メモに指定された待ち合わせ場所は病院から徒歩三十分程度離れた河川敷の高架線の下。汐鳴りのように振動しては遠ざかっていくレールの下で時間通りに到着した敦は手持ち無沙汰に待っていた。川沿いをジョギングするランナーや散策する老人を無風の境地で傍観すること半刻。
突として硬い靴音が鳴り響いた。足先の水面のせせらぎに翳が差し、一聞で病弱だと判る声調が敦の耳に届いた。
「腐った蚕豆のような顔だな、人虎。」
柱の影から気配もなく現れた人物に敦は思わず後退した。何故この場に、拳を構えかけて芥川が手に持つ封筒に目を留めた。
「真逆、お前が情報提供者?」
敦の問いに芥川は答えずに封筒を放り投げた。
「只の事故だと、太宰さんに伝えよ。」
「何?」
「密造銃を購う約束であったマフィアの武器商が事故の全貌を知っていた。」
「銃を、購う約束だった?」
「然り。男はその金で何かを買う予定だと話したそうだ。」
芥川の発言は院長が敦を罰する為に銃を持ち出したのではない谷崎の仮説を裏付けていた。だとすれば一体何故、何を買うつもりで…。地べたにこころの侘しさを投影して愁苦に囚われる敦の繊細な姿態に芥川は忌々しげな舌打ちを漏らした。
「少しは己で考えろ。だからお前はいつまでも愚図で凡庸なのだ。」
いつもの如く当て擦りは毒々しいが茶飯事の攻撃は仕掛けず颯爽と外套を翻す宿敵を敦は当惑の音色で呼び止めた。
「僕の師は太宰さんだが貴様の師はその男。故に今日は見逃してやる。」
「………。」
「死の淵に瀕する師との貴重な時間、精々悔恨の残らぬよう有意義に使うがいい。」
*
芥川に渡された資料に載っていた内容は俄には信じ難い真実だった。
院長は自身の幼少期に僕と同じように孤児院に入れられ想像を絶する地獄を経験した。僕が受けた待遇が天上に思えるほどの地獄を。孤児院を出た後、彼は仲間と共に裏社会で下働きをして日々を食い繋いでいた。しかし物資も欠乏した戦乱末期、明日の朝食を得ることすら一苦労の生活苦に喘ぐ毎日。仲間達は次々と斃れ最後には院長だけが残った。
試煉というには不条理な奈落の底から這い上がった末に院長が得た教訓は一つ。刈れども刈れども雑草の如く蔓延る不義な世の中への憤りが人を成長させる。故に彼は孤児院で自身を悪の象徴に仕立て上げ、やがて成長した教え子らが更なる理不尽の大海原に出ても乗り越える術を身につけさせようとしたのだ。
——これは罰ではない。お前のような愚図がお前を見捨てた世間で生き残りたくば苦痛に耐える術を学べ。
昔、牢屋に監禁された時に注射器を打たれたことがあった。あの時に打たれたのは毒だったのか…否、こうして勇健に生きれている今あれは栄養剤だった可能性が高い。そして僕が手足を鎖で繋がれ監禁された理由は…
「虎になって暴れるから…」
——私を憎め敦。決して己を憎むな。
「…し……ん」
——誰も救わぬ者に生きる価値などない。
「敦君」
「ッ!」
肩を叩かれて我に返ると、谷崎さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「院長先生、なんとか峠を越えたみたいだよ。だけどいつ目覚めるかは分からないらしい。」
「そうですか」
冷淡に放ったはずの自分の声は呆れるほど覇気がなかった。名状し難いこの胸の裡をどうやって言葉にすれば善いのだろう。
「これ、さっき巡査が渡しに来てくれたんだ。」
谷崎さんが差し出してきたのは院長先生の持っていた紙の紛失した切れ端。探偵社として街を駆け回る僕が収められた写真だった。
「院長先生はこの記事を見て横浜に来たんだ。敦君、多分彼はこれで君の活躍を知って激励しに…」
「嘘だ!」
それ以上聞きたくなくて、僕は紙片を床に叩きつけて逃げるように駆け出した。
*
「…これで良かったんですか」
遠ざかる敦の背中を見送りながら谷崎は背後から現れた人物に問うた。
「善いんだよこれで。敦君には必要な混乱だ。」
真意の読み取れぬ声遣いが返ってきた。自殺に失敗し普段以上にほの白い美貌には喜怒哀楽が端から備わってないように見受けられるが、附合の決して短くない青年は然程歳の離れていない上司の温情を承知していた。土の付いた紙切れを拾い上げると谷崎は丁寧にポケットに仕舞った。
*
何も考えたくなくてがむしゃらに走ったはずなのに、いつの間にか病室へと足が向かっていた。
ピ、ピピと規則的に機械音を鳴らす生命維持装置に繋がれ院長先生はベッドで眠っている。孤児院にいた時は全身を覆い隠すような職服で判らなかったが、こうして入院着を見に纏う姿を目にして初めて平均男性とはかけ離れた彼の体躯に気付いた。
血色の悪い肌に裾から覗かせる痩せさらばえた腕、口元に付けられた人工呼吸器も相俟ってまるで誰かに吹き消されるのを待つ蝋燭みたいだ。孤児院が困窮していたという話もあながち嘘ではないのかもしれない。
十八年間も凶暴な虎を内に秘める僕を生き永らえさせ、ひと束の花束を買う為に一文にもなりそうにない古ぼけた銃を売り払い、探偵社という居場所を見つけた僕に会う為に遠路遥々やってきた…?
