「虎探しなんざ地元警察にでも連絡すりゃあ良いのに。」
――ま、日本に帰ってくるにはベストタイミングだったな。
出張先のアメリカで約一ヶ月あまり暇を持て余していた俺は数日前に突として舞い込んできた一件の依頼により急遽渡日することになった。行き先はなんと故郷横浜、依頼内容は最近街の安寧を脅かしている人喰い虎探し。地元で権力の旨味を味わっている政客の奥方が恐ろしくて夜も眠れずと日々訴えるもので、知り合いの知り合いの、そのまた知り合いの…繋がりで一人の恩人に請われて俺が出向くことになったのだ。既に武装探偵社という型の如くの知能集団に軍県警から依頼が寄せられているうえに、この段階で事態の全貌に見当はついていたのだが相手が相手なだけに断りづらく仕方なしに了承したわけだ。
先に解を述べさせてもらうともしかしなくても――罷り間違っても俺のような市井人が拘っちゃならない――原作イベントである。
時刻は午前十時。 天頂に就く太陽は現代に発展した秩序だった横浜の情緒溢れる景観を燦々と照らしている。港の風、埠頭の彼方に広がる横浜港、水平線のその先を鏡のように映し出した大空。今となっては半世紀も前の故郷は建築物の視覚的差異を除いては普遍の街並みを維持していた。世界が変わろうとも、百年弱の年月が流れようとも変わらない、己を育んだ大地の調和を目の当たりにして往時を偲ばないわけがない。…そこまで情趣に浸ってはたとかぶりを振った。そういや六年前に龍なんとか抗争で壊滅的な被害を齎された地元に訪ったし、そも此処は景観が類似しているだけの俺の愛妻も子供も存在しない世界線だったわ。何においても一個人の悲劇を助長させるのは横浜の碧天を権高に貫く摩天楼が如くのポートマフィアの高層ビルである。
災難も十五年以上が経てば価値が薄れるものだ。踏み締めるコンクリートの成分の一つとして己の本来の居場所ではないという悲壮な証拠よりも、明日の天気を憂う方がよっぽど有意義であると思考を切り捨てられるくらいには俺の神経は図太かった。
拵えたばかりのスーツの内ポケットから一本の煙草を取り出す。点火して一息を吐くまで一分弱。有害には到底見えない無垢な煙がゆらりゆらりと先端から伸びては上空へと溶け込んでゆく。
ふと、アメリカからの機内での明日からの超大型台風到来の就航地天気予報が脳裏を過ぎる。空は十五年前の大戦では一度として仰げることのなかった澄み渡るような蒼穹だ。天気予報を取るか、年寄りの勘を取るか…束の間紫煙の行き先を眺めてから俺は歩き出した。
「虎探しは後回しにしよう。」
先ずは酒場に寄って落ち着いて一服をして、それから宿に一度戻って物件でも探そう。そろそろ母国に居を定める頃合かもしれないと。
*
散策を交えて帰路につくこと暫くして鶴見区の住宅街の一角を通りがかった。平和な先進国日本、延いては商業施設が充実している区域とはかけ離れた閑静な西方の住宅街で会偶したあるまじき光景を路上に俺は歩みを止めた。
爪先と視線が辿る先には電柱に凭れ掛かり蹲る青年。間断なく腹を鳴らしては地面にめり込まんばかりの縮こまり様で人生の悲愴たるやをあけすけに表現する背中は、ありていに言えば海外では何処でも見られる。さして物珍しくもない光景に慈善を施してやる質でもない俺が無神経に過ぎ去ろうとしないのには見覚えのある彼の白髪に理由があった。ざんばら髪の全体を見定めたくて、こちらの気配に気付く様子のない青年の近くに大股に歩み寄ってサングラスを鼻先まで下ろす。
「坊主。」
「ぇ…ひィっ!」
徐に面を上げた青年が蒼く強張って後退ろうとして電柱に後頭部をぶつけるのと、それと同等の衝撃が俺の中心を駆け巡るのとは同時だった。
紫と黄色の入り混じった瞳に、斜めに切られたぱっつん前髪。サイドに黒いメッシュが一筋。極め付けは襤褸雑巾みたいな薄手一枚の不格好。聞かずとも彼の正体は一目瞭然だったが、それでも尋ねずにはいられなかった。
「名前は?」
「え?えっと…中島敦、です。」
