敦から電話が掛かってきた。出るや否や酷く取り乱した口調で支離滅裂な主張を飛ばしてくるものだから暫く黙っていればやがて受話口は水を打ったように静まった。改めて状況を尋ねると『実は』とありきたりな滑り出しから敦は話し始めようとして、横から海祇が説明を始める。
なんでも敦と共に事件現場を調査した後、一丁目隣から穏やかならぬ銃声が聞こえて駆けつけたところ探偵社の女事務員二人と揉める男達に出くわしたという。直様敦が対応したがあと一歩のところで虎の威力が発揮されることはなく、車内から顔を出した俺と海祇の目的は揃いも揃って逃げ果せたと。しかも探偵社員までもを拉致するという最悪の形で。
俺は頭痛がした。来る雨天の為の低気圧なんかじゃなく、心が過度な緊張を引き起こしていた。中途半端に話も聞かずに彼を押し付けたのが仇となったようだ。初めから確りと話を聞いていればこうはならなかったかもしれないってのに、俺の馬鹿野郎。情報整理するべく敦に一日を遡らせる。猪三郎探しの序盤で通過したジャック邸での猟奇的悪意に晒された三人分の死体、マフィアの粛清もかくやと指が切られ、歯は切り取られていた…何やら異国の悪臭がぷんぷんと漂う事件についてを。
『発見当時一緒にいた方は死後の皮剥に関しては怨恨だと言ってました。』
「…事務員については探偵社に伝えたのか?」
『いいえ。』
そこで敦は冒頭の副詞へと回帰した。
『その、グレイさんと別れる前に僕が行動を共にしていた覚さんという人は元刑事ではなく現役の特務課捜査官だったみたいで、最初からジャック邸の殺人犯を追っていたそうです。なんでも特務課の収容所から脱獄して行方知れずだったそうで。』
更には頑なに探偵社や部外者への漏洩を恐れているという。主人公の裡では俺は部外者に分類されないらしい。俺は少し押し黙った。春の鳥が青天を祝って囀る音色だけが其処彼処に溢れている。受話器の向こう、此処から五駅も離れていない御成町の何処かで敦と共に電話を見詰める男が同様に思考に耽っているのを感じた。
色々と勘案して、そのうち俺の脳味噌ではどうにもできないことを悟ると結局昼間と変わらない結論に行き着いた。
「あーなんだ。取り敢えずその捜査官に言われた通りに事件の手掛かりでも探しとくといい。」
『けどナオミさんが』
「誘拐のことなら俺がなんとかしてみる。海祇、敦を頼んだぞ。…嗚呼、それと
『グレ…』
俺は一方的に電話を切った。通話が途絶えてから、敦と彼の立場を逆転させてしまっていることに気付いた。彼は俺なんかよりも数百倍は優れているが如何せん天然気質なので敦に任せたのだが、正直他者の護衛が要るとは俺自身露も思っていなかった。只異能の不調を口実に纏わりつかれるのが滅法面倒くさかっただけである。
それにしたって懲りずに気重な厄介事を運んできてくれるものだ。こんな取るに足らない凡人を相手に殺人事件だの誘拐騒動だのを押し付けてきやがって、もはやこの街が悪意を持って俺を追い出そうとしにきてるように思えてならない。
「言った手前傍観してるわけにもいかなくなっちまった、最悪花袋でも叩き起こすか。だがその前に…」
目的地に着いて立止まる。
眼前に空高く聳えるは横浜のビジネス街で華めく大手企業マナセット・セキュリティ。自社ビルに収まる警備会社はつい二、三ヶ月前に日本の市場を飛び越え世界屈指の売り上げ高を誇る国際企業へと成長した。文豪ストレイドッグスという漫画を認知する者ならば一聞で判る、フィッツジェラルドがCEOを務める会社である。
昨晩何処ぞの強盗にまんまと押し入られてハロウィンの暴徒もよろしく暴威を振るわれたらしい。いっそ清々しいまでに粉砕された硝子張りの外観からあの威丈高な面が苛々と歪められている様が想像できて胸がすく思いだ。
路肩に停まる尋常じゃない数の警察車輌は警備会社への襲撃という特異性を理由にすれば尤もだが、建物内外で匆々に作業に勤しむ警官を装った特別捜査官らの姿態から成金が金にものを謂わせて呼びつけたことは容易に察せられた。まるで大使館の扱いである。要は面目が丸潰れでご立腹らしい。
どうか俺に八つ当たりしてきませんようにと密かに願いながら治外法権へと足を踏み入れればフロント係が一目で顔色を変えて恭しく上階へと案内してくれた。恐らく俺のことを顧客とでも伝えていたのだろう、いけ好かない奴だ。
