横浜駅、JR東日本と私鉄四本、地下鉄一本の計十一本の路線が一駅に乗り入れられる神奈川県最大級のターミナル駅。広大な敷地には多種多様なカフェやレストランなどの飲食店は勿論、華やぐ商業施設が出揃っており移動手段としての用途のみならず通勤者や旅行客等、多くの人々でごった返している。開発を繰り返し一日に百八十万人を超える利用者が行き交う駅構内は晴天の午前も大変な賑わいを見せていた。
先日、黒蜥蜴の強襲を受けたうずまきは窓硝子の張り替え工事の為に三日間臨時休業となった。はてさて、オーナーの類いない珈琲に惚れ込んで店の常連となったものの妙な悪運の所為で一服すら儘ならないのだから運勢というモンには殆処分に困ったものだ。超常現象は現実として受容しているが、易者には懐疑的な気分が抜けない俺だがこうも不幸が続くようなら一度背後霊が憑いていないか視てもらうのもありかもしれない。
兎にも角にも、行きつけの店が『Closed』の看板を提げているものだから退屈を持て余した俺は折角の機会にと隣町の酒場に行ってみることにしたのだ。以前にも述べたバールパンだ。日常的に移動手段は徒歩だが偶には公共交通を利用するのも良いだろうと思い至り、横浜駅に参上した次第だった。
処処の売店から漂う調理された肉弁当やら焼きたての餃子やらの食欲を唆る匂いに思わず釣られて寄り道しそうになりながらも、一杯の旨い酒を空きっ腹に入れたくて食縛って歩き続けるのはある種の拷問である。
入り乱れる群衆の間を通ってホームへの階段を降りると、一転して田舎の秘境駅並みに人気の少なくなったホームに目的地へと向かう電車が折良く到着したところだった。方面を間違えたのではと電光掲示板を確認しようとして、それよりも早くプラットホームの彼方此方に設置されたスピーカーが『×番線、ドアが閉まります。ご注意ください。』 と素っ気なく駆り立てるものだから俺はそそくさと列車に乗り込んだ。
…………。
ガタンゴトン、車両の連結部が線路の継ぎ目を緩やかに通過する度に規則的な揺れを鳴らしている。
車窓の外では高層ビルが立ち並び、碧の自然と多彩な現代建築物が集積した横浜の景観が残像となって左から右へと水を垂らした絵の具のように流れていく。散歩がてらに等身大の景色を楽しむのと、瞬間移動でかっ飛ばしてしまうのとでは視覚を彩る景趣は大違いだ。警官が犯罪撲滅の志を階級章に煌めかせて目を光らせる鉄道や路線バス等の公共交通は基本的に利用しないように心掛けていたが、勇気を振り絞って電車を選んだのは正解だったな。そも、不良以上極道以下の精神仙人に拘ってるほど世の官憲は暇じゃないのだ。よくよく考えてみれば逮捕を恐れて一々回りくどい足の便を選択する時点で俺の犯罪者としての小物臭さに拍車を掛けるだけという悲しい事実に今更ながら自覚してしまった。
「それにしても横浜駅発着の車両ってのはこんな密やかなもんだったか?やけに乗客が少ないような。」
先程から感じるこの違和感は何だろうか。杞憂ならば良いのだが、ホームに降りる前の構内はかき分けて進まなければ流されるほどの人波だった。
この列車の行き先は横浜市内、何も閑散とした郊外へと続く一本道じゃないのだからもう少し車内に活気があっても良い筈なんだが。俺が元いた世界では有り得ない寂幕っぷりである。理由に心当たりをつけるならばドアの開閉時間が短すぎた以外に思い付かない。本来全開した瞬間から閉まりきるまでの時間はおよそ三十秒とされているが、乗換駅なので開閉を含めた停車時間は見積もって一分。だが此れは平均的な在来線の時間よりも圧倒的に短かった。
単なる車掌の失態ならばそれで済むのだが…如何してか砂利を噛むような収まりの悪さが違和感の歯車を狂わせていた。というのも、俺の直感はよく当たる。顔の見えない何者かに敵意を向けられた時、訳もなく命を狙われる時、面倒事に巻き込まれる時。鬼一口の緊急事態に際してはもはや宝石店の警報装置並みの危険信号が全自動稼働してきた。そうやっていざという時の事前の心構えを怠らなかったからこそ異能も碌に扱えない俺は生き延びてきたのだ。とりもなおさず逃げ足が早いだけではないので、そこは留意して欲しい。
「ま、警戒がから振ったことも何度だってあるがな。」
胸間に挟まる陰を帯びたしこりを振り払うように独り言を張り上げると、前方座席に唯一掛けていた役所勤めの格好の女がさも耳障りと言わんばかりの睥睨を飛ばしてきた。