訊いておきながら返事もせずに天を仰いだ。こんな街角でこの世界の主人公、あわせては俺の依頼完遂条件に巡り逢うとは…天の采配だろうか。独りあれやこれや考察しているあいだにも中島敦はおろおろと居心地悪そうに逃げ道を模索している。この気弱な若人が横浜を救う鍵となるだなんて想像も及ばないのだから、矢張り一目で彼の可能性を見抜いた太宰もまた運命に選ばれし者なのだろう。
ともあれ、こちらが呆然と立ち尽くしているうちにも一目散に逸出しそうな青年を留めようと冗談半ばの問いかけを投げる。
「ここの近くで良い酒場を知ってるか?」
「さかっ?ごめんなさい、酒場はちょっと…」
最後まで言い終える前にぎゅるると姦しい寄生虫でも飼い慣らしていそうな腹の音を鳴らした。彼は小っ恥ずかしげに腹部やら後頭部やらを摩る。「すみません、ここ数日何も食べてなくて…」 海彼でも屡々目にした、何処か期待を孕んだ眼差しを向けられる。いくら主人公だからとはいえ、こちらから話しかけた以上放置するのは忍びない。
須臾の間勘案した俺は彼に手袋を付けてない方の手を差し出した。
「なら飯にでも付き合ってくれないか。と、その前に服を用意しよう。」
*
「へえ、酷ェ話もあったもんだな。今時孤児院が
「僕が行く先々に出てきて…きっと逃げ惑う僕を観て愉しんでるんだ!」
「まあこれでも食って落ち着け。」
「ありがとうございます。」
長年に渡って蓄積した栄養失調の影響か、まだ巣立つ前の小鳥のように未熟さの残る顔立ちとそこらの女子学生にも劣る華奢な体躯の何処に容量があるのか、東京タワー並みの高さに積み上がっていくお椀に言葉を失いかける。あれこれわんこ蕎麦?茶漬ってこんなに食うもんだったか?などと応えなど得られるはずもない疑問符が浮かんでは消えてゆく。隆盛を極めたバブル時代でも此処までに豪快な食いっぷりの男はいなかっただろう、少なくとも俺の世界には。
今にも目玉が転び出そうな周囲の視線に心付く素振りもなく敦は無我夢中で茶漬を口に掻き込んでいる。俺は店員が誤って煮すぎた緑茶の苦味を只々呆然と味わうに徹していた。
「すみまへん、おかわりくらさい!」
「凄いな。ほんとに凄いな。」
これが大食いの特番ならプロデューサーが濡れたハンカチを噛み締めているに違いない。あっという間に一杯を平らげて追加注文する敦にひくりと口が引き攣った。あの見窄らしい孤児院の格好から行きしなのデパートで購入した服に着替えて身なりが改善されたのは喜ばしいことだ。さもなければ俺が何処ぞの施設から子供を誘拐したとして職質を受けかねないところだった。些細な贈り物として買ってやった虎のブローチもよく似合っている。
つと、逸らした視界に飛び込んできた卓上カレンダーの今日の日付に記された満月が目に留まる。確か今夜は満月だったか。
『月下獣』異能を切り裂き逞しい白虎に
酒場をやめて一服したくなって懐から一本を咥えて火を点ける。忽ち立ち込める白煙にコホコホと噎せる敦にお為ごかしに肩を竦めてみせる。 敦、名を呼べば散々虐げられても高潔なまでの無垢を宿した双眸が斜めに傾いた。
「その寝床と虎の件、解決する方法がある。」
「ほ、本当ですかっ?」
目の色を変えて詰め寄る敦を手で制する。
「武装探偵社って知ってるか?」
「武装探偵社…軍や警察に頼れないような危険な依頼を専門にする探偵集団、社員の多くが異能力者ということくらいなら。」
「そうだ。政治関係者などの社会的権力を持つ奴らとのコネも多く、圧倒的信頼度の高い、横浜の治安守護の一角。今日陽が暮れる前にそこに訪れて太宰治、もしくは江戸川乱歩という人物に会え。」
「太宰治…江戸川乱歩。」
「二人が居なけりゃ国木田独歩でも良い。俺にした話をそのまま相談するんだ。彼等なら必ずお前の助けになってくれる。」
面倒臭いことは探偵社に一任しちまえばいい。それが俺が行き着いた最善の選択だった。
「何から何まで、本当にありがとうございました。」
「どういたしまして。ま、精々頑張りな。」
「はい!」
