「知ってるか?全ての英単語による無数の組み合わせの中で最も美しいのはCellar Door…地下室の扉という。」
アイアンの打球音が空高く鳴り響いた。
眼上に手を翳し仰ぎ、綺麗な軌道を描くボールの行く末を見守る男を俺は眺めた。特長ともいえる堅苦しいスーツではなく都会的なデザインのゴルフウェアを着こなして、悠々と芝生を進む横姿ぞっぽうが様になると柄にもなく思った。その魂はブラックホールもかくやの漆黒が延々と渦巻いている筈なのに、その上っ面は名前に相応しく濁色の似合う男だ。
「この俺に英語を語るとはナンセンスだな。」
「ああそうだな。お前は生粋のアメリカンだった。日本語が上手いからすっかり忘れていたよ。若しかしてコイサン諸語も堪能だったりするのか?」
「軽口のセンスはあるらしい。」
大袈裟に戯けてみせたグレイは手袋の着け心地が悪いのか左手を二、三度握り締めた。
「丁度お前が探偵社に宣戦布告をしに行った前日…」
「まるで時代の監視人だな。」
然あらぬ口ぶりを俺は思わず遮った。
探偵社にアポイントメントなく赴いた日、野次馬の中から我々を傍観していたグレイを俺は慥かに見た。敢えて気配を放ち存在に気付かせることで常に我々を監視していることを知らしめるいやらしさ、のみならず時代の節目節目に現れては事件や事故を傍観し、或いは時折傍観する男のなんと不気味なことか。それ故に彼を
世界中の行政組織が不可解な言動の真の意図、目的を探ろうと詮索するのをこの男はまるで冬に備え、必死に餌に集る虫けらを見るような眼で嘲笑っているのだ。運悪く居合わせた、異能のコントロールが上手くいかなかった…陳腐で取ってつけたような言い訳で人を愚弄するのだ。
「クリスティが俺に依頼をしたのを覚えてるか。」
「あの女狐は好かん。」
「同感だ。…アイツの所為で俺は危うく死にかけた。」
「謙遜も過ぎれば傲慢だな。」
「事実だからどうしようもない。」
腑抜けた会話をしているうちにゲームは進行し、グレイはホールから一メートル圏内で構えるとボールを軽く弾いた。一・六三一オンスの球体はくるりくるりと回転しホールの底へと垂直に落ちていった。
「碌でもない世界に足を踏み入れてからどれほどの歳月が経ったか…。生活が安定したのは良かったが老婆の寝室に置き忘れた老眼鏡探しなんて生温い仕事は無くなっちまった。今や国家機密の窃盗や要人の暗殺、舞い込んでくる依頼は身の丈に余るモンばっかだ。三下の傭兵の始末のみと聞いて久々に片手で銃を撃てると淡い期待を抱いていた。依頼人が彼女な時点でお察しだったよ。」
辟易とした目色のわりに愚痴るグレイの声調には愉悦が含まれていた。お気に入りの玩具を発見したような、そんな晴れやかさだ。
「思わぬ収穫があったようだな。」
「ああ、そんなとこだ。それよりも問題はお前だ、フィッツジェラルド。」
「…ウロボロスの気に触る行いをした覚えはないが。」
打って変わって人間らしさを削ぎ落とした双眼が俺を射抜く。小馬鹿にするでもない只の微笑が不吉さを呼び起こした。
「警告しよう、三社を侮っていると最後に辛酸を嘗めるのはお前だ。」
三社というのが横浜を守護する三組織、探偵社、ポートマフィア、異能特務課であるのは容易に察せられた。世の闇を抱擁する
「警告は感謝する。だが心配は無用だ、我が組合が誇る参謀には如何なる不測の事態にも万全に対応できる完璧な作戦書を作らせてある。是非とも土産に持ち帰ってくれ、我々の進撃を高みから鑑賞するといい。」
「…森と福沢は戦争の心得を熟知している。思いもよらぬ反攻に船ごと沈没、なんて屈辱を味わうことがないよう祈ってるよ。
苦杯云々よりも自嘲気味に吐き捨てられた含蓄のある言葉は耳にこびり付いて離れなかった。
*
ウォオオオ!
