思えば今朝に珈琲を飲んだだけで何も腹に入れてなかったことを思い出した。そこで花袋の所へと行こうとした歩を転じて腹拵えをすることにした。行き先は横浜市内にある期間限定の生しらす丼の店だ。普段は定食屋を営んでいて花袋と共に卵信者が頭を空っぽにして作ったようなだし巻き卵定食を食ったことも何度かある。あの出不精を電話一本で呼びつけるのは至難の技だが探偵社の危機だと謂えば渋々東大寺の大仏みたいに重い腰を上げてくれた。そう待たないうちに粗暴なイギリス人どもの居所をリストアップした書類を手に暖簾を潜るだろう。いつも通り不潔な布団を被って浮浪者としか思えない身なりで。
「良い加減その汚い布団は捨てろ。んでさっさと女でも作れ。なんなら紹介してやる。」
「よしこだと言うとるじゃろ。お主こそ儂に鶏肋を押し付けようとするのはやめい!」
「鶏肋だってお前なんざ真っ平御免だろうな。」
どういう原理か布団の内側に生えたきのこを抜き取り味噌汁に入れる花袋に俺は言い返した。店員も他の客も目撃していなかったのが不幸中の幸いだった。そうでなけりゃ今頃俺は偶然居合わせた赤の他人を装ってこいつを置いて帰っただろう。
「んでどうだった。」
「安心せい、ちゃんと調べてきたわ。」
薄っぺらい紙を乱暴に差し出される。その隅に付いてるイカ臭そうな染みを見つけると食欲が一気に消え失せた。俺は紙を丸めて捨てた。
「何するんじゃ!」
「お前、来週末曙行ってこい。予約しといてやるから絶対な。この田舎者が。」
「嫌じゃ儂はいかんぞ。一人で行ってこい好色獣が。ていうか折角儂が調べてきたっちゅうのになんて仕打ちをするんじゃ。」
百パー自業自得だろうが、この冴えない引き篭もりめ。もはや真面目に指摘することすら馬鹿らしくなって俺はビールを一気に流し込んだ。
一度失せた食欲が戻ってきてくれる筈もなく、提供されたてのだし巻き定食を花袋が食べ終わるまで便々とテレビを眺めているだけの無為な時間が流れた。そもそもコイツと食事に行けば大抵プー太郎の節操のなさに変調を来して飯を切り上げ酒場に行って、そんで最後に酔い潰れた呑兵衛を家に送り返すまでがお決まりだった。あの晩ルパンで軽率に隣に座ったのが俺の人生の最大の過ちと謂えよう。
そのうち花袋が定食を平らげると俺は早々に店を出た。一度彼の子守りを頼んでる敦の調子を伺いに御成町に戻ろうかと思い巡らして、依頼の成果を聞いていなかったことを思い出す。この際口頭で云えと促せば花袋は先程の妥当な対応に今尚項垂れながらも複数の町名と番地を口にした。殆どが御成町だった。
「大方非異能力者を誘拐してもうたし退くに退けん状況じゃろうな。それに御成町には都合良くお主が中島に任せたあの男、エ」
「花袋、誰がそれ以上踏み込めと言った?」
この男の恐ろしいところはたった一度の電子潜水の試みで地球を二十周してしまう程の情報を獲っちまうところだ。洞察力ではなく単純な情報収集力は時として乱歩の超推理にも匹敵する。だが本人の性質がこうも落第点なばかりに尻が抜けて、連なるように周囲も成果を掴み損ねるきらいがある。実際、前にコイツが公の場でうっかり重大な情報を転び出したばかりに計画がおじゃんになったことがある。もう二度とあんな失態は勘弁してもらいたいと睥睨すれば、自覚はあるようで饒舌な男はひえっと肩を跳ね上げさせた。
平日の都心部は車通りが多い。定食屋で隣席のサラリーマンがつい一ヶ月前から行政が土地開発と橋梁工事を纏めて着工しだしたから煩くてかなわないとぼやいていたのを思い出す。確かに大型車の排気音と解体作業やらの騒音がここら辺の大気までもを振動させていた。
