文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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灰撒き虚妄 後 百十五〜百十八


魔王を呪わば穴三つ

 

坂口は液晶画面の上で指先を素早く滑らせて電話帳のた行に一人しか存在しない電話番号を押した。 

 

プルルル、プルルル。

着信音が繰り返される。やがて単調な女の声が種田の不在を告げた。 

 

一方的に切電された画面を彼は寸刻ぼうっと見詰めていた。携帯を持つ手を下げて束の間遮られた視界に再び壊滅的な死相が映じるのがさしもの一流捜査官にも躊躇われたのである。それでも現実逃避をするわけにもゆかず終いには顔面のない遺体を視野に収めた。今際の際に末法の世で絶命するに等しき恐怖を一身で受け止めたのがありありと理会できる降魔の相は、異能絡みの凶悪犯罪に幾度となく直面してきた坂口を以ってしても耐えるのは容易ではなかった。瞼もない為に塞いでもやれぬ六つの眼球は数時間前にこの場に居た兇手を眼差していた。 

 

眼鏡の下で黒い睫毛が伏せられる。地面には生々しい惨殺の名残が赤い血溜まりとなって残っていた。 

一人の部下が野次馬の聴衆から戻ってきた。辛抱ならず彼はまだ奉職したての若い捜査官に刻下の種田の状況を尋ねた。会議中という虚しい回答が返されるだけだった。 

 

「巡査の話では隣丁で発砲音がしたそうです、しかし駆け付けたときには空薬莢が転がってるだけで誰もおらず、目撃者もいなかったと。」 

 

僅か一日未満に惹起された二つの事件に不可視の薄気味悪い意企を思做してしまえば、強い締め付けが胃を痛めるのを摩らずにはいられなかった。 

 

「拙いな。」 

 

彼は口籠もるようにして呟いた。面前で描かれる悲劇に対してではない、三人分の惨劇を生み出した悪の正体に心覚えがあること、事件が明るみに出れば特務課を陥れる好機を虎視眈々と狙う輩がここぞとばかりに非を糾弾するであろう未来にである。取り急ぎこの非常事態を上司に報告する必要があった。 

——せめて首を斬った別の何者かの手掛かりでもあれば。 

『堕落論』物に残った記憶を読み取る坂口の異能は凶器のない現場では徒事だ。 

 

「うぉっえぇ、む、無理」 

 

咽せ返る強臭に堪らず捜査官が外へと駆け出した。無理もないことだと、有望な人材が罷り間違っても斯様な事件で退身してしまわぬように労いの一言でも掛けてやるべきかと坂口は後を追おうとして、ふと玄関に設置された調度品に眼を留めた。

木製の重厚なコンソールテーブルの上に陶器と硝子を練り合わせたかの精巧な花瓶があり、透百合が挿されている。白、薄桃、黄色…ビビッドな品位をそびやかして。天使の純白と形容するに相応しい一輪の白い透百合の花弁が不自然に地面に落ちているのを見留めると、坂口はなんとなしに花瓶に触れた。 

 

「——ッ!」 

 

三つの記憶が流れ込んできた。

逢魔が時に一軒家に突として顕る二人の影。宵に安寧を侵す穏やかならざる無の跫。日付が変わり、未だ鉄錆と死の蔓延する朝間に訪う強引な脚…。七百坪の敷地で日を跨いで進行した狂気と愕然の反復を坂口は慥かに視た。

映像が途切れると膨大な情報に心因性の衝撃に見舞われた坂口は踏鞴を踏む。今し方端なくも疑似体験した出来事がまさに彼の足元で行われた現実であることを即座に受け止めるには酷であった。テーブルに腰を預け呼吸を整える。

その時、外に出たはずの部下が大層慌てふためき舞い戻ってきた。

 

「さか、あんっ…せせ先輩!」

「三好君、現場では騒がないようにと何度言えば」

「や、やばいです!めっちゃやばい!アレが居ますアレが!」

 

語彙力を喪失した訴えに、坂口の心臓が物騒がしく喚き始めた。一先ず大事の面相で身振り手振りを試みる捜査官を落ち着けようと息を吐いた。

 

「一体誰が来たというんですか。」

「俺だ。こうも嫌われると萎えるな。」

「ぎょぇええ!」

 

庭先で待機していた捜査官の制止を歯牙にもかけずにグレイが現れた。玄関を塞ぐようにして、彼の後方にはどういう訳だが探偵社の事務員と見覚えのない小柄な男が縁台のベンチに腰を下ろしていた。他の捜査官らも面貌を豹変させて駆けつけてくる。

 

「先輩?先輩?お前っ、先輩に何をした!」

「やや止めろ三好!お前は馬鹿なハスキーか!?誰に向かって吠えてんだ!」

「ストップ三好!止めなさい!すみませんグレイ…さんッ、三好に悪気はないので許してあげてください!」

「はは、愉快だな特務課は」

 

ぎゃーぎゃーわーわー。瞬く間に厳かな殺人現場があるまじき囂しさに満たされてゆく。あまりの喧しさに佇立したまま意識を飛ばしていた坂口はその内平静を取り戻すと静かに告げた。

 

「取り敢えずグレイ以外は出て行ってください。」 

 

………。 

 

人払いの済んだジャック邸で不憫な特務課捜査官の嫌悪を益々催させたのは、無作法な訪問者が台所での対話を望んだことだ。忘れ物と云い迷いのない足取りで悲惨の中心部へと歩んだ時には性懲りのない魔王の気晴らしを疑ったが、遺体を正面にするや否や瞳孔を戦慄ものに収縮させ空間の圧力を増大させた男に、坂口は今度は被害者らとグレイとの関係性を密かに慮ることとなった。

 

「さて、せめてお前らだけは事態を理会してると言ってくれよ。」

——まさかこの段階に及んで何も把握してないなんて云うんじゃないだろうな? 