店を出ても太陽は一番の高みで己が頂点だと主張していた。そこはかとなく杪夏の名残が陽射しにちらつく初秋。黄色とも柑子色ともつかぬ陽炎と対極的に季節に正直な海風の肌寒さが何とも不可思議な着心地を与えてくる。まだ新緑の匂いの充ちる鶴見川沿いを俺と敦は隣り合って歩いていた。ちらと横を見れば、胸元の虎がこれからの波乱を予期するかのように陽光に煌めいた。数刻前とは見違えるほど生色を取り戻した横顔が如何してか輪郭は全く違うのに前の世界の息子と重なって自然と口元が緩んだ。
「あ、あの良かったら名前を。」
「ん?ああ、まだ名乗ってなかったか。」
極一部の人間を除いては一度だって名乗ったことはない本名。それは暗闇に曲がりなりにも片足を突っ込むことの危険性を重々承知していればこその決断だった。裏路地の何でも屋として可もなく不可もない地位を確立して以来、俺はずっとある通称を使っていた。だからこの際も漢らしく堂々と名乗ろうじゃないか。
薄手の外套に両手を突っ込み、凛々しさを口角に貼り付ける。示し合わせたかのようにさらりと戦ぐ風に乗せるように言葉を紡いだ。
*
それまでの僕の人生は不幸の連続だった。
物心付く前から孤児院の門前に捨てられ、実の両親の顔も知らぬまま孤立を深めて生きてきた。施設という閉鎖的な環境で鬱屈の溜まった大人や陰鬱な雰囲気に感化され育まれた
痛い、辛い、悲しい。どうして僕だけがこんな不遇な目に遭わなくちゃならない…。悲憤は睡魔とともに鎮まり、意識が覚醒している日中は自己憐憫だけが僕を虐めていた。逼迫した命の危険よりも、じわじわと傷口を炙る不遇の不快感に何度死のうとしたか知れない。いっそ永遠に眠ってしまえばまだしも救いがあっただろうに、如何してか僕は孤児院で苦渋を嘗め尽くして黙然と不幸を涙と一緒に流すことで耐え忍んでいた。あと少し、もう少しだけ我慢すれば他の皆みたいに普通になれるかも知れない、そんな淡い期待を心の片隅で抱いて。
『出ていけ穀潰し』
『お前など孤児院にも要らぬ』
『どこぞで野垂れ死んでしまえ』
だというのに十八歳のある日、僕はこの世でたった一つの居場所から叩き出された。
何故?如何して?どれだけ考え巡らそうとも蒸れた闇に閉ざされた夏の宵は応えてはくれない。否、怖気漂う春の月も、墨汁を流したような秋の夜長も、寒寒とした懲罰部屋から覗けた夜半の冬も、一度として孤独に寄り添ってくれたことはなかった。親や親戚という後ろ盾もない僕に与えられたのは一文無しの穀潰しという癒えぬ烙印だけ。矢っ張り食費を切り詰める為に使い捨ての掃除道具のように切り捨てられる程度の形式的な関係だったのだと、そもそも彼処が心の拠り所なり得たことはないのだと楽天的に自得できるほどの自尊心も持ち合わせていない。
何よりも僕を絶望の淵に立たせたのは、孤児院の経営を苦しめていた人喰い虎が哀れな孤児の食べ頃を嘲笑うかの足取りで追ってきたことだった。 西へ東へ、北へ南へ…行く当てもなく彷徨っては差し迫る死の予感に怖気付き、孤影悄然と街角で縮こまる夜を過ごし…横浜まで辿り着いた僕は到頭精も根も尽き果てた。
己の居場所すら曖昧に空腹に飢えた身体が行き着いた先は人通りの少ない道端。僕と同じくらい悄然と佇立する電柱に身を預けて膝を抱え込んで、ぽつりぽつりと今日も不幸を味わう。僕はきっと、こうやって何もかもに饑えながら惨めな最期を迎えるんだ。そうしたらアイツは、あの虎は如何する?…決まってる、僕が衰弱したところを襲う腹づもりなのだ。よっぽど僕が憎らしいのか、そうでなければ飢餓状態の骨と皮しかない子供を食べて快楽を味わう殺人鬼みたいな性悪な奴に違いない。死の瞬間に視野に奴の悍ましい前脚が踏み込む様を捉えるくらいならば、いっそのこと今すぐにでも死んでしまおうか。
「茶漬けが食べたい…」
ただそれだけ。横浜どころか世界の九割の人達が望めば手に入れられるであろう贅沢な一食への羨望が悶々と渦巻く負の感情の衷心で微かに燻るばかり。そんな時に、恰も孤児院で読んだ小説に現れる救世主が如く彼は現れた。
「――グレイ、人は俺をそう呼んでいる。」
俄に吹き荒んだ一陣の涼やかな突風が癖っ毛のある前髪を靡かせた。川面に踊る陽光が照り返した彼の四分の三正面をひかめかせ色艶を浮き彫りにさせる様はやけに瞼の裏に焼き付いた。
グレイ、グレイさん。僕は彼の名を胸中で反芻する。
