司法省赤煉瓦棟は明治時代にドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンによって設計された官庁建築物である。
大戦時に空襲によって壊滅的な被害を受けたものの修復され、戦後も司法省の本館として使用されてきたその外観は往時を偲ばせ、国の重要文化財にも指定されている。館内の三階は大衆向けのギャラリーとして一般公開されているものの、その他各階は現役の行政官庁として広く使われており今日も国家の行政、司法を支えていた。
百年以上もの歴史を誇る司法省の館内、三階のとある一室には司法省の高官のみが利用できる会議室がある。
全体の内観と同様に煉瓦壁が日本産の趣ある木材と漆喰で覆われた和洋折衷を感じさせる二十坪ほどの会議室。室内には拘り抜かれた金具と桜の彫刻が施された荘厳なデザインの円形のアンティークデスクと、それを囲むように八つの椅子が並べ置かれていた。
デスクの端に置かれたディスプレイに注目しているのは司法省次官の斗南とその秘書、特務課の種田と坂口。そして照明の具合か面貌の映りが不鮮明な軍警の二人組がディスプレイ越しに秘密会議に参加していたーー
ぱちぱちと暖炉の中で火の粉が爆ぜる。
天井から吊るされる美麗なシャンデリアの仄暗い照明と相まり、香ばしい音を放ちながら赤赤と揺らめく焔が室内の雰囲気を余計に不気味にさせている。不規則に明暗する部屋の中で、六人は厳かな緊張感を醸し出していた。
「斗南殿、貴殿が如何に危険な橋を渡ろうとしているのか、今一度省察すべきだ。」
「百も承知していますよ種田長官。しかしこの機を逃しては二度とありませんぞ。」
拳一発分の衝撃にコップの水面が波打った。
斗南の秘書がピクリと肩を震わせ、種田の隣で席につく坂口は心の中で溜息を溢した。
自身の上司が此れ程までに立腹する様を目の当たりにするのは坂口にとってこれで二度目である。
前回は彼の眉間に銃口を突きつけたグレイに対して。そして今回は……今回もグレイを巡る一悶着。そう、頃来坂口の頭を痛めるのはいつだって綾辻やグレイをはじめとした危険異能力者たちであった。
今から丁度半刻前、突然の召集に会議室へと赴いた種田と坂口は斗南により耳を疑うような提言を受けた。
国際的超危険異能力者グレイの逮捕。
それは世界中の多くの治安機関が試み、悉く激甚なしっぺ返しを食らった為に思断った実現不可能な願望。彼を狙った者は生死に関わらず凄惨な末路を辿ってきたが故にその名を口にすることすら疎まれる今日。
それは乱気流に襲われながら綱渡りをするような無謀な試みであり、司法省でも屈指の保守派である斗南の口から放たれた発言とは思えなかった。
凄まじい剣幕で異議を申し立てる種田だが斗南は一貫した姿勢を崩さない。ディスプレイに映る軍警の二人は終始沈黙を貫いていた。
「一殺多生の長官であればこそ賛意を示してくださると提案申し上げているのです。」
「一歩誤れば多大な犠牲を払うことになる…それは決して我々だけではない、横浜に住まう幾百万の無辜の民にまで火の粉が降りかかるのだ!」
再び種田の拳が力強く叩きつけられ、数センチほど浮遊したコップを坂口はすかさず指で止めた。
種田の憤りに反応するように暖炉の炎が一際大きく爆ぜた。
息詰まりな空気が一同の間を漂う。
数拍置いて種田は頭を抱え長嘆息を吐き出した。
「…聞くに探偵社の福沢殿の危機というではありませんか。」
静まり返った室内に、上がりきった熱を冷ますような落ち着き払った調子の声が落ちる。
