文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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ミゼラブル

 

 

農業と酪農、漁業が盛んなプリンスエドワード島の農村地域、カナダ東部のニューロンドンで私は産れた。人口が千五百人にも満たない過疎集落で、曖昧な記憶が正しければ保守的で支配的な両親に生後数年間は育てられた。

村八分という言葉があるように排他的な社会では他人の欠点や異質さは、恰も姑が拭き残された埃をくまなく探し求めるが如く論われる。学校であろうと職場であろうと閉鎖的な環境なら何処でも起こり得る人間の悪癖だ。普通の人間が持ち得ない特別な能力を生まれながらにして保有していた私にも漏れなく排除の論理は適用された。家族には気味悪がられ、敬遠するように放り込まれたプリスクールでも異能力者という異物を受け入れてくれる人は居らず虐げられてきた。小学校に入る前には最も恐れていた災難が降り掛かった。存在を認められたい、唯それだけの為に懸命に跪き、人の嫌がるような仕事を進んで熟してきた私を両親は無為徒食だと糾弾し、挙句孤児院へと捨てたのだ。

新たな居場所でも同じことが起こった。家、学校、孤児院…それらは変幻自在に名前を変えているだけの不幸そのもので私にとっては地獄に過ぎなかった。誰も彼もが程の良い憂さ晴らしが出来る相手を求めていたことは幼いながらに理会していた。

 

『どうしてこんな簡単なこともできないの!』

『あの気持ち悪い人形とお似合いねぇ』

『言うことをお聞き!こっちはお前が役立たないならいつでも捨てられるのよ!?』

 

殴る蹴るなんて日常茶飯事、躾と称して過剰な暴力を受け、死を覚悟した回数だって両の手なんかじゃ収まりきらない。一ヶ月に三人は失踪するような不潔で劣悪な環境下で道端に捨てられるか、或いは良からぬ里親に引き取られないようにと這い蹲ってカビの生えたパンだって貪った。個々の人格や尊厳など端からないものと見做される其処では就中異端な私は格好の餌食だった。

カナダの夏は最高四十九度、最低マイナス二十度にも至る。人だけじゃない、気候変動の激しい場所で冷房も暖房も設られてない房に囚人みたいに収容されて自然の猛威にも直面しなければならなかった。暑くて寒くて痛くて苦しい…毎日が過酷な生存競争だった。どうして私だけがと、いつ死が訪れるやもしれない虐待の温床で希望のない未来へと生き延びる為に歯を食いしばって耐えてきた。 

ハラスメントなんて言葉じゃ語りきれない理不尽を受け続けた最悪の幼少期の或る日、一人の男が前触れもなく私の人生に曙光を射し込んだ。

 

『この無駄飯食いがっ!お前は本っ当に役立たずだね!』 

 

鼻毛すら凍てつく真冬の昼下がり、院長の買い出しに付き添った先で私よりも年下の子供がひょんな失態を犯して三日分の食材を無駄にしてしまった。けれどもその子は幸いなことに里親が決まっていた。引取先は不妊症の老夫婦、お金と暇を持て余した気立の良い、この上なく優良な里親だった。常日頃から虐めの主犯格に可愛がられている——実際にその子は私でさえ将来の美貌に羨望を抱く程に愛らしい顔付きをしていた——新入りが他の子達と同じように異分子へのリンチに加担するのも当然の成り行きだった。私は今日も嵌められたのだ。

もう一人の家族(、、)を喫茶店に残して、責を擦り付けられた私は院長に人通りの少ない路上へと引き摺られて折檻を受けた。

 

この日の院長は如何したわけか中々怒りが収まらなかった。なんでこんなに苛つくのよ、なんて罵詈雑言と横暴の限りを尽くす本人が自分に驚いているのだから世話がない。普段と変わらぬ筈の体罰は次第に杖が壊れるくらいに悪化して、腹の虫が収まらなくなった院長は遂に地面に転がっていた鉄パイプを手にした。嗚呼、今回は駄目かもしれない。曇天から降り注ぐ雨雪と打擲を希薄な意識の片隅で眺めていた。

大の大人が掲げる鉄棒がゆっくりと振り下ろされていく。私は死を覚悟した。瞼を固く閉ざして來る痛みに構えて…けれども待てども待てども何も襲ってこない。パイプも、罵倒も、死も。

 

『そのへんにしとけ、死んじまうぞ。』 

 

