当したことで谷崎の不在日に暇を取れるよう調整したのである。 

 

今年のホワイトデーに学友に贈られた鎌倉彫の体験券を片手に女二人での外出は中々に心躍るものがあった。「Atelier Couleur」での期間限定の工作はナオミと春野の二名しか客がおらず、それ故に老いた開催者も意気軒昂に教示に挑むものだから工房は極少人数の修学旅行の一場面と化した。

 

人生初の試みとなる漆器作りは好調に終わり、恰も孫の出来の良さを称揚するかの如く熱烈な手拍子を送られた二人は後日の自作品の受け取りを楽しみに工房を出た。帰り際、斜め向かいの喫茶店「ドリップ・トラベル」に立ち寄り水入らずの談笑に二時間強浸り、溢れんばかりの充実感を胸に帰路に着く頃だった。

 

兄への深愛を自覚している——単なる兄妹愛か、別な慕情か、それとも鋭角的なブラザーコンプレックスの何かかは定かではないが——ナオミ自身、兄に寄り添わぬ休日を此程までに満喫できるとは夢想だにしていなかった。一事務員に過ぎない春野もまた同様に。  

 

都心部と比すると倍以上の植林が成された町は緑色を身に纏っており、道路は塵一つ見当たらず人通りも適度だ。閑散とも長閑とも取れる一低層の片隅には何処からともなく港湾から運ばれてくる潮風に乗って春が漂うていた。三々五々に木々が薄紅に色付きはじめている。桜の蕾が息吹きつつあった。今朝の報道番組で設けられた企画では三日以内に関東は満開となると告げた人気の男性アナウンサーの和顔施が思い起こされた。 

 

店を出てすぐ、警光灯を消灯している警察車輌が生活道路を横切った。今日はパトカーの通りが多かった。三百メートル先の小学校からバットと球が衝突する甲高い音が陽気な音波を飛ばしてくる。正午前の太陽が変哲もないコンクリートを輝かせている。街全体が平淡を明るく享受していた。 

 

身近で茹だるような排気音がした。ナオミと春野が目線を送れば駐車場にテラロッサを塗りたくったかの塗装のキャラバンが停まっていた。リヤドアを滑らせて二人の男が出てくる。首元に成金もかくやの楔形の金チェーンを掛けた小太りの矮躯、片や中腹でキャンプにでも勤しんできたかの作業着を着衣し目元を見通せぬサングラスを掛ける余蘊のない男…こちらは相対的に大男に見受けられてしまう体格差の大きい二人組だった。 

 

「もしかしてあちら側の人達かしら。」 

 

春野が恐縮して耳元で囁いた。あちら側とは謂わずもがな不逞な輩を指す。

さも街の風紀を乱されたばかりの不祥な胸中を零す春野に反して、ナオミには並々ならぬ確信があった。それはある種、異能力者の妹として稀に前線にて身を投げ打った経験があるが故の直感とも謂えた。 

 

「春野さん違います…あの金髪のお方、大人びて見えるけど子供ですわ。」

「えっ、ナオミちゃん本気で言ってるの?」 

 

問いには答えずにナオミは顔面筋を強張らせた。大半の者が悪友の(つる)みとしか見受けられる光景に暗影を投げ掛ける人物など己しかいまいと、自嘲したくもあった。だがしかし、入社当初に一度だけ拘ったある事件と間近の二人組の挙動がどうにも重なって視えて仕方ないのだ。公衆の面前で父子を偽っていた誘拐犯と被害者に。 

単なる容貌の不一致などではない。無頓着を装い周囲に視線を巡らす男と子供の正反対の意図が瑣末な身振りに顕在化していたのだ。ナオミはそれを見逃さなかった。 

 

またもや一台のパトカーが赤色灯を旋回させずに差し掛かった。

…哀願と警戒。打見ではそつが無い欺瞞が崩される瞬間を確かに見た。男が僅かに白黒の尻を追った瞬間に、二人の早乙女の密やかな注目に気付いた少年が一か八かの合図を送ったのだ。 