真向かいのテナントビルの前には燻んだ赤色のキャラバンが二台停まっている。後列車の窓の開いた運転席からつなぎを着た運転手が一服をしているのが見えた。外人だ。それから缶珈琲を片手にこちらは日本人の作業員が車に向かって行くところだった。そういや二ヶ月前のニュースで摺鉢の無法者どもの更生に建設業への雇用を開始したと云っていたな。彼等もそのクチだろうか。
誰かが喫煙で憩うているのを見ていると自分も吸いたくなって煙草に火を点ける。
「グ、グレイ」
花袋が引き攣った囁きを溢した。つい数秒前の俺と同じく対面の四駆、正確には運転手を凝視している。唇を震わせる様は餌を求める魚のようだ。若しかして口が寂しいのだろうか。
「ああ。」
よりにもよって、よしこからの脱却手段が煙草とは…酒ばかりか喫煙嗜好までもを共有できるようになったという、ある種出来の悪い親戚の成長を目の当たりにしたような心地に俺は早速煙草をやることにした。折角なら一箱丸々記念にでも遣ろうとポケットを漁る。尻ポケットとに入れた箱を取り出そうとして、詰め込んだレシートがばら撒かれた。
「グレイ…!」
「分かってる、そう急かすな。」
どうやらヘビースモーカーの素質があるらしい。俺はレシートを掻き集める為に身を屈めて……拍子に拳銃が懐から落ちてきた。今日に限って安全装置を掛け忘れたワルサーP38が、
——金属的な拍手が華やぐ街に響いた。
一指弾で誤って放たれた鉛玉は傍若無人に回転して…キャラバンの前輪と男の脇腹を穿った。己の不手際に俺は固まる。
前車のドアが矢庭に開くと逞ましい両腕が崩れ落ちた日本人を引き摺り混む。直後、烈しいスキール音が反響して先車が急発進して逃げていった。数拍遅れて我に返った俺は銃を拾い上げると乗り手に謝るべく歩み出す。恨めしや、いつの間にか花袋は店の中へと舞い戻って行った。こういう時に限って素早い責任回能力である。
扉が開いた。中から現れた漆黒が陽光に煌めくや否や、俺は屈んでいた。
パァンッ!
街中で聞こえてはならない不協和音が弾ける。顔を上げる間もなく引き金を引くと、銃弾が誰かの皮膚を貫く音がした。流石に只の作業員ではなさそうだ。俺はトランクに回り込む。
「やれやれ、なんでこんなことになるのか。」
矢ッ張り呪われてるのは街じゃなく俺自身なのかもしれない。今月で何度目かの銃撃戦の開幕に、辟易の溜息が吐き出された。
………。
敵は思ったよりも手強く民間人を巻き込んでの一対多は苦戦を強いられた。一個人がかなり精強且つ戮力の強さが際立っており一人倒すだけでも一筋縄ではいかなかった。だが俺の悪運を舐めてもらっては困る。遡っては魑魅魍魎の跋扈する異能大戦を何となくで生き抜いてきた凡人の底力を発揮してどうにか連中を一角行った先の遊具の多い公園——名誉の為に云っておくが利用者は発報騒動でとっくに散開していた——で待ち伏せして見事撃破してみせた。斯くして横浜の平和は保たれた…わけもなかった。
「お主は街中で発砲せんと気がすまんのか!」
戻って早々、俺は花袋に叱られた。…叱られたといえば語弊があるな、俺は責め立てられた。あっさりと友を見捨てて自分は脱兎の如く逃げ出した奴に。
大体、どんな波瀾万丈な毎日を送っていれば偶さか居合わせたバンが盗難車で、しかも盗難ばかりか誘拐までもをしでかすような乗り手だと察知できんだよ。それが魔都の社会の裏というのならばこんな街明日にでも出て行ってやる。事もあろうに誘拐の被害者が丁度俺が探そうとしていた少年少女だなんて思うまい。
「うわぁああん!グレイィい゛」
「あーあー、鼻水付けんなよ猪三郎」
「助けて下さりありがとうございます。うぅッ」
「怖かったな。」
「なんか某と対応違うでござらんか?」
「男だろ、強くなれ。」