次いで馴染みのない声が院長を止めたのを悟ると、私は絶望で眼を虚に開けた。恐々と面を上げる。院長が振り被ろうとした鉄パイプを掴み止めている男が居た。時折孤児院の募金活動で訪れる都会で、貧相な子供なんかにも目もくれず時間にせっつかれた足取りで過ぎ去っていくような働き盛りの装いをして、こんな極寒に指先のない手袋を着けて、一枚の仕立ての良い外套を羽織った程々に裕福そうな二十代くらいの男だ。そして私が最も忌み嫌う、善意が仇となるなどとは露ほども思わぬ質の人間だった。

 

『貴方には関係ないでしょう!』

『子供が撲殺されかけてんのに見て見ぬふりする奴はいねェよ。』 

『何ですって?』

 

嗚呼ほら、どうして中途半端に首を突っ込むの。帰ったら癇癪を起こした院長に本当に殺されてしまうじゃない。マッチ売りの少女を見放した大人達のように無関心を貫いて素通りしてくれた方がよっぽど救われるというのに。

 

『じゃあ貴方が面倒を見てくれるっていうんですか!』 

 

二人の口論——正確には院長が一方的にヒステリックに喚き散らしてるだけだけど——は沈静化するどころか過熱し、金切り声で捲し立てる院長を若い男は指弾し続ける。以前にも幾度か傲慢なまでに正義感の強い人間に手を差し伸べられたことはあった。けれどいざ院長がこうして圧をかけると決まって彼等は尻込みするのだ。善意の第三者から一転して薄汚い塵埃でも見るかのような蔑みを私に注いで、そして愛想笑いで去っていく。

皆んな皆んな所詮は上部だけの優しさを発揮して称揚を得られる時期を求めていただけの偽善者。彼だって感情移入のない残酷な親切を気まぐれに施こそうとしているに決まっている。このままへらへらと眉を下げて歩を転じるのだろう。今日孤児院に帰って院長が包丁を持ち出したら本気で呪ってやるんだから。

 

そうやって私は憎しみの籠った眼差しでまるで他人事のように成り行きに凍えながら身を任せていた。けれども男は未だかつてない変人だった。

 

『それも良いな。』 

 

私と院長の予想に反して男は思考する間もなく肯んじた。

 

 

男が一つ返事で私を受け入れたのには彼なりの理由があったからだと察せられたのは院長から引き取られた直後のこと。訳も判らないまま孤児院を去ることになった私は院長の見送りもなく促されるがままに人通りの一切ない路地裏へと入った。もはや諦観の境地で差し出された手を握って、けれども瞬きの後に待ち受けていたのは凌辱でも暴行でもなく新天地の風景だった。そう、詰まるところ彼も私と同様に特異な能力を有する異端者だったのだ。

一瞬にしてプリンスエドワード島から——後に判明したけれどその国は西欧に位置していた——を踏み締めた私と男は都心部に佇む中層マンションに向かった。そして其処で出会ったのは、男と同じアジア人の青年だった。物腰柔らかな風貌の青年は私を見留めるや否や頭が痛そうに男を見遣った。 

 

『グレイ、流石に未成年誘拐はどうかと…』

『違ェよ、貰ってきたんだ。』

『現行犯逮捕だね。』

『話を聞け。』 

 

孤児院からの脱出、超能力を操れる男、困り顔の青年。半日も経たないうちに引き起こされた怒涛の展開に戸惑いから抜け出せずにいる私を他所に二人は言い合いを始める。

孤児院とも大差ない身の置き場のなさに部屋の隅で佇立して、俄に嚔をした私に注目が注がれた。大気中の水蒸気が余すとこなく結晶化された酷寒の中で激しい体罰に耐えていた身体が、セントラルヒーティングのよく効いた室内に移って服が湿り出した所為で纏わりつく悪寒に耐えられなくなっていた。男は抗議する青年を制して何処かへ消えると、直ぐに戻ってくると私に汚れ一つない綺麗な洋服を押し付けた。 

 

『まずは風呂に入ってこい。んでその襤褸切れはゴミ箱に捨てちまえ。』

『なんで…』

『あ?』

『偽善的ね、助けた自分に酔ってるだけでしょ』 

 

漂う空気の温もりが身を切るような冷たさに悴んでいた私の身も心も氷解させた。するとじわじわと湧き上がってたのは数分前に過去となった孤児院への憎しみよりも、現況への安堵よりも、眼前の不審な偽善者に対する行き場のない八当たりとも謂える憤りだった。口に出せば最後、また新たな地獄へと突き堕とされるかもしれない、頭では判っていても抑えきれなくなった感情は悪態となって吐き捨てられた。不思議なことに一度吐き出してしまえば、案外簡単に自分自分を捨てる覚悟ができた。

