文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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彼は純悪か

 

遡及すること二十分前。横浜市近郊に位置するその屋敷は不気味な沈黙に包まれていた。それは謂うなれば落日の戦場の如き静寂であった。

大地は揺れず、海は荒れず、風は靡かず、されどしんしんと降り積もる雪のように憎悪と脅威と混沌と純真な悪意とが人徳会の広大な敷地を席巻していた。豈図らんや日盛りに再来したある男の凶行により武闘派暴力団は壊滅した。幹部級であれば異能者にも敵うと怖れられた凶漢の魔窟たる大豪邸は、山頂に聳える城郭の如き威風を外観にのみ残して死臭をいっぱいに吸い込んでいた。 

 

三十室以上の和室を内包する屋敷の奥間には先代が増設した離れの書院がある。自然と共に時間の余白を味わう庭園の裏側にあり、一朝有事の際の屋外への抜け道も秘めた特殊構造をしており初見の者では先ず行きつかぬ座敷であるが殊常任を逸した異能者の前では弊履に等しかった。 

 

「よくも騙しおったな!この如何様師が!」 

 

最後の一人となり書院に追い詰められた武雄は血塗れほうほうの体で己を見下す刺客を睨め上げた。つい数時間前、猪三郎の早期発見の為に探偵社員とともに送り出した特務課捜査官、理宇覚を。 

耳朶に接しただけで肌が粟立ちそうな怨嗟を受けても彼はどこ吹く風で、寧ろ下から漂うてくる濃厚な死の臭いが煩わしいと眉根を顰め眼鏡の位置を直していた。 

 

「我々が邸宅を去った後、尾行させていた部下に特務課に通報させましたね。信頼いただけていなかったとは実に残念です。」 

 

余計なことを。武雄の怒気にも劣らぬ蔑視をつくりあげて、徐に懐から出した手拭いで理宇は鏖殺を尽くしたナイフから滴る血を拭った。敷居を塞いで顔面と喉を斬りつけられ絶命した直蔵が無情に格天井を見上げていた。 

理宇は微細ながらも焦燥に駆られていた。武雄の動物的直感による保険掛けの所為で坂口が捜査に乗り出したことにより、現場に出る機会があろう筈もない一捜査官が越権行為を行ったことは今頃露わになっただろう。情報管理部の副室長であり、特別司法取引により処分の一時保留の身の罪人哲儀の監視担当者たる己が剰え探偵社を巻き込んだことが種田に発覚するのも時間の問題だった。 

 

——もはや哲儀の仕業に見せかけてこの男達を口封じしたところで収拾がつかない 

されどこの期に及んでまんじりともせずにいるわけにはいかなかった。少なくとも、特務課がセリアに作らせた日本中の異能力者一覧を手に入れなければならない。それが——から与えられた日本での暗躍における重大な役割の一つなのだから。

 

「許さんッ…貴様を地獄に…!」

 

肺腑を抉り出したかの呪詛は断末魔と成り果てて途絶えた。

 

——空気の変容が新たな気配を覚に伝えた。突如として背後に迫る切先。音もなく接近した新たな凶手はほくそ笑んだ。 

 

火薬が弾けた。

悶絶の音があがった。 

真横に現れた拳銃の前触れのない発砲によって、回避の間も無く衝撃を受けた哲儀は苦痛を面輪に押し出して倒れた。 

 

「おやおや、これは怪我の功名ですね。厄介者が自ら首を差し出しに来てくれるとは。」

 

ナイフと拳銃を仕舞って、振り向き様に覚は眉尻を吊り上げた。自身が最初に撃ち抜いていたと思っていた哲儀の脇腹には既に包帯が巻かれていたのだ。 

 

「温順しく言うことを聞いていれば特務課から逃してやることも吝かではなかったと言うのに、選択を誤りましたね。」

「俺が、誤っただと?」 

 

負傷者は武雄と然程変わらぬ殺意の充足した抗議を叫んだ。 

 

「鼻薬嗅がせてた看守がぽろっと零しやがったんだ!二年前俺が捕まったのはくそ生意気なアメリカ人の餓鬼の所為だってな。罪を黙認するからって従順なフリしてやってれば…俺が選択を間違えただなんて、来月には俺の死刑を目論んでた汚職公務員がよくも言えたな!」 

