度肝を抜かれて棒立ちする坂口に何を感じたのかグレイは脚高を下ろすと歩み寄る。
「ッ!」
本能的に後退るも、後退は背後のキュリオケースによって阻まれた。
緩慢な動作で指貫手袋が伸ばされる。屠殺場の屠畜にでもなったかのようだった。視認できぬ畏怖の鎖に雁字搦めに束縛され、身動きが取れない。
只只固唾を呑むしかない坂口の間近に仕向けられた手は、しかし彼の予想に反して目捷の間で停止した。
「そう緊張するな。」
気休めにもならない言葉と共に差し出されたのはロックグラス。断ればどうなるかなど考えるまでもない。逡巡の間もなく恐る恐る受け取ると、口端を不均一に吊り上げたグレイは再び席に着き自身も一杯を嗜みだした。
予定外の精神的打撃に書類ばかりか平静すら雲散させてしまった坂口はようやっと理性の欠片を手繰り寄せる。幾分か沈着という状態を思い出した脳漿は次に急速に回転し、空いた手で収納棚に備えられた非常ボタンを押させようとして。
突如、背中を迫り上がった悪寒に動きを止めた。
机に寝かされた一挺の拳銃が銃口を覗かせている。グレイたる象徴の軍用自動式拳銃に自然な仕種で添えられた男の手が暗に警告を発していた。余計なことをすれば撃つ。その意を正確に汲み取った坂口は己の思惑が打ち砕かれたのを悟った。
次いでグレイは彼が滑り出しに取り落とした書類を指先一つで卓上に束ねる。紙を捲り出す鷹揚とした態度に、愈々居た堪れなくなった坂口は館内警報を発動することすら断念して屈託を背負ったまま思考を巡らし始めた。
長年に渡り消息不明とされていた最高警戒レベルの犯罪者が前触れなく日本の、それも異能特務課の本部に居座っていることは無論、勘案すべき課題は多い。
唯一明白なのはグレイが特務課に現れ出でた訳。あろうことか種田の執務室に留まる理由は言わずもがな特務課の責任者への面会を希望しているからだ。ならば逃げ場のない己に残された選択肢は上司の一刻も早い帰還を待ち侘びるのみ。
そう断ずると坂口は益々口元を引き締め緘黙を決め込んだ。碌な会話を交わしもせず、伸し掛かる重圧と種田の不在をひたすらに耐え忍んでいた。
坂口にとって永遠にも思える時間が流れた。執務室に新たな気配が迫ってくる頃、時計の分針が僅か十五分の経過を指し示していた。
何かを察知した気配は廊下で歩みを止める。隔たれた扉の向こうで唯ならぬ不穏が漂うているのを犇と肌で感じている、そんな様子であった。常時裡に秘めし、行先が地雷原であるかのような戒厳を表面化させ厳戒を過分に膨らませたその者は用心して扉を開く。そして最悪の頭痛の種が人形を模って現れたことを悟ると、面輪を驚愕と忌避で染め上げた。
その男、種田山頭火。異能を司りし精鋭部隊を抱える国内無二の行政執行機関の原点にして頂点、異能特務課長官。開豁な風格と事物の核心を見透す優れた鑑識眼を有し内務省を牽引してきた明哲なる実力者。
「これはまた珍客やの。」
伊達に異能組織の最高責任者の座に就いてはいない、危殆に瀕して種田は一寸の隙もなく物腰を改めた。沖融たる台詞の節々に剣呑が潜んでおり、紋付袴の袂をはためかせて組む腕には一切の妥協が見当たらない。大層な嫌われようだとグレイは嗤った。
「本来なら此処に来る予定はなかったんだがな、折角だからサプライズでもと思ったんだ。」
「サプライズとな。儂の寿命を縮ましては元も子もなかろうに。」
「そりゃあ悪かったな。」
尚も膠着状態から抜け出しきれずにいる坂口を他所に司法省の重鎮とS級大悪党は軽口を叩き合う。乾いた笑いを交わし合う双方の炯々としており氷で出来た仮面を繕っているのは明々白々だ。 空調までもがギギと不協和音を鳴らして場の険悪加減に肩身を狭くする坂口に同調していた。
「で、感想は?」
「ご所望なら今すぐ甲分隊に連絡してやろう。」
「冗談よせよ、俺が死んじまうだろ。」
「お前こそ巫山戯るな。何しに来おった。」
——儂の日本に。
