バタバタと複数の乱れた足音が背後から聞こえる。けれども後ろを振り返ることはせず無我夢中に手足を動かし続ける。
大きく息を吸えば凍るような冷たさが喉元を突き抜け、千本の針が肺が突き刺した。それでも足を止めることはせず荒い呼吸を繰り返しながら進み続ける。
私の馬鹿っ、スカポンタンッ!どうしてもっと早くに気づかなかったんだ…!
薄墨さんは刑事なんかじゃない、ましてや薄墨なんて名前でもない。
少し頭を捻らせれば分かることだった。度々言動がおかしかったのも、異常なまでに射撃精度と運転技術が高かったのも、やけに情報が早かったのも……全ては彼の罠だったのだ。
「本当なんでしょうね!?その薄墨という刑事の正体がグレイであることはっ…、」
道すがら今日起こった全てを説明すると、坂口先輩が息を切らしながらも問いかけてきた。青木先輩と村社先輩も一緒だ。
「間違いありません!彼はやけに綾辻先生と親しげに接していた。きっと先生に近づく為に決まってます!」
グレイの目的なんて分からないしそんなのはどうだっていい。大事なのは今、先生の身に危険が迫っているかもしれないことだった。
きっと先生は最初から気づいていたのだろう、その上で私に何も伝えずまた一人で抱え込んだのだ。教えてくれれば良かったのに…いや、私では頼るには力不足だったんだ。憤りと惨めさと遣る瀬無さが混じり合い頭の中をぐちゃぐちゃにする。
ごくりと空の唾を飲み込むと喉が絡んでひゅっと情けなく鳴った。時々足がほつれそうになりながらも全速力で階段を駆け上る。
最後の数段を一気に跨ぐと全身で扉を押し開けた。
「先生!」
最初に視界を奪うほどの眩い光が差し込んできた。暗く長い階段から開けた場所に出たせいで暗闇に慣れていた脳が明るさに順応できずに少しふらつく。けれどすぐに明順応して視界が確保されると、次に目に飛び込んできたのは驚くべき光景だった。
「綾辻せんせっ…!」
囲いのない屋上、端部に設けられているパラペットに平然と立つ二人の男。一歩足を踏み出せば九十メートル先のコンクリートに激突し、フードプロセッサーに掛けられた肉のように潰れるだろう場所で、二人は向かい合っていた。
サングラスを外し露わになっているその風貌は二月前に見たのと全く同じだった。月と街明かりに照らされて、能面を貼り付けたような表情のグレイが綾辻先生の眉間寸前に筒先を向けていた。綾辻先生は固く瞼を閉ざして微動だにしない。その面持ちはまるで死を受け入れているようで…。
「先生!グレイ、銃を下ろしてください!さもなければ撃ちます!」
「辻村君待ちなさい。間違えれば綾辻先生が無事では済まない。」
見たこともない先生の様子に私は瞬間的に銃を抜いた。そしてグレイに向け警告を告げると私の腕を掴んで坂口先輩が静止した。先輩は私から二人に視線を移し替えると、眉根を寄せ恐ろしく厳粛した面持ちで場を静観する。
グレイも先生も応えない。そんな状態をただ見守るしかできないでいた。
一時の間を置いて、綾辻先生が伏せていた瞼を開いた。
「一つ聞かせてもらおう。」
「なんだ。」
先生がゆるやかに唇を動かす。二人とも、喜怒哀楽が凍り付いてしまったような面差しだった。
「俺は完璧に事件を解き明かした。なのに何故貴様には異能が発動しない。」
綾辻先生の異能が効かない?そんな馬鹿な…だって、先生の異能は様々な確率を超えて罪を見抜いた相手に絶対的な死を与える力。先生に罪を見抜かれた犯人は例外なく不慮の死を遂げた。たったさっきも、島田祐一が死んだのだ。
けれど私達の前でグレイが実体を保って存在していることは紛れもない事実だった。
綾辻先生の質問にグレイの瞳に初めて感情の色が浮かんだ。グレイは片手で銃を構えたまま口を開く。
「お前は俺をこの悲愴な事件を生み出した黒幕だと推理した。…合っているな?」
「ああ。」