招き入れられた部屋には相も変わらずいかり肩で都会の景観を眺めるフィッツジェラルドが居た。アメリカの国章に相応しい白頭鷲の如き切れ味を秘めた相貌を寄越して。訪問の報せは寄越してないのにも関わらずまるで待ち侘びていたとばかりに席に促すものだから末恐ろしい男だ。
「
「ジャック家についての悲報だ。」
下らない雑談を遮って単刀直入に云えば空気が変容した。勿論、悪い方向に。
お茶出しがやってくる。室内の見出された調和に四方八方から見えない針で突き刺されてるみたいに肩身を狭くして、颯と珈琲を出すとそそくさと退出した。一度廊下を見渡して人が居ないのを確かめてから扉を閉めて席につく。
フィッツジェラルドは背凭れに身を預けずにどこぞのNERVの総司令官みたいに手を組み合わせていた。無理もないことだ、実をいうとジャック邸に住まう一家はこのフィッツジェラルドの親戚なのだから。
彼の妻ゼルダの妹夫婦、それがソフィ・セイヤー・ジャックとジョナサン・スティル・ジャック、二人の間に生まれた一人娘の名をセリア・スティル・ジャックという。非異能力者の二人に反してセリアは異能力者だった。彼女の有する異能の特性故にセリアを求める存在は合法、非合法を問わず五万とおり、組合の頂点に君臨して間も無く飛ぶ鳥を落とす勢いで組織を最盛させたフィッツジェラルドだって幾度かジャック家を頼ったという。しかしセリアの親はまだ幼い娘が異能力者としての腕前を奮うことを望んでおらず一般人と同様に育てようとした。そこで実業家としての成功物語を廃らせたくないフィッツジェラルドと悶着を起こし、終いにはアメリカを去って行方を眩ませてしまった。
だがセリアの存在は勿論のこと、
そこで一家の大黒柱が取った苦渋の決断が、嘗ての人脈を利用して俺に行き着くことだった。
——お願いします。俺達をフランシスやマフィアどもから守って下さい…!
何を勘違いしているのか、さも俺が暴力団と密に関わっているかの口ぶりで懇願されて何事かと阿保面を晒してしまったのは古くない記憶だ。確実に人選を間違っているものの彼程綺麗な土下座を目の当たりにしたことがなかった俺は困窮した三人家族を見捨てることが出来ずに已む無く頷いた。こういった警察が介入できない案件は素直に屈服するか、相手が尻尾を巻いて逃げ出すように仕向けるかしかない。
そこで俺は戦闘に特化していた当時の同居人らの力を借りて数多の暴力団にカチコミに行った。作戦名、虎の威を借る狐である。案の定俺の狡知な目論みは上手く運び、少なくとも欧米の地下世界では恰も三人の名前は最初から存在しなかったかのように消えた。とはいえ依然として気は抜けない段階だった。よしんば欧米が引き下がってくれたとして、世界には無尽蔵の悪が蔓延っている。だから俺は嫌々ながらも種田に連絡を取り一家を匿うように頼んだ。無論、無償の保護なんざあるわけがなく種田はセリアの異能の部分的活用を条件にしてきたが、それでも人材を使い潰す異国の異能機関と日本の異能機関とを比すれば余程健全であることはジョナサンも理解していた。そうして特務課との秘密取引を交わしたのを見届けてから、俺は一件から完全に身を引いた。その後の彼等の動向は一便利屋に過ぎない俺が認知するところではなかった。
ジャック家の名を聞くのは実に一年ぶりだろうか、風の噂でつい一ヶ月程前に他県から横浜入りしたことは知っていたがまさか探偵社員の口から顔のない遺体についてを聞き及ぶことになるとは…
「
相手が静かに息を吸った。
「それで」
「三人とも殺された。お悔やみを言おう。」
敦は遺体の正体に疑義を抱いていたが俺の中では
とはいえ、正体も不明な凶手への怨嗟をこちらに発散されたらたまったもんじゃない。完全に獲物を定めた邪気の孕んだ眼を睨め返す。爆発寸前のアメリカ人を落ち着かせるのが先だった。
「フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド。キレるのは構わねェが相手を間違えるなよ。」
怒りの矛先は訃報の伝達者ではなく殺人者本人に仕向けられるべきだ、その意を込めて言い放てば瞬く間にさっきは雲散した。
すまない。聞いたこともないほどに弱々しい謝罪が漏れる。
「どうやら我を失いかけていたようだ。」
「良い。」