 

男は云った。四日前、収容所に異国の元特殊部隊員を名乗る男が面会に現れた。その男は対異能力者戦に優れており幾度の死戦を潜り抜けてきた強者で、哲儀を脱獄させ特務課の手の届かぬ海外に逃すことができると。条件として現下横浜にいるとあるS級異能犯罪者が持つある代物を奪う作戦に参加すること、正確にはその異能力者から能力を一時的に奪うことで異能の返還を条件に代物と交換させることだった。しかし彼等はその者の居場所を知らない。そこで哲儀は己の逮捕に貢献した小学生の少女の異能を利用してはどうかと提案した。少女と彼女の両親は亡命という形式で特務課と取引を交わしている曰くつきな一家で、男達が少女を殺せば哲儀は恨みを晴らし、更には特務課にも一矢報いることができるからだ。 

 

ついでに、哲儀にメリットしかない提案を持ち掛けた元特殊部隊の隊長も善意の第三者を名乗る人物の入れ知恵により特務課が抱える数多くの異能犯罪者の中から哲儀を選抜したことを陳じておこう。その者は終始顔を見せることなく電子端末越しに指示を下した。万端を知悉しているかの不気味な言葉遣いで哲儀の監視を担う情報捜査官の決して露見してはならない秘密すらも把握していた。 

 

「こんなことも知ってるぜ。二週間前、横浜市議会の汚職議員を探っていた一人の特務課捜査官が死んだ。山手町の豪邸で使用人として潜入していたそうだが摘発の態勢を整えた日曜を境にパッタリと連絡が途絶えたらしい。」

「………。」

「面白いのはこっからだ。二宮真子っつー捜査官の女だが、ソイツはあることを知っちまった所為で味方に殺されたんだ。自分と組織とを繋ぐ唯一の連絡係が…お前が特務課の情報をどっかへ漏らしてるっつーことをなァ!」 

 

捜査官には向かぬほどに陰日なたのない二宮は同僚の汚職を弾劾する前に、電子メールを介して理宇に改心を試みた。それから数時間後の午前、二宮は行方を晦ました。不吉な忍事を紡ぐにつれて理宇の双眸から情感が消えゆくのに哲儀は気づけなかった。 

さも己が誇り高き国家公務員の尻尾を掴んでやったかのような得意顔で口辺を歪ませる哲儀に、理宇は戻した拳銃を再び握り締めた。 

 

「そういえば貴方方に話を持ちかけた善意の第三者ですが、実はその男は私を特務課に送り込んだ張本人です。彼が報連相を怠った所為で私が予定変更を把握できず、こんな傍迷惑な事態を招いたわけですが。」 

 

云いながら三発分の筒音が遮った。銃身から放たれた弾丸が哲儀の顔と心臓と腹を射抜き僅かな硝煙が新たな死を生み出す頃には、彼はまた凶器を下ろしていた。 

 

くるりと一回転させ、踵を翻す。それは特務課の関係者も武雄も敦も哲儀も、理宇覚を知る者が見たこともない狂気的な微笑だった。 

 

「ホント、突然のリスケって困っちゃうよねぇ。言ってくれたら良かったのに。ま、特務課やめれば仕事は秘書だけになるわけだし?ある意味チョーラッキーかも」 

 

腰元に銃を差し戻す。拍子に手帳が転げ落ちた。 

そでに挟まれた何かもはためきながら畳の上を滑った。自分の手帳に挟んだ覚えのないそれを理宇は摘み上げる。そして硬直した。 

それは一枚の写真だった。

 

 

電話越しの国木田はいつにも増して憤慨していた。さもありなん、グレイとの対話後に坂口が架電した先は探偵社、名指されたのは最も情報共有するに足る有能社員国木田だったのだ。顔のない死体、二件の殺人事件、グレイ、逃亡犯…一つの論題だけでも日が暮れてしまいそうな問題に次期社長候補は福沢の不在を嘆いた。代わりに言葉の折に胸中を吐露せしめた坂口の胃と頭痛はほんの少しばかり緩和された。概要を伝え終えたことで責任の分散を成し遂げた坂口は急務もある為に国木田の返答も待たずに通話を切り、卒倒ものの状況を突きつけられたまま取り残された国木田が次に取った行動は一連の事実を秘匿していた社員への叱責だった。 

