文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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子に花便りを届けて

 

 

医療法第25条第1項の規定に基づいて一・六メートル以上の幅がある廊下は、この頃ホテル暮らしに慣れつつある俺が毎日踏み締める絨毯敷きのそれとまったく異なる靴音を響かせていた。

このまま前方に歩いていけば入退院支援センターの入った管理棟があり、雇われの年寄り清掃員が徘徊する患者みたいに覚束無い手脚でモップを掃いている。その向こうに眼を凝らせばこの規模の病院であれば世界中どこでも見られる看護師や医者の追われるように動き回る様が捉えられた。こうして人間観察をしていたところでメンタリスト並みに洞察力が高まった覚えはないし、況してや他人になれるわけでもない。

 

「お疲れ様です!」

「ん、お疲れさん。」 

 

二○三号室の病室の前で立ち止まれば俺を刑事だと勘違いした警官が敬礼をする。軽くあしらえば挨拶を返されたことに不憫な正義の社畜は瞳を輝かせた。堂々と振る舞うだけで人を喜ばせられることもあるのだと、長い人生で学んできた。

 

扉を開けるや否や、病院特有の消毒液の臭いが鼻を突いた。タペストリーも小物も飾られていない、それこそ天国に昇った時にはこんな空間が迎え入れてくれるのだろうと思えるくらいには真っ白な部屋隅を、こちらは天使の唇といったふうな桃色のカーテンが囲んでいる。遠慮なく中を覗いてみれば数時間前と変わらず死人のように眠る院長が横たわっていた。

 

ちょっとした成り行きだった。 

 

度重なる酷使の所為で具合の悪くなった銃を直せる腕の良い整備士を紹介してもらおうと武器商に会いに行った港で先約の彼に会った。紺色のシャツに灰汁色のスーツを羽織った背丈がひょろっと伸びた細身の男だった。怪訝な面持ちで俺を警戒するソイツの雰囲気は見るからに堅気。何となしに興味を示して言葉を交わしているうちに敦を育てた孤児院の院長だったことを知った時は愕いた。敦によって親しみを覚えた俺は彼を近場まで見送ることに。 

 

——敦は人一倍心優しく頭の賢い子でした。しかし分け隔てない慈しみは報われない世界で生きるには枷となる。 

捨てられた赤ん坊の敦との出会いから彼が孤児院を出て探偵社として活躍している姿をゴシップ雑誌で知るに至った今日まで。隣歩く僅かな時間の中で院長は随分と理路整然と語ってくれた。教え子の名を口にする度に躍動感を帯びる双眼と誇らしげな笑窪はまさに我が子を想う父親で、如実に紡がれる彼の心境に一父親として郷愁に浸って聞き入っていた。

…もう少し周囲に気を配っていれば良かったと手遅れな後悔を抱かずにはいられない。

 

突発的な風に拐われた紙切れを追おうと身を乗り出した院長は迫っていたトラックと接触した。その身体が地面に叩きつけられる前に咄嗟に異能を発動したが既に意識はなく、頭部から血が滲みはじめていた。即刻緊急治療室での手術を受けてどうにか一命は取り留めたものの、いつ目覚めるか判らないという医者の説明に巣立ちした子を想う父親の慈愛に満ちた眼差しを思い出した。居た堪れずに気付けばば彼の教えてくれた花屋へと足を運んでいたのだ。 

 

「失礼します。」 

 

机に花束を置いて丸椅子に腰を下ろしたところで、巡査がノックの後に入室した。 

 

「探偵社の方々がじきに到着するそうです。」

「探偵社?」

「え?ですから、箕浦刑事の要請で…」

「ああ、成程。」 

 

何故警察が病室に張り付いていたのか漸く理解できた。俺が通報せずに病院に直行したばかりに随分と話が大きくなってしまったようだ。

俺は外套のポケットを弄り紙片を取り出した。院長を助けた時に反射的に掴んだチラシの破れた部分だ。組合との戦いで激写されたらしい敦の写真が載っている。事件なら江戸川が担当するだろう、この紙切れを渡せば一目であらましを理解してくれる筈だ。 

 

「探偵社に渡してやるといい。」

「はい、承知しました!」  

 

託された警官が揚々と去るのを見届けてから俺も立上がる。無性に一息吐きたかった。

 

………。

 

少し一服するだけの予定が予想外に時間を使った。快晴の日の洛陽は格段澱みがなく故郷で毎日聴いていた「ふるさと」が幻聴として聞こえた。数時間の経過である。

 