窓を開けると爽やかな風が前髪を後ろへと流した。排気ガスや呼気だのといった汚染された空気が混じり合っていない、比較的純粋な酸素だ。しかしそれも直ぐに俺の点けた煙草の煙によって汚されてしまった。
「犯人は一人じゃねェ。どうやら特務課も一枚噛んでるようでな、探偵社に解決を急がせてるところだ。SASを知っているか?」
「ハッ、この世界で知らない奴がいるならお目にかかりたいな。」
この際経緯は省略するが、SASの五部隊は揃ってイギリス政府に反旗を翻し近い未来政権を転覆するという悍ましい捨て台詞を残して祖国を去った。異能力者が背後で実質的な統治権を握る現代社会に革命を齎す為に、宣言通り国家転覆を目論み世界各地に散らばった各部隊は過激な活動を繰り返しいつしか国際的なテロ組織として認識されるようになった。奴等が誘発した事件の一端が半年前の横浜で起きたピザ事件だ。そう、俺が図らずも初対面の綾辻に引き摺り込まれた災難な一日のことである。
「お前が魔都から締め出した…いや、殲滅した時点で既に虫の息だったが自暴自棄でも起こしたのか。」
「締め出したんじゃない、俺が一方的に巻き込まれたんだ。…どうであれ殺人の手口から奴等の仕業だということは判ってるんだ。それ以上の理解が必要か?」
「いや」
フィッツジェラルドは不愉快千万を色外に表した。この場でSASの話題を持ち出した時点で罪人の正体、糅てて加えて被害者の死体の有様は明白となってしまったのだ。というのも、テロ組織と化した奴等の殺人手口は雁首を横一直線に掻き切る手法に一貫している。老若男女問わず。
「ついでに近場に居合わせた探偵社員も拉致られたらしくてな、今から探さなきゃなんねェ。そこでだ、神の目を使わせて欲しいんだが…」
それが俺が此処に身を運んだもう一つの理由だった。だがよくよく考えてみればマナセットセキュリティは謎の集団に襲撃を受けたばかりだった。それもジャック家が惨殺された日と同じ夜に。案の定俺と考察を一致させたフィッツジェラルドは飲みもしない珈琲に角砂糖を入れ、事務作業的な手付きで掻き回しながらかぶりを振った。
「是非とも協力したいところだが生憎機械は故障中でな、今うちの技術者が涕洟を流しながら修理している最中だ。」
「ああ、下でうろちょろしてる連中を見て察したよ。」
「警察に通報するよりも調査庁に任せた方が早い。」
調査庁というのは法網の境界で運用される政府黙認の闇の自警団だ。ポートマフィアのような犯罪シンジケートから小規模な犯罪グループなど広域の非合法団体を相手に有事の際に第三者委員会として捜査本部を設置する特殊な機関だ。特務課とも密接に関わっており、敦のいう特務課の収容所も恐らく七割を管轄下に置く調査庁のことを指しているのだろう。政治家絡みの犯罪隠匿や違法工作を取り扱う七號機関という組織と同じ穴の狢だ。
兎も角、神の目が使えない以上残された手段は花袋しかなくなった。
俺は灰皿に煙草を押し付けると出口に向かった。ジャック家の死亡通告という一番大事な用も済ませたので次なる難題は元特殊部隊の追跡だった。
「人生ってのは厳しいな。」
到底一介の便利屋が成し遂げられる仕事の程度じゃない、だがやらなければ俺の足元が救われる。なんてごねれば背後でフィッツジェラルドが憫察の籠った同意を示した。肯定されたらされたで癪に触るな。
「同行したいところだが他の部隊が潜伏している可能性も否めなくなった今此処から離れるわけにはいかない。」
フィッツジェラルドは云った。俺は振り返る。どこまでいっても利益至上主義の金満家は憤怒を抱えつつも残存する社員の命と会社運用を選んだようだ。
「オールドスポート、今回もお前に任せよう。また借りが一つ増えたな。」
「止せよ、俺とお前の仲だろ。せめて無念は晴らさせてくれ。」
最後にもう一つ訊くことがあった。
「そうだ、顔の皮を剥ぐ殺人鬼を知らないか。」
「この世界に一体何人イかれた輩が蠢いていると思ってるんだ。日本の犯罪者なら警察か地元民にでも聞いてくれ。」
「地元民か、名案だな。」
噂をすれば影がやってくるというし、漠然とした人物像を垂れ流しているだけでも当該人が自ら現れてくれるかもしれない。そんな破茶滅茶な展開がこの世界では十二分に起こり得るのだから。
礼を告げてその場を後にしようとした俺をフィッツジェラルドは呼び止める。時折見せる神妙な素顔が俺を正視した。
「この礼は改めてさせてもらう。…頼んだ。」