 

親指を折り曲げ、余った指で隠す。それは近頃インターネット上で話題を攫っていた手信号での救出要請であった。年下の同僚が罷り間違っても斯様な題目で放言するなどとは断じて思っていない春野は、不可解な面持ちでそこはかとなく探って…当然の如く胸を衝かれた。

ナオミは居ても立っても居られなくなった。明徳による秩序を重んじる彼女に求められた救難を如何して拒むことができようか。 

 

「すみません、ちょっと良いですか?」

「ナ、ナオミちゃん…!」 

 

良心に華奢な足を突き動かされたナオミに、春野は仰天して慌てて追った。一目で異邦人と分かる男が、少年を隠すように前に出た。ナオミの呼び掛けに答えはしないものの日本語をある程度理解しているようだ。何も探偵社に訪う依頼人は日本人ばかりではなく、常日頃より谷崎の業務を傍から支えている彼女は簡単な英語に切り替えた。 

 

「お子さんですか?」 

 

誰ともなしに神経が引き攣った。ナオミは怯まない。 

 

「あ゛あ゛?」

「ですから、貴方が今後ろに隠した少年は貴方のお子さんですかと訊いたんです。」 

 

怯懦を知らぬ、いっそ軽率とまで捉えられる前傾姿勢で推定誘拐犯、暴力男に挑むナオミの側で春野はひっそりと携帯を弄った。少年が背後で固唾を呑んで見守っている。女学生と男が交わす短い疎通が鬼が出るか蛇が出るか、まるで烏に突かれる寸前の亀のように。ナオミらの質問の真意を薄ぼんやりと察知した男は敢えて態度を柔軟化させた。 

 

「あー、そうだ。息子だ。」

「そうですか。なら、彼の名前を教えて下さい。」 

 

白い指先が110を押す操作音は再び上げられた恫喝に遮られた。昭然と場の流れが邪に停滞したのを誰もが実感していた。 

 

「私、彼のお友達なんです。親御さんが再婚されたなんて話、伺っていなくて。ですから貴方が本当にお父さんなら苗字と名前を仰って下さい。それから彼の好きな食べ物も。」 

——できませんよね? 

 

和煦が急激に冷やされてゆく。纏りのつかぬ混迷と憂鬱とが大気を圧迫していた。

ナオミは仁王立ちに二倍以上の背丈を睥睨している。よもや穏健な彼女が此程までに挑戦的になるとは露も夢想だにしていなかった春野はこの見るからに屈強な男を暴状へと引き立てまいか、肝が縮む心地だった。 

 

通報を受けた警察官が受話器を介して呼び掛けている。悪戯電話と誤解される前に事態を伝える必要があった。握り込んだ携帯を持ち上げようとした矢先、俄に運転席の窓が開いた。 

 

——一瞬だった。 

炸裂音が響いた。

 

春野の視界は天井を向いていた。車内から除けた拳銃を逸早く感知したナオミが咄嗟に押し倒したのだ。 

弾けるように起き上がる。ドアを開いて押し込まれようとする少年の腕をナオミは掴んだ。 

 

「彼を!離して下さい!」 

 

引き剥がそうとする剛腕に懸命に対抗するナオミに男は惑いを隠せずにいた。女子高生程度ならば火器をちらつかせれば身を退くだろうという楽観が外れたのだ。

その時、進行方向から駆け足が近づいてきた。 

 

「ナオミさんっ、春野さん!」 

 

ナオミと春野が即座に振り向くと、角を曲がって敦が現れた。直ぐ背中を金髪の男が焦燥のない足取りで追っている。二人の面相に喜色が宿った。猪三郎を見留めた敦の眼には一驚に彷徨った。 

 

「敦さん!この方たち、誘拐犯なんです!」 

 

一層脚力に力を込めた敦が疾駆する。凡ては解決に導かれていく…と思われた。 

 

