「皆殺しはやめろ。」
『何故…嗚呼、坂口安吾は貴方のお気に入りですか。』
「お気に入りってわけじゃないがまあ彼奴がいなけりゃ支障が出そうだな。」
物語的に。
坂口は若くして特務課の参事補佐官補佐に出世した男だ。朧げだが近い将来種田が自由に身動きが取れなくなることは覚えてる。となれば特務課を牽引していくのは坂口なのだ。という旨を大まかに説明してやると電話の向こうで誰かと会話しているのが聞こえてきた。
『...ではそのように。』
「ああ。」
通話を切り携帯を置くと煙草の吸い口を柔く噛んだ。
「お忙しいのですね。」
「そうでもないさ、ただ何の前触れもなく連絡を寄越すから毎度参ってるんだ。」
特に此奴は大抵物騒な話題しか持ち込まない。一体全体何処の誰を皆殺しにするというのか。
もくもくと昇るマールボロの紫煙が空間に溶けてなくなると、グラスを拭くマスターの顔が現れた。
「要点を言わずに話を進めるもんだから何の話だか。」
突然電話を掛けてきては主語なく話を始めるのは彼奴らの悪い癖だ。
取り敢えず答えられる質問にだけ反応するがせめて何の話かは教えて欲しい。今朝も似たような電話が掛かってきたが地下鉄に乗ってたもんで何も伝わらなかった。何だっけな、危険が何とか……いや、これは俺が電車を降りてから折り返せば良かったのか。
「一を聞いて十を知るのがグレイ様ですからきっと皆さんもそう思ってるのでしょう。」
「俺は聖徳太子じゃないんだがな。」
可笑しげに声を漏らすマスターに俺はウイスキーを口にする。一度沸騰させたかのような熱が喉を通りアルコールが胃を温かく満たした。
サンセットベリーストロングラムはホワイトラムの中でも定評のあるカリブ出身のラム。度数は八十四度ほどでロックやストレートで飲むのもあり、ドライシェリーとブランデーとシェイクしてアンダルシアにするのもありの楽しみ方は人様々な万能酒だ。
日常的に疲れた心身をアルコールとニコチンで癒しながら何気なしに店の入り口のドア窓に目線を向けてみる。
店の看板に当てられて霧雨が神々しく光を放っているように見えた。
伝統的なチャイコフスキーのオーケストラ、摘みの皿がコトリとカウンターテーブルに置かれる音、死んだように眠りこける客の吐息、店の外から漏れる雨の音。
「…静かだな。」
嫌なくらいに。
「何か憂い事でも?」
「ない。ないがな、俺の勘は当たるんだ。」
何も世界から音がなくなってしまったわけではない。店内では環境音が響いているというのに俺には異様なくらいしめやかに感じられた。気のせいだと良いのだが。
「マスターには謝らねぇとな。」
「私に、ですか?」
「ああ。…店を出たら周辺を爆破する。」
「っ!?」
落ちかけたカクテルグラスを間一髪でキャッチすると、戸惑いつつもマスターはそれを受け取った。
「一週間ほど前のことだ。マフィアのAっていう幹部が俺に仕事を持ってきた。」
『謀反?』
『ええ、武器庫管理は私の役目。そこを突かれればいくらポートマフィアでも痛手は免れない。』
『で、俺にどうしてほしい。』
「…銀行の地下にマフィアの武器庫があるとは、まさか知りませんでした。」
「だろうな。」
俺もAに教えられなければ一生知らないまま終わっただろう。
Aは用意周到にも依頼に来る前に下準備を済ませていたらしく俺に起爆装置を渡してきた。聞くに銀行の本館、二号館、三号館は地下六階まである大型ショッピングモール並みの広さだという。銀行は勿論のこと、Aに倉庫の管理を一任していた森を含め誰一人知らない秘密だった。
自身が異能で命を握る部下に命じて既に爆弾は設置してあるそうだ。そんな広範囲を爆破して仕舞えば周辺に壊滅的な被害が及ぶし何より裏があるのは見え透いていたから最初は断った。だが執拗くも懇願するAに俺はとうとう音を上げた。
特製の時限式爆弾で地鳴り程度の被害に収められるとも云うしならば良いかと起爆装置を受け取ったのだった。