 

『この、馬鹿者が!』 

 

耳から侵入した怒気を犇と全身に伝わると敦は萎縮した。滅多にない罵倒である。せめてもの慰謝に好ましくない話頭に転じた。 

 

「け、けどナオミさんはグレイさんが何とかするって言ってくださったんで、きっと大丈夫です」

『敦ィ!』

「すみませんでした!」 

 

探偵社ではなくグレイを頼ったこと、特務課捜査課からの請願というだけで連絡を渋ったこと、ここに至っては弁明のしようもないと敦は謝罪を張り上げた。現時点で坂口からナオミは既に救出されているという報告がなければ通話を介しての譴責では済まなかっただろう。 

 

敦はすっかり両肩を窄めてしまった。こんな時に限ってともに事情を詳述できる同伴者は居ない。つい半刻前に言い置きもなく何処かへと消えてから音沙汰がなかった。何にせよ彼の存在の有無は己の失態の釈明には成り得ないと、敦は携帯に向かって三拝九拝した。居合わせた通行人は畸人を見る目で足早に過ぎていった。踏んだり蹴ったりである。 

一方、未熟な社員の謝罪を何度も耳にして撥ねつけるほど国木田も強情ではない。叱咤と詫びの応酬を繰り返すことよりも余程成すべきことがあった。 

 

『はぁ、この話はまた後でにする。兎に角お前の口から全部聞かせろ。』

「は、はい。」 

 

出勤路にて人徳会に招かれたこと、猪三郎の捜索依頼を強引に受けざるを得なかったこと、序盤で刑事を偽った特務課捜査官について、グレイとの遭遇からナオミの誘拐、そして今に至るまでのあらましを敦は説明した。 

 

「事件解決の兆しは未だに見えませんが海祇さんもいらっしゃるので今日明日には」

『待て、海祇だと?』 

 

御子柴猪三郎と彼を取り巻く縺れあった周囲環境に一度も触れてこなかった敦は、突然己を遮った不穏な声調に心を騒がせた。 

 

* 

 

国木田は事務机の上の書類を薙ぎ払う勢いで脇に寄せると書類棚から過去の記録を引っ張り出してきた。それは約十年前、探偵社に入社して日の浅い国木田が行政からの依頼で探偵社総動員で参加した悪夢の大騒動だった。国木田は敦から彼の知る海祇知明の外見的特徴を聞くと頭を抱えた。 

緑がかった黒髪、黒眼、成人男性二人分はある体躯、年中着物姿…敦の述べた海祇の外見は何一つ国木田と世間の認識と合致しなかった。 

 

海祇知明は相撲を語る上では決して欠かせない伝説の元大関であり配偶者は戦後日本における三大歌姫の一人と称された中国系演歌歌手、王若汐(ワン・ルオシー)であった。二人とも異能を持たざる者でありながらその略歴は一般人らしからぬ威力があった。何を隠そう、海祇は元人徳会の幹部、王は香港を拠点とする犯罪組織、和字頭の巨魁の愛人として異色な後ろ盾を有していたのだ。その為に二人の結婚は二組織間と外部の異能力者もを引き入れた大抗争という空前絶後のスキャンダルを引き起こした。各報道界隈は一様に両組織の軋轢を先先代…大戦時代にまで遡り虚実を織り交ぜた特集を連日報道、メディアを信じ切った一部は賭博のお題を結婚と抗争へと焦点を絞り、一部の過激な愛国者は大規模なデモ行進を行なった。殊、人徳会と和字頭が本丸を構える山口の地は大戦以来の混沌と化していた。 

 

愈々争いの火種が関東にも及び、被害の抑制の為に探偵社も警察の要請を得て組員の逮捕に駆け回っていた日々のことだった。ある日、勝敗の帰趨を見届けることもなく国際的な大スキャンダルは集結した。まるで膨れ上がった風船が音もなく弾けたように。 

