廃線危機を心配するくらいに乗客の疎らな列車は規則的な警笛を鳴らして熱心に走行していた。時に溜息や歯軋りを軌道と接する下部から発生させて次から次へと駅に通りがかっては何もかもを置き去りにしてまた発車していた。最後尾車輌に移らずとも不便な都市近郊部を巡る蒸気機関車の車内には憚るほどの人目もなかった。
一足先に乗車したQはボックスシートに不機嫌を隠しもせずに座っていた。エリスをQの隣に座らせて真向かえば、まるで妻の代わりに子供達を遠出に連れていく父親の気分である。
「んじゃ改めて自己紹介しようか。俺は」
「私はエリスよ。このヒトはグレイ」
「せめてお爺ちゃんといえ。お前の名を聞こうか。」
「お爺ちゃん達が勝手に名乗ったんじゃん。」
「坊主、自己紹介は最低限の礼儀だぞ。」
円滑に会話を進めるために穏やかな雰囲気作りから始めたのだが気配り損だった。終始ぶっきらぼうな面相に適当に教え諭せば大層嫌そうに少年はQと名乗った。
「それにおじさんのことは知ってるよ。座敷牢から出してもらった時に聞いたもん。」
「へえ、あの偏屈医者が俺のことを?」
変哲もない便利屋についてを年端もいかない子供に説き伏せる内容なんざ悪口以外に考えられない。十五年以上も銃を握っておきながら未だに正確に照準を合わせられないクソエイムだとか、中年も間近に迫っておきながら女の影一つない独身便利屋だとか、どうせそんな類の誹謗中傷に違いない。辟易として頭を抱えたくなるのを堪えれば、聞いてもいないのにQは悪戯っ子もかくやの面輪で堂々言い放った。
「お爺さんと戦っても碌なことにならないから何もしなくていいって言われた!さっきは凄かったね、僕うっかり止めちゃったや。」
「しっぺ返しの方が痛いって言ってたわね。」
ほらみろ、奴は俺の便利屋としての手際の悪さを影から嘲笑していたのだ。甚だしく不愉快だが俺の収入と世間の評判に伴った実力が備わってないのは事実である。要員に対して俺へのお節介やらが下命されてないのなら願ってもないことだ。
いつの間にかエリスが持参していたクッキー缶を開けてQと頬張っていた。これ何?クッキーよ!美味しいでしょ。なんて気分が和む二人のやり取りを見守っていれば、いつか風邪を引いた妻に頼まれて息子と娘を苺借りへと連れていった日が思い起こされる。胸に込み上げる情感を紛れさせようとクッキーを齧ればすかさずエリスが文句を寄越した。ほろ苦いココアの味だ。
車窓の外を見遣ればローカル線ならではのレトロな味わいのある景色が広がっていた。海沿いの彼方には埋立地や廃工場の非日常な趣が秘境に訪れたような錯覚に陥らせる。いつまでも無為に眺めていたくなる景色は、悲しいかなあと三駅で目的地に到着するというアナウンスに失望させられた。そろそろ葡萄畑が見えてくる頃合だった。
「君に僕の異能って効くの?」
「やってみないとわかんなーい。」
とんでもない言葉が聞こえて目線を戻せば忽ちのうちに柔和な子供同士の会話に不穏の花を咲かせる二人が向かい合っていた。膝に乗せた愛嬌の欠片もない人形を抱えたQと興味津々にそれに傷をつけようとするエリスに即刻間に入った。こんな公共の場で凶悪な異能を発動するんじゃないと揃っておでこを小突けばちびっ子どもは態とらしく痛がる素振りをした。
「ちぇ、良いよ別に。おじさんもそのうち壊してあげるから。」
いたいけな少年の唇が愛情を知らぬ形に吊り上がった。しなやかに緩められた目尻に反して不均一な双眼に浮かぶ模様は恒星らしくない翳りを孕んでいる。俺は無意識のうちに手を伸ばしていた。Qばかりかエリスまでもが唐突な愛撫に面食らっていた。
「人生の楽しみは人を壊すだけじゃない。」
左右に撫でる手の動きに従って白黒の絹糸のような髪質がふさふさと靡いた。食べかけのクッキーを含んだまま、Qは無防備に小首を傾げた。
組織に有益な異能を生まれ持ってしまったが故に陽の射さぬ座敷牢に閉じ込められ、畢生の意味すら見出せないまま与えられた惰性に従い呼吸を続けるだけの毎日。食べて寝て、人と関わり時に嘆き憤りながらも朝日を待ち侘びる…そんな些細な悦びの積み重ねすら許されずに育った子供を何の感情も抱くなという方が無理があった。必然だったとはいえ過当に犯罪を犯すことで人様の人生を妨害してきて、此の期に及んで不遇な扱いを受ける少年一人に憐憫を抱くほど善人じゃない。
だが、如何してだか此奴を見てるとアイツらの顔が過ぎるのだ。昔、まだ俺がこの世界に来て間もない頃に拾った迷い犬二匹を。一匹は親元へ帰れず、もう一匹は親に捨てられて途方に暮れていた。明日への希望など絶無だとその姿態で訴え、奈落の底に墜落しようと観念しつつも何処かで救済を求めている眼差しを見過すことができずに思いついたままに連れ帰った。いつしかもう一人も増えてこの世界でも四人家族となった俺達は濃密ながらも代え難い絆を強めていった。今や三人は実の子供と同じように各々の道を選び定めて巣立って行ったが家族であることには変わりはない。