「結局奴はドストエフスキーに殺されちまったが、だからと言って依頼を投げ出すわけにはいかねぇ。」
金を受け取った以上請け負った仕事を放棄するのはポリシーに反するのだ。あのポートマフィアを相手にするなんて俺の頭もついにぶっ壊れちまったのかもしれない。だがまあ、
「運よく森が死の瀬戸際にいるというじゃないか。」
このタイミングで事を起こせば足が付かない自信がある。まだまだ天は俺の味方らしい。
マフィアの連中が狼狽する様を想像してニヤついてしまうと、マスターが顔を引き攣らせた。一応此処はマフィアの縄張りだから複雑な心境なのだろう。
「ま、そういうこった。今日は早めに上がるといい。」
「ええ、そうさせてもらいます。」
テキパキとキッチンを片付けるとマスターは帰る準備をするために奥へと入っていった。
ふぅと息を吐くと煙が空調へと吸い込まれいくのをぼんやりと眺める。三分の二まで燃えた煙草を灰皿に押し付けて消すと、一つ席を開けてテーブルに突っ伏す其奴を見やった。
薄汚い丹前は所々がほつれていて数ヶ月は洗濯してなさそうな異臭を放っている。その腕の中では三毛猫が身動いでいた。
田山花袋、元探偵社員現引きこもりの情報屋。異能力は『蒲団』、視界に映るあらゆる電子機器を触れずに操ることができる。その処理速度は常人の数十倍で、気の持ちよう次第ではあるが基本的には愛用の蒲団を被っている時にのみ発動される。
花袋の高度なハッキング技術には俺も何度か世話になった。俺に並ぶ酒豪は滅多にいないので頻繁に飲み明かすことはあったが、まさかルパンに現れるとは思いもしなかった。
「オア゛。」
花袋の腕に抱きしめられる三毛猫がやっとのことで抜け出し伸びをする姿は笑いものだ。
くつくつと笑いを堪える俺に何を思ったのか尻尾を逆立てた猫は目の前に歩み寄ると座り込む。
「………。」
よく知る黒茶色のアーモンドアイが俺を見据え、三度低く鳴いた。
「...........、」
花袋とは反対側の椅子を引いてやると猫は音もなく移動する。
そして、
眩い光を放出した。
「ショッキングな光景だ。」
「何がショッキングじゃ。」
「逆に聞くが猫が爺に変化する様を慄然と云わずして何と言うんだ。何度見ても慣れないもんだ。」
あっという間に人形となった男に問い返せば米神を爪弾かれた。
花袋が席について早々眠ってしまったために手をつけられていないロックグラスを差し出してやると、ぎろりと威嚇する猫のように睨まれる。
「すまない下戸だったな。」
「嫌がらせか。」
「じゃあこれはどうだ。」
摘みの横にマスターが置いてくれた煮干しを取ってみると、いよいよ目尻を痙攣させたのを見て即座に煮干しを戻した。
残り一口分の酒をぐいと呷るとピーナッツを口に放り込む。
特徴的な左右非対称の髪型に洒落た口髭、山高帽とインバネスコートの組み合わせが似合う初老の男。その顔を見ていると過ぎ去った過去が呼び起こされ、らしくもなく懐古の情に浸りそうになり俺は気を紛らわすように片笑んだ。
「久しいな夏目。」
夏目漱石。
この世界において最も鍵となるであろう存在。福沢や森、種田など親しい間柄の人間は勿論どんな調査機関にも尻尾を掴ませない神出鬼没の男。異能は『吾輩は猫である』、彼を知る者の間では万物を見抜く最強の異能と云われている。
夏目とは昔馴染みで色々とあったのだが…閑話休題、旧友を懐かしむ俺に夏目は目を細めた。
「数十年ぶりに姿を現すとは余程重大な用があるとみた。」
「いや、まだない。」
若干身構えたというのにさっぱりと否定した爺に噛み砕いたピーナッツを吹き出しそうになる。
「てっきり恩を返せと言いにきたのかと…」
「それはまだじゃ。」
「怖いな。」
いつまでも恩を受けたままだと対価が恐ろしい。夏目に限っては悪質な報恩を強請らないとは信じているが。しかし夏目はそんな俺の胸中などお見通しだったようで。