何も間違ったことは云ってないのに、瞠目した青年は自分が傷つけれられたような色を宿した。対して男は特に顔色も変えず、尊厳を踏み躙られて激怒する素振りも見せなかった。けれども然有らぬ声調で返された言葉は却って私の神経を逆立てた。 

 

『なんとなくだ。』

『は?』 

『大した理由はない。』

 

思いも寄らぬ返答にきっとこの時の私は大層間抜けな顔をしていただろう。逆に侮辱を与えられたのは私の方だった。なんとなくって…そんな野良の犬猫を拾うような感覚で私は連れてこられたわけ?一層の怨嗟が渦巻き破滅的な咆吼に転じようとして、しかしそんな私の裡で燻る激情を知ってか知らずか男は無神経にも会話を続行させた。

 

『そういやまだ名前を聞いてなかったな。』

『先に名乗るのが礼儀でしょ』

『そりゃそうだ、失礼。俺はグレイだ。』 

『どうせ本名じゃないじゃない。』

 

まあな。…どこまで人を虚仮(コケ)にすれば気が済むのか。院長が逆上したのも無理はない、この男には超能力とは別に人の気分を害する天性の才能があった。孤児(みなしご)だからって散々馬鹿にして、愈々袖を託し上げようと意気込んで不意意に窓際に立つ男の背後、窓外でしとどに降る雪が先刻の苦痛を蘇らせることで私を引き留めた。今、この男の不興を買って追い出されても私には行く当てがない。こんな寒空の下に放り出されればそれこそマッチ売りの少女みたいに惨めに凍死する最期を迎えるのは火を見るよりも明らかだった。

結局私は深く超嘆息を漏らしただけだった。そうよ、どうせこの変人が面倒を見るって名乗り出てくれてるんだから甘い蜜だけ吸って時期を見計らって逃げれば良いじゃない。 

 

きっとそう遠くない未来、男が心変わりする前に。だから私は意を決して男を、グレイを見据えた。

 

『…良いわ、なら私はアンよ。』 

 

覚悟が早々に砕かれてしまうなんてこの時の私は夢想だにしていなかった…。 

 

 

汚物塗れの鼠と一緒に布団を被る寝床も、腐りすぎて原型の判らない質素な食事も、睡眠時間を削って素手の掃除を強要されることもない。温かいお湯が張った浴室に入れて、身に纏うお洒落な衣服は解れ一つなく熨されている、年中空調が稼働している部屋は不便のふの字も見当たらず足りなくなった必需品は裸足で買い出しに行かずともグレイ達が補充してくれる。三人で街を歩いた日には通りすがりの普通の家庭と何ら変わらない睦まじい家族のお出掛け気分を味わえた。

 

経験したことのない感情の数々が一ヶ月も経たないうちに次から次へと私を襲ってきた。傷だらけの身体を引き摺って懲罰部屋から相部屋に戻れた日の細やかな喜びが、毎夜鉄格子から覗ける隣の家の窓に映る貴族さながらの三人家族の生活が、是迄私が自分の眼で見て聞いて感じてきたことの総てが覆されたような衝撃だった。孤児院では決して得られないこの上なく贅沢な暮らしが世間一般では、私が毎日溝の水を啜るくらいに当たり前の日常だったのだ。打算的じゃなくて、いつも自分を想ってくれる誰かが傍に居てくれることの温もりを私は知らないでいた。 

鏡に映る己の姿が見る見るうちに白鳥の真似をした只の醜い家鴨(アヒル)の子に見えるようになった。こっちが普通の子みたいに微笑めば、鏡の向こうの私は嘲るように嗤い返してくる。そして残酷な真実を突きつけるのだ。お前は與えられた幸せを貪って豚のように肥えて、終いには食べられもせず道端に捨てられるのだと。…余計に惨めだった。彼程渇望していた一発逆転の人生が向こうから降り注いできた途端、今度は誰かに認めてもらおうと必死だった是迄の自分を全否定されてるような気持ちにさせられた。

 

多感な時期、波乱の人生、突として誰にともなく授けられた恩賞を素直に受け入れられなくなった。極端な幸福と不幸とに揺さぶられておかしくなってしまいそうで、心の整理がつかなくなった私は或る日グレイに混乱をぶつけた。沢山叩いて蹴って家を壊して、聞くに耐えない暴言を吐いて。もうこれでお払い箱だって、どこかでほっとしていた。そうよ、私には最初から掃き溜めでの生活がお似合いだったのよ。荷物も捨て置いて出て行こうとした私をグレイは引き留めた。