斯様に刺々しい語末が坂口の鼓膜を震わせた。かつての因縁による私憤やらを悶々と募らせる彼に応える代わりにウィスキーボトルを掲げたグレイに、種田は音もなく歩を進めると真正面の椅子掛けに腰を下ろす。差し出されたグラスをスワリングさせてから喉に流すと、焼けるような熱さが過ぎていった。
…不味い。不味いのはダークラムの渋い口当たりではなく、種田の平穏を脅かさんとする不快な現実だった。彼の胸襟を理会してか、口を窄める種田にグレイはさも愉快げに笑窪を深めた。否、彼は唯己が選りすぐった一杯を種田が堪能してるなどと見当違いな快適を味わっているだけである。対極的な心地に酔う彼等の後方で、坂口はもはや視界に映じる異様から現実逃避をしつつあった。
「此処最近は味気ない仕事ばかりで退屈していたところなんだ。」
——夕食会は断念せざるを得ませんね。彼等に謝らなければ。先ずは然るべき機関へ一斉通達をして…
「ならば家で大人しく惰眠でも貪ればよかろうに。」
「それじゃ全く面白味がないだろう。…日本に用事があってな、虎を見にきたんだ。」
「
「ああ、ついさっきな。何れあの虎は横浜の命運を左右する白虎へと進化するだろう。本人が望むと望まざるとに拘らずな。」
「…………。」
——いや、何においてもいの一番に緊急通報すべきは軍警だ。午後の会議には防衛大臣も参加なさるというのに、一体如何してこんな事態に…
「もうええ、兎も角日光浴を満喫したんやったらさっさと日陰に帰らんか。お前は呼吸をするだけで罪を生み出しよる。」
「酷ェ嫌われようだな。嗚呼、そういや明日から台風が到来するらしい。それはもうハリケーンみてェに巨大なやつが。」
「なんやと?」
「うっかり吹き飛ばされたくなけりゃア備えておくんだな。これは俺からの親切な警告だ。」
はたと、坂口の思考は現実に引き戻される。いつの間やら久方ぶりの語らいを終えたグレイが瓶を片手に席を立った。
「んじゃ、久々にテカった頭も見れて良かったよ。」
「喧しいわ。」
「達者でな。…アイツにも宜しく言っといてくれ、若し生きてんならな。」
アイツ?奇妙な物言いに初めて率直な疑問を面相に滲ませる坂口。だがしかし彼が首を傾げるよりも、また忽然と閉口した種田が返答に勘案を巡らすよりも先にグレイは姿を消した。正に夢幻が如く、瞬きの隙に。
「なッ、消えた?」
「奴の異能の産物や。」
脅威が再び行方を眩ました直後も眉頭を用心で繋ぎ合わせて種田は卓上の黒電話をひったくる。数拍置いて連絡を寄越す何処かへと招集の意を告げる側らで坂口は己の肉体が雪解けのように弛緩してゆくのを感じた。かつてのポートマフィアへの潜入任務以上の切迫した一大事によもや瀬戸際外交どころか瞬きの一つすら尻込みすることになろうとは露ほども予期しなかった。喩え隕石が落下して死亡する確率にも等しき死の予感に想像が及んだとて、齢二十五の若者——いくら将来が嘱望されてるとはいえ——がどの程度の果敢を奮い起こして争うことができようか。
「安吾、今すぐ闇瓦を召集し軍警に連絡を入れろ。グレイが現れたとな。」
「はい、直ちに。」
今し方の己の煩悶通り、通話を終えた種田が尖った語勢で命令を下すと坂口は背筋を伸ばしたのちに急ぎ早に退出した。
…彼の気配が完全に遠かったのを確かめると、種田は再び受話器を手に取った。架電先は横浜市内の地下に存在する、とある特務課管轄下の秘密図書館へと。
機械的な発信音を右から左へと聞き流しつつ己の執務室で生じた不穏な出来事を深く慮る。
虎…白虎、台風…警告。男が吐き出す全ての言葉を反芻しては、その世の不景気を煮詰めたかの言の葉の波動に顳顬を押さえつけた。態々警告などされずとも、彼の登場時点で種田の適度の日常には抗い難い不吉な雲行き暗雲が垂れ込み始めていた。
種田は地球上のどの異能防衛機関よりもグレイという男の性質を熟知していた。多くの人間がいうところの悪名から、掻き集めた逸話で図書室を開けるほどの芳しくない伝説、異能の真髄まで。男は異能力者でありながら滅多に闇雲に使用せず、敢えて純粋に卓越した頭脳と身体能力のみで黒幕としての雷名を世界に知らしめた真正の怪物。故に彼が異能を使うときは変災が訪れる合図だと実しやかに噂されているのだ。