 

矢先に放たれた一言に脅迫じみた意図を感知すると坂口は今すぐ病院に駆け込みたくなった。相手が生きる厄災でなければそうしていたかもしれない。彼は男の言葉には答えずに今頃までの特務課出動に至る経緯を話した。 

 

「特務課が軍警と同じく国家安全の為に行政機関の全国的な通信傍受を行っているのはご存知でしょう。」

「それだけで横浜中で毎日頻発する事件の中から此処を厳選したと?」 

 

あわよくば口を噤もうと努めた坂口にグレイは遠回し且つ辛辣な圧力で真実の告白を催促した。何故行政側の己が大罪人に詰め寄られてるのか、坂口にはてんで分からなかった。 

 

「…特務課宛てに匿名の通報があったのです。我々の不手際が露呈する事件が起きたと。心当たりがあったので私が直接赴くことになりました。」 

 

坂口はつと窓外に目線を流した。自身が追い出した捜査官らがつい数分前の紛紜未遂も忘れたかの喜色満面でグレイの連れ他人と歓談していた。まるでピクニックである。 

 

「僕の見間違いでしたらすみません。あの男は存じ上げませんが、彼の隣にいるのは探偵社の谷崎ナオミさんでは。」

「拉致られてたところに居合わせたんだ。あと猪三郎は男じゃなくて少年だ。」

「…すみません、種田長官がいらっしゃるまでお待ちいただけますか。」

「なんでだよ。」 

 

胃痛と頭痛を限界を超えて坂口の胸中は凪いだ水面さながらに落ち着いていた。もはや健常な思考を辞めたともいえる。

血みどろの足場も忘れてその場に座り込もうとして、グレイが名案とばかりに声を上げる。彼は彼で、ようやっと得られた情報提供者に成りうる特務課参事官補佐に心許なさを解消したばかりであったのだ。兎にも角にも彼は頭の整理を手伝ってくれる相手を求めていた。 

 

「昨日の夕方、俺はこの家の家主に招かれていた。まあその予定はうっかり忘れていたが、結局は行ったんだからどうでも良いことだ。大体十五時くらいか?その時は留守だった。」  

 

先の侵入者、要するに殺人の元凶も同様にグレイ達に先んじて留守に遭い細やかな置き土産を残して一度引き上げた。よもや置き土産を受け取る相手が無関係の第三者だとは夢想だに及ばずに。彼等は向こう三軒両隣以内の何処かで一家の帰宅を待ち伏せしていていたが、転移という異能で鍵も開けずに中へと侵入した別な存在が罠に掛かったことに気付くと作戦を変えざるを得なくなった。何故なら異能が仕掛けられた箱を開けた人物は犬ではなく狼だったのだから。試行錯誤は望まぬ空振りに終わったが、主目的は予定通り御子柴邸での二名の遺体を目の当たりにして直ぐ脅威から逃れるべく荷造りの為に自宅へと駆け戻った。その時には予定外の第三者はとうに去り、土産箱を片付けた刺客らが屋内で急襲の機会を今か今かと待ち侘びていたところだった。

 

「知ってるか?此処から徒歩一分の裏の家で二人の死体がある。俺もさっき実際に確かめてきたが、彼等らは彼の…御子柴猪三郎の両親だ。」

「今なんと?」

「御子柴猪三郎だ、二度も言わせるな。」 

 

毎度制止していれば話が進まないという尤もな非難に坂口は仕方なしに閉口した。 

 

「彼には人に掛けられた異能干渉を解除する能力がある。だから俺は探していた。その矢先に敦から連絡があって妙に聞き覚えのある殺人手口に嫌な予感がしてな…最初にフィッツジェラルドに訃報を届けに行った。ああ、随分とご立腹だが暴走状態の獅子みてェに暴れないよう釘は刺しておいたから心配すんな。」

「お気遣い痛み入ります。」

「お前なら知ってるだろうが奴の会社は襲撃を受けた所為で神の目が一時的に使えない。だから犯人を探そうにも容易じゃなく、どうしたものかと悩んでいたところに誘拐犯に遭遇、一先ず喫緊の問題は解決したわけだ。」 

 

そうしてグレイは要点の整理整頓を終えると独り満足した。彼の唇が突拍子もない事実を紡ぐたびに己が玄関口で視た花々の記憶と照らし合わせては坂口は内臓を痙攣させた。 

 