マフィアの青年の黒衣を腕に纏わせた探偵社の虎が雄叫びを上げる。その哮りは轟轟と空気を震撼させた。全財産を注ぎ込んだ己の拳と相手の熱意とが触れ合った瞬間、何故かグレイの科白を思い出した。あの時、彼の忠告を間に受けていれば結末は違っていたのだろうか。
闘志は最高潮に達した。閃光が間段なく迸り、精神の中央から横溢した激情が右手に結集した。
…組合内での派閥争いで星を取り零した者達がそうだったように、俺もその時が来たのだ。只それだけのことだった。
やがて真紅と青藤の綯交じった光、一等星もかくやの眩い煌めきが眼前に迫った——
最愛の娘を亡くした妻は決して戻らぬ過去に囚われる廃人となった。白紙の書の力で娘を蘇らせ三人で和気藹々と暮らせる日常を取り戻すこと。それ以上に望むことなど何もなかった。
——お前にはまだ妻がいるんだ、本当に全てを喪っちまう前に残されたものを大切にしろ
嗚呼、そうか。お前も喪失を知る側だったのか。なんだ、随分と人間臭いじゃないか。
落下する身体が海面に叩きつけられる直前、薬指に着けた宝物が流れ星のように煌めいた気がした。
*
十月旬余、横浜に襲来した悲劇は消え去り街はあるべき静穏を取り戻していた。探偵社、ポートマフィア、そして異能特務課を巻き込んだ対組合横浜戦争は組合の敗北に終わった。
ポートマフィアと探偵社の密会が開かれた晩、暗黙の休戦協定を結んだ両組織は各精鋭の中原と太宰を組合の隠れ家に奇襲させた。元マフィア最年少幹部であった太宰と現幹部中原、嘗て闇社会最強コンビと畏れられた双黒の一夜限りの再結託。苦戦を強いられたものの年季の入った連携を前にスタインベックとラブクラフトは己らが抉った大地に膝をつくこととなった。しかし主目的であったQはグレイに横奪されその後の足取りも掴めず。組合の二の矢を憂慮した両組織はQを諦め先制攻撃へと切り替えた。
探偵社は入社早々戦闘員の主軸となった敦を敵の根城を叩くべく白鯨へと潜入させ、時を同じくしてポートマフィアからは芥川が独断で白鯨へと乗り込んだ。二人は会敵するや否や宿敵よろしく衝突仕掛けたが、紆余曲折の末共闘しフィッツジェラルドを見事に打ち破った。直後、ドストエフスキーのシステムハッキングにより白鯨が街へと墜落しそうになる事態も発生したが特務課に捕らえられていた鏡花の活躍により白鯨は海に墜落するに留まった。
斯くして、水平線を望める港街に癒えない傷跡を残して三社鼎立は終末を迎えたのだった——。
横浜美術館は近、現代美術の幅広い美術を鑑賞することのできる横浜を代表する美術館である。一万点以上の美術品の展示に加え、多種多様なテーマに沿った企画展が開催され年間を通して多くの来館者が訪れている。迫力ある石造のシンメトリーな外観は見る者の心を掴み美術館が誇る建物の中へと誘うよう意匠が施されている。
御影石を使用した開放的なグランドギャラリーに出迎えられ、エスカレーターを上がると広々と造られた七つの展示室へと辿り着く。温湿度管理の設備の整った展示室では保管の厳しい作品等の展示に利用され期間によっては観者が後を絶たない。
大規模改装工事を終えた直後の美術館は今日も多くの来館者で賑わっていたが、閉館時間が迫るに連れ客足は疎らになっていった。
…コツコツと館内を巡回する警備員の靴音が廊下に反響する。
閉館間際を知らせるアナウンスに人気の少なくなった階層のアートギャラリーの一室、前方に鎮座するアンティークベンチに太宰は腰掛けていた。
真っ白な壁に額縁に納められた一枚の絵画が飾られている。
コツ、コツン、カツン。硬い靴音と共に背後に歩み寄った人物の気配に彼は振り返ることなく絵画を鑑賞していた。
「変な絵だねえ。」
「絵画を理解するには齢の助けが要る。」
一つ空いたベンチに腰を下ろした広津は絵画を見上げて穏やかに返した。
絵の具を乱雑に投げつけたかのような其れは緑々しく色鮮やかではあるがそれ以上の感想が沸いてこない。描いた者の内面を表すのが絵画というのならこの画家は大雑把な性格に違いないとおざなりに結論づける。自分にもう少し感受性があればこのへんてこな絵も繊細に楽しむことができたのだろうか。或いはかつて凶弾に倒れた友ならば…。
