このところ綾辻探偵事務所は閑静を極めていた。
マンションの引き違い窓が開かれることもなければ白の膨張色のカーテンが一揺れすることもない。ましてや建物から人が出入りすることも、生活臭が漂ってくることも。建物内で勤務する監視役の捜査官が定期連絡をしなければ幽霊屋敷と見紛うほどの寂寂ぶりだった。
普段より多事多端な異能特務課は今週に入ってからとりわけ労働が強化され、活動の気配のない幽霊屋敷に手を回しているほどの余裕もなく監視班の数も減らされていた。
変化に乏しい任務に倦怠感に脱力する班員たち。しかしその日は少し違った。
「…男?」
正午を過ぎた頃、ある捜査官が真新しい景色を捉えた。
双眼鏡を覗き見ると一人の男がマンションの入口で盛大に転げた。両手に抱えていた封筒と数枚の紙束がひらひらと空に舞い上がりコンクリートに着地するのを慌てて拾い上げる男。念の為に本部に来客の予定がないかを確認しようとして、隣で眠りこける同僚に捜査官は考えを改める。紙をかき集め安堵を浮かべる男に殊更不審な点は見受けられない。別の捜査官だろうと当たりをつけると、捜査官は再び手元のゲーム機へと視線を戻した。
肩に触れた温もりに綾辻は目を覚ました。
眠気の残る瞼を擦ると思考の回らない頭で机を手探りする。
「どうぞ。」
「…ご丁寧に。」
差し出されたサングラスを掛けると幾分か現実に追いついてきた視界に青緑色が入り込んでくる。次いで沸騰したてのお湯が注がれた珈琲が三分の一まで入ったマグカップを受け取ると、辻村は少し離れたソファーへと戻った。
再度室内に沈黙が落ちる。綾辻はぐるりと肩を回すと探偵助手に劣らぬよう無数とも思える紙の塔に手を伸ばした。
ぺらり、ぺらりと書類を捲るだけの単純な作業が続く。酸鼻を極める光景が映し出された写真や上から下まで小文字が敷き詰められた文章を一言一句、句読点すら逃さずに読み進める。肉体の限界を超え意識がシャットアウトする数分間を除いてここ数週の間、彼等は一度たりとも眠りについたことはなかった。
「なんと退屈な…綾辻君、儂は間暇に殺されてしまうやもしれぬ。」
僅かに鬱金色を仰向けてみれば、部屋一面に軒を連ねる白の巨塔の頂上に座り込む京極がいた。心配せずとも貴様は既に死んでいる、軽口を叩いたつもりが音として発せられることはなかった。
無聊をかこつ京極はふよふよと浮遊すると綾辻や辻村が手に持つ書類を覗き込む。
「ふむ、矢張り儂の見立ては正しかったな。」
「何がだ。」
そこで漸く綾辻は声を上げた。静寂を破った男に辻村は一度だけ目線を上げ、綾辻が妖怪と話している悟ると直様書類に視線を戻した。異様な光景である。
「土蜘蛛じゃよ。この男はまつろわぬ首魁である。」
薄っぺらい紙にカラー印刷された男、グレイの写真を眺めながら京極は呟いた。そんなことも言っていたなと、綾辻はいつかの変若水事件を想起した。
モリウイルスを巡る事件でグレイの挑戦を受けた綾辻は種田に男に関する白書を求めた。何処からか話を聞きつけた司法省が万に一つでもグレイを屠れる可能性があるならと各機関に働きかけた結果、足場が鼠の肩幅ほどもない今の事務所が出来上がったわけである。
「蜘蛛というのは言い得て妙だな。」
そう言うと綾辻は壁一面に貼られたロジックツリーを眺めた。平定事業において国権に恭順せず敵対した者を蔑称して土蜘蛛と謂う。数々の資料を元に作り上げたそれは見事に円網状に広がっている。
中国人民解放軍の内部抗争、北欧の独裁国の内乱、米国の同時多発テロ…世界各地で起こる重大事件を点と点で繋ぎ合わせれば必ず一人の男へと繋がっていた。地球を覆い巡らされた一本一本の糸が互いに作用しあいグレイという大蜘蛛を支えている。そしてその中心に迫っていくほどにその色は濃く深くなっていき罠に掛かった者は抜け出せなくなる…。一見何の関連性もない事件がグレイを介して繋がっている、それは気味が悪いほどに謎めいたパターンだった。どれもが状況証拠にすぎずグレイの犯行を裏付けるに足る確度の高い証拠はない。
綾辻は早いうちに自身が対峙した敵が京極に優る大凶であることを悟った。