警察庁が捜査したところ渦中の事実婚夫婦が突然失踪したことで両組織が潔く身を引いたというとんだ肩透かしを皆食らったわけだが、無論エンターテイメント風に諍いを見守っていた世間は斯様な帰結を許さなかった。大勢が警察庁に詰め寄り、関係者を炙り出し、独自調査を行なうという不見識な事案が数多く生まれたが捜査側は断固として抗争の自然消滅の一点張り。無論、探偵社にすら詳細が探偵社に明かされることなく事件はざらざらとした終わりを迎えた。 

 

それから数ヶ月後、新聞の準トップ記事に夫婦の初子が人徳会の組長の苗字を継いだと載せられたものの、月日変われば気も変わるというように世間の熱狂的関心もその頃には削がれ移ろうていた。 

とまれ、自身の同伴者の身分詐称を聞いた敦の反応は当然予想がつく。芸能の類に触れる機会のなかった彼が一抹の不審も感じずに海祇知明を名乗る人物を彼と信じ込むのは信じ込むのは宜なることであった。

 

『そんな…だって、グレイさんが』 

 

他でもないグレイだから、己が最も信頼を置く相手であるからこそ請け負った護衛依頼の相手が身分を偽った不審者であったこと、それを本人やグレイの口からではなく当事者外の人間から聞き及んだことが何よりも敦の気持を萎びらせた。後輩の消沈を聢りと読み取った国木田は知らず拳に力を入れた。奇妙なことに彼には敦が感じている消魂が我が事のように感じられたのだ。 

 

ぞっとする程の憤怒がこの場に居ない男へと湧き上がってきた。長年敬いの念を注ぎ、細やかな不審も抱かなかった相手の望ましくない本性がひょんな切っ掛けで露呈してしまったかのような… 

 

——『信じていたのに…』

  『お前は理想を愛するが、理想がお前を愛することはない。』

 

「ッなんだ、今のは…?」

『国木田さん?』

『今戻った…電話中か?』 

 

敦と聞き覚えのない誰かの声で国木田は我に返る。先程の報告から推察するに海祇を名乗る不審者だろう。 

 

「こちらが疑っていると悟られないようにしろ。俺もすぐ行く。」 

 

そう云うと電話を切って、直ちに手助に行くべく立上る。そんな国木田を太宰が呼び止めた。 

 

「なんだ、今は貴様の下らん悪巫山戯に付き合っている暇はない。」

「酷いなあ国木田君ってば、いつ私が悪巫山戯したっていうんだい。」 

 

何時っていうより何時もだろ。傍らで伺っていた事務員が物言いたげな視線を突き刺した。 

 

「今回は敦君に任せて良いんじゃないかな。グレイの知人なら悪いようにはならないさ。」

「今回はと言ったな?その言葉を間に受けて二週間前に敦が特一級危険異能者と横浜中を駆けずり回ったのを忘れたとは言うまいな。」 

 

敦はさながら分別の弱い児童だ。孤児院という井の中の如き隔絶された小世界で育った彼がより広くより危険な海へと冒険に出るには蓄積されているべき見識が足りなさ過ぎる。通常の社会は勿論のこと、熟達の武道人ですら外に一歩出るだけで一波乱にも二波乱にも見舞われる横浜においては尚更の猜疑心が求められる。されど中島敦という人格を構成する色彩には警戒色というものが皆無だった。だからこそ社での上下関係としてだけでなく人生の先輩として、大人として己のような大人が導いてやらねばならない。国木田には迷子を親元に送り届けるような使命感があった。謂わば自覚のない箱入り息子的傾向の育成である。 

 

対して太宰は可愛い子には奈落の底まで旅をさせよ派であった。当然二人の意見は食い違う。 

俺が行く。いや行かなくて良い。何故だ。良いんだって。 

埒の明かない押し問答、次第に堅物とのやり取りが面倒くさくなった太宰は自身の未完了の書類を国木田に押し付けて客用のソファに寝転んだ。 

 