器物損害の罰金でも払わされるか、一発や二発殴られるものかと身構えた私を彼はあっさり手放した。それどころか謝ってきた。己の善意が迷惑なら顔も合わせなくて良い、いつでも出て行って良い…今度こそ拍子抜けした私に最後に掛けられた言葉は、私が両親に捨てられる前から抱えていた艱苦に対する応えを見出させた。

 

——他人に認められるよりも先ずお前自身が存在を肯定しろ。

…二人は私を待っていた。過去の呪縛から解き放たれるのを、鏡に映り込む仮初じみた小綺麗な自分自身ではなく彼等の目を通して見る私自身を許容することを。彼等は普通の子供が親に与えられる以上に多くのものを与えてくれていた。決して金銭の類の贈答だけじゃない、薄情な仮面を被って利得のみを求めているように見せかけておきながら、その実グレイは私の身も心も本気で救おうとあの雪が降り頻る真昼間に手を差し伸べたのだ。

私は求められるがまま二人の元に留まった。

 

それからは転じて私は積極的に三人で送る日常を樂んだ。家事は勿論、切な説得の末に二人の仕事——彼等が普通でない商売をしているのは早期の段階で気付いていた——を手伝うようにもなった。学校には通わず家で一般的な教育を受けて、休日には街へ遊びに出て…幼少期の非凡はいつしか当たり前へと変わっていた。

 

時は流れ、レストランに訪えば未熟な少女ではなく淑女として扱われるようになった一頃。私は享受してきた幸せな日々に自ら終止符を打つことを決心した。

私は早速保護者たるグレイに家を出ていくことを伝えた。いつまでも厚意に甘んじるわけにはいかないと、アメリカを旅してこの眼で世界を見てみたいと。思いの丈を打ち明けるとグレイは快く承諾してくれて、仕事も斡旋してくれた。 

 

『ねえグレイ、名前を呼んでちょうだい。』

『いっつも呼んでるだろ、アン。』

『そうじゃなくて…その、本当の名前よ。』 

 

初めて出会った日、子供の意地を張って本名を教えなかったことは彼等に胸襟を開いた頃からずっと後悔していた。結局、グレイの本名は分からずじまいで彼は長らく私のことをアンと呼び続けた。今更になって本名呼びを強請ると、なんだか小っ恥ずかしくなって俯いた私の頭をグレイは愛おしげに撫でてくれた。いつも通りの、凡てを包み込む太陽みたいな莞爾とした笑みだった。嬉びにぼやけた視界を拭いもせずに抱きつけば、グレイは矢っ張り優しく抱きしめ返してくれた。 

 

『お前が何処に行っても応援してる、ルーシー。』

『ふふっ、ありがとう!』 

 

そうして私、ルーシー・モード・モンゴメリはグレイの元から旅立った。 

 

………。

 

数年の歳月が経過した。アメリカへと飛んだ私は放浪の旅を経て、グレイが紹介してくれた組合と呼ばれる組織に加入することになった。組織の団長、フィッツジェラルドに能力が見込まれると私はすぐに幹部入りした。

 

『深淵の赤毛のアン』は現実世界と完全に隔離された異空間を作り出す能力。異空間の中に存在するアンは私の分身ともいえる大切な異能生命体。異空間に引き摺り込んだ人間は自力で脱出出来るけれども一度(ひとたび)外に出れば中での記憶を失ってしまう特殊な仕様となっている。 

実力主義が本質の資本主義社会を壟断せしめる組合での仕事は刺激的だった。アメリカ合衆国の国家の歯車を裏で操る秘密結社なだけあって、組織の人間は誰も彼もが望むと望まざるに拘らず血腥い領域に全身を浸漬させていた。グレイ達と同居していた頃にも白とも黒ともつかぬ灰色めいた稼業を手伝っていた甲斐もあり組合での新生活は特段抵抗感もなかった。定期的に組織の内情をグレイに密告しつつ普段は与えられた職務をつつがなく全うして、組織内での地位を確固たるものにしていった。

組合の人間は各々の目的の為に加入した野放図な気質の人達ばかりで、ともすれば仕事を放っぽり出して行方を眩ませてしまいそうな彼等を統率できているのは偏にフィッツジェラルドのカリスマ性によるものだろう。当然グレイと比べれば大したことはないけれども。

