文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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詮索物は目前に

 

 

探偵社を彩る日常は来る日も来る日もさざめき色の非日常に充ち溢れている。憩いの喫茶、賑わう市場、白と黒で分け隔てられぬ万物の錯視、最速で窮屈な電化社会…千態万象の時流の変化が横浜のみならず現世を彩っている。正確に刻まれる時計の針、普遍的な人の想像力、煩悩、心の枝葉。それと同じく変遷の潮流に押し流されようとも不易の真理がある。

 

『昨夜九時頃、横浜市旭区××町の飲食店で原因不明の爆発が発生し、付近の住宅を含め三十人近くが重軽傷を負いました。現在、警察と軍警が原因の調査を進めているものの建物内で爆発に巻き込まれた人がいるかは依然として確認できていない状況です。』 

 

着る服も住処も生活習慣すら変わろうとも、人間は大衆媒体の魔力には抗えない。時代の流れに乗ろうと呑まれようと、携帯電話を開き、朝刊を通覧し、若くは群衆的なテレビを観て誰もが巫女による神のお告げを受けるかの如く己の環境における吉凶を卜しては、未来という抽象的な概念を介して他者との繋がりと孤独感を実感し埋め合わせるのだ。

 

「結構大規模な事故ですね。」

「馬鹿者、軍警が調査に関わる時点で事件に決まってる。」 

「これ、家が近かったから音が凄くて飛び起きましたわ。兄様なんて素っ裸でお風呂場から…その、飛び出してきましたの」

 

探偵社も多分に漏れず、この日に早朝から社を賑わせていたのは事務室に設置された一台のテレビが流すニュース番組だった。昨晩より横浜市民の注目を集めているのは中規模の爆発事件、スポーツ中継でも観るかのように探偵社の面々ももうもうと闇夜に立ち昇る映像を映じる液晶画面の前に集い談話していた。

 

「えっ、事件ですか?」

「当然だ。軍警は警察の手に負えない事件を解決するスペシャリストだ。」

「なら犯人はテロリストとか指名手配犯とかですわね。」

「だろうな。」 

 

一体どのような経緯があればこの世に飲食店を爆破するテロリストとが生まれるのだろうか…。別れた恋人に食事の作法を揶揄われた筋肉ダルマの外国人か、将又自国の料理の魅力に固執する黒服の男達を引き連れた香港マフィアの頭領か。自分には検討もつかないが、爆発事件の裏で大番狂わせの推理小説さながらの瞠目すべき陰謀が渦巻いているのかもしれない。国木田とナオミの会話を聞きつつも敦は脳内に珍妙な犯人像を思い描いていた。

実は被害者はいなかった、犯人は警察関係者だった。あらぬ空想を巡らせては愚にも付かぬと己自身で否定して、そのうちに敦ははたと社内に居るべき一人の姿が見当たらないことに気付く。

 

「あれ、乱歩さんはお休みですか?」

「いや、敦君達が来るちょっと前に人に会いに行くと言って出て行ったよ。」

「珍しいですね。」 

 

丁度福沢と何らかの話し合いを終えた太宰が社長室から現れた。

つい先日、それこそ敦が芥川を打ち負かした日の暮れに数日間行方知れずだった人物が突如戻ってきたと思いきや、「あ、ごめん。ポートマフィアの地下牢にいた。」などと然あらぬ顔で言ってのけたものだから、頓狂な絶叫を上げて椅子から転げ落ちた敦が国木田に叱咤されたのは記憶に新しい。宜なるかな、 されど敦がポートマフィアは芥川や黒蜥蜴をはじめ、今となっては探偵社の一員だが元暗殺者の鏡花といった曲者を抱える悪の巣窟。その本拠から単独で逃げ果せたのは、雨天の濁流に流されてはぽっくりと小枝の如く折れてしまいそうな痩躯の太宰だったのだ。驚くなと言われる方が無理な話である。尤も、虎の異能に加えて本人の潜在能力が開花すれば敦にだって不可能ではなくなるが。

 