他方で光すら抜け出せぬブラックホールに自ら飛び込まんとする綾辻を辻村は何度も呼び止めたが当然の如く徒労に終わった。謎を解明するのが探偵であり、かつてない強敵を前に退く気など綾辻には毛頭なかった。独立不羈な男は辻村に資料の分類を任せて書類を漁りだす始末。こうなっては梃子でも動かない。綾辻という探偵の性質を知悉している辻村は説得を切り上げ共にグレイについてを調べ出したのだった。
普段から隙を見ては脱走する常習犯が一度も事を起こしていないのは幸甚であった。要は始末書の有無が辻村のやる気を左右するのだ。
「摩訶不思議とはこの事か。」
写真に映る平凡な見た目の男を見て京極が疑問符を溢した。彼の言わんとすることが綾辻には理解できた。
卓上に等間隔に並べられているのは僅か二十枚に満たないグレイの写真。その全てが横顔で盗撮されたものだった。更に奇妙なことにそれらは遡ること五年以内に撮られたもので、それ以前の写真が一枚もないのだ。大戦以降の彼の活動を裏付ける捜査資料は山のように積み重なっているため、情報管理に不備があったとは考えにくい。となればグレイが近年になり何らかの理由で意図的にカメラの前に姿を見せるようになったのか、将又何者かがそれらの資料を隠蔽しているのか。大戦以前にグレイと思しき人間の活動報告が上がってないことも彼等に漠然とした疑問を抱かせた。
「ふぅ…。」
ここにきて初めて綾辻は資料を置くと息を吐いた。雑念による脳疲労をモンキーマインドというが、言葉通り頭の中の猿が爆速で動き回るせいで集中力も判断力も衰え始めていた。息抜きをしなければ本来の頭脳を発揮できないと、珈琲を口にする。熱の冷めた酸味が少しばかり喉と頭を潤した。
一度特務課からの捜査依頼を済ませようかと机の引き出しを漁ろうとして、
「すみませーん、綾辻探偵事務所って此処であって…って何だこのゴミ屋敷は!?」
ノックもなしに入室してきた男にそれぞれの時間が停止した。
数分後、
「そ、それでこれが俺が辛うじて手に入れたものなんですけど…」
表情を明るくさせた男が嬉々として紙束を渡してくるのを綾辻は観察する。
膝小僧が擦り切れ白い糸がほつれたジーパン、『ジャスティス』の六文字が片仮名で刷られた緩緩のパーカー、数ヶ月は手入れされてないだろう無精髭。とても不潔で野暮ったいと、綾辻はつまらないことを思った。
男の名は西村学。自称ホワイトハッカーの無職、三十六歳。綾辻の元には巷で耳にした凄腕の探偵に純粋にとある事件の解決を求めて訪れた…というのが本人の主張である。
本来であれば民間人が知るはずのない綾辻探偵事務所、多少のデジャブを感じた綾辻と辻村は直ちに我に返ると男を追い出し本部に通報しようとした。が、自身が門前払いされようとしていることを察した西村は水が流れるようなしなやかな動きで土下座抗議したのである。
くしゃりと箸で摘んだ梅干しのように顔面を歪め鼻水やら涙やらを垂れ流す三十六歳に二人は後ずさりたくなった。
生まれてこの方誰かに恋をした経験はないが百年の恋が冷める瞬間とはこのような感覚なのだろうと辻村は妄想に逃げ、これが有名なスライディング土下座かと京極は感銘を受けていた。恥も外聞も捨てた切願に綾辻は話だけ聞いて帰ってもらおうと策したのだが…何より主に辻村が丸三日かけて整理した資料をゴミ扱いされたのは些か癪に触った…男の語った思いも寄らぬ内容に依頼を引き受けることを決意したのである。
曰く、西村のハッカー仲間の友人が何者かにより銃殺され手順通りに警察が捜査に乗り出したが、翌朝には自殺として処理されたという。他殺を装った自殺か、自殺を装った他殺か。この時点で西村は三人の関心を引いていた。自殺にしろ他殺にしろ銃刀法が厳しく取り締まられている日本において銃器発砲事件は厳密な捜査対象であるにも関わらず、一日未満で捜査が終了するのは確かに不可解な話であった。
半年前から西村の友人はとある人物についての調査を行なっていたという。俗に言う陰謀論だが、彼はそれが陰謀論ではないと確信していたそうだ。その人物は歴史的な事変には必ず現れ世界情勢に何らかの影響を及ぼしているという小説の世界の黒幕のような人間。
そう、グレイである。
西村は友人がある日を境に取り憑かれたようにグレイについてを調べ始めたと語った。グレイが大戦時に自身の父親を殺したと、友人は何度も口にしていたそうだ。西村の指すグレイと綾辻らが足取りを追うグレイが同一人物かは未だ不明だが調べない手はなかった。
