青褐の空、疎にたなびく雲間に満月がくっきりと浮かんでいた。研ぎ澄まされた白金はまるでそのものが恒星であるかのように輝きを放っている。一昔前の詩人が目の当たりにすれば和紙と筆を手にその情景を描写したことだろう。そんな想見をするほどに見事な良夜だった。
同日、探偵社とマフィアの密会から早々に離脱し伝手を頼りにQの居場所を炙り出した俺は一足先に組合の隠れ家へと赴いていた。此処は横浜の外れに位置する組合所有の別荘…というには粗末な物置き小屋のような平屋だ。
「どうだ、アメリカとは一味違う趣を感じないか。」
「確かに、同じ空を見上げているのに不思議な感覚だ。けどそれ以上に今は故郷の家族が恋しいよ。…君はどうだい、ラブクラフト。」
「寒い。」
「だろうな、晩秋は冷え込む。」
期待外れの返答に俺はいい加減な相槌を打った。月見よりもホームシックが勝るスタインベックと冷え性のラヴクラフト、そして大の大人が三人揃って夜空を仰ぎ眺める決して魅力的とはいえない光景に困惑する下級の組合員達。
傍らに構える何の変哲もない平屋の地下にポートマフィアの問題児が囚われている。主人公か正義の味方ならば即刻助けに行くところだが残念ながら持ち合わせの心臓がノミ並みにしょぼい俺は行動に移すことなく組合の二人と暇を潰していた。探偵社とマフィアが送り出すであろう刺客の太宰と中原を組合に相手取らせて混乱が生じている隙に連れ去るというのが、小心者なりに脳漿を絞った結果だった。
ラヴクラフトとは過去に何度か会ったことがあり、スタインベックは白鯨に招待された時に顔合わせはしていたので現時点で疑われる要素は皆無。快く迎えられた俺は「あれがマルカブ、シェアト、アルゲニブ、アルフェラッツ、合わせて秋の第四辺形だよ」と星空観察をする恋人じみた会話をするでもなく、漫然と無駄話をしていた。
「ところで良いのか、アレ。」
視線をずらせば、最初こそ遠巻きに俺達を白眼視していた団員たちがいつの間にか焚き火を囲んでいるではないか。寛がせてもらってる身で云うことではないが、揃いも揃って武器を手放して芝生に腰を下ろす様は警戒もへったくれもない。戸惑いがちに尋ねてみればスタインベックは我関せずと肩を竦めた。
「今夜は冷え込むからね。それに探偵社が束になってかかってきたところで僕達には勝てやしないよ。」
「勝てやしない、ね。」
街灯の少ない街外れで敢えて敵に位置を知らせてやるくらいには勝利を確信しているらしい。彼等の上司が森だったならばこの場で何と云っただろうか。…いや、彼奴なら言葉より先に規律の徹底を実現するべく側近に銃を構えさせていたかもしれない。若さ故の注意散漫か、将又文化の違いか。世界一の軍事力を誇る国に限って後者は有り得ないだろう。
「一つだけ教えといてやる。戦場に絶対はなく、油断した奴から散っていく。」
瞬きよりも微かな慢心が戦況を左右することだってある。油断と過信が招いた悲劇なぞ歴史を振り返れば枚挙に暇がない。その点においてフィッツジェラルドは秘密結社の長を務めるだけある。重大な仕事は決して人任せにせず常在戦場を実行し、情報と戦術に長けている。しかしどこまでいっても軍人ではなく実業家だ。
「質と量において拮抗する敵勢を相手にするとき、最終的に頼りになるの何だと思う?」
「そりゃあ俊敏さじゃないかな。」
「その通りだ。ならその俊敏さはどうすれば身につく?」
スタインベックは顎に手を当て思案する仕種をする。ラブクラフトは謂うまでもなく上の空だ。
夜雲がのっぺりと絵の具を塗りたくるように月光を遮った。底冷えする冷気が一段と下がると、俺はやおら煙草とライターを取り出し暖を取った。
「実践経験。」
「大正解。」
実践経験の差。伯仲する戦力がいざ決戦となった時に勝敗を決するのは場数だ。刹那の判断の遅延、誤り、油断で呆気なく人は命を落とす。実際に戦争を生き延びた森や福沢はそれを良く心得ている。戦略も情報量も実力も何一つ備わってない俺は、まあ幸運だったとしかいいようがないな。