矢庭に運転手が怒声を上げる。

キャラバンから三人目が上半身を乗り出した。黒髪黒眼、特筆すべき特徴もない、強いて挙げるならば寄り目がちな日本人だ。男は猪三郎の腕を頑として離さぬナオミを見、迷いなく手を伸ばした。 

 

「あ、れ?」

「ナオミさん!」

「ナオミちゃん!」 

 

魔法のように脚の力を失い崩れ落ちるナオミを男が抱き上げると車内へと放り込んだ。両脚が虎へと変化する。誰かが異能力者だと叫んだ。 

 

ナオミと猪三郎、それから仲間を先に乗せて日本人の男が発砲する。敦にではなく彼の後ろを走る知明に。

別な男が怒鳴った。やめろ!良いからさっさと出せ! 

 

間断なく空気を切り裂く悪意は到達する前に敦が防ぎ切られる。しかし同時に、敦の進行も滞った。それだけで十分だった。

排気音が爆発し、車輪が急回転する。烈しく嘶きながら車体が後退した。尚も継続する弾丸の雨の最中に知明が指示を飛ばす。 

 

「奴だ、奴に違いない…敦、あの男を引き摺り出せ!」

「無茶言わないでくださいっ!」 

 

惜しくも目睫の間で虎の爪はボンネットを掠めるだけに終わった。 

 

二人の探偵社と誘拐被害者の父親が取り残された駐車場に質量のある静寂が舞い戻ってくる。潮汐の如くパトカーの警報が間近に迫り、暴走する車輪が大慌てで幾つもの角を曲がる音があった。荒々しい息遣いを整える間も無く敦の体に電撃が迸る。武雄、覚、グレイ…六時間弱の間に散々脳内に叩きつけられた警察への忌避感——今日に限ったものである——が一分後にはこの場に姿を現しているであろう巡査からの逃避を呼び掛けていた。柄にもなく舌打ちの一つでもしたい気持になりながら、敦は腰の抜けた春野を背負うと知明と共にそそくさと駐車場を後にした。

 

 

今小路の左側を沿って二筆ほど離れた先の教会の敷地に駆け込んだ。丁度礼拝が終わる頃合で礼拝者が続々と教会から出てきていた。

親に連れられて来た児童達の上機嫌な笑い声、ママ友同士のここ一番とばかりの哄然とした話し声が日差しの下で寛いでいる。普段ならば見ているだけで満ち足りる小動物さながらの子供達の遊戯の情景も今の僕にはてんで無効果だった。 

 

春野さんを下ろすと、縁石に腰を下ろして息を整える。体力じゃなくて精力が限界だった。 

 

「大丈夫か、怪我は。」

「だ、大丈夫です。有難うございます…」 

 

春野さんを気遣った知明さんがどこからかパイプ椅子を彼女に差し出していた。白虎の全力疾走に着いてこれるだけでも舌を巻くようなものなのに呼吸一つ乱れてない。流石はグレイさんの友人と賞嘆すべきか、又はそれほど体力も実力もあるのならさっきの騒動で少しくらい手を貸してくれても良かったんじゃないかという複雑な心境に駆られた。グレイさん曰く一時的に異能が使えないという事情だけど、更には武雄さんのご子息——血は繋がっていないらしく、複雑な事情があるそうだ——という時点でそもそも一般人かどうか怪しいところだ。そして煩雑なことに必然的に猪三郎君の立場も縺れはじめてしまう。 

 

グレイさんと別れてすぐ、事件についてを説明した僕に知明さんはジャック邸の死体にやけに反応を示して、強い希望があって事件現場へと向かうことにした。応援が大勢集っていたけれど幸いにも一度(まみ)えた巡査に忘れ物と誤魔化すことは容易かった。勿論警察に嘘を吐かなければならないという負目もあったけれど。 

 