「おい太宰!早くマフィアに囚われた件の報告書を出せ。」

「敦君!と鏡花ちゃん。今日は君に報告書の書き方を教えよう!」 

「新入りに押し付けるな唐変木!」

 

白紙の用紙を押し付けてくる太宰に目を細めて虚無になる敦、二人の傍ではいつの間にか受け取った書類を抱えて双眸から溢れんばかりのやる気を漲らせる鏡花がいた。 

 

「社長とはどんな話をされたんですか?」

「嗚呼、そうそう。君にも関わる話だよ。」

「え?」

「君に懸賞金を懸けた黒幕の話だ。」

「判ったんですかッ?」 

 

焦込む国木田の気を紛らわせるように敦が然りげ無く話頭を転ずると、太宰は別人格を憑依させたかのように剽軽など知らぬといった顔つきへと変じた。その変わり身の早さに何度振り回されたことか、敦はしみじみと思った。

 

「出資者は組合と呼ばれる北米異能者集団の団長だ。」

「実在するのか?組合は都市伝説の類だぞ。構成員は政財界や軍閥の要職を担う一方で、裏では膨大な資金力と異能力で数多の謀を底功む秘密結社…まるで三文小説の悪玉だ。」 

 

国木田と太宰の口から語られた第三勢力に関する説明は敦ばかりか谷崎兄弟や鏡花にとっても驚愕すべきものだった。よしんば漫画や映画の世界に限られるような隠然たる勢力が存在するならば、それは横浜の闇を執り仕切るポートマフィア以上の脅威に相違ない。そも、何故己が斯様に碌でもない組織に魔手を伸ばされようとしているのか。荒唐無稽な話に雷に打たれたように只々仰天する敦の心情を読み取った太宰が彼の疑問を代弁するように小首を傾げた。

 

「理由なら直接彼等に訊くしかないね。会うのは難しいだろうけど。それと敦君と鏡花ちゃん…特に敦君、まだまだひよっ子の君達には伝えておかなければならないことがある。」

「おい待て、まさか…」

「そのまさかだよ。」 

 

いつとはなしにふらりと消えては現れる流離人の、いつにも増して戯言を慎んだ重々しい気配に敦達は息を呑んだ。太宰の態度から福沢との話合いの主旨を察知した国木田がつられるように顔面神経を強張らせる。

新入社員が一様に傾聴の姿勢に入ったのを確かめると、太宰は一拍置いて言葉を紡ぎ出した。 

 

「現下の横浜には組合よりも危険な存在がいる。」

「えっ。組合以上の、ですか?」

「うん。世界を揺るがすような大事件には必ずといっていいほど現れ、そして霧のように闇へと消えていく。その目的も本名も知る者はいない。」 

 

曰く生きる厄災やチクシュルーブ、戦禍の化身等々、幾多もの通り名を持っており裏世界においては万人が周知している存在だという。世界にも片手で数えられる程しか居らぬ超級犯罪者だと。 

 

「そんな話、私と兄様は聞いたこともありませんけど。」

「あの時お前達は仕事でいなかったからな。」

「彼は数週間前に突如として横浜に現れ、既に異能特務課やポートマフィアと事を起こしている。」

「その男の名前は?」 

 

組合の次は超級犯罪者。怪談話を聞かされた子供もかくやの土気色に染まる敦とナオミの横で鏡花が至って平静を保った声調子で尋ねた。太宰が一瞬逡巡するようにちらりと敦を瞥見する。国木田が口を開いた。 

 

「太宰が言った通り本名も国籍も不慥かだが、奴はこう名乗っている。」 

——グレイ

 

敦の心臓が一際大きく脈動した。尚も言葉を続ける国木田の声が引き潮のように段々と遠ざかっていく。 

脳裏に浮かぶのは敦が窮する度に必ず顕われ、正義の味方の如く在るべき道筋へと導いた男の面影。路頭に迷っていた敦に親身に接し、武装探偵社を紹介し、鏡花の処遇を思い悩む彼に真心からの助言を與えた救世主とも謂える存在。 

 

