文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

22 / 122
五丁目のアルセーヌ

 

 

澄んだロックグラスを傾けると澄んだ茶色がくねりと波打った。それを一頻り眺めると今度は手を止めてみる。すると、狭い空間で行き場を失った波は畝るのを止めて楕円の波紋を広げていった。 

 

「ある場所に生じた振動や変化が周りに次々と伝わっていく現象を波紋という。」 

 

矩形波や三角波など波の形にも種類がある。如何にして振動させるかで伝わり方は変化していく。

それがまるで人生のようだと云ったのは誰だったか。穏やかな波紋も荒い波紋も全ては自分次第なのかもしれない。その話を聞いた時、自分は何を感じたのだったか。 

 

最後の一波が消えるのを見届けると、俺はグラスを一気に傾けた。 

 

波風を立てれば自分に返ってくる。ならば出来るだけ静かに、少しの漣も生み出さず調和のうちに在りたいと願うのは愚かなことだろうか。そんな想いを払い除けるように清亮な鈴の音が鳴った。

 

目線を落とせば、淡い照明を反射した大きな瞳がこちらを見詰めている。濃い蜜柑色と黒柿色にクリームの混ざった白がバランス良く引立て合っている。雄の三毛猫は幸運を齎すと謂われているが果たして真相は如何に。

短く柔らかな頭を撫でてやろうと手を伸ばすと、アーモンド型の黒目がすかさず細められ、俺の手を叩き咎めた。 

 

「なんでマスターは良くて俺は駄目なんだ。」

「餌やりの頻度でしょうかね。」

「狡いな、勝ち目がないじゃないか。」

 

態とらしげに額を抑えてみれば、マスターは可笑しそうに微笑んだ。

 

此処ルパンは知る人ぞ知る横浜の隠れスポット。全国のバーで経験を積み重ねた壮年のマスターが独りで経営する最高峰のバーである。律儀で人の善いマスターの作るカクテルは奥深く品があり、落ち着いた店内の雰囲気も相俟って時を忘れて一献以上傾ける客も少なくない。

横浜での俺の足跡と云えばうずまきかルパンくらいだろう。

最近では朝もしくは昼にうずまきのコーヒー、夜はルパンで酒を飲むのがルーティンとなっている。殆ど毎日通い詰めていれば常連として顔も覚えられるわけで…来店すれば挨拶一つで瓶を出してくれるお決まりの風景にも慣れたものだ。

星付きであっても不思議でない絶好の酒場だが、訪う度に店内が閑散としているのには訳があった。

 

此処は横浜の港町に位置するバーだ。とりもなおさず、ポートマフィアをはじめとした反社の利用客が客の顔ぶれとなる、所謂はぐれ酒場ともいえる場所である。無法者たちが主な収入源となる此処では揉め事を起こさないという暗黙の了解があるらしく、事を起こせば港を取り仕切るマフィアが粛清しに来るらしい。恐ろしいことだ、まるで死神じゃないか。過去には幹部が派遣されたこともあるそうだ。それでも馬鹿を起こす連中は一定数いるわけで、マスターも何度か命の危機に晒されたことがあるんだと。 

 

「貴方のお名前をお聞きした時は何の冗談かと思いました。」

「そりゃ悪かったな。」

 

そんなわけである程度裏の情報に精通してるマスターは今でこそ冗談を云い合えるほど打ち解けてくれてるが、最初の頃は出鱈目な噂を信じ切っていて俺を前にするだけで石像かと見紛うほどに硬直していた。ブリキみてェな動作で酒を作るのがパフォーマンスかと思っていたくらいだ。勿論極度の緊張下で生み出される酒も絶品、流石は一流バーテンダーと感心した覚えがある。

以前バーで暴れていた無礼な輩を片付けたのをきっかけに胸懐を開いてくれるようになった。

 

「最強のボディガードをただで雇えるなんて、このバーをやってきた甲斐がありました。」 

 

一つ忘れていた。このマスター、客層のせいで人一倍肝が据わっているのだった。顔色一つ変えず産業廃棄物(、、、、、)回収業者に連絡を取るマスターを初めて見た時は己の目を疑ったほどだ。 

 

「そろそろカクテルを頼もうか。」

「畏まりました。」 

 

マスターの作る芸術を味わいたくなって空瓶をカウンターに置けば、こちらが注文する前にメジャーカップが取り出された。ウイスキーはロックよりもストレート派なので大抵は酒瓶ごと出して貰うのだが、一通り樂むと最後にカクテルを一杯頼む。よく相席した客に夜に眠れるのかと尋ねられるがアルコールよりもカフェインを大量摂取する方がジジイには致命的である。 

 

スピーカーから流れる自由で陽気なジャズに乗って聞き慣れたシェイカーの振れる音が響めく。このジャズと作業音が奏でる日常めいた協奏曲を仕事終わりに聴くのが常習となっている。どうしようもない倦怠感を和らげてくれる感覚を好み彷徨うのは遍くバーの利用者に共通していよう。

お洒落な小皿に添えられたナッツを口に放り込んで、隅に置かれている花瓶に視線を移した。 

 

「アリッサムか。」 

「良くご存知で。」

 

可憐な純白の花が株を埋めるように咲いている。指先で触れれば仄かに甘い香りが漂ってくる。庭に植えればさぞ華やかな花畑となるだろう。餓鬼の頃、近所の婆さんが手塩にかけて育てた花々にもこいつがいたのだろうか。

 

「あの子が偶に何処からか持って来るんです。」 

 

煌めくダイヤモンドを模した形のグラスが差し出される。マスターはカウンターの端へと移動した三毛猫をちらと見遣ってから、花瓶に水を注ぎ足した。 

 