一向に出ない受話器を握りしめて、種田は窓外を見遣る。
皮肉にも透き通った外に澄み渡る空は限りなく続いている。されど種田は嫌というほど判っていた。あの横浜を抱く果てしない玲瓏と静寂が、明日も明後日も来週も、或いは永遠に安寧だけを與えてくれるわけではないことを…。厄災はまだ忍び寄ったばかりであることを。
*
特務課からホテルに戻って早々、俺は特務課から奪ってきたロックグラスに新たな一杯を注いで生還を独り寂しく祝っていた。
主人公との初対面を果たしたことで懐かしき漫画愛読者としての瑞々しい感性が刺激された俺はてんで心弾ませていた。浮かれ気分が赴くままにこれ迄の数々の失敗を失念してホテルに格好よく帰宅を決め込もうと異能力を使って…果然失敗した。よりにもよって転移先は因縁浅からぬ異能特務課、しかも種田山のオフィスであった。不法侵入に勘付かれてまた槍やら刀やらを突き付けられては堪らないと直ぐに退散しようとしたのだが、如何せん彼此数年以上面を拝んでないあの禿頭に皺が寄る様が見たくなって悪戯心に居座ちまった。
種田との出会いは約十三年前、開きたての事業が興に乗りだした時期に東アジア圏で連日出張っていた頃のこと。偶然取った宿が曰く付きのホテルだったようで俺と同じく仕事で渡海した種田率いる特務課精鋭隊の任務に鉢合わせてしまったのが腐れ縁の発端だ。ひょんな流れで標的として認定され、爾来遭遇すれば即バトルのポケモンよろしく、闇瓦だの猟犬だのを引き連れて弾孔を開きやがるもんだから洒落にならない。あいつらにとっちゃ取るに足らない雑魚を腕試し感覚で駆除する腹づもりだろうがこちとら命が賭かってんだ。元の世界で人並みの畢生を送って徳を積んでいたからだろうか、未だに捕縛された試しがないのは幸甚だ。
それにしても解せない。ああいう物騒な正義の代行者が血眼になって世の凶悪犯罪者ではなく一介の小悪でしかない俺を捕まえようとする筋合いが甚だ釈然としない。ともすれば超常現象が厄難を惹きつけ合うこの世界で生き延びるために引き金に指を掛け、ナイフを握って醜態を晒して逃奔しているだけなのに、何時しか世間は俺を最上級のT級犯罪者として認識するようになってしまった。嫌がらせにも程がある。
「何はともあれ、二度目は上手くいって良かった。」
気障に種田の執務室から再転移を試みたは良いもののまた別の禁足地に飛ばされたらと内心冷や冷やしていたのだ。というのも、俺の能力は自分自身だけでなく人や物など物質の遍くの移動が可能という使い方次第では利便性の優れた異能なのだ。無論、致命的な欠点を除いてはという補足付きでな。
物質の転移、取りも直さず三百六十度全方位を巡らせて視界に入る範囲の万物に触れずに動かせる異能はそれ以上の視野の及ばない範囲に飛ばす際には直接触れる必要がある。自分の肉体のみならば地球上の何処にだって瞬間的に移動することができる。
欠点というのは転移能力の操縦が確率で制御不能になることで、幾度となく練習を重ねるうちに判明した死活問題だ。望んだ場所に移動できたと思いきや今度は馴染みのない土地に移り、地上波の中継ならば放送事故として即画面が切り替わるような場面に遭遇。挙句、意図せずして命を狙われる不運に見舞われること星の数。瓢箪から駒の如き偶然で悪意はないと主張しても信じる者はいなかった。それ故に極力国を跨ぐような長距離の移動には異能を使わないようにしている。万一にも女のバスルームに飛び込もうものなら——実際何回か起きたし、戦時には将校の絵にならない濡れ場を邪魔する事故すらあった——剛毛でも生えていない限り俺の心臓は物理的にも保たないだろう。それに一生涯変質者の汚名を背負うくらいならいっそ死んだ方がましだ。
