港街に位置する大通りの裏手には大型車が二台通れるほどの広さの道路が一本、そこから横浜港まで枝分かれする複雑な裏路地が入り組んでいる。
迷宮のような地形が蜘蛛の巣のように繋がる路地の隙間から微かに漏れるネオンの光はとりわけ人気のない道路から見ればよく目立っていた。
発光源は横浜で知らぬ者はいない人気の酒場、バールパンが掲げるレトロな看板。木漏れ日のように昼白色が中通りを淡く照らしている。
しんしんと絹糸のような雨が降り注ぐ一本の街燈すら点灯しない暗晦な路地。一帯がポートマフィアの島であることもあってか猫の子一匹通らないゴーストタウンと成り果てていた。
「こちらアルファ、標的に動きなし。」
表通りに面する石造りの建物の三階でヘルメットにベスト、タクティカルスーツにブーツの重武装した男が五人。内、窓際でスコープ越しに小路を覗く男が無線に語りかける。
『ベータ、こちらも異常なし。』
『シータ、異常なし。』
ルパンから二軒離れた建物、同様のネオ・バロック建築様式の銀行の屋上から届いた無線通信、続きざまにインカムに流れてくる現場の情報を一通り纏めると男は後ろを見返った。
「突入しますか。」
「ちょっと待ってください通話中なので。……はい、判りましたではそのように。」
毛先を朱色に染めた白髪の青年は、耳元から伸びるマイクに相槌を打つと程なくして通信を切る。
「いえ、出て来るまで待ちましょう。…それで構いませんよね。」
青年に視線を送られた坂口は眼鏡のブリッジを押し上げた。部屋の隅に置かれた小さなスタンドライトにレンズが光を反射させた。
「戦術には疎いので貴方方に一任します。」
坂口の言葉に待機していた男は頷くと再度マイクに指示を出し始めた。
一連のやり取りに、窓際で背をもたれ掛けさせ瞼を閉ざしていた青年が反応を示す。肩まである濡羽色の黒髪がゆらりと靡いた。
「条野、何故突入しない。今であれば彼の者も袋の鼠だろう。」
「鐵腸さん、狭い店内よりも広々とした路上で石打ちする方が楽しいじゃないですか。」
「俺には分からない。」
「でしょうね、元より共感を得ようなどとは思ってませんよ。」
戦闘は始まってすらいないのに殺伐とした空気を醸し出す二人に坂口は嗟嘆するように息を吐き出した。
特殊制圧作戦群・甲分隊、通称猟犬。
それは国内外で名を轟かせる軍警最強にして最凶の特殊部隊であり、条野採菊と末広鐵腸が所属する国家最高峰の治安機関。二人は数日前の司法省、軍警、特務課の秘密会議での決定によりグレイ暗殺の為に実働部隊の指揮監督者として派遣されたのだ。
そも司法省が秘密会議を開いたのは特務課が危険異能者として厳重監視している綾辻にグレイが接触を図ったことが発端である。グレイは綾辻を自身の陣営へと勧誘するだけでは飽き足らず、横浜の裏社会で出回る危険生物兵器を盗み出し逃亡した。
探偵社とマフィア、組合による大規模な抗争、異国の麻薬カルテル及びスラム街を支配していた犯罪組織の殲滅、度重なる権力者たちの失脚…勢いは衰えるどころか鋭さを増していた。もはや横浜だけでなく日本全土にグレイの魔手が及びつつあった。
そんななか、ドストエフスキーによる共食い事件が起きた。ポートマフィアの首領と探偵社の社長が未知の異能ウイルスに感染し両組織の存続が危ぶまれていた。横浜を統治する三大組織、内二つが危機に瀕する好機を逃す手はない。そう断じた悪政家や反社会的勢力は特務課を巻き込むことでグレイを排除せんと目論んだ。無論、深層には探偵社やマフィアへの宿怨など様々な事情が絡んでいるのであるが。
今晩、グレイがバールパンに寄るという匿名の情報提供があった。特務課がその真偽を洗ったところ確度が高いと判定されたため特務課から坂口と護衛の青木と村社が、軍警から約束通り末広と条野が、そして市警から五人一組六チーム計三十名の異能力者制圧部隊が集うこととなったのだ。
バールパンを取り巻く三軒の銀行本館、分館にそれぞれ三部隊が、地上階の建物や路地裏に残りの三部隊が潜んでいる。法務省から派遣された特別機動警備隊、選りすぐりの精鋭達だ。数刻前にグレイが店に入ったことは確認済みのため後はグレイが出てきたところを急襲するだけであった。
「私からも聞かせてください。何故同伴者が彼ではなく貴方なんですか。」
「立原は風邪で休みだ。」
「全く、本ばかり読み漁っているからこんな有事に体調を崩すんですよ。」
「読書は良いことだ。」
「限度ってものがあるでしょう。」
そう、こんな急場で呑気にも舌戦を繰り広げる二人に坂口を含めその場にいる者たちは冷ややかな視線を注ぐが二人は気にも留めず。
「嫌なら来なければ善い。」
「私は自ら志願したのですよ、鐵腸さんが控えてくれば良かったというのに。」
「志願?条野が?」
「ええ、今度こそグレイが苦痛に喘ぐ悲鳴を聞きたくて。」
猟犬は変わり者の集まりだと聞いていたがここまで悪趣味な輩が揃っているのかと坂口は内心慄いた。何を想像したのか恍惚とした表情を浮かべる条野に味方でありながら拒絶反応を起こした青木と村社は思わず後ずさる。