病室の前に巡査はもういなかった。道中、廊下を駆け回った子供を白衣の天使とは程遠い剣幕で叱った看護師を見たもので音を立てないように慎重に開けたのが却って功を奏した。

実に魂消たことに、院長に首を締められ掛けている殺人現場に遭遇したのだ。何においても度肝を抜いたのは殺人者になろうとしている下手人の正体だった。

 

「探偵社が殺人か?」 

 

我に返ったように怖れをなして飛び退いた敦は俺を視認すると鳩が鉛玉を喰らったみたいな面相になった。殺害未遂の現場を目撃されて罰が悪くないわけがない。本来ならばさっきの看護師の五十倍は真剣に窘めてやらねばならないところだが、どの口で説教するんだという自重と他でもない本人が恰も悪魔に腕を操られていたかの戸惑いっぷりに椅子を差し出すのみに留まった。何よりも先ずは挨拶も過らぬ程に狼狽している互いを落ち着ける必要があった。

 

敦が腰掛けるのを確かめてから俺は窓を開け放った。ひゅるりと肌寒さが流れ込んできて、いつ帰ろうかと話し合う小鳥たちの鳴き声が澄明だ。背後から突き刺さる非難を無視して俺は煙草を咥えた。白煙は忽ち空調に乗ってぐるりと一周した後に公園の緑に溶けていった。 

目線を敦に戻す。翳りを帯びた顔色は自尊心を傷つけられましたと言わんばかり。

 

「通夜じゃねェってのにしけたツラしてんな。」 

 

口を衝いて出た言葉は我ながら不謹慎だと思った。

敦は頸が見えそうなほどに俯いた。感情の均衡が取れずに悲憤と憂慮とを行ったり来たりと眉を切なげに呻吟させ、最後に俺を見上げた。

 

「僕は生後一ヶ月も経って間もない頃に孤児院の正門前に捨てられた。」 

 

告白とともに病室は告解の場と化した。俺の人生の半分以下も生きていない青年の十八年間の軌跡。いつかの茶漬屋では語り尽くせなかった、次元を介した読者の目線からでは知り得ない壮絶な人生。まだ成人もしてない少年が愛の乏しい育て親から受けた仕打ちは陰惨の一言で括るには酷過ぎた。

別視点から具に聞く実話は殺人を犯す男女の縺れよりもずっと厄介で重々しく、俺は只々神父になりきった心地で相槌も打たずに聞き入っていた。

 

全てが明かされた頃には陽は水平線に沈む時刻になっていた。掛けるべき言葉を探して、互いに心境を吐露する手段を模索するような質問になってしまった。 

 

「恨んでいるか。」

「はい。」

「今でも声は聞こえるか。」

「…その通りです。」

「怯えているか。」 

 

無言の肯定だった。 

 

「許したいか。」

「いいえ。」 

 

云い終える前に食い気味に否定が入った。さもありなんと溜息が零れる。 

 

「許す、許さない、その狭間で未だに過去に囚われている自分が一番許せない。」

「その通りです。」 

 

少し間を置いて敦は頷いた。 

無理もない話だ、探偵社で徐々に壊された自信を取り戻しつつあるが心の傷というものはそう容易に癒えるものではない。 

 

「許すという行為は無条件に肯定するということ。自分が受け入れ難くても許して受け入れる、そんなことができるのはよっぽどの善人か聖人くらいだ。」 

 

うっかり殺し掛けてしまう程の憎悪を抱く相手を許すなんざ俺には出来っこないがな。だからといって憎み続ける気もない。恨み辛みっていうもんは放っておけば雪のように積もり積もって何れは怨嗟の大山でできた陰に自分の居場所すら覚束なくさせられる。そんな生き方をするくらいなら忘れちまって自分の思い通りに人生を生きたい。…ところがどっこい。そう簡単に精神を管理できないのが人間である。そも、俺程度の矮小な悩みを敦と比較することが失礼ってもんだ。

 

「なら、僕はどうすれば良いんですか。」

「さあな、悩み相談ならカウンセリングにでも行ってこい。」

「えぇ…」

 

塩を揉み込んだ青菜でもここまでへこたれないだろうしょげ方の敦を尻目に院長を盗み見た。結局他人がどう綺麗事を並べ立てたところで地獄から這い上がれるかどうかは本人次第。だがまあ、多少の指針になってやるのは大人の勤めだろう。 

 