『へえ、酷ェ話もあったもんだな。今時孤児院が子供たった一人を追放するとは。』

『武装探偵社って知ってるか?』

『悩んでますって顔に書いてんぞ。迷ってんのか。』 

『あの電車でお前は鏡花を救う道を選んだ。』 

 

——そういえば、グレイさんはどうして電車での出来事を知っていた?それだけじゃない、鏡花ちゃんの名前も彼女の境遇も彼は当たり前のことのように話していた。まるで誰かから詳細を聞いたか、僕達の闘いを近くで見ていた(、、、、、、、)かのように。

救世主の物影に微かな、されど確かな亀裂が入った。何かの間違いで同姓同名の別人かもしれない。疑惑をどうにか振り払おうと反論を思い浮かべてみても、一度罅の入ったガラスが元に戻らぬようにグレイの人物像が敦の中でガラガラと音を立て崩れてゆく。

敦が混迷に陥っているうちに全員が彼の只ならぬ変容を注目していた。敦の衷心を見透かすように太宰は確信めいて問うた。 

 

「心当たりがあるようだね。」

「…僕は、そんな筈が……」 

 

この新入社員は国木田や太宰のような英明を前にして隠し事を貫き通せるほど芝居上手な質ではない。到頭返答にも思考にも窮してしまった敦は観念すると彼等に全てを打ち明けることにした。太宰達が己の疑念と消沈を笑って拭い去ってくれることを願って。 

 

………。

 

ありふれた住宅街の一角で呼び掛けられた日、衣服を新調するばかりか食事を提供し、その後も事あるごとに窮地に現れては甚大な言葉で奮起させてきた男、彼の名乗った名前から外見、口調と会話内容と遍くを敦は詳細に伝えた。恩人に対して懐疑的な見方をしている後ろめたさ、万一にも己の言動が探偵社に不都合な作用を齎しているのではという気懸かりで面を上げることができなかった。

 

「残念だけど敦君、君の会った男は私の話したグレイで間違いないよ。」 

 

語り終えるや否や太宰が放った現実は一縷の望みに縋りつくことすら許さなかった。自身が慕ってやまない男が鬼も逃げる犯罪者であった、突きつけられた現実が敦を暗然たる思いに沈ませた。

 

「本人はしがない便利屋だって…」

「笑える皮肉だね。」

「しがないを除けばある意味間違ってはないがな。奴は運びから殺人といった小用から、政治工作といった大掛かりな仕事までをも請け負う闇の便利屋だ。」 

 

夢から現実へと引き摺り出されたような心地だった。敦を武装探偵社へと、前途洋々の未来へと導いたのが単なる幸運などではなく死神の善意だったかもしれない、もはや否定しきれぬ現実がが敦の肺腑を抉った。 

 

「でも、それでも…」 

 

孤独に寄り添った大きな胸の温かさは、共に眼差した鶴見川の輝きは正真正銘の感動だった。情けをかけ力になってくれた恩人の全てが打算だとは思えない。 

 

『会えて嬉しかったよ、敦。またな。』

『譬え間違っても構わねェ、うんと後悔してまた新しい道を探すんだ。』

『幸運を祈ってるよ。』

 

「——その虎、君の異能にそっくりだね」

「ッ!」

 

食事処へと移る前に立ち寄ったブティックでグレイが贈った白虎のブローチ。あの時は心の琴線に触れるだけだった男の善意が得体の知れない不吉へと変じた。お前に似合うと云って胸に着けられたブローチと敦を結ぶ奇縁を、鏡花の事情までもを承知していた彼が存ぜぬ筈はない。覆い難い事実だけが虎の形をとって敦の胸に怪しく煌めいていた。

いつにも増してひ弱な手で自身のブローチに触れる敦を一同は掛ける言葉が見当たらぬまま不憫な心境で佇んでいた。

 