——ちょっと臭うんだよねぇ…二週間前と同じで、詰まった排水溝みたいな悪臭が

 

 

クラクションが鳴った。真向かう海祇さん…ではない誰かから目線を逸らせば今朝にも見たリムジンが対向車線の路側帯を塞ぐようにして停まっていた。運転席から顔を覗かせているのは直蔵さんと初めて会った時にも運転をしていた子分の田中さんだ。 

 

「丁度探してたぞ中島!悪いが乗れ、今直ぐ屋敷に行く!」

「え?」

「いいから早く乗れ!屋敷が襲撃受けたって話だ!連れがいるんなら一緒でも構わねェから早くしろ!」 

 

激しい剣幕で呼ばわれると、僕は思わず彼と見合わせる。 

早く!もう一度催促されると弾けるように僕達は車に乗り込んだ。 

 

………。 

 

緊急召還の連絡があったのは今から三十分程前、他でもない直蔵さんに頼まれて密かにブラウン管テレビを新品の液晶ディスプレイと交換しようと電気屋に赴いていたところに携帯電話が鳴ったらしい。直ぐに僕を呼べとのことで覚さんに架電したものの一向に繋がらず、焦りを募らせながら近辺を車で走り回っているうちに運良く僕を見つけたと。 

 

車内は緊迫感と気まずさで僕一人だけが最悪な空気を味わっていた。田中さんは僕たちが乗るや否や法定速度お構いなしに急発進し、それ以降一言も喋ってない。顳顬に汗を垂らして鬼気迫る表情からは彼が直面している現実の緊急性の過度が見てとれた。 

 

目線を隣に流す。僕の護衛対象はグレイさんみたいに心情も思惑も読み取れない何食わぬ顔で窓外の景色を眺めている。 

自ずと国木田さんの言葉が想起された。 

 

——良いか敦、その男は海祇知明などではない。 

なら彼は一体誰なのだろうか。グレイさんが態々秘匿の護衛を頼んで、彼自身僕の守護なんか不必要とばかりに振る舞って、それでいて言葉の節々から教養と俊敏さが滲み出ている…そうだ、譬えるなら静かな太宰さんのような気配を纏った男だ。この間港でも僕と綾辻さんの置かれている状況を凡て理解しているような発言をして幽霊かゲームの中の物語の要となる登場人物もかくやの神出鬼没っぷりを晒した。 

 

たった半日しか行動を共にしていないけれど彼があの陰惨な殺人事件の犯人だとか、そんなとんでもない疑念は抱いていない。けれども度々様子がおかしかったこと、例挙するならば最初から猪三郎君を本気で案じて探しているような素振りを見せなかった——実際、ナオミさんが拐かされた時には猪三郎君が目の前にいたのに彼は日本人の男に対して反応を示した——点などは改めて考察されるべきだ。 

 

若し、若しも僕の当てが外れて国木田さんの憂い通り彼の正体が僕らが警戒を持って扱うべき存在だったら?そうだとするならば僕は彼をどうすれば良い?グレイさんは?あの人の期待を裏切ることになってあの人の顔色はどう変わるのだろうか? 

 

「そんなに偽名が気に障ったか。」

「え゛!?」 

 

出し抜けに掛かった台詞に僕は跳ね上がった。大袈裟すぎるくらい愕いてからやらかしたことに気付いた。 

男は初めて感興が湧いたかの微笑を湛えていた。 

 

「いや、その」

「顔に出るとよく言われないか。」

「まあ…」 

 

気恥ずかしさに目を伏せた。こんな調子なら太宰さんや乱歩さんにはお茶漬けを何杯食べたかすら素っ破抜かれていそうだ。 

益々尻座りが悪くなる僕の隣で、彼は窓を開けた。緑の薫りを孕んだ東風が流れ込んでくる。金色の短髪が靡けば、矢ッ張り乳香の匂いがした。窓枠に肘をつき淡い眸を一直線に送ってくる彼は女性的な美を備えていると、場違いな感想が浮かんだ。

 

「確かに私には偽りが多い。だがお前が懸念するような危うい輩ではない。残念ながら秘密を打ち明けることはできないが、ある程度納得のいく説明を施そう。」 

 