「ポートマフィアの首領も命が危ういと云う。情勢が揺れ動く今だからこそ横浜に蔓延らんとする悪の芽を摘んでおくべきです。」
「芽....芽だと?やはり貴殿は何も分かってない。」
グレイが芽だと云うならば世界中の地中に潜む悪漢達は彼を養う土壌に過ぎない。彼こそが世界の闇を体現する、例えるならばユグドラシルの世界樹。
グレイという闇世界を内包する樹を斬り落とせば最後、制御不能となった猛悪が地上に満ち溢れ何れ世界を終末へと導くのだ。いわば彼は制御装置でもあった。
しかし種田の懸念が斗南に伝わるはずもなく。
「仮に奴を相手取るとして策はどうする。超越者か?厄災兵器か?」
種田の問いに斗南は不均一に口角を上げた。
「だから彼等を呼んだのですよ。」
そう言って視線を送るのはデスクの隅に置かれるディスプレイに映る軍服の二人。斗南は同意を得んと意気揚々と話しかける。
「如何かな。グレイを確保できれば軍警の地位もより確固たるものにできるだろう。」
画面の向こうで両手を組んでいた人物は指先をとんとんと小刻みに叩くと、
「……甲分隊から二人派遣しよう。」
そう告げるや否や通信を切った。
再び静寂の訪れる会議室。
勢いを緩めた篝火が淡い暗がりへと照明を下げた。
間を置いて種田が立ち上がる。
「これは決定事項です。特務課の真心ある対応を期待してますぞ、種田長官。」
去り際に背に放たれた言葉には反応せず、種田は坂口を伴い会議室を後にした。
「長官。」
廊下に出て早々、坂口は憂慮の面持ちで種田を見やる。
数歩進んだところで足を止めると種田は会議室の扉を睨みつけ、次いで坂口に視線を向けた。
「安吾、裏を洗え。」
「………。」
見たこともない剣呑な眼差しに坂口は息を呑む。種田の面持ちが事態の深刻さを物語っていた。
逮捕など名目上に過ぎず、その本意が闇討ちであることなど会議に参加した全員が承知の上だった。
故に種田は疑問を抱いた。石橋を叩きすぎて壊してしまうほどに保守的で小心者の斗南ではグレイの逮捕など考えも及ばぬ、思い付いたとしても実行に移すはずがない。誰かが裏で糸を引いているのは明白だった。
加え軍警の思惑も掴めない。甲分隊は日本の防衛機構において最高権力を保有しており、特に司令官は義理と人情を地でいく男だと種田は認識していた。いくら過去にグレイとの対戦で黒星を喫したと云い、国家の秩序維持を最重要事項とする彼等がこのような荒波に乗り出すはずがないのだ。
それだけではない、グレイという男が畏れられる最もの理由はその神威的実力にあった。
攻勢、集中、経済、機動、統一、保全、奇襲、簡明…遡っては大戦で培ったであろう九つの戦いの原則を遵守する彼に適う特殊部隊などありはしない。例え特殊部隊兵一千人に匹敵する実力を有する国内最高峰の猟犬部隊が派遣されたとしても、如何してか種田には彼等がグレイに勝利するというイメージが浮かんでこなかった。
最悪の事態を憂慮する種田の胸中を察した坂口は深く頷くことで応える。
願わくば横浜の深い淵に伏す龍を叩き起こさぬことがないようにと。そうなったが最後、焼け野原を血の海が覆うだろう。
だがこの時とうに龍穴へと足を踏み込れていたことなど、彼等には知る術もなかった。
一方、種田達が去るのを見送ると斗南は消えかかった暖炉に新たに薪を焚べていた。火力を増し勢いを盛んにさせる炎は自身の復讐劇を後押ししているようだと、思惑通りに事が動いたことにほくそ笑んで。
しかし人の居なくなった部屋で斗南は自身の興奮が冷めゆくのを感じる。
「…確かにグレイとやらは一筋縄ではいかなそうだ。その情報提供者の話は本当だろうな?」