グレイは人心掌握に長けている。異能大戦よりグレイとは積年の悪因縁のある福沢が、男の横浜到来に際して敦のみならず探偵社員との予期せぬ係わり合いを憂いていたにもかかわらず、最悪の懸念が現実化したことを太宰と国木田は悟らざるを得なかった。中途の関与ではない、グレイは新入社員の出発地点からその動向を監視し穫入れの時期を見計らっていたのだ。衝撃的な真実と向き合い動転しつつも、それでも恩人への好意を捨てきれぬ時点でグレイの邪心は成就したに違いない。深く項垂れる憐れな虎を前に国木田は眉根を顰めた。 

 

「ま、彼の考えることなんて誰にも分からないさ。私が君達にグレイの話をしたのは社長の指示だから。今は深く考えずにただ心に留めておきたまえ。」

「はい…。」 

 

普段の明朗さをすっかり陰に潜ませた敦が力なく首を縦に振ると、次いで鏡花達が深々と点頭して事態の深刻度合を理解したことを示すと、太宰は満足げに雰囲気を緩和させた。

 

「しかし組合といい、グレイといい奴らの目的は一体何なのだ。」

「直接訊くしかないね。幸いにも組合もグレイも敦君に関心を置いている。上手く裏をかけば…」 

「た、大変です!」 

 

太宰の言葉を社の玄関扉が乱暴に妨げた。「兄様?」と目を丸くするナオミを顧みず、事務室に飛び込んできた谷崎は窓へと一目散に駆け寄る。「ほら!」や「あの!」と明確な台詞を発さず平常の落ち着きを失くす谷崎を一同は顔を見合わせて訝しむ。しきりに窓外の何かを指差す彼に、鏡花達ばかりか室内にいた全員が立ち上がりその方角に視線を動かした。 

 

…探偵社に接する公道に、ヘリが一機停まっている。プロペラを高速回転させ、巻き起こった暴風が周囲の並木を激しく乱れさせている。周辺の通行人が注目する中で、一目瞭然の異国人が機体から降りてきた。三人組だ。

 

「先手を取られたね。」 

 

一人が探偵社を指差してこちらに歩を進める様を見留めると、太宰がしてやられたといわんばかりの露骨な苦味を歪んだ笑窪に湛えて足早に社長室へと消えていく。応接室を整える為に慌ただしく身を翻した国木田を尻目に敦は外に注目した。異国の来客者は既に建物の真下にまで迫っていた。

敦自身か、虎の勘か、迫りつつある波乱の予感に敦は知らず掌をきつく握り込んだ。

 

 

優美な旋律と管弦楽の力強い主和音との対話は始まったばかりだった。コーヒーカップとソーサーがかち合う音が壮大で抒情的なピアノ協奏曲に参加して、長閑な室内に優雅な彩りを添えている。独奏者の堂々とした華麗な技量が窺え、洗練された交響楽団の演奏も相俟って聴衆に発揚するような曲想だ。ピアノ協奏曲第五番、皇帝。季節に合わせた温かみのある照明がバロック様式の内装を一際洗練されたものへと高め、円熟したクラシックと共に訪う客を最上級の安らぎへと誘ってくれる。 

 

「オーナー、クッキーを二つとコーヒーをもう一杯。」

「はい、只今。」  

 

週替わりの珈琲豆は今回はウィナ、エルミラドール。ブラジル南部の高品質な珈琲豆だ。ねっとりとした甘さにバランスの良い酸味が口いっぱいに広がってくれる極上の一杯。最後のほんの一口を音を立てずに啜ると、折良く新たな一杯が注がれた。普段よりも他客の出入りが少ない水曜の午前は周りに気を配らず悠々閑々のひとときを過ごせる絶好の休憩日和である。

今日もオーナーの奥さんの手作りクッキーを一つ放り込み、コーヒーとの相性を楽しむ。ブール・ド・ネージュ、アーモンドダイスを練り込んだフランス菓子だ。空気を含ませずにバターと卵を乳化させた食感を舌で堪能して、儚い口触りが溶けてなくなる頃に肺いっぱいに煙を吸い込む。これが堪らない。

 

「そういやオーナー、新しい従業員を探してるって聞いたが」

「パートの子を一人雇っているのですが来月から受験が始まるそうなので。」

「もうそんな時期か。」 

 