彼は僕の返事も待たずに語り始めた。 

 

先ず、彼が猪三郎君を求めていたのには正当な理由があった。グレイさんが云った通り彼は異能が使えない。何でも昨晩、グレイさんに連れられてジャック邸に訪れた際に何者かが家の住人に仕掛けていた罠に掛かって奪われたらしい。本人も面会経験のない正体不詳の異能力者について詳細を承知していない為に何とかすると云ったグレイさんに一旦任せるしかなかったのだと。因みに二人がジャック邸に訪れたときは家は留守で死の気配は微塵も感じなかったそうだ。 

 

彼は特殊な立場にあって軽率に本名を明かすことができない。来日したのは二週間前、自身の大事な物がとある犯罪者に盗まれた所為で一足先に犯人を追跡していたグレイさんを追いかけるようにしてやって来た。その後、無事に盗難品は取り戻せて今日にでも母国への帰国を検討していた矢先の出来事だった。万一にも彼が不徳義な輩に捕まってしまえば、曰く「グレイが理性を失いゴジラの如く鏖殺の限りを尽くした日に勝るとも劣らぬ大惨事が起きる」らしく一刻も早く状況の改善が求められた…そんな時に僕に会ったのだそう。 

 

あらましを聞き終えると彼の宣言通り疑惑の類は一切解消された。確かに僕たちのような超常の能力を有する存在にとって不能な状況は、仮に一時的なものだとしても好ましくない。彼の供述を裏付ける証拠として、異能力者と思しきあの日本人の男を前にしても異能を発動してでも捕えようとしなかったことが挙げられる。蟠りは立ち所に解けていった。 

 

「そうだったんですね、なんかすみませんでした。」

「いや、お前の懸念も当然だ。昼にグレイにも人を疑えと言われたのだからその調子で励むといい。」

「あ、はは」 

 

きっとこの人は国木田さんみたいに実直すぎて割を食ってしまう質の人種なのだろう。 

兎にも角にも、そういった事情ならば協力しない手はなかった。何れにせよ今回の殺人犯は取り押さえなければならない。彼等の内に例の異能力者がいるのならば好都合だ。 

 

「そういえば本当のお名前はなんて言うんですか?勿論、差し支えなければですけど。」

「ふむ、ここは互いにフェアであるべきだな。」 

 

颯颯とした強風に紛れて紡がれた名前は、少なくとも海祇知明という日本極まれりな名前よりは似合っていた。 

交わすべき話題がなくなって僕は他所を向いた。車が浄智寺の脇を通り越した。屋敷まではまだ少し掛かりそうだ。思いついたように彼が尋ねた。 

 

「ところで少年少女の救出はどうなった。」

「それなら先程グレイさんに救出されたと連絡がありました。」

「当然だ。この私を差し置いてまた好き勝手に彷徨っているのだから尻拭いくらいはしてもらわなければ。」 

 

臍を曲げた言い方だったけど、国木田さんと太宰さんの喧嘩するほど仲が良い関係と同じように二人の間には他者が思做す余地のない信頼が築かれているのだろうと思った。 

 

「よく、グレイさんをご存知なんですね。」

「少なくとも他の人間よりかは知っていると思っていた。」

「というと?」 

 

不意に開放的な後部座席に陽光が差し込んできた。漆黒で統一された内装がじんわりと温められて色が溶けてゆきそうな鈍く薄い光だ。雲が太陽を覆ったことで日差しはすぐに消え失せてしまったけれど、余光がプラチナブロンドを透き通らせていた。 

 

「案外、孤独な男なのかもしれない。」

「え?」 

 

眠っている赤ちゃんに囁く親のような音色だったので、僕は一瞬その一言が幻聴ではないかと疑った。けれども長閑な眼差しをここには居ない誰かへと送っている横顔を見留めてしまえば、それが心奥から転び出た言葉であると理解せざるを得なかった。 

不可解な台詞の意図を追求しようとして、それよりも先に田中さんが割り込んできた。 

 

「そういや猪三郎とクソ誘拐犯は見つかったのか?」 

 