紹介しよう、今仲良く俺の一張羅にしがみ付いて涙或いは鼻水を擦りつけている二人こそが、つい一時間前に敦から助けを求められたばかりの事務員谷崎ナオミと俺の友人の救世主成り得る御子柴猪三郎である。何でも連中は御成町を脱出した後、警察から逃れる為に町を転々としていたという。因みに先程俺が誤射で脇腹を撃ってしまった男はナオミの脚力を奪った異能者だったらしく、したらば俺の友人から異能を奪った男であるわけで事故とはいえ見逃したことを今更ながら悔やんだ。よくよく振り返ってみれば先程伸した作業員らはSASの隊員だったってことになるが、よく生きてたな俺。
「うっ、兄様に会いたいです」
「少なくとも敦には会わせてやるからもう泣きやめ。」
異能を持たない事務員が危険なテロリストに詰め寄ったと聞いた時はどんな剛毛が心臓に生えているのかと耳を疑ったが矢張り乙女は乙女らしく、己までもが誘拐された精神的衝戟とまるで動いてくれない下半身の感覚に涙腺を崩壊させた彼女は俺の背中で泣き続けていた。しかし案ずるには及ばない。こんな奇態な状況の為に俺は猪三郎を探していたのだ。他人に掛けられた異能を解除できる、猪三郎の異能を求めて。太宰が異能者本人に触れなければならないとするならば、猪三郎は異能の対象者に触れることで無効化することができる対のような能力を有している。態々顔も知らない犯人を探すよりも被害者と接触するだけで問題が解決するのだからと探していたのだが…
「なんだって?」
「某の異能も封じられたでござるざるそば。」
時代劇フリークの少年は年齢にそぐわぬ強面でミルキーみたいにお茶目に舌を出して相変わらずの妙ちきりんな物言いで云った。
救出直後、瓜坊の突進の勢いで抱きついてきた猪三郎の話では彼の両親もジャック邸の死体と同じ遣り口を殺されてしまったという。昨夜七時、御子柴邸で両家は夕食会を開く予定だった。しかし三十分前、突然鳴らされた呼び鈴に出た彼の両親が出たところ抵抗の間も無く首を掻き切られたと。連中は猪三郎の異能を事前に知っていて、敢えて彼を殺さずに人質として利用しようとしたということだ。
何の為に…?俺の脳漿で思いつく仮説は一つしかなかった。
俺は天を仰いだ。ツいてない男の一日など枝葉にも劣ると晴朗な雲の微笑が過ぎ去って行った。俄に花袋がナオミを引き取った。
無性に煙を吸い込みたかった。すっからかんになったアメリカンスピリットの代わりに花袋にやる予定だったもう一箱を開けて、ニコチン中毒者みたいに手が震えそうになるのを堪えて咥える。敦が訝っていたジャック邸の死体はジャック家本人達で間違いないことが証明された。猛烈な怒りは悪逆の限りを尽くした傍迷惑なテロリストどもと己の悲劇的な運命へと矛先を突き立てていた。
「………。」
「ご、ごめんなさい。」
「お前じゃねェよ、気にすんな。」
暫くの間、俺は青空に昇る紫煙を見送っていた。いつもなら最初の旨味を味わってすぐに捨てる煙草をえぐみを感じる限界まで吸い込んで。
「それでどうするんじゃ。」
恰も何かを確信しているような双眸が眼鏡越しに俺を射抜く。俺は問いには答えずに喫んでる間、花袋が預かってくれたナオミをもう一度引き受けた。特に何も考えていなかったことは誰にもバレていないようだった。
ナオミを探偵社に返してやりたいところだが足を治さないことには忍びない。だからといって太宰を頼ったところで異能者を引き摺っていかなきゃ下手に俺が疑われて福沢にイチャモンを付けられるだけだ。それに猪三郎だっている。
そうだ、
生存する三人の異能被害者を元通りにして、円満とまではいかずとも能う限り丸く収める方法は…。
また手先がポケットに伸びそうになって、俺は堪えた。気持は御成町へと傾いていた。花袋には悪いが礼はまた今度にしてもらおう。そう思って俺は少年少女に笑いかけた。
「持ち物を忘れてな、一先ず御成町に戻ろう。」