「許す許さないで悩んでいるのは、その根底に癒えない傷を抱えているからだ。」 

 

探偵社に入ったこと。それは確実に敦自身にも探偵社の面々にも変化を齎している。孤児院で粉々に砕かれた自己評価を徐々に取り戻し、早くも多くの力無き者たちを救っている。彼がいなければポートマフィアや組合との抗争で数字となった死傷者を遥かに増えていただろう。少しずつだが、一歩一歩前へと進んでいるのだ。

過去の桎梏から解放されて、院長のあの熾烈な裏で押さえ込んでいた本意を受け入れるには時間がかかるかもしれない。 

 

「お前は人一倍艱難辛苦を経験してきた。それでも絶望の淵で優しさや思い遣りを育みここまで立派に育ってきたんだ。先ずはそんなお前自身を肯定してやれ。」  

 

許して慈悲を与えるというのは何も他人に対して実践される行為ではない。自分を許し、他人を許容することで初めて人は過去の呪縛から解放される。調和は自分の内から始まるのだから。 

 

「いつか正面切って言ってやるといい。「お前のことは許せないが今は最高な人生を謳歌してる。」ってな。」 

 

そう締め括ると頭を撫でてやる。異能が異能だからか髪は虎の毛並みみたいに艶々で柔らかい。

 

「矢っ張りグレイさんが先生を助けてくれたんですね。」

「偶々居合わせちまったもんでな。」 

 

あの場には通行人もいたから転移の瞬間を目撃されたのだろう。元の世界なら怪奇特集番組に取り上げられていたかもしれないな。勿論この世界も表向きには一応異能力は存在しないことになっているのでゴシップ記事に載ったり特番に乗る可能性は無きにしもあらずだが。朝霧が消えないうちに事故に遭ったのは俺にとっては勿怪の幸い、といえばネットで丸焦げにされるだろうか。

ふと視点を転ずれば敦は花束に関心を惹かれていた。 

 

「特に筋合いはないがな。」 

 

院長の悪逆は許されるものではないが人の親として子を想う気持ちを無碍にすることはできなかった。何よりあのまま死なれたら後味が悪くて昼寝もできなくなる。 

撫子色のラッピングペーパーに綺麗に包まれた花々には注文者の想いがありったけに込められていた。 

赤いスイートピー、薄紅のチューリップ、白いガーベラに青いバラなど縁起の良い華々が花屋の抜群なセンスで色鮮やかに束ねられている。中央に一輪だけ挿されている季節外れのプリザーブドフラワーは敦の誕生花か。 

 

「…思いやり、門出、希望、励まし…吉報は自分で届けて欲しいもんだ。」 

 

院長の寝顔が満足げに笑んでいるように見えるのは気の所為だろうか。

 

「じゃ、達者でな。」

「え?...あ、はい。」 

 

再会を邪魔しちゃ悪いと思い至った俺は敦をひと撫でしてから病室を出た。

 

 

「——お礼を言うべきかな。」 

 

廊下に出た瞬間、近距離から話しかけられて跳ね上がりそうになった肩を抑えられたのは奇跡といえよう。一時間分は寿命が縮んだかもしれない。声を主を見れば壁に凭れ掛かっていたのは太宰だった。 

 

「驚いたな、盗み聞きするくらいなら入ってくれば良いだろう。」 

「気付いていたくせに思ってもないことを。」 

 

フィッツジェラルドとは性質が異なるキザな笑窪が癪に触った。一体どうして俺のように切れ味の悪い一般人が部屋外で待機する人間の気配を感知しろというのか。こいつらのような超人ならまだしも。

兎にも角にも俺に話があるといった眼差しを受けて、顎で廊下の先を示して待合スペースへと移った。 

 

空のベンチを一つ開けて別々のベンチに座れば短い沈黙が舞い降りた。こちらから切り出してやるべきかと逡巡しているうちに太宰が口を切った。それは甚だしい誤解による追及だった。

 

「何故院長をあんな目に?」

「…院長は偶然事故に遭い意識不明の重体となった。それが真実だ。」 

 

警察に事情を説明しなかったのが仇となったらしい。さも院長を事故に遭わせた罪人と断定するかの物言いに俺は即座に弁明した。

 

「不運な事故だと思うよ。あと少し俺が早ければ助けられた、本当に残念だ。」 

 

意識不明とはいえ一命は取り留めた。まだ悪運が残っていればいつか目を覚ますかもしれない、賭けるしかない。しかしそれはどれ程の確率だろうか。同じことを思ったのか太宰は苦虫を噛み潰したような顔をした。

