およそ一刻後、スラム街の一角でオルコットは独り途方に暮れていた。
地べたに蹲り瞳を潤ませる女を気遣う者など此処には一人もいない。しかし哀れがましく惻隠の眼差しを向けられるよりも無関心を貫かれる方が今の彼女には有難かった。何分も、何十分も、足元でパンくずに集る蟻の群れを茫然と眺めていた。
捜索を初めて間もなく彼女はフィッツジェラルドを探し当てた。ところが己がこの世で最も尊敬する上司は見る影もなく落ちぶれ果てた姿で組合の再建を望むオルコットを拒絶した。
対人恐怖症じみた人見知りで昔から人と満足に会話することができなかったオルコットが本の世界に閉じこもったのはある種の防衛本能と謂えよう。意義を見出だせぬ人生と無価値な己に辟易することに飽きるほど辟易し、何をするにも喜びを感じられるそのくせ感受性だけは人一倍強い。どこへ流れゆくとも知れぬ宏闊な海原の如き日常を俯瞰するだけの毎日。そんな色彩の褪せた人生に一筋の光が差し込んだ。
——オルコット君、今回も見事な作戦書だった!偶には君も祝賀会に参加したらどうだね。
相手の胸襟などはお構いなしにフィッツジェラルドは内気な参謀を眩いばかりの明るみへと導いた。達観した視点と他を凌駕するカリスマ性を以て異能力という宝を持ち腐らせる彼女の才能を発揮させ、米国内における組合の名声を伸張した。探せど探せど見当たらなかった原石の最も光り輝く居場所を知り、オルコットの日々は精彩を放った。
たとえ組合が凋落しようがフィッツジェラルドが一文無しになろうが彼女にはどうだって良かった。ただ敬愛する上司の側に支え、全てを欲しいままにする男の進撃を見守っているだけで幸せだったのだ。
だが現実は残酷だ。
——やめろ。これ以上俺を惨めにしないでくれ。
もう一度高みへと激励するオルコットの言葉はフィッツジェラルドには届かなかった。莫大な財産と地位を失った彼は精根尽きてしまったのだ。もはや説得は意味を為さず、挙句の果てには新たな上司にグレイを推奨する始末。胸を衝かれるオルコットをフィッツジェラルドは置き去りにしたのだった。
「貴方がいなければ私は…」
消え入りそうな悲歎は夕闇に人知れず紛れ込んだ。この時、オルコットは失念していた。己が泥沼に沈む心地で膝を抱えている場所がスラム街であることを。フィッツジェラルドを発見次第グレイに一報するという約束を。
カツン。小石が蹴られる音が耳朶に届いたかと思えばオルコットの目前に影が差した。恐る恐る頭を持ち上げれば彼女を取り囲むようにして柄の悪い男どもが立ち塞がっていた。
…次の瞬間には彼女は胸ぐらを掴まれ足場を失っていた。身構える隙もなく訪れた息苦しさにオルコットが顔を顰めると、男達の低俗な顔貌に憫笑を滲んだ。中でも彼女を強引に立たせた男の人相をオルコットは存知していた。
「…思い出しました。罪が重いほど組織での地位が向上する犯罪者集団、ザアパルク。」
被害者の爪が剥がされることから組織のボスはこう呼ばれている。
——
咄嗟に周囲に助けを求めるものの誰もが遠巻きに場の成り行きを見守るばかり。頼みの綱はオルコット自身が連絡を怠った為に望みは薄い。今になって悔いても手遅れだった。
「ギ…組合に遺産なんてありませんっ」
「そうか?あんたは知らなくともボスは知ってるんじゃないか?」
「知りません!」
オルコットが一瞬言葉を詰まらせたのをサムネイルは見逃さなかった。部下からペンチを受け取った彼はオルコットの細くしなやかな人差し指にそれを宛てがった。
「いいのか?俺が集めてるのは親指の爪だが、何も剥ぐのがそれだけとは限らないぜ?」
爪甲に食い込む力にオルコットは能う限り顔を逸らし歯を食い縛った。
ところが待てども待てども痛みは襲ってこない。不審に思い目線のみを戻せば、頭に包帯を巻いた男が見下ろすその双眸にぞっとした。血の通わぬ冷徹具合が腐敗した色味の乾いた唇にまで表れている。何においても吐き気を催すのは、その瘡蓋が重なったような口許から卑しく露出した舌、彼女の顔立ちを品定めする眼だった。
「こいつは駄目だな、ナニしたところで吐きやしねェ。始末しちまっても良いが使い道くらいはあるだろう。…おい、連れてけ。」
「まっ…やめてください!誰か助けて!」
必死の抵抗も意味をなさず、腕を縛られたオルコットは引き摺られるようにして連れて行かれた。
…貧民街の中心角から引き摺られるようにして連れられた先は貧民街内のある廃工場だった。コンクリート造りの内装にクレーンの設置された高い天井、広々とした空間の隅には使われなくなった足場部材や作業用機械等が固め置かれている。埃臭さが肺に毒だ。
日頃から幽霊だのマフィアだのと曰く付きの廃物件として近隣住民が忌避する人気のない廃工場に、群勢とも云うべき数の男達が結集していた。集団を押し分けて現れた異国人の強弱のあるポルトガル訛りの英語に、オルコットは彼等こそがグレイの目当の麻薬組織の一団であると察した。
「何故連れてきた。仕事はどうした。」