 

フィッツジェラルドが横浜に行くと云い出した時は誰もがまたいつもの遠征衝動だと信じて疑っていなかった。書いたことが現実になるという頓珍漢な本が横浜の何処かに封印されていると彼の口から語たられるまでは。本へと至る道標となるのが然る虎の異能力を有する青年だと。私が密かに報告した時にはグレイは既に横浜の地を踏み締めていた。

斯くして組合が所有する飛行異能要塞モビーディックに乗船して日本へと渡航した。折角だから物見遊山でもしたい気分だったけれども当分は組合のクルーズで作戦準備に手間取られて、そうこうしているうちに日本に滞在しているグレイ達との夕食会の日程が迫っていた。時の流れは早いものね、十九歳になった私を見た二人はどんな反応をしてくれるのかしら。高揚感を胸に再会の日は訪れた。

 

『そこまで言うなら俺が今からピザを作ってやる。』

『そういうことじゃなくて、グレイがまた派手に暴れたから僕が駆り出される羽目になりかけたと言ってるんだよ。それにグレイは大味の料理しか作れないから嫌だ。』

『ていうか私が放っておけばウイスキーとピーナッツで終わらせるじゃない。』

『…お前ら好きに言わせておけば』

 

いつもの如くハレの日に限ってグレイは遅れてやって来た。愚痴を溢す私達に、曰く不本意に事件に巻き込まれて命からがら逃げ帰ってきたと主張するグレイの臆面のなさは相も変わらず健在らしい。どうせ謀略の適宜を見計らって行動に移したのだろうと詰問する彼と、のらりくらりと受け流すグレイのやり取りに懐かしさが込み上げてお腹の底から笑った私に、二人は朗らかに口辺を緩ませた。もう一人、居候の時期に増えた家族がこの場に居ないのは物寂しかったけど数年ぶりに囲む食卓は幸福に満ち溢れていた。

翌日、探偵社での交渉が決裂してフィッツジェラルドの宣言で異能力抗争が勃発した。 

 

組合の最大の目的の中島敦は団長の命令でアンの部屋へと幽閉した探偵社員達を助けに現れた。まるで自分を正義のヒーローとでも勘違いしてるような堂々とした顔付きで。一目で理解した、この青年は私と同じだと。不幸な境涯で屈辱的仕打ちを受け続けて一寸の希望すら見出せない時、誰かが心を寄せてくれて居場所を見出せた幸運な人間。唯一私と異なるのは自分を異端たらしめた異能を受け入れらているか否か。 

私もかつてはそうだった。両親に捨てられて孤児院で虐待を受ける直接の契機となったアンを憎悪してすらいた。そんな私にグレイがこう云った。

 

——誰がなんと言おうがそれはお前の一部だろ。 

目から鱗が落ちるようだった。私を敵視していればこそ人間の醜悪さに恐懼する私を嘲笑っているのだと、勝手に異能を発動して人を攫って私に罪を擦りつけることで虐げさせたかったのだとばかり思い込んでいた。けれどもグレイの言葉を切掛に初めて異能生命体と真向かったことで新知見を得られた。よくよく考えてみれば異空間に閉じ込められた人達は皆んな私を弄んだ加害者だったのだ。すると不思議な風の吹き回しがあっさりと私とアンの間に積み上がった蟠りを吹き飛ばしてしまった。

私は私の中の異物と徐々に折り合いをつけられるようになった。私はアンで、アンは私で…切り離すことのできない体の一部のような一心同体の存在だったと。その諒解に行き着いてから心はうんと軽くなった。

同時にまたもや私の縺れた心情を溶かし解してしまったグレイの偉業に疑問を抱いた。つい先日、一緒にグレイの家に居候していた彼にグレイについてを尋ねてみた。大した答えは得られなかったけど。 

 

『彼はそうやって信奉者を増やしてるんだろうね。僕等がこうして横浜にいるのも、若しかするとグレイの希み通りなのかもしれない。』

『どういうこと?』

『彼が善意で僕等を救ってくれたのは間違いない。けど百パーセント善意かと問われればきっと六、七割は計算の内だったのかもしれないってことだよ。現にフィッツジェラルドが重宝する君を組合に導いたのは誰だったっけ。』

『…グレイよ』 

 

癪に障る言い方だったけれど否定することはできなかった。彼から離れて暮らすうちに、世間で彼がどう評価されているのか嫌でも耳に入ったから。 

 