受験勉強なんて気が遠くなるほど昔の話だ。色々と偉人の名言集を壁に貼り付けたりしてる俺にそんな時間があるなら勉強しろと正論を突きつけてきた幼馴染を思い出す。どう偉人に激励してもらったところで結局は本人のやる気次第である。だがまあ、やることやりゃああとは気合いでって時代じゃなくなったんだから、今の受験生は苦労が絶えないだろうな。 

二人きりの閑静極まる店内、他の常連客の近頃の趣味や奥さんの手料理の旨さ等…他愛もない話を膨らませていると、不意にドアベルが心地良い音色を鳴らした。間を置かずいらっしゃいませとオーナーが歓迎する。来客だ。

だが俺は入口を気にせずオーナーからカウンターテーブルへと目線を落とした。コーヒーの波紋を眺めていれば、隣のカウンター席に人が座る気配がした。 

 

「マスター、オレンジジュース一つ!」 

 

底抜けに明るくも深みのある声が店内によく通った。妙に破調な音頭に惹かれてちらと横目で盗み見て、思わず舌打ちを零したくなった。 

江戸茶が主張された外套に探偵帽子、印象的な糸目に年齢に見合わぬ童顔。探偵社屈指の頭脳派社員、江戸川乱歩はこちらを見詰めてご大層にも得意げな微笑を貼り付けていた。 

 

「会えて光栄だよ、グレイ。」 

 

今時の小学生でもしないだろう、椅子の下で足をぶらぶらと揺らして厭味たっぷりに江戸川は言い放つ。好意的な台詞のわりに一向に伸ばされない手は太腿の下で握手を拒んでいた。仕返しとばかりに態とらしく口元を歪めてみせる。 

 

「お得意の超推理か?」

「もっちろん!この僕が自発的に超推理を使うなんて滅多にないんだから、感謝してよね。」

「高々俺の居場所を中てる為に?それはそれは、恐れ入ったよ。」 

 

嘆息を漏らしたくなるのを抑えて、差し出されたオレンジジュースを美味しそうに飲む大人子供から視線を外した。

原作に巻き込まれたくなくて登場人物には極力関わらないようにしていたんだが、どうしてかこのエルキュール・ポアロもハンカチを咥えるほどの天才は自ら裏社会の便利屋の(つら)を拝みにきたらしい。だからといってうずまきの常連をやめるつもりは毛頭ないが、傍迷惑な話だ。

ここはとっとと要件を聞いて俺が先に去れば良いのだと思い至って先を促すと、江戸川は歯跡の残ったストローから口を離した。

 

「君でしょ、敦を探偵社に送り込んだのは。」

「送り込んだ?とんでもない、俺はただ軌道修正しただけだ。」 

 

俺の所為でうっかり原作イベントを逃しそうになった主人公の補導をな。そう伝えると江戸川はふぅんと相槌を打ってその細い眼を見開いた。…今の会話のどこに推理する要素があったのだろうか。矢張り綾辻然り江戸川然り、探偵の思考は計り知れないものがある。すると俄かに猛烈に大忙しとなった昨日一日の出来事が蘇って珈琲とはまた違った苦味が込み上げてきた。香ばしいクッキーを食べて味覚を変えようと試みる俺の隣で、江戸川は興味を失ったのかオレンジジュースを吸入していた。 

 

「早速火種を撒いたみたいだね。特務課と軍警は上を下への大混乱だよ。」

「何の話だ。」

「惚けないでよ…昨夜の爆発騒動に決まってるだろ。」

「…嗚呼、アレか。」 

 

出来立てのカルボナーラと蛸とトマトのタリアテッレと六種のチーズニョッキをやっとのことで手に入れ、知人宅に向かうと待ち侘びていた二人から盛大なブーイングを食らった俺はどこまでも不憫だと思う。ピザ屋を訪ねて三千里、は流石に誇張だが夕食会から帰宅してベッドに寝転んだ俺の疲弊具合はそれと同じくらいに酷かった。いつの間にやら綾辻の探偵業に巻き込まれていたのは不運としか謂いようがないが、イギリス人の傭兵を始末して結果的に横浜に巣食う悪の芽——言わずもがな俺の平穏を脅かす悪の芽だ——を取り除けたのは幸いだった。