外人であれば珍しくもない名前だけれど僕の目に映る男性の風貌はどこから見ても東洋人だった。顔の造形は日本人というよりかはオリエンタルと形容する方が似合っている。南北からの民族移動で血族が入り混じった九州あたりでは高い割合を占める深みのある陰影だ。陽の光に晒されて顕になった微かに灰色がかった黒髪黒目だけが彼の老けた口調には相応しくない若々しさと色香を醸し出していた。
丘の上に聳える一本の大木のような悠然とした佇まいは包括的な相手を求める女性には大評判に違いない。黒を基調としたスーツに鼠色のネクタイの色味が合っている。瞥見して三十代か四十代だろうか。一時代前の世代の人間にしては珍しくも左耳にピアスが開けられている。
最初こそサングラスを半端に掛けた長躯に見下ろされあわや臓器を売り払われるかと腰を抜かしたけれども、実際には今までに通り過がってきた路生よりもずっと深切な人柄だった。温厚篤実な彼は僕を食事に誘ってくれるばかりか無償で衣服を新調して、相談にまで乗ってくれた――それにしても彼のブローチのセンスには殆不本意な奇遇を禁じ得ない――。こんなにも真剣に僕という一人の人格に向き合ってくれた人なんていなかった。
「えっと、グレイさん?」
「好きに呼んでくれ…っとちょっと失礼。」
突然鳴り響いた着信音にグレイさんは断りを入れて携帯を取り出す。
「もしもし立原?…ああ、もう着いてる。…悪い悪い、今取り込み中なんだ。」
そう遠くない距離で耳朶に届く会話に聞き耳を立てれば、何度聞き直しても流暢な日本語を彼は紡いでいた。矢張り日本人なのだろう、そんなことを考えているうちにグレイさんは通話を終えてこちらに向き直った。
「そんなとこだ。じゃ、会えて嬉しかったよ、敦。またな。」
「あ、はい。」
一方的に会話を切り上げるとグレイさんは背を向けて歩き出してしまう。散々導いてもらった手前名残惜しさだけで引き留めるわけにもいかずに僕も渋々体を反転させる。………。束の間の充足感がさっぱりと消え去ってしまった薄淋しさに立ち止まる。
「あのっ!また会え…ってあれ?」
再び振り返った時には彼はもういなかった。
*
横浜市中区山下町、清々しい新緑が秋色を身に纏い始める並木道に挟まれて象徴的な近代建築が建ち並ぶ散歩道。日本大通の開港資料館旧館や地方裁判所を散策気分で通り抜けて僕にとっては大昔に整備された街並みを新鮮な心地で歩いていれば目的の建造物が見えた。往時の最新技術を駆使して建築された特徴的な赤煉瓦建造。寄港する船の視線を意識したアメリカ風ネオ・バロック様式の装飾性豊かな赤煉瓦ビル、その中に入居する一事務所に用事があった。
路面に構えるのは喫茶うずまき、二階には法律事務所、三階と五階は空室で四階が件の武装探偵社。グレイさんと別れてから一時間後、土地感覚がない所為で道ゆく人達に尋ねながら漸く辿り着いた事務所の扉には『武装探偵社』と楷書で刻まれた取り付けられている。
何も考えずにドアノブに手を掛けて、はたと見えない糸に引っ掛かったみたいに僕の手は止まった。己の固唾を呑み込む音がよく聞こえる。
順調に進んでいた足取りがゴールの一歩手前になってすっかりと怖気付いてしまった。恰もこの先で虎が剥き出しにして、舌舐めずりで獲物を待ち構えているような鬼が出るか蛇が出るか分からない底知れぬ不安が僕を跼蹐させる。何の助けも得られなければ、そればかりか孤児院のあの怪異を見詰めるような余所余所しい眼差しで拒絶されてしまったら。
一度躊躇すれば縮み上がるばかりか辛い過去がフラッシュバックとして蘇ってくる。駄目だ、矢っ張り僕なんかには…
――彼等なら必ずお前の助けになってくれる。
何もかもが間遠になった廊下の真ん中で膨れ上がった寸秒先の未来への畏怖が今にも暴発しそうになったとき、不図彼の声が蘇った。誰よりも先に無性の善意を施してくれたあの人の素朴な笑顔が。
すると不思議なことに胸を締め付けていた負の感情がふっと晴れ渡った。懸念を振り払うようにかぶりを振る。自嘲してしまいそうなくらいに怯懦な己に救いの手を差し伸べてくれたグレイさんの厚意をこんな戦ってもいない敗残兵みたいな逃げ腰で無碍にするわけにはいかない。何よりも彼が大丈夫と言ってくれたんだ。