記憶から抹消してしまいたい過去の誤ちが脳裏に蘇って、それらを振り払うように新鮮な記憶を想起させる。すると自然と特務課で端なくも出会った若い男の姿が浮かんできた。
「坂口安吾か、通りで見覚えがあると思った。」
物語の主要キャラクターであり、マフィア幹部だった太宰治の翻然に少なからず関与した重要人物でもある。原作の詳細が薄れつつあった所為で一瞥では判別できなかったが、後になって思い返すほど既視感を抱かせる顔立ちだった。塩顔の俳優のポスターを見せつけては黄色い声を上げていた娘が実物を目の当たりにすればどんな反応をするだろうか、だなんて馬鹿馬鹿しい空想を巡らして失笑が溢れた。いつ思い出しても愛おしく物懐かしく、どうしようもなく前の世界が恋しくなるものだ。
それにしても種田の禿野郎は相も変わらず目が据わっていて生きた心地がしなかった。奴に便乗するならば「どえらい見幕」で室内の空気を澱ませて坂口まで青褪めさせるものだから、少しでも和ませようと笑いかければ何故か機嫌を損なう一方。終いには無難な天気の話題で親身になって台風の到来を伝えてやれば阿修羅の一歩手前にまで駄々下り。いったい天気予報のどの行間に地雷が潜んでいたのだろうか。将又更年期障害なのか、甚だ謎である。
ついと、万年社畜であろう坂口のそそけた面が築き上げた業務の成果、無惨にも床に散らばった大量の書類を思い出す。正確には内一枚に記されていたある内容を。文面を通覧して自然な流れで思い当たったのは昼に別れたばかりの未熟な虎の面影。
「…こりゃあ時化るな。一荒れで済みゃあ良いんだが。」
からん。硝子に跳ね返る氷だけがまだ来ぬ荒天への憂いに賛同していた。
余談だが明日の天気予報は大外れだった。
*
同日、所代わり武装探偵社にて。
明けても暮れても一人の囂しい社員により薄暮の武装集団の事務所は社名に似つかわしくない、興信所というよりかは保育園に近しい喧騒に充ちていた。
「国ぃ木ぃ田ぁくぅーん!」
「ええい、やかましいわ太宰!貴様も少しは仕事をしろ!」
「暇すぎて溶けて無くなってしまいそうだよ!何か素晴らしい自殺方法はないのかい?」
「知るか!一人で地面にでも埋まっていろ!」
「それは苦しいから却下。」
「お前っ…」
割り当てられた座職を読み通しもせずに手持ち無沙汰に近辺の事務員に余計な世話を焼く太宰治に、見るに見かねた国木田独歩が指導を与えているところであった。
就職二年目にもなって性懲りも無く自殺を図っては己に救済させ、社で乱痴気騒ぎを起こしては苦情の後始末の役割を請け負い、仕事を怠ける人間失格っぷり。暖簾に腕押しとはこれ如何に、業を煮やしてロケット打ち上げ時の大燃焼さながらの激昂を露わにすれども不真面目な社員は悔悛するどころか目尻を下げて揶揄う始末。
本日も同様の成り行きで何故か己があしらわれる羽目に陥った国木田がわなわなと拳を震わせる茶飯事に、これまた勝手気儘を擬人化させたような最年長の古株、江戸川乱歩がさも鬱陶しいとばかりに抗議を飛ばす。
「ちょっとそこ煩いよ。」
「すみません乱歩さん。」
「相変わらずだねえ。」
年柄年中胃薬の主因たる二人に板挟み状態の国木田は眉間を揉む代わりに眼鏡を指で押し上げる。一連の不条理を見兼ねた与謝野晶子が他人事の憐憫を送っていた。他の社員に至っては傍観に徹していた。通常、仲が良いのか悪いのか判然としない国木田と太宰の悶着を相思相愛の兄妹二人が適時に宥めるのだが、稚拙な大人江戸川の癇癪に付き合わされ駄菓子を買いに留守をする今に限っては常識人の国木田に助け舟は与えられなかった。
和気藹々というべきか将又喧々囂々と形容すべきか、常態運行する社内に突如として落ち着きと威厳のある一声が放たれた。
「静粛に。」
福沢諭吉、武装探偵社の設立者であり現社長を務める絶対的な主柱。理非曲直を弁え有徳な品位を誇る魂を有しながら、常日頃より表情変化に乏しい男のいつにも増して穏やかならぬ顔つきに室内は打って変わって静穏に包まれた。