「心配せずともお前には期待しとらんわ。」
「それはそれで傷つくわ。」
俺に対する温情が感じられない一言に大袈裟に項垂れると夏目は長い吐息を漏らした。
「馬鹿息子よ、お前のような凡人が世界に悪名を馳せようとは…全ては
「誰が馬鹿息子だ猫股ジジイ。」
「じゃが止む無くも儂にお前を止める術はない。」
「話を聞いてるか、流浪親爺。」
断じて云うが俺と夏目に血縁関係はない。ただ互いに呼び合う綽名が複数あるだけだ。久しぶりの再会だというのに如何して俺が説教を受けなければならないのか。
ふとカウンターの先を見てみるもマスターが戻ってくる気配はない。カウンターに身を乗り出すと、コップに水を入れて夏目に渡した。
口元に傾けて直ぐにテーブルに置かれたコップ。ほぼ変わらない水位にやはり猫かと納得してしまった。
「豊よ。」
ひっそり閑とした店内に、澄明な声が響いた。
天眼と呼ぶに相応しい双眸が俺を射抜く。
「武器庫の爆破のことじゃが…やめておけ。」
「…………。」
「これ以上お前の悪評が高まらぬよう善意で申しておるのじゃ。如何なっても知らんぞ。」
「怖いこと言うなよ。」
いやに重い空気を振り払うように調子の良い声色で笑い飛ばすが、夏目は厳粛した顔つきをやめない。
なんだか居た堪れなくなり煙草を取り出そうとして、その手を叩き落とされた。
「これ、儂が話をしておるのじゃ。黙って聞けい。」
「……ちっ、」
盛大な舌打ちを零すと眼光を鋭くさせやがったので煙草は諦める。テーブルに目線を落とすと見慣れたオークの木目が真新しく感じられた。
「夏目が態々警告するんだ、やはり裏に何かがあるんだろう……だが、」
そこで一度区切ると、俺は夏目を正視する。
「一度受けた依頼は投げ出さない。例え何が待ち受けていようともな。」
はっきりと断言し、視線をぶつけ合わせると数秒して夏目が先に逸らした。
「そういう他意のある言い方をするから勘違いされるのが分からんのか!」
「いだだっ、」
器用に猫爪へと変化した爪が頭頂部に食い込み悶える。腕を引き剥がして後ずさるとぶつかった花袋がむにゃむにゃと間延びした声を漏らした。
「.....はぁ。」
眉頭を顰め心底失望したとでもいいたげに鼻息を荒げる夏目だが、正直失望したのはこっちだわ。歳取ったからって当たり散らしやがって。何で俺が一方的に小言を受け止めなきゃならねぇんだ。...歳か?歳なのか?
そんな意を込めて頭を抑えながら睨みつければ、猫又ジジイは気にする風もなく、椿質の高級感ある杖を持ち席を立った。
「二日ほどお前に花袋を預ける。」
「…それが俺を横浜に呼んだ理由か?ならこれで貸しは..」
「そんな訳があるまい。お前の命の価値は寝床数日分か?」
嫌味ったらしい言い方だった。
斜め横を見遣ると、変わらず涎を垂らしながら鼾をかく花袋が熟睡している。
と、カウンター奥の扉が開かれ私服に着替えたマスターが出てきた。
「お電話は終わりましたか?」
「は?」
「ああいや、誰かと話してらしたようなので。」
マスターの言葉に顔を動かせば、テーブルの上で毛繕いをする三毛猫がいた。
「…済まない、煩かったか。」
「とんでもない。」
「おい花袋、起きろ。」
扉に手をかけるマスターに未だ夢の中にいる男の肩を揺さぶると、重そうな瞼がピクリと動く。
「んん…なんだ、グレイではないか。」
「なんだじゃない、行くぞ。」
「んぁ、もう閉店の時間か?」
「夏目にお前のことを任された。一緒に来るんだ。」
足元で一鳴きするそいつに、花袋は眠たげに瞼を擦りながらも立ち上がる。
扉が開かれると凄まじい強風に髪が乱れた。いつの間にか小雨は台風へと変貌を遂げていた。
「酷い雨だな。」
「傘は御入用ですか。」
「気分じゃない、花袋に貸してやってくれ。」
そうしてマスターから傘を受け取った花袋が先を行くのに続いて俺も店を出た。