そこまで胸中で紡いで、思考を振り払うように太宰は目線を展示物から逸らした。
「Qはどうだった?」
瞼を閉ざした広津は緩慢に横かぶりを振った。
「首領が捜索隊を派遣したが満足な結果は得られなかった。」
ポートマフィアの被った損害は甚大だった。それもそのはず、少数精鋭の探偵社と異なりポートマフィアは港一帯の一般企業から小規模犯罪組織までを配下に置く巨大組織。Qの異能による混乱を収拾するべく派遣した構成員の多数を喪い、貿易港は潰され事業運営に大打撃を受ける羽目となった。其処へ持って来て、重大な戦力であったQがグレイに奪略されてしまったのだ。まさに踏んだり蹴ったりであろう。
流行病を優に凌ぐ脅威的な速度で異能感染は広まり一日足らずで人口の三割に及ぶ死傷者を出した街は崩壊し機能を失いかけたが、迅速に体制を整え直した異能特務課の寸暇を惜しまぬ復興作業により元の姿を取り戻しつつあった。
グレイがQの人形をあと少しでも早く太宰の元へと届けていればこれ程までに死傷者が出ることはなかったと坂口は太宰に不満を漏らした。慥かにそうだと太宰はグレイの不可解な言動を顧みた。
「彼は、グレイは純粋に破壊を望んでいると、戦時より彼を知る人達は口を揃えて言う。」
若しそれが真実ならば、Qの異能の解除を引き伸ばしたのは単に破壊される横浜を観ていたかったからという理由になる。映画鑑賞をするか、或いは酒でも嗜むように。度重なる敦への激励は何らかの狡知な意図があると判じているが、そうであるならこの先に待ち受けるのは秩序の崩壊だろうか。
太宰は男の本質を理会しかねていた。不思議なことに実際にグレイと対峙した太宰の眼には彼がそのような狂人には見えなかったのだ。
フィッツジェラルドが経済至上主義、ドストエフスキーが反異能主義の過激派であるならば、グレイは事勿れ主義であり彼等よりも理性的であるよう捉えられた。しかしその一方でグレイがその内懐に患う破壊性を、同じく闇中の居心地を知悉する太宰は敏感に感じ取っていた。
異能を使うことすらせずに太宰の銃を斬り落とし、広津の放った鉛玉をマフィアの構成員へと弾き飛ばし、森と福沢の攻撃を防いでみせた。その間たった二秒。嫉妬すら抱かぬ早業に高揚感を得てしまった己を自覚していた。あの僅か数秒間にグレイが魅せた眼には静かに燃え上がる黒炎が宿っていた。闇すらも及ばぬ深淵が。
眉唾物だが、北太平洋には裏世界を濃縮した絶海の孤島があるとされ、その頂点に君臨しているのがグレイだという巷説がある。ここまで話が飛躍すると常人を逸した超人ですら想像の及ばぬ都市伝説の為、信憑性は低いが有り得なくもないと錯覚してしまうのは矢張り男が紛うことなき強者であるからか。
エリスやQを手駒にできる程の圧倒的なカリスマ性も脅威と謂えよう。グレイの異常性はまるで世界が生み出したバグのようだった。
太宰はQの奪還に向かった際の一幕を思い出した。
——眠れる獅子が目を醒ましたのなら、何もかもが手遅れさ。
茂みに身を潜ませ様子を伺っていたこちらの存在に気付いたうえでの発言は組合ではなく、己らに対しての宣戦布告のようにも捉えられた。
「ところで何故芥川君と虎の少年を白鯨で引き合わせたのかね?」
陰鬱としはじめた空気を振り払うように問うた広津に常日頃の鷹揚さを潜めた面輪が見据えた。
「確かめたかったからさ。新時代の
組合は敗れ全てが落着したように思えるがそれは表面上に過ぎない。組合との戦いで凶暴な鼠が横浜に紛れ込んだ。避けられぬ禍害に対抗出来得る手段は太宰が思いつく限り一つのみ。
「奴は既に動いている筈だ。嘗て一度だけ会ったあの魔人は必ず…。」
とうに厄災は降り始めていた。ポツポツと死の雨が横浜に降り注ぎ、いずれ勢いを増し豪雨となり世界を飲み込むだろう。
気紛れな天気と同じように先が読めないのは、彼一人だけーー