スタインベックよりは諍いに習熟しているものの、今一つ戦争というものを理会しきれていないフィッツジェラルドに俺は警告してやったのだ。どれ程策略に長けた参謀を雇ったところで分析された未来はくしゃみ程度の外的変化で容易く崩れ去る。だから最後にものをいうのは経験値だけだとな。是迄の組合内での王座を巡る小競り合いとは違う。福沢や森が陣頭指揮に当たることの脅威を俺は異能大戦で一足先に身を以て知った。
「過信と油断が招くのは破滅の道だ。」
「つまり貴方は探偵社とマフィアのボスは手練れだから油断大敵だと言いたいわけ?」
「ま、そういうこった。」
フィッツジェラルドにした忠告をそのまましてやると、金髪の似合う青年は気難しげに後方の焚き火を眺めた。浅葱色の双眼に僅かな緊張が孕んでいるのを見留めると感心した。給料欲しさに加入した若造だとばかり思っていたが異能力で買われただけの愚鈍ではないようだ。
俺の言葉を間に受けてくれたスタインベックは須臾の間物思いに耽ていた。その間にもパチパチと火の粉ははぜては闇に溶け込んでいった。急に皆が噤んだことで空っ風だけが耳朶にするりと入り込んでくる珍妙な空気感の中で、ラブクラフトがぽつりと呟いた。
「アイスが食べたい。」
「俺の記憶が正しければついさっき寒いと言わなかったか。」
今し方の話題を完全に無視した安楽な台詞に呆れた眼差しを投げかけた。
「チョコレートアイスが人気の店なら知ってるぞ。」
「チョコレート…アイス…」
「やめろ、無垢な目で見つめるな。」
図体の異常にでかい人外の道案内なんざ御免だ。その厳しい風貌ででチョコレートアイスが好きとは可愛げがないにも程がある。そう思いつつも以前エリスを連れて行った人気のアイス店への道順を思い起こす俺は人が良すぎるんじゃないだろうか。
「グレイ、どうした…」
不意にかさりと落ち葉の擦れる音がした。音の発生源を凝らして見るが暗がりで草の葉一つ見分けられない。ラブクラフトに尋ねられると気の所為だとかぶりを振った。
腕時計を確認すれば時刻は午後八時を指していた。そろそろ奴らが現れる頃合いだ。俺は立ち上り二人に背を向けた。
「眠れる獅子が目を醒ましたのなら、何もかもが手遅れさ。」
十五年の歳月が流れようとも衰えることのない殺意、漫画の効果線が幻覚で視える程の威圧感。昼間対峙した二人の首長が真っ向と放った凄まじい憤怒は今思い出しても身慄いがする。
じきに更地となる危険地帯で巻き添えを喰らうことがないよう、俺は逃げるように小屋へと向かった。
………。
程なくして潮合いが訪れ、絶え間なく爆音が轟き始めた。烈しい金属音が剣戟の如く地上で発せられ、何度も何度も鼓膜が破れそうだった。木製の小屋は振動を吸収には心許ない。ぱらぱらと頭上から塵埃が降ってくるの避けているうちに、そのうち天井が落ちて来はしないか不安になった。
おまけに踵に体重を乗せる度に足場がミシミシと軋む。天井よりも床が崩れるのが先かもしれない、なんて肩に積りそうな埃を払いながら階段を降りれば地下に着いていた。
「結局こうなったか。」
カビ臭く襤褸けた地下室の壁にQは磔にされていた。意識を失っているのは彼にとって不幸中の幸いだったかもしれない。
スタインベックは葡萄の種を植え付けた対象と樹木を繋ぎ感覚を共有することができる、『怒りの葡萄』を使う。今俺の眼前でQを宙に留めているのは彼が蒔いて発芽させた葡萄の種が成長した樹だ。一見凡下な能力だが他の植物と活着しやすい特性を利用すれば広範囲に渡る土地一帯の植物を操ることができる、使い方次第では強大な力だ。