益々居住まいが悪くなって他の車両にでも移ろうかと思った矢先に、電車がトンネルに突入した。チカチカと照明が妖しげに点滅する。軌条を滑る車輪の歯軋りが変わった。
『あァー、こちら車掌室ゥ。誠に勝手ながらぁ?唯今より細やかな物理学実験を行いまぁす!』
俄かに奇妙なアナウンスが流れ出す。不気味な竪坑を走行する薄暗い車内に似つかわしくない底抜けに明るい声調。
『ー題目は非慣性系における爆轟反応及び官能評価っ!被験者はお乗合せの皆様!ご協力まァーことに感謝!』
——では早速ですがぁこれをお聞きくださぁい。
一刹那、爆音が轟いた。
鼓膜が破れるような重々しい響きが強烈な大揺れとともに襲いくる。一瞬宙に投げ出された身体が傾いた床と衝突しそうになって、咄嗟に手摺を握って踏み留まる。
僅かばかり揺れが軽減されると同時に電車はトンネルから脱出した。自然光が一気に差し込み瞬く間に明るくなった車内で、視界に飛び込んできた光景に舌打ちを溢す。
「ったく、うずまきの次は列車テロかよ。巫山戯やがって」
もう一人の同乗者は打ちどころが悪かったらしく傷一つなかった額から気の毒な血溜まりを作って臥している。数十秒前に俺を睨め付けてきた強気な双眸が瞬きを諦めてしまったのを見るに、手遅れだろう。左右を確かめれば、両隣の車両でも乗客達が即死は回避したものの体の節々を抑えて蹲っているのが見留められた。不快な車内アナウンスは止まない。
『皆様が月まで飛べる量の爆弾が、先頭と中間、最後尾車両に仕掛けられておりまぁす!』
安全圏を聞くや否や両脚の健常な客達が我先にと車両を跨ぎ始める。譲り合いもへったくれもなく、腰を痛める老人を突き飛ばして一目散に駆け抜ける若者の背中に、まるで己が体当たりされたかのように静かな憤怒が湧いてきた。本音をいうと他の乗客なんざ放り捨てて転移で避難したいところなのだが、傍迷惑なテロリストの前歯の一本でも折らないことには腹の虫が収まらない。
此処は十両編成の内の七車両目。運転席からは程々に遠く、最後尾の「月まで飛べる爆弾」が近い。久方ぶりに浮き上がった青筋を撫でつつ俺は思考を巡らせる。取り急ぎ手の付けられてない危険物を片付けてから前進するとするか。
どうせ突破口もないくせに面白いくらいに逃げ惑う人々を視界の端に、誰も咎めないのを良いことに煙草の先端に着火すると最後尾を目指して歩み始めた。
…………。
阿鼻叫喚の車両を無駄に得々とした歩幅で突き進んで行けばあっという間に目的の車両に到達した。空の乗組員室の扉を開き中へと堂々侵入する。
全体をぐるりと見渡すと、回転椅子の足許に宅配百二十サイズのダンボール箱三個が据えられているのを発見する。その他に不審物と思しき代物は見当たらないので大方これがお月様にぶっ飛べる爆風発射機に違いない。
躊躇わず屈み込んで中身を改めて、不覚にも胸を衝かれて硬直した。うっかり落とした煙草を慌てて踏み躙る。
「…そうか、そういうことかよ。クソ」
発光せんばかりに黄色い目星に俺は頭を抱えた。
箱から溢れんばかりに詰められているのは一般的な爆弾の形状とは似ても似つかない、喩えるならば少年時代のクラスメイトが華麗な変身を遂げて成人式に現れたような、そんな仰天ものの変貌を果たした爆弾だった。言わずもがな、大量のレモンである。
「レモン爆弾つったらポートマフィアのあいつしかいねェだろ。」
梶井基次郎、ポートマフィアの上級構成員。幹部ではないが悪質な爆弾魔として全国的に指名手配されているマッドサイエンティストだ。異能力は見た目通りの『
「よっこらせっと…重っ」
じじ臭い掛声で積み重なる三箱を纏めて持ち上げようとして、爽やかな見た目に何が詰まっているのか異様な重さに尻込みする。この世界に来る数ヶ月前、職場内での席の移動で詰め込みすぎたダンボールに腰を痛めた俺を老いさらばえた爺いを見るような目付きで手伝った部下が過ってげんなりする。
すると忽ち真面目くさった処理を試みていた自分が馬鹿らしくなって、箱に手を翳すと一瞬で外に飛ばした。大量のレモン爆弾は無機質な果実を弾けさせることなく、噴水のような水飛沫を立てて海底へと沈んでいったのだった。最初からこうすれば良かったのだ。
残すところ中間と前方のみ。
気を取り直して最後尾車から出発して少し、中間車両の直前に迫ったところで俺は再び歩を緩めた。
飛蚊症みたいに視野で高速に動き回る残像に、物陰に隠れて眼を凝らしてみる。