「簡単な話だよホームズ。
グレイが何を言っているのか私には分からなかった。坂口先輩達を見てみると、先輩達も眉間に皺を寄せて思惑しているようだったからホッとした。
「お前の異能力は実に単純明快だ。」
グレイは言葉を続ける。
「黒幕として罪を暴くにはお前の推理が成り立っていなかった。」
推理小説の読み過ぎだな、そう締めくくるとグレイは口を閉ざした。先生は意外にも息を吐くようにふっと笑った。
「つまり俺は貴様の罪を正しく暴けなかった。」
「そういうことになるな。」
そうか、そうかと呟く先生。その声音が心から愉しんでいるときのものだと私にはわかった。
先生はもう一度そうかと呟くと口角を上げた。
「ならば、俺が貴様の全ての罪を暴いてやる。……もし暴くことができなければその時は潔く負けを認め貴様の陣門に降ろう。」
「なっ!」
私達がここに辿り着くまでの間にどんな駆け引きがされていたのは知らないが、その発言は特務課として到底認められるものではなかった。動揺にグリップを握り込む手を震わせる私を他所に会話は進んでいく。
「よく考えて発言しろ。最初から勝敗の決まっている賭けだぞ。」
「そうだな、貴様の負けが確定した戦いだ。」
きっぱりと言い放った先生の瞳は闘志の炎で燃え上がっていた。一方のグレイは更に口端を吊り上げて満悦を浮かべている。
ゾクリと体の中心を戦慄が走った。
グレイが指の腹に力を込めるのがスローモーションに映り、気づけば私は叫んでいた。
「やめてっ!!」
鼓膜を破る凶音が反響した。
瞬きの後に視界に映ったのは五体満足で佇む綾辻先生と、グレイのいた位置に浮かぶ影の仔。振り翳した鎌は空を切ったようで、影の仔は周囲を見渡すと獲物が消えたことに気づき影に戻っていった。
既にグレイはおらず、火を吹いたのは私の銃だった。
「先生!ご無事ですかっ、」
脅威が消え去ったことに胸を撫で下ろすとすぐさま先生に駆け寄った。
「問題ない、少し話しただけだ。」
「綾辻先生。」
先生がポケットに手を入れたまま涼しげな顔で平場に足を戻すと、先輩が話しかける。表情を見て直ぐに判った、先輩は先程の先生の発言を重く受け止めているようだった。
「グレイに何を言われたのですか。」
「…俺に用事があったらしい。尤も大した用件ではなかったが。」
「綾辻先生。」
誤魔化したところで先の発言から彼がグレイに何を言われたかは全員察していた。それを先生も判っているはずなのに、立場を悪くするだけの態度をとるのは何故なのか。
「それよりも坂口君、話は聞いていただろう。帰ったら奴に関する全ての資料を寄越せ。」
この場でどれだけ追及しようが真実を話す気のない先生に坂口先輩は小さな溜息を一つ吐いた。
「良いでしょう、帰ってから洗いざらい話してもらいます。……けれどこれだけは聞かせてください。」
警戒を孕んだ声音、嘘は許さないと眼鏡の奥の瞳子が物語っていた。先生は階段の前に立ったまま、振り返ることなく耳を傾けている。
「グレイに感化された、なんてことはありませんよね。」
問いかけではなかった。先輩達も、私も、ただじっと先生の言葉を待った。
「『光は暗闇の中で輝いている。闇はこれに勝たなかった。』…一昔前の口語訳聖書ではそう訳されていた。」
「…………。」
「お前の在り方は二元論…決して光とは相容れない存在だ。」
最後の言葉は聞き取れない程に小さく、聞き返した坂口先輩に代弁しようかあぐねている間に先生は下り階段へと一歩を踏み出した。
「行くぞ辻村君。事務所に戻ったら美味しい珈琲を入れてくれ。」
「えっあっ、ちょっと待って下さい!」
走っているわけではないのにあっという間に大きな背中が遠ざかっていき私は急いで後を追った。何くれとなくだけど、綾辻先生も私も大丈夫な気がして口元が綻んだ。と、先生が振り返る。
「そうだった。辻村君。」
「はい?」