 

「下手すれば国会議員の半数以上が失脚するところだった。過去最悪の政治不信だ。」

「そりゃあ災難だったな。なんせ俺も思い通りに事が進まず苛立ってたもんでな。」

「その結果が未曾有の世相混乱だって?」 

 

ピザ屋を巡る事件で行政破綻とはなんて大袈裟な。ペドフィリアの変態どもが逮捕されたところで補欠なんていくらでもいる。些細な不祥事の一つや二つで政局が揺れ動くほど政治家はやわではない。三流映画にもない阿呆らしい展開に苦笑が溢れた。

俺の態度をどう受け取ったのかは知らないが、江戸川は深閑な森の奥懐の如き二つの翠色を覗かせた。

 

「君がどこの誰を死に至らしめようと僕には関係ないし、どうだって良い。けど…探偵社は僕の居場所で何にも代え難い大切な宝物だ。もし手を出すなら覚悟しなよ、僕は全身全霊を懸けて君を倒すから。」 

 

朗々とした口調で江戸川は云った。その眼差しには幽々たる意志が篭められており、本気の音色を感じた俺は場違いにも江戸川の顔貌を魅入った。 

彼が何かを誤解していることは明々白々だが、今日が初対面の相手にどのような誤解をされているのかまるで理解できない。解せないモンは仕方ないと、俺は応えるように真面目くさった面持ちで返した。

 

「肝に銘じておこう。」 

 

 

三分の一まで吸った数本目の煙草を灰皿に棄てる。吸い殻が土砂崩れを起こした鳥取砂丘みたいに形を崩した。

多幸感に浸っていた午前の麗らかな憩いから一転して、店内は空気の悪いティータイムへと変容してしまった。こんなにも落差の激しい骨休めは初めてだと、灰の丘で熱が消えたのを見届けてから俺席を立つ。  

 

「最後にもう一つ」 

 

金を払ってオーナーに礼を告げ店を去ろうと、扉に手を掛けたところで江戸川が呼び止めた。

 

「僕達をポートマフィアと組合と衝突させてどうするつもり?」

「組合?あの程度の奴ら探偵社にとっちゃ朝飯前だろう。」

「随分と買ってくれるんだね。新人を渦中に引き摺り込むほどの理由は見当たらないけど。」

「敦には越えなきゃならねェ壁がまだまだある。」 

 

近い未来、世紀末がやってくる。皆揃ってゲームオーバーなんて結末も有り得なくもない。同じ横浜という地に根差す以上うっかり巻き込まれて弔鐘を鳴らされない為にも敦には今以上に成長して貰わなければならない。主人公だから特段心配はしてないがな。俺ごときが干渉しなくたって勝手に物語は進んでいくものだ。 

見返りもせずにそう告げると店内に沈黙が落ちた。一応は満足してくれたようだ。それ以上声が掛かってこないのを尻目に見定めて俺はうずまきを出た。

 

………。

 

店の外に出れば異様なさざめきが辺り一帯を包んでいた。やけに不穏な面相をする地域住民の態度に奇妙に思って視線を巡らしてみると、目前の路上に停まる一機のヘリが目に留まる。日本では早々お目にかかれない珍百景に様子を伺っていれば、疾風を起こす機体から三人分の長脚が何とも太々しい足取りで降りてくる。

見覚えのあるソイツらは、操縦士に向かってハンドサインを送ると探偵社の方へと体を反転させた。

 

組合編の始動である。

 

愈々街が騒々しくなるなと、この先に起こり得る災難の数々を記憶から掘り出して、俺は野次馬に加わるのも程々に雑踏に紛れその場から立ち去った。…一瞬、去り際の一瞬だけフィッツジェラルドがこちらを見た気がしたが、まさかな。

 

 

 




これにて変若水事件編は終了です、次回からは組合編です。よろしくお願いします。
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