直蔵さんばかりか組の誰とも連絡がつかない状況に遮二無二運転で憂慮を紛らわせていた彼は僕達の会話を聞いていなかったようだ。人徳会の彼等は猪三郎君以降のナオミさん誘拐の(くだり)も知らない筈なので簡潔に見つかって保護されているとだけ伝えると、田中さんは愁眉を開いた。 

 

ふと、疑問が起こった。武雄さんは約束を反故にされて以来音信不通となった孫息子を心配して探偵社の僕に捜索依頼をした。朝の時点では理由が明白な失踪というよりも単なる孫煩悩の杞憂だった筈だ。…たかがドタキャンに彼程の前金を渡そうとしたことに対する説明もついていない。 

だけど今、田中さんは猪三郎君の音信不通の理由をはっきりと誘拐だと明言した。それは何故なのだろうか。 

何だか雲行きが怪しくなって、僕は下手に挑発的な追及をするよりも率直に尋ねることにした。すると田中さんは心底不思議そうに返した。

 

「訳わからんこと言うな。お前らが言ったんだろうが、猪三郎が誘拐されたって。」

「…誰が?」

「あの男や。ほらあの寝不足なデカ。」

「覚さん、ですか?」

「おうよ。海祇の若頭…元だったな、あの人が嫁と殺されて猪三郎が誘拐されたって言うからこっちは朝っぱらから大慌て。また華僑の塵どもがちょっかい出してきよったってオヤジの一喝がなけりゃあ今頃山口戻って血祭りだっただろうな。」

「そんなこと」 

 

聞いてない。うっかり云いそうになって唾を飲み込むことで堪えた。云ったら最後、僕が人徳会に向けていた懐疑の目がそのまま返されることは分かりきっていた。 

 

僕の動揺を他所に田中さんは僕が人徳会に招かれる前までの一悶着を独り語りしだす。覚さんの話に武雄さんは直接御子柴邸に赴いて夫婦の死体を発見した。激怒して犯人探しに武器を握った直蔵さんを押し留めたのが武雄さんだった。報復よりも猪三郎君の捜索が最優先事項だった。猪三郎君が異能力者であることも考慮して特務課を頼ろうとした武雄さんに覚さんが一つ提案をした。自分が必ず猪三郎君を見附け出して犯人も特定するから一日だけ猶予が欲しい、その為に協力者として武装探偵社の社員を連れてきてほしいと。そうして僕が指名された。朝の奇妙な依頼は部外秘にするべき案件に僕が介入するに値するかを確かめる試験だったと。 

 

何もかもが不自然だった。覚さんは最初自分を元刑事だと名乗って、箕浦刑事の代わりに人徳会に呼びつけられたと云った。ナオミさんの件で事態が複雑化すると特務課捜査官であることを打ち明けた。 

 

——死後の顔剥ぎは…まあ怨恨でしょう。 

そういえば如何して彼は顔が剥がれたのが死後だと思ったのだろうか。検視官にでも診てもらわなければ何時、どんな手順で蛮行が行われたかなんて一目じゃ判別がつかないだろう。況してや遺体発見直後のあの段階では直接的な死因も明言することはできない。だけど田中さんは恰も犯人と手口を承知しているような言い振りだった。 

それからもう一つ、彼は僕が探偵社を頼るのをしきりに拒んでいた。行政に頼れば不都合があることを、さも人徳会の社会的位地を慮ったかの言い草で。 

 

「どうして?」 

 

雲翳が風に流され晴れ間が広がった。赤信号に車輪が回転を止める。定期試験の期間なのか、外では革鞄を提げた学生達が暗記本を片手にながら歩きをしていた。赤い下敷きがちかちかと瞬いている。鮮烈な色が僕の視覚に警告を与えているようだった。 

 

皆、嘘をついていることだけが頭の中にあって、けれどもそれが何故だかは分からなかった。呆然と景色を見詰めるだけの僕の肩に軽い重みが触れた。

…彼は笑んでいた。僕の困惑と心許なさに寄り添うように。只二言だけ呟いた。 

 

「不安は無用だ。じきに全てが解決する。」 

 

人徳会の屋敷に着けば、全てが。

 

 

 

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