「始末書は頼れる君に任せたぞ。」
いつもの人を揶揄う時みたく白い歯を見せる先生はそれだけ言うとずんずんと先へ進んで行く。
今日やらかした数々の出来事が走馬灯のように流れてくる。思考が停止した私は数秒の間立ち止まり、
「ちょ、ちょっと待てぇえい!」
先生目掛けて走り出した。まだ聞こえないはずの長官の怒鳴り声がもう既に耳の中でループしていた。
*
その商店街は夜だというのに人で繁忙していた。
客を捕まえようと声を張り上げるキャッチ、香ばしい煙を漂わせ通行人の食欲を刺激する出店、興味無さげに早足で歩きつつも瞳孔をぎょろりと回し気になる店を吟味しているサラリーマン。外の街とは時間も空間も区切り取られた此処は人と物で溢れかえっていた。
アーチ型の天井にぶら下げられたLEDが昼間のように辺りを照らす。俺は左右からかけられる軽快な誘い文句を無視して人波を縫うように進んで行く。
少し歩けば街へと抜けられる脇道に逸れ、一転して閑散とした道通りに入る。まばらに点灯する赤と緑のライトはクリスマスを意識しているのだろうか。
突き当たりまで到達したところで俺は足を止めた。
コンコンコンと楽器を奏でるように扉を三回叩く。すると、顔と同じ位置にある四角い木板が上に開かれ黒い眼がこちらを覗いた。そして扉が開かれ大男が姿を現す。
その手のサイズには見合わない小さなトランプを一枚、男は掲げた。
「蛇。」
別のカードが挙げられる。
「女。」
もう一枚。
「王冠。」
儀式が終わると男は恭しく一礼し道を開けた。自転車も通れなさそうな廊下の先を行くと新たな扉が、今度はひとりでに開かれた。
「グレイ様、お待ちしておりました。」
店に入って早々手触りの良さそうなウール製のスーツを着た身なりの良い男が近寄ってくる。
「悪いな突然。」
「とんでもございません!お客様は先にお席に着いておられます。」
そう言いうや否や歩き出す支配人の後に続くと個室へと案内される。軽くノックをして入れば仄暗い部屋で半円型のコーナーソファの端に座る男がいた。
「待たせたか。」
「いいえ、僕もちょうど来たところです。」
支配人が去ると入れ違いで入ってきたウェイターにドリンクを注文し俺もソファの正反対の端に座る。血のように赫い瞳を細めドストエフスキーは微笑んだ。
「面白いバーですね。合言葉の代わりに奇妙なトランプカードを読ませるとは。」
「あれは支配人の異能だ。異能力を持つ者だけがカードの柄を読み取ることができる。普通の人間は店を見つけることすらできない。」
「薄々勘付いてはいましたが…成程、此処は罪の温床でしたか。」
異能力が罪と云うならば、確かに此処は悪の吹き溜まりに違いない。
「壊すなよ。」
「死をも畏れぬ行為ですね。貴方の縄張りを荒らす怖いもの知らずがいるならば、是非死の家の鼠に勧誘したいところです。」
此処は俺の縄張りじゃないがな。反異能力主義だのソシオパスだのと世界中の治安機関には危険視されているが存外ドストエフスキーは人を尊重できる男だ。でなければこうして態々足を運んで、俺の顔を立てる発言をするはずがない。
今だってチャームポイントの帽子を取り俺に向き合ってくれている。捻くれてるだけの生真面目な青年だ。…少しばかり捻くれの度合いが過ぎているが。
「近況は、」
「順調です。」
ドストエフスキーは一言応える。
季節の名曲をお洒落にアレンジしたジャズが気持ち程度の控え目な音量で流れていた。
だんまりとするドストエフスキーに俺としてはその先の詳細を話して欲しかったと、口元が引き攣りそうになるのを抑えた。コイツが順調というと、それはもう地獄の宴会を準備しているようにしか聞こえない。
ポケットから煙草を取り出し口に咥えるとジッポライターを鳴らした。一服、煙がゆるやかに昇るのを眺めているとウェイターがドリンクを届けにきた。