「成程。偶然人の家に侵入し、偶然ご自分だけ罠に引っ掛からず、偶然誘拐犯らと遭遇し、偶然谷崎さんと御子柴猪三郎を救出したんですね。」

「そうなるな。」

——そんな糞みたいな偶然があってたまるか。 

 

彼は慇懃を投げ棄てた悪態をぐっと堪えた。キッチンカウンターに置いてあった——坂口はてっきり家主の物だと思っていた——黒い手帳を掲げてグレイは「あとは忘れ物をしてたのを思い出してな。」と附言した。 

 

「それから一つ訊きたい。お前らんとこの捜査官が敦を巻き込んだようだが、それは種田の承知の上か?」 

 

喉を詰まらせる音が互いの耳朶に触れた。坂口の脳裏に蘇るのは一番目の記憶、グレイと彼の友人が偶さかジャック邸に不法侵入する前に殺人の下準備に訪った男達。グレイは云う。捜査官は異様に事件が露呈することを嫌がっていたと、探偵社や特務課本部にすら伝えないようにと敦は何度も制されたと。慎重に言葉を選ばなければならなかった。 

 

「特務課の収容所からある異能犯罪者が逃亡しました。しかしそれを知ったのはついさっき、この家の死体を見てからです。追跡を命じるどころかこの場にいる捜査官以外には伝達してすらいません。」 

 

それだけで特務課の無実を主張するには十分だった。グレイはそうか、と一言呟くと逃亡犯の名を問う。 

 

「彼の名は哲儀、異能は『人偶輓歌』凡ゆるものを麻痺させる能力者です。太宰君までとはいきませんが厄介な異能者です。二年前に巷を騒がせた連続殺人鬼のことはご存知ですか。」

「当時は大陸にいたが風の噂では聞いてる。顔の皮を剥ぐことに快感を覚えるイカれた殺人鬼だと。」

「ええ。しかし有用な異能でしたので種田長官の命令で我々は非公式の司法取引を交わしました。死刑を免れる代わりに彼の異能を秩序の維持に役立てると。」

「…ジャック家とは何の取引をした。」

「……彼等の身の安全を保証を条件に少女の、セリア・スティル・ジャックの異能で日本列島に存在する総ての異能力者の情報データ化に協力することです。広範囲における異能者探知の異能は特務課が長年探し求めていた人材でした。」 

 

彼の供述には、特務課がセリアの異能を用いて哲儀を発見したという厭忌すべき真実が含まれていた。されどこの場で種田の捨小就大を責め立てるような野暮な真似を男はしなかった。 

 

「ご友人と谷崎さん、御子柴猪三郎に掛けられた異能は放っておいても一週間以内には自然消滅します。発動者が何らかの原因で死亡しても同様です。」

「都合が良い。」 

 

グレイがどちらを選択するかなど坂口は知りたくなかった。だが依然として彼の友人に危機感とも謂うべき関心を抱いていた。 

 

「因みにご友人は…」

今は(、、)海祇知明だ。」 

 

何か問題でも?いいえ、まったく。

潔く追及を断念した坂口にグレイは清々しい笑顔を向けた。 

 

「情報の礼に教えてやる。哲儀と組んでる男どもはSASの.4チームだ。」

「は?」 

 

坂口は気絶しなかった己の根性に賞賛を贈った。踵を翻し去ろうとする背を慌てて引き留める。 

 

「近頃辻村君が物思いに耽るようになりました。オットー・ランクの件以来ずっとです。…彼女に何を言ったのですか。」 

 

グレイは立ち止まる。彼にとっては見当もつかない指弾だった。辻村との会話を掘り起こして、強いて回想するならば国家公務員職は通常のブラック企業とは逸脱してブラックだと嘆いていたことくらいだ。大凡睡眠不足が溜まっているだけなのでは、そう返そうとして、しかし彼女以上に下瞼に暗色を帯びた参事官に伝えるのは酷だと言葉を引っ込めた。代わりに目線を塵埃の溜まったリビングの隅に送る。

 

「掃除がいるな。」 

 

挙句、瑣末な一言が方向性の誤解を後に生み出すとは思わずに、坂口の問いかけとは甚だしく無縁な感想を述べてジャック邸を後にした。 

 

玄関を出ると捜査官らと暇を潰していた猪三郎が歩み寄ってきた。…脚力を麻痺させられた筈のナオミも己の足で。 

 

「さあ私も分かりませんの。突然歩けるようになって」

「クララが立ったならぬナオミが立ったって皆で喜んでたんす!僕達の祈りが届いたんかもっすね!」

「三好、お口チャック。」 

 

ナオミの脚力が回復した。とりもなおさず、異能者に何らかの異変が生じたということ。第三者——善意か悪意によるか定かではない——が横槍を入れたか、或いは交通事故にでも遭い自滅したか。 

 

「ま、良いか。」 

 

終わりよければ全て良し。無論、何も終わっていない。 

 

俄に着信音が鳴った。グレイは携帯の画面を開く。人徳会の統領を表す符牒に機器を握る手に力が籠った。 

……果然、応答早々矢継ぎ早に鼓膜を震わせたのは息も絶え絶えの救難信号だった。

 

 

 

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