「置き手紙をしてきたトコだ。じきに囚われのお姫サマを助けに現れるさ。」
「手筈と違う。」
「そうイライラすんなよ。体に毒だぞ」
唾でも吐き出しそうな舌打ちがよく響いた。
「まあ良い。それよりもつけめは釣れたんだろうな?」
「ああ、アンタの部下も借りて探偵社と親密な人間を攫わせた。そろそろコッチに到着する頃合じゃねェの」
面前で繰り広げられる物騒な会話に反してオルコットは失笑した。恰も汚穢なものを憐れむかの目付きに二人はあからさまに機嫌を急降下させた。アンゴラ人が脅し半ばに眉間に銃口を押し当てる。意気地無しは怯まなかった。
「フィッツジェラルド様はいらっしゃいません。」
探偵社とフィッツジェラルドを誘き寄せ一網打尽にし、最終的にポートマフィアを攻め立てることで横浜の支配権を握る。何と大胆不敵で命知らずな愚か者だろう。既に先遣隊がルーシーの手で打倒された事実すら知らずに勝利を疑っていないのだ。愚蒙な者達はでは組合の残党どころか探偵社を打ち破ることすら夢のまた夢であろうに。
フィッツジェラルドは身内に寛大である一方で役立たぬと判断した者は側近であろうと容赦なく切り捨てる非情さを持ち合わせている。彼の血縁でもなければ、もはや作戦参謀ですらない己では脅しの材料にすらなり得ないのだ。
オルコットはありったけの嫌悪感を携えて睥睨した。失意の底で苦悶する上司の静穏を脅かされるわけにはいかなかった。
「彼の邪魔をしないで。」
云い放つが早いか、ぐらりと視界が揺れた。
ジンジンと熱を帯びだす頬が冷たい床に押し付けれられて初めてオルコットは殴られたと分かった。
「丁度溜まってたところだ。お前さんのはしたねェ姿を上司殿に見てもらおうかァ!」
「いや!やめっ…!」
サムネイルの手が胸を弄ろうとした時だった。
コインが一枚、弾かれた。
「俺の部下に手を出さないでもらおうか、貧乏人。」
聞こえてくる筈のない声、身に伸し掛かる重さから解放された感覚にオルコットは固く閉ざしていた瞼を上げた。そして目の当たりにした。彼女を嬲ろうとしていた男が壁際に吹き飛ばされ、オルコットを守るように立ち開かる大きな背中を。
「フィッツ、ジェラルドさま」
「オルコット君、服か眼鏡か…何でも良い。今持っているもので最も高額なものを俺に譲渡しろ。」
「え?」
「こいつらを叩きのめす。」
晒された横顔は不敵に笑っていた。これだ、この精悍な面構えこそがフィッツジェラルド様だ。筆舌に尽くし難い激情が胸底から込み上げてきて、オルコットは肩を震わす。熱くなる目頭に言葉を持っていかれぬように辿々しく想いを紡いだ。
「お譲りしたら、私の願いを叶えてくださいますか。」
今度こそ、組合の再建を。
「…ああ。君の願いを叶えよう。」
「それなら——」
一刹那、
『華麗なるフィッツジェラルド』
消費した金額に応じて身体能力を強化する異能、金銭に換算できないものでも財産として消費できる。そしてオルコットは人生を、彼女が差し出せる凡てを呈した。
「な、何だ…ぐァッ!」
「撃て!」
「速すぎて目で追えねェ…クソッ」
強烈な一撃が男達の急所を精確に突いていく。神速ともとれる素早さで敵の懐に入り込み、反撃の小隙を与える間も無く制圧していく。威勢は組合の全盛期には劣るものの中小組織を圧倒する程度に凄まじい。
戦いの火蓋が切られてから数分あまりでザアパルクが圧制された。
次いでフィッツジェラルドはザアパルクとの戦闘を半ば傍観していたグアダロアの徒党と対峙した。
屋内に共鳴するけたたましい砲声、視界を奪わんばかりに明滅する獰猛な閃光。暴威ともいえる数の差に臆せず果敢に挑むフィッツジェラルドだったが、分派とはいえアンゴラを代表する凶悪な兇徒達との優劣差は広がるばかりだった。
洗練された戦技で応戦する敵を前に、彼は遂に膝をついた。
「フィッツジェラルドさまっ!」
鉛玉を食らい腹や右胸、至る箇所から鮮血を流す彼の闘志は衰えてなどいなかった。鈍痛に表情筋を引き攣らせつつも二本足で地面を踏み締める上司の頼もしくも心苦しい背中に、顔面蒼白のオルコットが駆けつけようとする。それを片手で制したフィッツジェラルドは、矢庭に傍らに転がっていた弾切れした機関銃を拾った。
不可解な行動に彼が血迷ったと誤解した男達はげらげらと舌をチラつかせて嘲り笑う。如何にも魂の粗陋さを自ら露呈する輩を差し置き、フィッツジェラルドは異能で機関銃を消費すると天井に向かって拳を突き出した。
ドゴォン!地鳴りもかくやの爆音と一緒に屋根の中央部が吹き飛び光柱が天を突き抜ける。
「ギャハハハ!」
「どこに攻撃してやがる!」
「組合も見かけ倒しだなァ…ククッ」
腹を抱えて悶絶する者もいるなかでフィッツジェラルドは只々笑っていた。紛うことなき絶体絶命であるにもかかわらず、大胆不敵に薄ら笑いを携えているのだ。
毛穴ほども動じぬ様子に小気味悪さを抱いた一人が彼に筒先を差し向けた。オルコットが叫ぶ。愈々剣が峰から降りれなくなった。
「あばよ。」
撃鉄が落ち、火花が散った。