真冬と錯覚させる酷寒の朝焼けに月が朝焼けに寝そべっていた。
雅楽が奏でられ白檀の香気が漂い、天空で天人が遊行している様が聯想できる低い朝靄の籠る横浜の早朝。港湾を充満する霧霞に人影が紛れていた。
出勤したてのサラリーマンもかくやの装いの二人と花屋にでも立ち寄りそうな平服の男が人目を憚るように波止場に集っていた。波打ち際との境が曖昧な天候下で一入人通りのない最端の堤で視界を確保する為だけに身を寄せ合う様は部外者がいたならば奇異の目で訝しまれただろう。
元来、ニット帽を被った武器商人のみと面会の取り決めをしていたモップトップの男——その日、彼は自身が所持する銃を売り払う為に遥々やって来ていた——は、招かれざる客に不審感を露骨に見せた。強かな目付きに映じるのは銅製の錨のオブジェに腰掛け腕を組む男だった。己の正体を見極めんとする眼差しを察知したその者は閉ざしていた瞼を徐に持上げる。
「邪魔して悪いな、俺のことはそこらの鉄棒だと思って気にせず続けてくれ。」
男の物言いは紳士的な装いに相応しかった。懸念を残す売り手の男に取引相手の武器商人が宥めるように彼のことは心配しなくていい。」第三者の擁護をした。そこまで断言されて憂慮に蟠るほど彼は臆病ではなかった。仕切り直して布に包んできた旧式の拳銃を差し出す。受け取った商人は早速査定を始めた。
「しっかしまあ、孤児院の院長が密造銃を隠し持ってるたぁ世も末だな。」
五分も絶たぬうちに見積もりが終わると商人は羽毛を限界まで詰め込んだような防寒ジャケットから札束を取り出して数えだした。
「私も自立して孤児院を開けるようになるまでは裏社会の世話になっていたので。」
「ほぉ、孤児院の院長なのか。」
二人の会話を傍聴していた第三者が反応を示した。男は片方の柳眉を吊り上げ孤児院の院長と名乗る男をまじまじと観察してみる。そうして院長が片手にする破れたチラシに目線を留めると寸刻思案する仕種をした。
「中島敦を知ってるか」
「これは驚いた。敦の知り合いで?」
よもや偶然居合わせた赤の他人から因縁浅からぬ者の名を聞くとは思っていなかった院長は驚きに打たれた。もはや無関係ではなくなった紳士的な男は取引が終わるや否や道案内をするように手を差し伸ばした。
「これも何かの縁だ。見送りついでに話でも聞かせてくれ。」
………。
波止場を離れて護岸に沿うて歩くこと暫く。海岸線の車道を往来する車は徐々に数を増し、視界が晴れだした埠頭に息衝く兆候があった。港湾荷役業務の車輌が、遠くで着港した船が雲と海を介して相見えては束の間の寄り合いを惜しむことなく別離してゆく。心細くないのだろうかと情緒的に思い及ぶほどの青さなど両者ともとうに捨てた身だった。
トラックや作業車の煩雑な環境音をモスキートノイズの如く聞き流しながら二人は隣り合い歓談していた。
「今日は新しい銃の買い替えに?」
「いえ、もう足は洗いました。敦の入社祝いに花束を買う予定なんです。予約もしてあります。」
自身の教え子についてを熱く語る男の満ち足りた目許を男は形容し難い面輪で瞥見する。迂遠な知人との邂逅に自身でも理会が及ばぬほどに昂った感情を院長は矢継ぎ早に率直な言葉に転じた。その間聴者となった男は只々そうか、と相槌を打ち続けた。
たった数十分前の天候は掌を返したように良好となっていた。麗らかな陽射しが満遍なく照らす港街の外れを二人は進む。防護柵のない歩道を歩いているうちに、先方から荷台を乗せたトラックが数台連なって走行してくるのを二人は目にした。傍へ寄ると立ち止まる。二台、三台と走り抜けるトラックを見送りつつ院長は話題ついでに雑誌の破り取った頁に刷られた敦の写真を愛おしげに差し出した。
その時、突如として強風が吹き荒れた。滑らかな丘陵を昇ってきた海風が悪戯にチラシを破く。粗く切り取られた敦の顔写真が素早く宙を滑空する。
ふわり、ひらり。高く舞い上がる風船を捕まえるように院長は車道に身を乗り出した。
直後、けたたましいクラクションが鳴り響いた。
*
残菊の散見される十一月の半ば、向寒の時節には珍しい小春日和。横浜市が運営する市立病院に敦と谷崎は訪っていた。
『敦ーこの依頼行ってきて!』
『え、僕ですか?』
発端は半日前、誰にともなく要請された警察からの依頼を江戸川に押し付けられる形で出勤早々二人は追い出された。ままある光景には見慣れた筈の谷崎もまさか己が巻き込まれるとは思わず、まだ空を凍雲が覆うている時刻に漫然から抜け出せずに立ち寄ったコンビニは心に沁みた。
組合戦以来、敦と谷崎が共に任務を担うのは実に数ヶ月ぶりであった。敦が路地裏でポートマフィアの襲撃を受けた日、白鯨に潜入する際にヘリで谷崎が送り届けた時、それから今日。三度目にして久しく引き受けてこなかった探偵社らしい任務に密かに期待を抱いていたのもまた事実。しかし二人を待ち受けていたのは送り込んだ張本人無しでは解決できぬ難事件だった。
交通事故の手掛かりの捜索協力を頼まれて最初に赴いたのは横浜港。規制線の先で二人が目の当たりにしたのは凄惨な死体でも破損した乗り物でもなく、困り果てた様相で立ち尽くす箕浦だった。知っての通り箕浦は探偵社と懇意にする横浜市警の刑事で、数ヶ月前に江戸川の仕事に同伴した敦が初見して以来、度々顔を合わせている。