不審げな顔の斗南に傍で控えていた秘書は数度首を縦に振った。
「え、ええ。グレイを横浜から追い出せれば探偵社員に纏わる不祥事の数々を情報提供する…確かにそう言われました。」
「なら善い。信じようじゃないか。」
ー全ては探偵社を屠る為
暖炉に向き直った斗南の瞳は燃え盛る復讐の炎を写し出していた。
自身が陰謀と戦禍の渦に呑み込まれているとも、背後で秘書が冷徹な薄ら笑いを浮かべていることにも気付かずに。
後にどれほど凄惨な事件が引き起こされるのか、この時はまだ誰も知らなかった。
横浜市中区山手町、大佛次郎記念館と神奈川近代文学館を結ぶ霧笛橋の下に三人はいた。
「それで、何のようなの。」
「実は…」
繁盛を極める真昼時にうずまきから電話一本で呼び出されたために腕を組み仁王立ちするルーシーに口籠る敦。その曖昧な態度に余計に苛立ちを募らせるルーシーに、鏡花が代わって口を開いた。
「社長をアンの部屋で匿って欲しい」
「はぁ?」
突拍子のない発言に拍子抜けしたような表情になるルーシーに敦が補足する。
「ポートマフィアとドストエフスキーに狙われてるんだ。」
そうして二人は順を追ってあらましを説明しだした。
異能者狩りのナサニエル・ホーソーンにより福沢が、死の家の鼠の頭領ドストエフスキー本人により森が異能ウイルスに感染したことから悲劇は始まった。
福沢と森の体内に宿る凶悪な殺人ウイルスから助かるためには四十八時間以内にどちらかの感染者がウイルス以外の理由で死ななければならない。長を見す見す死なせる訳にはいかない両社は罠と判っていながら潰し合う。横浜を焼却せんと画策した組合と比べ兵力の劣る死の家の鼠が故の狡獪で権謀術数に長けた策略であった。
当初探偵社はマフィアとの全面衝突を避けウイルスの異能者を捕縛することを条件に休戦協定を結んだ。特務課と軍警の異能犯罪対策課から得た資料を元に江戸川が導き出したのはプシュキンと呼ばれる異能犯罪者が寿町に身を隠しているという推測。表と裏の逃亡経路をそれぞれ特務課、マフィアが抑えている為逃げ場はなくプシュキンを一網打尽にする算段だったのだが。
「…いざ突入すれば迎撃してきたのは武装した童子、プシュキンだと思っていた男はドストエフスキーが用意した偽物だったんだ。」
残るはマフィアに人質として残った潤一郎のもう一つの役目、首領暗殺に賭けるのみ。だがそれもおいそれとはいかないだろうことは探偵社の全員が悟っていた。
直にマフィアとの約束の刻限も過ぎ潤一郎が動き出すであろう今のうちに福沢を安全な場所に隠す必要があった。
「頼む…いや、お願いします。マフィアとの戦争が終わるまで社長を匿ってください!」
床につきそうなほどに深く頭を下げる敦と同じく黙礼する鏡花。ルーシーは二人の後方、橋の下で停車しているトラックに目を止める。運転席には与謝野が、助手席には江戸川がこちらを注目していた。
「良いわ。戦争が終わるまでね。」
「っありがとう!」
「...ありがとう。」
説得に時間を要すると案じていた二人だが、江戸川の予想通り簡単に要諾したルーシーに肩の力を抜いた。一瞬体の緊張を緩めるが、直様態度を改めルーシーをトラックへと案内する鏡花。
荷台に乗り込んだ二人を見届けた敦は周辺に警戒を張り巡らせていた。
港の見える丘公園の中にある霧笛橋は公園を利用しに訪れる客が少ないためにマフィアの目を潜るには絶好の場所だった。時間帯の影響か五十一メートル上の橋を渡る通行人も誰一人いない静かな公園。