嘘だ。キリキリと歯が軋む。口内に立ち所に鉄の味が広がる。
このままじゃ本当にこの朴訥な悪魔が僕にしてきた仕打ちの遍くが「小器用な善意」という都合の良い語句で塗り替えられてしまう。僕の受けてきた水火の如き苦しみが。
「そんなの認められない。認められるものか」
馬乗りになって並の女性よりも細い首に両手をかける。
虎化して鋭利になった爪は片手だけで一周できた。これで僕は救われるのだろうか?少し力を入れれば枝のようにポッキリと折れてしまいそうな脊髄を折り曲げれば…
「探偵社が殺人か?」
完全な不意打ちだった。出し抜けに背中に投げ掛けられた声にハッとした僕は弾けるようにベッドを降りて振り返る。そうして今最も会いたくなくて、会いたかった人と眼が合った。
「グレイさん?」
「おう。達者か、敦。」
グレイさんはポケットに突っ込んだ手を徐に抜いて笑いかけてくれた。
ハロウィンの夜、グレイさんによって起こされた惨劇を初めて目の当たりにして以来彼に対する印象は変容してしまった。一般人よりかは情報通な人情味溢れる恩人。いくら探偵社の皆が警告しても自分の中に居座るグレイさんの為人は揺るがないと思っていた。だけど違った。
月明かりに仄かに照らされた倉庫、見るも無惨な姿となった尸の山が生み出す赤黒い水溜り、穿孔のできた天井から差し込む月影に浮かび上がるグレイさんが貼り付けていた妖艶な笑み。それら全てを見詰めているうちに世界が倒錯して、精神体だけが魔界に引き摺り込まれたかの感覚は今でも忘れることができない。
頸に当てられたナイフからは星すら切り裂くような冷たさを感じた。まるで光の差さない深海さながらの双眸に湧き上がった恐怖はその後暫く悪夢に現れた。あの宵、社長や特務課、ポートマフィアまでもがその存在に神経を擦り減らす理由を悟ってしまった。彼等の対応が過剰ではなかったことを思い知らされた。
…だからといってグレイさんが誰よりも先に僕が蹲っていた暗澹たる街角で光芒と共に現れた救世主である事実が覆ることはない。
いつも通りの楽観主義的な気さくな微笑を湛えるグレイさんに己の醜さを目撃された。それだけで今すぐにでも墓穴を掘って埋まり、そのまま永遠に出てきたくない心地になった。
気まずさのあまり顔を逸らした僕に気を害するでもなく、グレイさんは椅子を寄越してくれた。目線で促されるままに座れば彼は窓際に立って窓を開け、煙草を取り出す。死にかけの人間がいる病室で悪びれる素振りも見せずに点火するグレイさんに呆れ果てるも咎める気力もなく、僕は彼が煙草を蒸すのを黙って見ていた。
半分まで吸った頃にグレイさんは漸く口を開いた。
「通夜じゃねェってのにしけたツラしてんな。」
なんて不謹慎な発言だろう。けれども風に靡いていたカーテンが止まったことで隠されていた面貌が晒されると僕は息を呑んだ。
いつか鏡花ちゃんの処遇について悩んでいた折に注いでくれた純真な優しさが佇まいの全てに滲んでいる。嗚呼、若し僕を想ってくれる親がいたのならそれはきっとグレイさんなんじゃないか、頭の片隅で他人事のように思った。
院長先生に血縁者がいれば間段なくコンクリでも投げられたかもしれない発言以降、一言も発さず只々僕を見透かす恩人にいつしか赤心が漏れていた。
「僕は生後一ヶ月も経って間もない頃に孤児院の正門前に捨てられたんです。」
初めて会った時にも打ち明けた生い立ち、図らずして投じられた衝撃的な真実、彼のお陰で見出せた己の居場所について…何もかも全部を。自分の人生を回想し始めれば言葉は堰を切ったように溢れ出した。万感の想いは拙いながらも吐露された。僕が話している間、グレイさんは口を挟まず静かに耳を傾けてくれていた。
長々と語った暁に、僕はグレイさんの言葉を待った。痛いくらいの沈黙だった。
窓外から眺められる公園の景色に時折視線をやっていたグレイさんは、僕から眼を逸らすと先生を見た。言語化しにくい心境がその一瞥に込められているような気がした。やがて彼は静かに問うた。