『一部では彼が瞬間移動以外にも一つ以上の異能を保有しているんじゃないかと噂されている。例えば未来予知とか。』

『そんなわけが…』

『まあ僕もそれはないとは思っているよ。ただそう錯覚させるほどの実力者であることは確かだ。』 

 

グレイが私達のみならず中島敦(タイガービートル)を探偵社に(いざな)った事実を承知していればこそ彼の言葉にも信憑性が増すというもの。世の超人ですら発想の及ばぬ奸計を彼は飄々とした紳士の装いで巧妙に覆い隠している。常時、私達の前ですら本質を悟らせない。だけど譬えグレイが滅されなければならない邪悪な怪物であったとしても私達に施してくれた恩恵は、差し向けてくれた笑顔の価値が私達によって否定されることはない。グレイが望むのなら私達は自らこの身を差し出して使い捨ての傀儡にだってなってみせよう。

 

 

「うッ、うわァあん!」

「お前は本当に泣き虫だな。」 

 

私が泣き噦る時、グレイはいつも我が子を愛でる手付きで頭を撫でてくれた。昔も今も変わらず、お父さんの温もりを感じたくて背中に回した腕に力を込めれば自身の背丈よりも何倍も逞しい腕が抱擁してくれた。

 

中島敦に負けた、その事実は私の自尊心を傷つけた。彼がグレイに助けてもらったと聞き及んで対抗意識を燃やして、張り切りすぎた結果判断能力が鈍っていた可能性は否めない。それ故か探偵社員を封じ込めていた部屋の鍵をあっさりと奪われてみすみす彼等を逃してしまったのだ。組合はたった一度の失敗も許さない、私はもう用済みとなり蜥蜴の尻尾の如く切られるに違いない。けれども所詮は一時的な潜入先に過ぎない組合での居場所の喪失なんて取るに足らない事だった。何を差し置いてもグレイに委任された任務を台無しにしてしまった——それも戦い方を指導して貰っておきながらあろうことか戦闘慣れしてない青年に惨敗した——自分が許せなかったのだ。こんなお粗末な失態を犯して申し開きができないというのに、敗北による喪心のあまり気付けばグレイの元へと足を運んでいた。

 

「んウうぅ…」

「そんなに凹むな。敦は探偵社の戦闘派エースなんだからしょうがねェだろ。」 

 

慰めの合間に吐き出された名前は地雷でしかなかった。

 

「虎のくせに、へんてこな虎のくせにっ!」

「ク…くく」

「笑わないでよ!」

「悪ィ悪ィ」  

 

そう、きっと不完全燃焼の戦いだったからよ。まともに もう一戦すれば今度は私が絶対に勝つもの。 

悪びれる風もなく大きな手が自慢の赤毛を鳥の巣にした。私はそれを振り払わなかった。いつもみたいに胸中を見透かしたグレイが云った。

 

「だが気になってるんだろ、アイツが。」 

 

——ごめん、若し何か僕に…

去り際に後ろめたさを滲ませて歩み寄ってきた彼の面輪が端無くも蘇ってきた。二度と見たくも聞きたくもない、言動の隅々が癪に触るチビ虎の言葉が如何してか耳にこびり付いたまま離れない。

 

「一先ず組合に戻ってみたらどうだ。面白いものが見れるかもしれないぞ。」 

 

上目遣いに見上げれば、案の定何もかもを理解しているといった面差しが見詰め返してきた。この眼をよく知っている。予知能力者でもない限り予測できない未来を平然と見越して齎される得分を心待ちにしている愉快な目付きだ。勝手に溜息が零れ出た。

認めるわ、確かに私は中島敦が気に入った。

フィッツジェラルドは恐らくありとあらゆる卑劣な手段で中島敦に、探偵社に襲いかかるだろう。横浜の守護者たる彼等が想像している以上に組合は獰悪で、お人好しな青年が中途半端に立ち向かって勝てるほど甘くない。だからこそ、組合の脅威に探偵社がどこまで争い続けられるのか最後まで見届けたかった。

 

私は乱れた髪を整えてグレイに向き合った。名を呼べば彼は心得ているとばかりに首肯した。

 

「貴方の元へ戻るのはもう少し後にするわ。」

「おう、好きなだけ遊んでこい。お前が安らげる場所はいつだって此処にある。」

 

…それからモビーディック内で中島敦が捕らわれたと小耳に挟んだのは組合に戻ってから幾日が経ってからのことだった。  

 

 

 

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