ーこんなときで無ければ都市部の喧騒から離れ晴れやかな心で静寂を堪能できただろうに。
そんな風に気を滅入らせる敦の元にルーシーが戻ってきた。
「あれ、鏡花ちゃんは?」
「潤一郎を迎えに行くって先に帰ったわよ。晶子が出発するから早く乗れですって。」
「そっか。」
クラクションが鳴った。
振り返ればトラックの窓から与謝野が手を伸ばし招く仕草をしている。隣では江戸川が駄菓子ではなく分厚い資料を両手に目を走らせていた。
「貴方はこれからどうするの。」
「取り敢えず江戸川さん達と谷崎さんを迎えに行って…っ、」
ーそれから新たな作戦を練る。
そう言おうとして俄に虎の五感が何かを感知した。
斜め上空、陸橋の上に跳躍して敦は周囲を見渡す。
「…………。」
「どうしたのー?」
虎の視力でぐるりと一通り見回すと、誰もいないのを確認してルーシーの元へと戻った。
「誰かに見られてたような気がしたんだけど、」
「気のせいじゃない?」
「そうかな…。」
超越した虎の五感が気配を間違えるはずはないが、怒涛に迫りくる厄難による疲労の影響かもしれないと敦は自身を納得させた。
再度、クラクションが合図を鳴らす音に敦はルーシーに別れを告げるとトラックへ向かった。
敦達を乗せたトラックの姿が見えなくなるとルーシーは休息も兼ねて階段を登ると橋の壁高欄に腰掛けた。
落ちれば命はない高低差を見下ろし芒としていると寒風が吹き募る。薄手のコート一枚では冷たさを凌げず、身を守るように異能を発動した。
アンの部屋へと入るとQが眠りにつく福沢の頬をつんつんと触っていた。
「ちょっと、起きちゃうから止めなさい。」
「はぁーい。」
ルーシーの言葉に素直にQは引き下がる。悪戯好きにしては珍しい態度にルーシーは訝しむような視線を投げかけた。
「グレイが許可してないのに勝手に囲って良かったの?」
「馬鹿ね。何の為に彼が私をうずまきに潜入させたと思ってるのよ。」
若干小馬鹿にしたような物言いに気色ばみつつもQは思考を巡らせてみる。
「うーん……あ、もしかして探偵社を見張るため?」
「その通りよ。」
「やった、大正解!」
満面に頷いたルーシーにQは飛び跳ねながら全身で喜びを表した。
唯の喫茶うずまきの店員として不測の事態が起きた際に探偵社がルーシーを頼みの綱とするほどに親しい間柄となること、探偵社に関する最新の動向を注視し継続的に報告すること、それがグレイから与えられた任務であるとルーシーは了知していた。
尤も、当の本人は長く勤めた組合を抜けることとなったルーシーを気遣ったが故の提案でそこに深謀遠慮などないのだが。残念なことに二人がその真実に辿り着くことはない。
「じゃあ早くグレイに知らせないとね。」
声高らかにそう言うとQはいつ持ち込んだのかバドミントンを片手にアンと遊び出した。
「ぅ……」
側で苦悶の呻き声を漏らした福沢にルーシーは額に手を添えてみる。触れているルーシーまで熱に浮かされてしまいそうなほどの高熱にタオルを換えようとそそくさと奥の部屋に入ろうとして。
コツリと、硬い軍靴が床を叩く稀な音に二人は振り返った。
「あら、やっぱり貴方だったのね。」
「わぁあ!何しに来たの!?」
ラケットを放り投げ駆け寄るQ、全力の突撃を一身で受け止めた青年は軍帽と上着を脱ぎ入り口のハンガーに掛ける。そしてQを抱いたまま歩を進めるとルーシーの前で立ち止まる。
「仕事で忙しいんじゃないの?」
「有給を取ったんだ。」
「あらどうして?」
そこで青年は壁際のベッドで眠る福沢を一瞥して、それからルーシーを見据えた。
「グレイに危険が迫ってる。」