「十月二十六日の誕生花です。花言葉は優美、美しさに優る価値。」

「詳しいな。」

「昔、アリッサムが誕生花のお客様がいらしてたので。」 

 

小さく溢された声音にそこはかとない哀愁を感じ取ると、俺は沈黙のうちにグラスに手を添えた。 

 

「美味いな。」

「ブラックルシアンです。コーヒーもお好きだとお聞きしましたから。」 

 

その時、ドアベルが快く鳴鐘して生温い部屋の空気がふっと動いた。軽快な足音が近付いてくる。 

 

「此処は子供が来るような場所じゃねェぞ。」

「失礼しちゃうわ、私だってあと少しで立派なレディよ。」

「つまり今はまだお子様か。」

「意地悪ね。」 

 

隣席に掛けたルーシーは小さく結ばれた桜のような唇を高飛車に歪ませた。三日月型にしなる双眸に秘められた魅力には確かに以前では見れなかった蠱惑さ秘められている。俺は口元に弧を描いた。 

 

「マスター、彼女にホワイトルシアンを。」

「なんて意味なの?」

「さあ、忘れちまった。」

「ふぅん」 

 

唇を窄めて俺のナッツを奪った彼女は、次いでカウンターで寝そべる猫に瞳を輝かせた。 

 

「まあ、なんて可愛らしいっ!」 

 

打って変わって無邪気に笑うルーシーに大人しく撫でられる猫が心なしか優越感に浸っているように見える。何故だか居た堪れなくなってカクテルを口に含んだ。マスターの密かな苦笑は無視に限る。一口飲み下すと、エスプレッソリキュールの味わい深い苦味が口内に染み渡った。 

 

「グレイは何を飲んでるの?」

「ブラックルシアン、意味は強敵だ。」

「ふふ、グレイに相応しいわね。この世の誰も貴方の足元にも及ばないわ。」

「おだてても何も出ないぞ。」

「んもう、お世辞じゃないわよ!」 

 

不貞腐れているが逆に俺に勝てない雑魚を一人でも挙げて欲しいものだ。彼女やマスターのように実際に目撃していないにもかかわらずとんでもない風評を頑なに信じる輩は大勢いる。そしてそういう奴らに限って自身で信憑性を確かめもせずに、さも悪口を言った相手が目前に現れたかの形相で脱兎の如く逃げ去るのだ。俺の顔がなまはげに見える幻覚でも掛かっているんじゃないかとそろそろ疑い始めている。いい加減名誉挽回したいところだが、誰が発端か独り歩きした風評被害はワールドワイドに広まってしまっているので手の施しようがないのが悲しい現実だ。  

 

いつの間にかスウィングジャズからバレエクラシックへと変わった音楽と、マスターのグラスを拭く音をバックサウンドに煙草を咥えた。白の濃度を増してゆく紫煙が空調に吸い込まれていくのを眺めていると、不意にあることが瞼裏に蘇った。

 

「フィッツジェラルドの奴は派手にやられたようだな。」 

 

ホワイトルシアンを試して顔を綻ばせていたルーシーが得意げに首を縦に振った。 

 

「敦とポートマフィアの芥川に倒されたみたいよ。組合も生存を確認できてないの。」

「アイツなら生きてるだろうよ。」 

 

仕事の為に港に赴いた際に運良くアイツが海にダイブする瞬間に立ち合った。空から光り輝く物体が降ってきたのを目にした時は隕石かと思った。普通ならばあの高低差で海に叩きつけられれば木っ端微塵に砕けるだろうが、アイツには異能力がある。悪運強く生き延びているだろう。 

 

「これで長旅も終わりなのね。」 

 

嘆くような歎息が耳朶を撫でる。頬杖を付き陰鬱に翳る面差しが何を憂いているのかは何となく察しがつく。

数年も所属した組織が衰退してしまえば侘しさを覚えるのも無理はない。そう、正に地元で長年足繁く通っていた骨董品屋の突然の閉店を知らせ打ち拉がれた昔の俺のように。或いはスーパーが前触れなく潰れて嘆く近隣住民みたいに。慣れ親しんだ職場も、仲の良い同僚も、その全てが不可逆な思い出と成り果てるのだから。 

 

気を配り何も触れずにいるのが良いだろうと、灰皿に煙草を押し付けたところで湿った空気をドライヤーの如く柔らかに乾かせる話題を思いついた。 

 

「そういえばうずまきのオーナーが新しい従業員を探してるそうだ。」

「え?」 

 

今でも募集していると一昨日話した時に話してくれた。うずまきの上には探偵社、敦のことが気にかかってるようだし丁度良い機会じゃないだろうか。

 

仄めかすように云ってやると、ルーシーは手元のグラスを凝視して思案に更け始める。何やら独り言を呟いているようだが聞き取れない。歳だろうか。

もくもくと雲のように立ち籠める白煙を眺めて、こちらから持ち掛けた話を忘れた頃にルーシーは漸く顔を上げた。 

 

「善いわ。他でもないグレイの命令、このルーシーが完璧に遂行してみせるから!」 

 

国家試験にでも挑むかの決意に満ち溢れた面貌で微笑んだ彼女に決定的に何かが何処かで食い違っているのを直感した。まあいいや、他人事に笑えば可愛い娘は益々自信を漲らせた。 

何かを訴えるような猫の鳴き声が、くるみ割り人形の楽曲に色を加えた。

 

 

 




これにて組合編は完結となります。
次回の更新まで少し間が空きますが気長にお待ち下さい。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。