…一度見たら早々忘れない特徴的なざんばら白髪が踊っている。虎の手足を壁に天井に減り込ませ衣服を躍動させて。何やら必死な形振りを正確に捉えた瞬間、俺は一連の難事の元凶を直観した。そうか、テロの原因はお前か主人公。
己の後ろ向きな運命との密かな攻防をあっさりと放擲して様子を伺っていれば、矢庭に敦が吹っ飛ぶ。逆海老反りを維持して縦座席を木っ端微塵にしてしまえる頑強さは到底人間とは思えない。あれが並の人間だったなら骨が折れるどころか上半身と下半身が永遠に訣別していただろう。肝心の攻撃者だが、これまたおったまげたことに対戦相手は敦よりも小柄な少女だった。
奇形の人型異能を従わせる着物姿の彼女は弊履の如く感情を削ぎ落としてしまったみたいに緘黙している。柳眉一つ動かさない無愛想を眺めていると、次第に海馬が大昔の記憶を引っ張り出そうとしはじめる。なんだったか、実際に文壇に名を馳せた男で女性的な響きの名前の文豪。花子?紅葉、は違うな。愛花?…かき…き…
「泉鏡花だ。」
敦と戦ってるってことはマフィアに拾われてから大分経ってるな。
哀れなものだ。俺と同様にコントロールの効かない異能をマフィアに悪用されて、たった四歳年上の青年を容赦なく斬りつける様を眼差す両の瞳には圧倒的な絶望と諦観、それでいて断ち切れぬ善性を秘めているのだから。憐憫を抱いたのは俺だけではなかったようだ。
芥川と繋がる携帯電話を耳に当て、無気力に攻撃を続ける彼女に敦は懸命に説得を試みている。混じり気のない思いやりが、不幸せを背負った少女の凍りついた心にじわりじわりと微熱を与え始めている様態を観察しながら俺は近場の座席に腰を下ろした。敦ならば必ずや鏡花を救い出すだろうと、爆弾とマッドサイエンティストの七面倒臭い始末など一擲して新たな一本を咥えた。
列車は海面と空に挟まれた橋梁を泳ぐように走り続けている。破片の散らばる壊れた窓枠から鑑賞する絶景は解き放たれたような開放感を与えてくれる。原作の進行を背景に、この清澄な景色を拝めただけでも儲けものだ。
吹き上げるたびに雲と同化する紫煙が徐々に量を減らした頃、戦闘と葛藤に一段落迎えた二人の青年少女は仲良く抱き合い流星の如く海へと飛び込んで行った。
「青春だな。」
程なくして天高く高鳴る祝福の爆音を背景音にして、原作の一幕は締め括られた。
*
不図、空を仰げば一点の雲もとどめぬ青天井が広がっている。清新な気が其処彼処に漂う素晴らしい快晴だ。こんな良い天気には悠揚な気分の赴くままに近辺を散策する何気ない贅沢を満喫したいものだ。
第一に立ち寄るべきは古本屋。滲んで掠れたインクの独特の匂いに包まれながら心惹かれる一冊を手に優雅に時間を過ごしたい。一通り読書に充足したなら次は酒場だ。別世界の日本のヨハネスブルクに負けず劣らずのテロ列車を経験した日の午後に予定通り訪れたルパンで入り浸りを決意したが、逍遥の最中に見附た店に賭けに打って出るのもまた一興。或いはヨットハーバーで母なる海に抱かれ癒しを得るのも名案だ。気分次第で揺蕩う船のように予定を組み立てていく、それも立派な娯楽じゃないか。
そうと決まれば善は急げとばかりに俺は方向転換する。早速最寄の古本屋に向かうべく高鳴る胸に合わせて歩調を早めて…
「キャア!」
「おっと」
角から猛烈な速さで曲がってきた虚弱な誰かとぶつかった。
「悪かったな、大丈夫かお嬢ちゃ…ん」
己の足に跳ね返り盛大に転けた少女に手を差し伸べようと視線を下ろした瞬間、俺は言葉を失った。
「もー!おじさん、気をつけてよ!」
俺の震撼を他所に少女は小鼻を膨らませる。その水光にも等しき眩いばかりの金髪、幼気のある群青に潜められた造りものめいた無機質さ。鈴のような音色が紡ぐ辛辣味を帯びた非難。今でも鮮明に覚えている。記憶よりも何歳も若返っているが見間違える筈がない。十五年前の大戦にて、看護師姿で森と福沢と共闘して俺を討取りにきた乙女。
森使役する異能生命体エリス、『ヰタ・セクスアリス』の真髄。
「ねえ、聞いてるの?」
待てよ、この子が此処に居るってことは…。
この先の修羅場が思い描かれると予期せぬ不運に嘆く間もなく流れる冷や汗が背中を凍らせる。一向に返事をしない俺を訝しんで、仁王立ちするエリスは上辺だけは可愛らしい顔を迫らせてくる。華奢な首を捻る仕種にこちらの正体が勘付かれてないことを理解すると、考えるよりも先に体が動いていた。
「行くぞ。」
「はぁ?ちょっと何よ、急に引っ張らないでよ!」
「なに、お詫びにクレープでも奢ってやるだけだ。」
究極の逃避行、
俺の理想の休日は儚く消え去った。