ついと、警察が探偵社に協力要請を出していたことが思い起こされる。恐らくこいつと江戸川が腹を合わせて敦に任務をやったに違いない。

 

「随分と回りくどいことをしたな。敦に直接赴かせるとは。」 

 

中原がいけ好かないと扱き下ろすのも納得できる。 

 

「確かめたかったんだ。貴方の敦君への思い入れが如何程かを。」

「で、お前の見解は?」

「貴方が敦君に何らかの情を抱いているのは判った、けれどその先はさっぱり。」 

 

さもあろう、精々息子の面影が偶に重なる瞬間がある程度でそれ以上の感情など持っちゃいない。俺の真意を探ったところで徒労に終わるだけだ。天才というのはどうにも物事を穿ち過ぎるきらいがあるらしい。 

 

「深く考えたところで望む答えは見つからないさ。お前ももっと肩の力を抜くことを覚えるんだな。」 

 

子供が流れ星を追いかけるくらい無駄な頭脳消費でドストエフスキーとの全面戦争前に消耗してしまうなんて、笑えもしない展開になってほしくない。ただでさえ天才は常日頃から物事を複雑に構成しては紐解く訓練を無意識下に行っているのだろう。マフィアから探偵社に転職という前代未聞の経歴を持つ若者、なんて波瀾万丈な人生だろうか。だからこそ福沢は彼の無自覚の危うさを懸念しているのだ。俺も然り。

 

「小説でも書いてみるといい。時に現実から目を逸らすのも一種の救済だ。」 

 

太宰にとってその術が自殺未遂というのなら止めはしないが。

効き目が乏しいだろう気休めの言葉に太宰は何を感じたのだろうか。ちらと横目で見た彼は何かを呟いていたが聞き取ることはできなかった。

 

また気まずい間に身を置くのかと思いきや、俄に用事を思い出したことで脳漿が忙しなく回り始めた。今朝、港に置き去りにした武器商の男が前触れもなく瞼裏に蘇ったのだ。まるで生き霊が怨念を飛ばしてくるみたいに。

急いで携帯を取り出せば果然、不在着信が残っていた。今から行って謝れば許してくれるだろうか。俺は腰を上げた。

 

「人を待たせてるんだ、また機会があれば話そう。」

「彼は!」 

 

立ち去ろうとした俺を太宰は呼び止めた。顔だけを見返らせれば能面のように表情を殺しているくせに、やけに気の立った眼差しとかち合った。

 

「敦君は貴方が悪人であることを知っても尚貴方を慕っている。貴方にとっては彼も玩物の一つに過ぎないかもしれない。けれど…だからこそ、彼の想いを踏み躙るような真似はやめていただきたい。」 

 

幾つか聞き捨てならない言葉があったのは見逃そう。そうはいっても若干気に障ったのは事実。 

 

「そう言うお前こそ俺に憧憬を抱いてるんじゃないのか。」 

 

意趣返しに云ってみた言葉に意外にも彼は瞠若した。それのみならず衝撃を飲み込むように喉仏が上下するのを捉えると、図星だったのかと仰天するのはこちらだった。

 

「私のことも懐柔するつもり?」

「冗談だ。俺だって問題児がもう一人増えるのは御免被りたい。」 

 

週に三度は問題を起こさないと気が済まないQの尻拭いだけで手一杯だ。こんなことをいえば教育がなってないと非難されそうだがよく思い出してほしい。Qはつい最近まで座敷牢に監禁され世俗から離れて生きてきた。世の中のルールを知らない子供が常識の擦り合わせが上手くいかずにヘマを犯してしまうのは当然の学びだ。だからその都度時に厳しく叱り、世の常を教えてやることこそが俺が施すべき躾だろう。将来社会人として働くかは本人次第だがある程度は世間付き合いを知っていて損はない。一緒に暮らし始めて一ヶ月弱だがこれでも大分素行は改善された方だ。そこに太宰が加われば…まあ愉快にはなるかもしれない。俺が禿げるだけで。

 

「お前が強く望むなら…いつでも扉は開いてる。」 

 

再三、お前のような問題児は御免だがな。

今度こそ片手をひらりと振って俺は立ち去った。 

 

「本当に恐ろしい男だ。」

 

なんて呟きは俺の耳に届くことはなく。

因みに武器商は律儀にも一日中港で待っていたそうな。

 

 

 

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