敦と谷崎は妙な胸騒ぎを感じつつも事件の詳細を聞いた。
なんでも被害者とみられる男が行方不明という。トラックが人と接触したと複数件の通報があり直様警察が出動したが現場には被害者と思しき人物はおろか、血痕などの形跡もなかった。当然警察は通報の虚偽を疑ったが加害者の運転手や周囲の目撃者の供述が一致していること、接触したと主張される車の前方に僅かに運転手のものではないDNAが付着していたことから事件と見做して捜査をすることに。
そのうちに判明したのが事故当時被害者の隣に居たもう一人の同伴者。しかしながらまだ空は薄暗く、朝霧も完全に晴れていない状態だった為に誰一人としてその者の仔細な容姿を目撃していなかった。
事故現場で実況見分をしては揃いも揃って頭を捻っているうちに、市立病院から交通事故に遭った身元不明の男が手術室に入ったとの通報があり二人は急行したのだった。
「事故が起きたのは今朝四時頃、運転手の供述によると被害者の男性は推定四十代、か。」
「うーん、やっぱり交通事故にしては不自然すぎますね。」
ホチキスで纏められた書類と睨めっこをすればするほど「不明」の二文字が散見される文面に逆に睨み返されている心地がした。大学入試の過去問を解く方が幾分かましと思えた。事件の全貌を知るだろう重要人二名が忽然と、それこそ蜃気楼もかくやと姿を眩ませ、遺体の代わりに密造銃が路上に投げ出された。集団幻覚ではないし加害者も目撃者もいるが最も証言を望まれる被害者だけが不在。まるで途中でプロットを投げ出したコナンドイルの駄作ではないか。
未だに紛失部分の見つからないゴシップ記事の切れ端を食い入るように見詰める二人の面貌はいつになく気難しげだ。
「黒社会の殺し屋ですかね。」
「殺すつもりが逆に事故に見せかけて殺されたとか?」
探偵社を出る直前に「行き詰まったら花屋を探すと良いよ」という何とも理解不能な助言は寧ろ難解な事件を迷宮入りさせてしまいそうだ。
廊下の突き当たりから三番目の病室に辿り着けば、扉の前で顔見知りの巡査が出迎えた。互いに一揖すると巡査は患者の現況を今日が峠だと、医者に告げられたままに伝える。
「それから先程入った情報ですが、現場近くで事故を目撃した重機オペレーターの男性の話によると事故直後、十数メートル先に居たはずの男二人はまるで魔法みたいに男性の目の前に現れて、瞬きの間に消えたそうです。」
瞬きの間に消えた。その言葉に敦は引っ掛かりを覚えた。瞼裏を擦過した幻影を追い求めるように口が開かれ…名が発せられる前に扉がガラガラと音を立てて開かれた。
現れた女性看護師に三人は会釈をして入室した。
貸切にされた病室の一隅の寝台へと進んで、遮光カーテンの端を摘み手招きする巡査に従って二人も顔を覗かせた。
昏睡する被害者の面輪が遂に明らかになった。
「えっと、身元は…」
「う、うわああぁあ!」
『お前は世間から見捨てられた子だ。』
『何の価値もない愚図で役立たずの穀潰しが。』
どれ程の月日が経過しようとも生涯解放されることなどない呪縛。誰にも必要とされず、愛されず、孤独だけが心の拠り所だった敦をその時襲った恐怖は…
「何故、何故貴方が此処に!」
探偵社に入り直面してきたどんな困難よりも最も強烈に、彼の心の淵底に封じ込められた生傷を抉った。
「院長先生!」
………。
錯乱しかけたところを谷崎に宥められ、制止も無視して病院を飛び出した敦は併設された公園のブランコにぽつんと腰掛けていた。
孤独だ。太陽の下豊かな緑を駆け回る子供達も、それを生暖かい眼差しで見守る車椅子の老人や周囲の大人達も、優しく頬を撫でるそよ風も、普段ならば心地よく感じる光景が敦の心に響くことはない。
孤児院では片手の指の数ほども許されなかったブランコに自由に乗っている。これが自由の味なのか。視界に映じる凡てが独りであること以上の幸福と、寂寞に浸るしかない不幸を同時に突きつけてきた。
「はい、どうぞ。」
不意に眼前にドリンクカップが差し出される。のそりと顔を上げると同年齢の同僚が柔和な面差しで敦を見下ろしていた。妹のナオミに向けるのと同じ配慮深い兄の表情だった。敦が飲み物を受け取ると谷崎は一つ隣のブランコに腰を下ろした。
とんっ....ギギ。鉄が歯軋りする音が暫く続いた。
「大丈夫?辛いなら」
「辛いだなんて!」
長い沈黙の末に放たれた心配りを敦は反射的に遮った。
「毎晩魘される原因が…あの狂王が漸く死の淵に!最っ高の気分ですよ!」
早く死んでしまえばいいんだ。熱病に魘されているかの歪みな笑みを自覚していない敦に谷崎は唇を柔く噛み締めた。
「太宰さんから連絡が来たよ。」
事故が起こった港はポートマフィアの縄張りだった。性懲りも無く未練などない敦を孤児院に連れ戻す為か、将又更なる不幸を齎らさんとしているのか。院長とマフィアとの裏の繋がりを勘繰った敦の一方で谷崎は太宰から示唆を得ていた。
「匿名の情報提供者?」
手渡されたメモを受け取った敦はそこに記された文字の羅列に小首を傾げた。谷崎は彼の疑念に応えずに一言告げた。
「君が行っておいで。」