「今日は装いが一段と違いますね、お仕事ですか。」
「ああ、刑事を演じてみたんだ。なかなかに楽しめたよ。」
二杯の空のグラスにボトルを注ぎ差し出すが、ドストエフスキーは飲まない。酒は嫌いだっただろうか。
「僕を殺す気ですか。」
「大袈裟だな、ロシア人だろ。」
「酷い偏見ですね。それにバルカン176はブルガリア産でしょう。」
…どうやらバレていたらしい。俺は八十八度のアルコールを一気に煽り、ウェイターを呼ぶと新たに注文した。
また二人きりの空間になるとドストエフスキーが俺の腰元を見ていることに気づく。その視線の先には俺の銀のアタッシュケースが置かれていた。
「ああこれか。」
俺はアタッシュケースをテーブルの上に置き、中が見えるようにドストエフスキーに向けてみる。そしてケースの中身にポーカーフェイスを崩すドストエフスキーにほくそ笑んだ。
「モリウイルス・シベリカム。知っているだろう。」
「ええ、近頃よく耳にする細菌兵器の名ですね。」
「その通りだ。」
研究棟の屋上で綾辻に返すつもりだったのだが、特務課の面々が突入したことによってそれは叶わなかった。冗談でトリガーを引くふりをしただけというのに、辻村の娘っ子が拳銃を向けてくるものだから身の危険を感じて転移してしまった。
それにしても…
「罪を暴く、か。」
ふっと息を吐くように笑いが溢れた。俺を京極のような極悪人と誤解している限り綾辻に勝利の女神は微笑まないだろう。だがあの英明な男ならば、いつか自分の誤解に気づき本当に俺の罪を裁くかもしれない。
「グレイ?」
突然黙り込んだ俺にドストエフスキーが呼びかける。俺はアタッシュケースをスライドさせドストエフスキーに送った。
「新しく同胞が入ったらしいな。入団祝いにこれを贈ろう。呉々も扱いには気をつけろよ。」
間違っても非異能力者の一般人には手を出さないよう釘を刺して。
本当はあの場に戻り綾辻達に返すのが正解なのだが、今更中身だけを返しに戻るのは格好がつかない。それに種田の困り果てた顔を想像すれば尚更だった。
ケースを食い入るように凝視するドストエフスキーの表情からは何を考えているか読み取れなかった。
「有り難く受け取っておきます。」
「ん。」
ドストエフスキーはケースを仕舞うと席に置いた。
再びウェイターが入室すると、淡黄色に澄んだオールドファッションドグラスがドストエフスキーの前に置かれる。
ウォッカベースのカクテル、ソルティドッグだ。グレープジュースとシェイクして作られるさっぱりとした口当たりのカクテル。度数はたったの十三。
「寡黙ですか。」
「お前にぴったりだろ。」
口数が少なく周囲に流されそうに見えて、実は人一倍自我が強い。俺が作ったわけではないが、せめてその思慮深さが善性とともに発揮されるようにと願いを込めて。
ドストエフスキーがグラスに手を付けるのを見届けて、俺はもう一杯のバルカンを飲み干すと金を置き立ち上がる。
「もう行かれるのですか?」
「ガキを待たせてるからな。...そうだ、近頃は異能者狩りなんて物騒な事件も起きているらしいな。」
「………ええ。」
それに加え裏社会で出回る毒物兵器。本当に物騒な世の中になった。
「変なウイルスには罹りたくないものだ。」
それだけ言うと、反応のないドストエフスキーを置き去りにして俺は店を出て行った。
外に出れば冷気に頬を撫でられ、店内との温度差にぶるりと震える。
本通りに戻るとまだまだ眠らぬ商店街が活気賑わっていた。Q達にシュトーレンでも買っていってやろうか、なんて思いながら出店を見て回る。
手袋の上からさらに温めようと両手をポケットに突っ込み、そして中に異物が入っていることに気づく。
「抗毒血清、もう一本渡すの忘れてた。」
通常の試験管サイズの細長いカプセルの中、透明の液体がゆらゆらと揺れていた。
#10断罪する者たちは以上となります。ではまた次回。