「社長。」
只事ではないことを察した国木田の困惑混じりの呼掛け、福沢は一つ点頭する。実直を表した唇が朗々とした音色を紡いだ。
「今しがた異能特務課より通達を受けた。…超越者殺しグレイがおよそ半刻前に特務課に現れた。」
「なッ!」
喫驚を漏らしたのは誰だったか。異能を有する各々が反応に差異はあれど戦慄を心に波打たせた。探偵社の主戦力が揃いも揃って緊迫を伝播させると、状況が今一つ理解できぬ殆どの事務員らは小首を傾げるのみであった。
「あのーすみません。社長、超越者殺し?グレイ…って何でしょうか。」
一人が代表して疑問を言語化する。兼ねてより魔都横浜の退廃した夜を執り仕切るポートマフィアと衝突を繰り返してきた社員にとって、太宰や江戸川は兎も角精鋭中の精鋭たる国木田が身持を強張らせる異様さは驚嘆に値した。超越者という単語すら堅実に生きる人間には理解し難い響きであった。刀を握れば天下無双の福沢が警鐘を鳴らし、国木田や与謝野が恰も悪夢に苛まれるかの萎縮を示す人物と聞き、大半の脳裏に描き出される人物像は異国の巨人が如き屈曲な犯罪者。六年前に横浜を血の海に染めた龍頭抗争の首謀者、澁澤龍彦にも勝る人面獣心でも現れたのではあるまいか。徐々に蝋燭の炎ばかりの不安を宿し始める事務員らの心情を察した太宰が、珍しくも謹んだ口調で詳述する。
「国際指名手配犯だよ。瞬間移動の異能力者で十五年前の大戦時から今に至るまで世界中の異能力者や権威者の夥しい尸の山を築き上げてきた悪夢の化身。本人は日本人だと主張しているけど国籍も本名も定かじゃない。」
殺戮の嵐吹き荒れる龍頭抗争に際して当時ポートマフィア幹部だった太宰は朋輩の中原中也と共に事態の収拾を図るべく最前線に駆り出されていた。凄惨な死屍と成り果てた仲間に怨念を汚辱として暴発させかけた中原を妨げた乱入者、それこそがグレイであった。横浜裏社会史上最悪の抗争を惹起した澁澤を一発の弾丸で屠り幻のように失踪して以来、日本の大地でその名を仄聞する機会はなかった。一部の見解では、思惑は闇の中だが澁澤を唆し龍頭抗争の起爆剤を下拵えしたのはグレイであるとも囁かれている。
遡っては異能大戦で自身の元上司であった森と、現上司たる福沢の傑物両名に致命傷を負わせた悪魔の一頭地すら抜いてしまう正真正銘の化物。グレイと視線がかち合った一刹那、生まれてこの方安楽死を渇望してきた太宰にとってあの瞬間以上に死を間近に感じたことはない。
「奴の目的は…」
「それが分かれば誰も苦労しないよ。あーあ、可哀想に。今頃軍警も特務課も大荒れだろうね。」
「奴は種田先生の前で異能力を使ったという。」
「異能を?」
太宰の説明にすっかり怖恐れてしまった事務員らを横目に、件の騒動を報告のままに語る福沢に国木田は緊張を強いられた。滅多に使用しない実用的な能力を使ったという珍無類な出来事を聞くだけで尋常でない胸騒ぎが一同を襲うのも無理からぬことである。横浜を火の海へと変じる謀略でも企んでいるのではあるまいか、珍しくも太宰と国木田は懸念を一致させた。さもありなん、既に特務課から通達を受けた軍警では上を下への鞅掌具合である。
不正解である。この先港町に襲来する惨事の数々は外国の某組織と国内のとある異能力者の陰謀が毛糸の如く複雑に絡み合った結果であり、罷り間違ってもグレイの仕業ではない。されど彼の九割の無実を承知する者などこの世界には二人として居まい。
「我ら探偵社はこれまでと変わらず横浜の秩序の守護者としての責務を全うする。奴に纏わる万事に備えて、グレイに遭遇した場合は即座に距離を取り、直ちに私若しくは軍警や特務課に通報するように。」
「あのー、すみません。武装探偵社に依頼が…」
不意に、探偵社の扉が開かれる。期せずして顔を覗かせた気弱な青年に一斉に見返った一同に光速もかくやの勢いで再び閉ざされたのはコンマ数秒後のこと。
昼と夜を異能が統べる仮初の平和、混沌の都市横浜に灰色の嵐が吹き荒れようとしていた。