僕は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。大丈夫、大丈夫、そう自分に言い聞かせて。
眦を決して扉を開けた。
「あのー、すみません。武装探偵社に依頼が……」
開けた室内、事務所の角に集って何やら厳しい面付きで顔を突き合わせる人達に、僕は思わず無言で扉を閉めた。
*
後に坂口安吾は語る。
「よお、邪魔してるぞ。」
急激なストレスがのし掛かった胃に本当に穴が空いたのは後にも先にもこの日をおいて他になかったと。
異能特務課、国内における異能犯罪を取り締まり異能に関する遍くを監視する表向きには存在しない内務省直属の秘密組織。多数の異能力者が在籍しておりその特質故に赦された特権を扱い異能を駆使している。
特務課に若くして立身出世を果たした坂口は本日も代わり映えのしない職務を粛々と執行していた。早朝一番に出勤した彼は一日の業務を刮目すべき手腕で切り回すと、僅か十分足らずの休憩を終えて特務課長官であり自身の直属の上司たる種田山頭火の執務室へと足を運んだ。己に振り分けられた事務処理が普段よりも分量が増えていたことに内心で愚痴を溢しながらも、優秀な局長補佐は午後の会議に備えた分厚い資料を両手に抱えていた。
――確か今晩は闇瓦と辻村君を交えて夕食会があったな。会議が早めに済んだら時間を前倒しにしてもらおうか。
整合性を字でいく男は他愛もなく予定調整を練りつつ歩を進める。彼の性質が一目で看取れる端然とした歩調だ。
己の執務室から差程離れていない長官室に辿り着き、定められた回数だけ扉を叩いて入室した坂口は、偶さか胃をしこらせた。
手にした書類がペリカンの翼開長が如き音を立てて宙に舞い上がる。
かつて研究施設で研究者が失態を犯した時も、秘匿された貴重資料庫で小火騒ぎが起きた際も、特一級危険異能力者が政府を謀り遁走した日とて、如何なる危急にも泰然自若を貫いた男にこれ程までに激甚な衝撃を与えたことはなかった。だというのに、室内のエグゼクティブチェアに腰掛け無作法にも書斎机に踵を乗せる男を見た途端、坂口は思考停止に陥った。
訓練期を経て晴れて特務課に所属した時の初講習にて一度だけ目を通した国際S級犯罪者リスト。その際種田は日頃の磊落な笑みを潜め、酷く顰蹙した顔つきで坂口をはじめとした新人一同に訓戒を与えた。万が一彼等に彼に遭遇すれば自己の命と周囲の安全を最優先に慎重な心持ちで退くようにと。目を合わせず、対象に背を向けず警戒を神経という神経に張り巡らせて去れ…まるで羆に遭遇した登山者ではないかと坂口を含めた数少ない新入りの誰もが鼻で嗤った。
「グ、」
たった一文字が絞り出されただけでも奇跡だった。あの時は新人いびりに脅かしているだけだろうと本気にしなかった伝説が今、己の眼前に居丈高に構えている。如何なる異能の脅威も歯牙にも掛けてこなかった特務課の中枢に前触れも造作も無く侵入してみせた男の異質さが坂口に途轍もない危機感を抱かせた。
――羆?とんでもない…この男は正に悪を逸脱している。
その異能は公式的には
種田の椅子に腰掛け優雅にも吸殻を種田が一度として使用したことのなかった新品の灰皿に落とす男は、つと坂口の存在に気付いて目線を流す。
深淵の如く奥深い闇が坂口の魂を捉えた。かち合った瞬間、まるで不可視の蜘蛛の糸に絡め取られたかのように金縛りに見舞われた。
「お前は…確か坂口安吾だったか。特務課のエースの」
含んだような低音が空気を振動させる。グレイから放たれる威圧感が室内の空気を根こそぎ拭き去ってしまったようだ。
世界最悪と畏れられる極悪人が己を認知している、その事実だけで坂口は卒倒してしまいそうだった。
男を称する名は多い。
蜃気楼のように現れては消える、神出鬼没の『怪物』。『生きる
恐竜時代を終わらせたとされる隕石衝突体に因んだ『チクシュルーブ』等々…各国の組織や個人によって男を表す言葉は枚挙にいとまがない。
その中でも天を突き抜け、地底に轟く通り名がある。
――超越者殺し