——成程、道理で私に押し付けたわけだ。厄災のくせに毎度毎度小出しにするとは本当に癪に障る男だ。

二階建ての邸宅を隅々を足早に回って知明さんが溢した言葉といえばそれだけだった。あまりの素っ気なさにお悔やみを云ってみれば知人じゃないと返される始末。彼の記憶や現実認識に何らかの問題があるのか、それとも近所の老婦が致命的な認知症で僕も覚さんも妄言を信じてしまったのか。猪三郎君の誘拐だって大男の外人の戯れ合いと勘違いしているような人だったし、どちらかと謂えば後者を信じる方がずっと気楽だった。その後、満足な収穫も得られずに家を出てグレイさんを引っ叩くと意気込む知明さんを逐うこと程なく、事に鉢合わせた。治安に露の懸念もされてない平穏な鎌倉の町で聴こえるはずのない銃声、駆け付けた先で… 

 

「彼等と遭遇したのは偶然だったの。」 

 

知明さんに背を摩られて大分顔色を取り戻した春野さんが独り言のように述懐する。 

 

「ナオミちゃんが様子がおかしいって、半信半疑で観察してたら少年がSOSのハンドサインをつくって私びっくりしちゃって…携帯を出した時にはもうナオミちゃんが詰め寄ってて」 

 

幾許かの押し問答を繰り返し、突として面倒事を察知した運転手が拳銃を取り出し発砲…あとは僕と知明さんも知っての通りだった。 

 

「どうしましょうっ、ナオミちゃんに万が一があったら私、谷崎君に顔向けできない…!」 

 

あらぬ未来を想像して堰を切ったように顔を覆う春野さんを知明さんが慰める。正直彼女が泣いてくれなければ僕が泣いていたかもしれない。

三十分、グレイさんと別れてたった三十分でこんな事態になるなんて…。 

 

もう僕一人の判断じゃ乗り切れない大きく不吉な波が打ち寄せていた。今こそ国木田さんか太宰さん、覚さんにグレイさん、誰でも良いから頼もしい絶対的な見方の助けが要る。 

携帯を取り出して電話を掛けようとして、突如電話帳の画面が着信を報せた。有難いことに覚さんだった。 

 

『バッジグーで』

「覚さん、大変なんです!」 

 

またあの奇天烈な挨拶に手間取られる前に矢継ぎ早に事の次第を詳述した。口疾に話したけれども彼は節々で相槌を打ってくれた。 

 

……教会の駐車場に屯していた人影はとうに失せていた。買い出しから戻ってきたらしい中年のシスターが目礼で中へと促してくる。僕らは控えめな笑顔で断った。 

 

須臾の間沈黙を保っていた覚さんがようやっと口を利いてくれた。 

得られると思った助言は与えられなかった。代わりに放たれたのは脳天を突き抜けるような衝撃的なカミングアウトだった。 

 

『…先に謝っておきます。僕は刑事じゃありません。』

「は?」

『実を言いますと特務課情報管理部に所属する捜査官で、猪三郎君の誘拐犯は我々の捜査対象だったんです。』 

 

誘拐犯という単語に一番に脳裏を過ったのは日本人の男だった。ナオミさんに接触して抵抗力を奪った妙な力を持った男。電話越しに覚さんが釈明を続けた。 

 

『彼は厄介な異能犯罪者で、つい四日前に特務課が所有する収容所から脱獄して行方を追っていたんです。』

「待って下さい、意味が分かりません。ならなんで僕が」

『申し訳ありませんがこれ以上の詳細は伝えられません。代わりといってはなんですが、ご友人の捜索は可能な限り協力します。』 

 

返事もままならない僕に、異変に気付いた知明さんが目色に怪訝を加える。僕は彼に些かの反応も返すことができずに、天を仰いだ。

 

蒼穹を流れる雲が太陽を覆った。春霞のように濁りゆく空は僕の錯綜とした胸襟を代辯してくれてるみたいだ。一体これから世界はどうなってしまうのだろうか。国家規模の有事でもないのに、積み重なった疲弊と懸念にすっかり身も心も砕けてしまいそうだった。 

 

それから平静を取り戻して覚さんと意思疎通が図れるようになるまでには随分と時間が掛かった。

 

 

 

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