「院長を恨んでいるか。」
「はい。」
当然だ。どのような事情があったとしても彼が僕にした行いは許されざる蛮行だ。忸怩たる気持ちに苛まれるべき業だ。
「今でも
「…その通りです。」
一人でいるとき、先行きが不安になったとき、僕を貶し惑わす声はたとえ耳を斬り落とそうとも聞こえてくるだろう。
「怯えているか。」
そうかもしれない。いつだって僕は先生の陰に怯えていた。
「許したいか。」
「いいえ」
吐息が聞こえてきた。
「許す、許さない、その狭間で未だに過去に囚われている自分が一番許せない。」
その言葉は核心を突いていた。僕は黙って点頭した。
こうやってグレイさんはいつも僕ですら知らない僕を容易く明らめてしまうのだ。それは太宰さん達の謂う彼の卓越した炯眼によるものか、或いは僕が子供の絵本みたいに単純明快なだけなのかもしれない。何れにしろ未熟な僕には判りようもないことだった。
グレイさんは言葉を続けた。
「許すという行為は無条件に肯定するということ。自分が受け入れ難くても許して受け入れる、そんなことができるのはよっぽどの善人か聖人くらいだ。」
「なら、僕はどうすれば良いんですか。」
「さあな、悩み相談ならカウンセリングにでも行ってこい。」
「えぇ…」
期待とは裏腹に自分自身と向き合う術をグレイさんは教えてはくれなかった。理不尽への怒りをぶつける相手はまだ生きている。僕の隣で
「許す許さないで悩んでいるのは、その根底に癒えない傷を抱えているからだ。」
投げ掛けられた言葉を心の中で反芻する。
「お前は人一倍艱難辛苦に遭ってきた。それでも絶望のどん底で優しさや思い遣りを育みここまで立派に育ってきたんだ。先ずはそんなお前自身を肯定してやれ。」
不意に先生の言葉が蘇った。
——誰も救わぬ者に生きる価値などない。
その言葉は僕のどこか深く大事なところに根差して、いつしか苦痛を知る者として弱者を助けたいと願うようになった。耐え難い地獄を生き抜いた。
…そうだ、その地獄が僕を正しく育てたんだ。そこに行き着いたとき、不思議な感覚が腹の底から迫上がってきた。
「いつか正面切って言ってやるといい。「お前のことは許せないが今は最高な人生を謳歌してる。」ってな。」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。小刻みに震え出す体を抑えられない。唇を噛み締めることで衷心で渦巻く濃淡色とりどりの情感がはち切れそうなのを堪えようとして、不意に歩み寄ってきたグレイさんの偽りのない仁恵が僕の頭に乗った。すると根拠もないのに事件が未遂で済んだ理由を覚った。
「矢っ張りグレイさんが先生を助けてくれたんですね。」
「偶々居合わせちまったもんでな。」
やれやれとでも言いたげに溜息を零すグレイさんだったが、もう二度と彼の偶々を信じたりはしないだろう。
ついと、ベッド脇の机に置かれた花束に心が惹かれる。黄色や桃など彩り豊かな花々が綺麗にブーケとして束ねられていた。
「特に筋合いはないがな。…思いやり、門出、希望、励まし——もんだ。」
最後辺りは何を云ったのか聞き取れなかったけれども、飾られた花々の花言葉を語っていることだけは理解できた。僕が彼の台詞の最後を聞き返す前にグレイさんは国木田さんのように大きな背中を向けた。
「じゃ、達者でな。」
「え?あ、はい。」
何が目的で僕の前に現れたのかも終ぞ訊く暇もなく、グレイさんは去ってしまった。
閉じられた扉の向こうに気持ちばかりの一礼をすると病室は物静かになった。何となく花束が気になって改めてみれば、ブーケに一枚のカードが添え置かれているのを発見した。
『入社祝 武装探偵社 中島敦』
簡潔に書かれたメッセージカード、それが目に入った途端、自身の目から温かいものが零れ落ちた。深い憎悪の中に微かに幽けげに光る一欠片の感情。それが何かを理解するにはまだまだ時間が要るだろう。けれども今だけは込み上げてくるものを抑えることができずに、日が暮れるまで僕は涙を流し続けた。