「そういえば条野は無彩三人衆を前にして生き存えた唯一の人間だったな。」
無彩三人衆、それはグレイが傀儡として操る三人の手駒でありグレイの分身ともいうべき存在。彼等は透明人間のように世間に溶け込み主たるグレイの為にスパイ活動を行っているという。一人一人の実力が猟犬部隊と拮抗し、グレイの召集を受け三人が集うときは事変が起こるとさえまことしやかに囁かれている。
条野が軍警に入隊するよりも前、最恐の三人衆と対峙し命からがら逃げ延びた彼の話により無彩三人衆という存在が世に広まることとなった。これにより各国の法執行機関はグレイに対する危険度を最高レベルへと跳ね上げた。
条野曰く三人衆は女が一人、男が二人で成っているというが彼は盲目な為姿形を認識することはできなかった。故に今日に至るまで彼等は灰色のベールに包まれたまま存在すら判明せずにいる。
猟犬に所属するよりも前にグレイ達と対峙し生き延びた条野、グレイと一度刃を交えた経験のある末広は共に今回の作戦において重大戦力として本部から大きな期待を背負っていた。二人にとっては長年の年来の敵ともいえる相手…グレイが僅か数百メートル目先で何も知らずのうのうと酒を嗜んでいるであろう様を想像すれば口角が緩むのもやむなしであった。
周囲を他所に二人が…主に条野が末広と睨み合うなか、切り裂くような強風が吹き荒れ窓を割った。
吹き曝しとなった窓の外を坂口が身を乗り出して眺めてみれば、通り一帯の建物の扉や窓が全開となっていた。中には当然、特殊部隊の隊員達が身を忍ばせる建物もあるわけで。
「どうしますか。」
「この機会を逃してはならない。続行しよう。」
「おかしいですね、天気予報は台風だなんて言ってなかったのに。」
坂口は漠然とした妙な不安感に苛まれるが、緊迫した状況にいつもの如く胃がやられたのだと杞憂として振り払った。
篠突くような雨がアスファルトの地面を抉らんばかりに叩きつける。ビュービューと真冬の霜を乗せた暴風が吹き曝しの室内を吹き荒らす。不明瞭な景色の中、地上で絶えず観察を続けていた別働隊の男が扉の動きを捉えた。
「出てきたぞ!」
物陰から視界を凝らした先には二人の男がいた。
小豆色の丹前を被り下駄を履いた男とそれを支えるように歩く…
「目標、発見。」
グレイは千鳥足の男を路地裏の壁に持たれ掛けさせると中通りに出る。
「突撃しますか。」
『…傘。』
「はい?」
『傘を差してない。少し様子を見よう。』
それが何だというのか、目前に標的がいるのにも関わらず待機命令を出す末広に男達は戸惑いを隠さずにはいられない。しかし指示に従いいつでも射撃できるようにとガラスのない窓から小口径自動小銃、AR-15を構える。
リアサイトを越しに注視するグレイは道の中心で佇んだまま動かない。
この時男は凶悪犯罪者が眼前にいるという状況に興奮状態にあった。
敵の一挙一動を注意深く観察し、
ー今ならいける…
そう確信し照準を合わせたその時、
「感じる。」
隣人の声を掻き消すような悪天候だというのに、その声は通り一帯に朗々と響いた。
「俺に殺意を抱く者の気配が犇々と伝わってくる。」
ひゅと息を呑んだのは誰だったか。かちりと、暗夜の双眸が男を捕らえた。
「だ、駄目だっ目が合った!」
『落ち着いてください。』
インカムを通して宥めような平静な声音が鼓膜震わせ脳に行き渡る。だがそれすらも男にとっては不安を煽る刺激となった。
「こっちを見てるっ、早く!早く指示を!」
戦慄が突き抜け脈拍が著しく早まる。もはや男の思考はグレイに囚われていた。
ドンドンと心臓がドラムのように鼓動する。
そして恐怖が絶頂を超えた瞬間、男は引き金を引いた。
バァン!
三度の銃声がほぼ同時に重なった。
最初は男がグレイに向けて発射し、二度目はグレイが自身に迫った弾丸を撃ち返し、三度目は…
「ぇ、」
気づけば男の視界は天井を向いていた。
後頭部への衝撃の次に眉間から伝い落ちる生温い感触に呆気に取られる。
何があったのかを思考する余力は残されていなかった。眼前を飛び交う何かの残像とマシンガンが散らす火花を最期に男の視界は狭まり、仲間達の怒号を聞きながら男は絶命した。
それから三分も経たずして、地上から一切の音が消えた。
『デルタ、ゼータ、エータ…応答せよ!』
「............。」
極限にまで張り詰めた緊張感の中、三階で様子を窺っていた坂口達はごくりと生唾を飲む。青木と村社はいつでも坂口を守れるように身構え、末広は唇を強く結び剣の柄を握り込み、条野は飄々とした態度を改め無表情で耳を澄ませていた。
無線に何度も語りかけていた男が漸く振り返る。
一人一人に目を合わせると、額に汗を流しながらゆるりと首を横に振った。その合図は地上に待機していた三班が全滅したことを示していた。
坂口は血が滲むほどに拳を握り込んだ。
今ので戦力が半減した。種田の言う通り、猟犬の二人がいるとはいえやはりグレイを相手にするなど無謀だったのだ。
ー撤退しましょう。
そう言おうとして窓を通して地上から投げかけられた声に彼等は体を強張らせることとなる。