因みにラブクラフトの異能は『旧支配者』という。詳細は俺も知らないが化物へと変貌を遂げた彼を見たことがあるので、大方怪物化かそれに類する能力だろう。アイツが本当に異能力者であるならば、だが。元の世界でのハワード・フィリップス・ラヴクラフトは怪奇・幻想小説の先駆者とされている。有名な作品は数多くあるが、特に耳にするのはクトゥルフ神話という太古の地球を支配していたとされる邪神をテーマとした奇奇怪怪な世界観の架空の神話だ。勘にすぎないがこの世界のラブクラフトはクトゥルフ神話に由来した人外のナニカなのではないかと踏んでいる。何も異能力を保有するのが人間とは限らない。
とまれ、スタインベック特製の葡萄の木に取り込まれて四肢を拘束されているQは、ヴォイニッチ手稿にこんな絵がなかったかと記憶を漁るくらいには芸術的な有様だった。美術のセンスなんて持ち合わせちゃいないが彫像にすればルーブル美術館にでも展示できるんじゃないだろうか。
ナイフで絡み付く枝を切り落とせばあっさり崩れ落ちたQを抱き止めてやる。精神干渉系の異能は強力だが如何せん相手が悪すぎた。だがこの歳で足元を掬われる屈辱を学んだのならば安いお代だろう。
このまま寝かせてやるか起こすべきかを悩んでいるうちに天井が一際大きく揺れた。生き埋めにされては堪らないと、俺はQを背におぶってさっさと地下を後にした。
…外に出ると怪物と化したラブクラフトと、これまた理性を失い暴走する中原が暴風雨の如く正面衝突していた。
蛸の触手のような手足を畝らせ地面を抉るラブクラフト、至る所から血を流し狂気の笑みを携えながら禍々しいエネルギーの塊を掌に生み出している中原。彼は重力操作の異能使いだ。二人から距離を置いた場所で太宰とスタインベックが戦いを見守っていた。異能力をウリにしてる奴には分が悪かったに違いない。
派手な戦闘の所為で周辺の障害物どころか木々までもが薙ぎ倒され、凸凹となった大地の彼方此方に見るも無惨な肉塊と成り果てた下っ端どもが転がっている。一足先に小屋の中に避難した俺の生存本能は矢張り間違っていなかった。
鑑賞気分で小屋の屋根に腰を下ろして観戦していると、不意に小さな身体が身動いだ。
「んぅ…あれ」
「起きたか、ちびっ子」
スタインベックに泣かされすぎて腫れぼったくなった瞼を擦ってQは身を起こす。目を開けて、轟音の響き渡る地上と俺とを幾度となく交互に見遣っているうちに頭が覚醒して、驚愕に表情を染め上げた。
「え?あ、え?」
「締まりのない顔だな。もう夢は十分視ただろ。」
「おじさん」
「グレイと呼べ、グレイと。」
そうでなければ糞餓鬼呼びだと大人気ないことを云えば困惑から抜け出せていない顔はおずおずと「グレイ」と紡いだ。実際に中身はおじさんどころか死に損ないの老人なので仙人呼びが正しいのかもしれないが。
「俺の元に来ると言ったのを忘れたか。」
「…助けに、来てくれたの?」
無論、強引に親権を奪いに卑怯な盗人さながらにひっそりと参上しただけである。今頃悔しさに歯軋りする森という有り得ようもない妄想を想像すれば自然と口元が緩んだ。素っ頓狂に半開きの口で呆けるQに俺は点頭した。
「約束、ほんとに守ってくれたんだ。」
「当然だ、男に二言はない。」
云い終えた直後、今夜一番の地響きが耳朶を脅かした。目線を流せばクレーターの中心で巨大なブラックホールを創る中原に太宰が手を触れる場面があった。正気に返った中原が太宰の胸に拳を当てる様を月明かりが優しく照らす情景はそこはかとなく情緒的で、青春の香りが血生臭さに紛れて漂ってきた。
「帰るとするか。って言いたいとこだが家が壊されちまったから当分はホテル住まいだがな。」
「うん。ねえ、ありがとう…グレイ」
「礼なんか要らねェよ。」
ガキの送り迎えは何十年も前からしていることだ。嫁に尻を叩かれてな。
とはいえ四葉のクローバーを発見した子供みてェに瞳を煌かせ喜びを表すQを眼差していれば悪くないとも思った。まさかこちらの世界に来て二度目の子育てをすることになるとは、いやはや人生とは不思議なものだ。
再度嵐過ぎ去った方角へと顧みると、こちらの姿を見留めた太宰が瞠目し、眉根を顰めた。俺はいつかみたいに手を振ってQと共に撤退した。