「俺の元に来い。」
「おじさんって馬鹿?」
奇妙な感覚だ。子守りをする気は毛頭ないが、かつてどん底で這い蹲っていた仔犬どもと同様に悲愴な傷を深層にひた隠す少年を見捨てるつもりも今の俺にはなかった。益々歳を食って物事への愛着が増したのだろうか。
「しけた面してる小僧に言われたくはねェな」
「しけた?」
「つまんねェって顔に書いてんだよ。」
Qは図星を突かれたように黙り込んだ。随分前に会話に飽きて流れゆく景色を堪能していたエリスが、学校の不良生徒みたく金髪を指先で弄びながら抗議した。
「無理よ。Qは仕事があるもの。」
「なら終われば迎えに行けば良いだろう。」
「仮にも私の前で言うことじゃないわね。」
俺は無視を決め込んだ。お前さえ黙っていれば不都合は生じないのだからとの意を込めて人差し指を立てれば、「んもうー!」と子牛もさながらの文句が漏れた。
『まもなく、××駅に到着します。お忘れ物のない様にお願い致します。』
丁度良い頃合いに車内アナウンスが流れた。録音された音声だ。俺達を乗せた列車はいつの間にか異世界へと誘われていた。視界一面に広がる瑞々しい紫と緑、圧巻の葡萄畑だ。中心部から少し離れただけの在方とは思えぬ豊かな自然に恵まれていた。
機関車が一層姦しく蒸気を発して徐々に減速してゆく。時間が押していた。
「どうだ、今よりかはマシな世界へ行きたくないか。」
子供のくせにQは気難しく考え込んでいる。眉間に懊悩が刻まれないのは偏に張りのある若さ故の特権といえるだろう。表情から察するにあと一押しといったところか。感触の良さにほくそ笑む俺に宗教勧誘みたいなどと聞き捨てならない呟きをしたエリスには確りと凸ぴんをお見舞いしてやった。
ガタンと車体が揺れて鉄の車輪を軋ませながら機関車が制動した。時間切れだった。
低く不細工な口笛を吹いて扉が緩慢に開かれる。口惜しさに後ろ髪を引かれつつも俺は腰を上げた。別れを告げてからエリスを伴い降りようとして、ついと呼び止められた。体ごと振り向けば思案していたQは立上がって身を乗り出すようにして通路にそわそわと佇んでいた。
「なら、約束してよ。全部終わったらちゃんと迎えに来るって。」
微かな期待を孕んだ声調を聞き届ける前に、俺は歩み寄って己の小指の三分の一ほどもない小さな指と自身の小指とを絡ませた。
「ああ、約束だ。」
煙突から黒煙を噴き出して蒸気機関車は発進した。窓を開けて顔を晒すQの髪が列車の加速に抵抗するように
………。
「葡萄畑とか言って、最初からQが目的だったのね!」
駅を出て並木道を進んでいるうちに、てっきり先を急いでいるとばかり思っていたエリスが頬を膨らましてぼやいた。前々から支離滅裂な喋りは多々あった為に今回も異能生命体としての何らかの不具合だろうと知らん振りを決め込んだ。案外コレの保護者も苦労してるのかもしれないと一ミリ程度は思い遣ってやらなくもない。
己を蔑ろにされたと思い違ったエリスが舞い戻ってきた。大層ご立腹のようだ。
「ちょっと聞いてる?しかも太宰の相手までさせられて…出血大サービスよ!リンタロウにもしたことないわ!」
「今度またケーキ屋にでも連れてってやるさ。そうだ、スーツも新調してやろう。」
「んぅーもう、仕方ないんだから!」
次回の不本意なパパ活の約束を取り付ければあっさりと態度を軟化させた幼女に然しもの俺も危機感を抱いた。人間じゃないのは判っちゃいるがこんなにも扱いやすくて善いのだろうか。成長する筈のない子供に危険な大人には気をつけろと忠告してやれば訝しげな眼差しで返されたのは遺憾である。
ほんのり甘く、清々しい香りが鼻を擽った。とうの昔に老化した感情が、衰え枯れた心が久方ぶりに目の当たりにした農園の眺めに波打った。農家の弛まぬ努力がたわわに実を結んだ、蒼穹からの光線と新鮮な空気に煌めく一幅の絵もかくやの佳景だ。
「わぁあ!見てグレイ、こんなに綺麗!」
「…嗚呼、綺麗だな。」
嬉々として両目を輝かせたエリスが籠から放たれた小鳥さながらの雀躍っぷりで葡萄畑へと駆けて行く。あっという間に遠ざかっていく彼女と色合いの善い背景とを一望しながら、人知れず漏らした嘆声は精緻な景色へと馴染んでいった。
空と紫、それから前方を見渡せば遠くに一軒だけ忍びやかに構えている喫茶店を見つけた。暫く立ち止まり爽やかな空気を十分に堪能してから俺は歩を進めた。
不図、野趣に富んだ僻遠の地には関係のない事柄が脳裡を過った。近頃やけに耳朶に届く巷の噂が。組合の構成員の中でも一際曲者がいた筈だ。確か名前はハワード・フィリップス・ラヴクラフトだったか。んでもってQの次なる標的は組合の一員…否、果たしてアレを人と形容して良いのだろうか。
「大事にならなきゃいいんだが。」
少なくとも枕を高くして眠れなくなるような事態には。しかし細やかな願いを嘲弄するように、吹き荒れた一陣の風が俺の零した懸念を掻き消した。