斯くして西村は依頼の権利を勝ち取ったのである。
辻村から受け取った書類に綾辻は目を通す。
推定被害者の名前はケイネス・ハロルド・岡田。日本国籍のイギリスのハーフ、三十三歳数学者。数年前までは民間の警備会社のセキュリティ部門で認定ホワイトハッカーとして勤務していた経歴がある。日本人の母親はケイネスが大学一年の時に乳癌で死去、話題の父親は大戦時にイギリスの研究機関で技術者として貢献したトーマス・ハロルド・フラワーズという男であった。軍事機密の為に詳細は記されていない。
四日前の深夜、二発の発砲音を聞いた複数の近隣住民が管理人と共に様子を見に行った際に死亡しているハロルドを発見。即座に通報し警察は当初殺人事件として捜査に乗り出したが翌朝七時には自殺と断定。
次頁を捲れば現場を記録した写真が数枚。
棚の引き出しは外され、机はひっくり返り、家具の上に置かれていたであろう置物が乱雑に床に転がされている部屋だった。一見空き巣に荒らされたようにも見える。
ハロルドは窓際の椅子に凭れ掛かり天井を仰いだまま絶命している。右手には銃が握られていた。グロック17、9×19パラベラム弾。閉ざされたカーテンには細かな血が飛び散っており、ハロルドの前方四十センチほどの天井に肉片や歯、その他の体組織が集中的に付着していた。画像の下の補足欄には発射残渣がハロルドの両手や服に付いていたことが記されている。また部屋は荒らされているがハロルドには切り傷や打撲痕などの争った形跡はなく発砲時に一切の抵抗がなかったことが窺える。
口を撃たれて死亡するケースは綾辻の知る限り四人を除いて九十九パーセントが自殺であり、死の直前に遺書を残す人間も四人に一人でハロルドが何も残していないのも何ら不思議ではない。強引ではあるが自殺と診断しても辛うじて罷り通るラインであった。だが捜査資料にはいくつかの矛盾点も存在する。
拳銃自殺のうち口内を撃ち抜く場合はその多くが座るなり壁に凭れるなりの支えがある状態で引き金を引く。しかし天井に付着した血痕が四十センチも椅子の位置と離れているのは彼が直立したまま口内を撃ち抜いたことを証明していた。何より前方の飛沫血痕は少なすぎた。
極め付けは両手に発射残渣は残っていたが血痕は付いていなかったこと、それはハロルドが発砲したのは近隣住民が最初に聞いた一発目だということ。奇妙にも棚下から発見された初弾は出入口付近の壁を僅かに抉っただけであった。そしてハロルドの命を奪った肝心の二発目が問題だった。鑑識の報告によると二発目の銃は主に軍で採用される対異能者用の銃弾だったのだ。そしてハロルドの銃は一発分しか発砲されていない。
そこから導き出せる答えは…
発砲直後、盛大に返り血を浴びた誰かがハロルドの真正面にいたということ。
全てを読み終えると綾辻は顔を見上げた。
西村はまるで死刑宣告を待つ罪人のように鯱張っている。ごくりと唾を飲み込む音がよく耳に届いた。
綾辻は一度辻村に目配せをする。捜査資料に同じ見当をつけた辻村は眼差しで含意を返した。
「西村君。」
「ひゃい!」
緊張のあまり舌をもつらせた西村に綾辻は口角を吊り上げた。
「朗報だ、君の疑いは正しい。」
「!じ、じゃあ!」
「これは覆うべくもない殺人だ。」
9×19パラベラム弾。銃器設計家のゲオルク・ルガーが発明した世界で最も流通している実包。開発社のスローガン『Si vis pacem, para bellum平和を欲するならば戦に備えよ.』の言い回しからパラベラムと名付けられた高性能の弾薬である。9ミリ弾を使用する銃器はUZIやステン短機関銃、97式手槍など数多く存在し挙げればキリがない。だが数週間に渡り数多の情報を吟味してきた綾辻は、西村が齎した情報と照らし合わせてハロルドを殺した銃がグレイの愛銃であるワルサーP38ないしはベレッタ92であることを見抜いていた。
「ハロルドは死の前日に俺に手紙を送ってきたんです。もし殺されたら俺に解いてほしいって…。」
西村が持ち込んだもう一つの封筒を一同は眺める。
『Jrblirxztyfl』
『WflikvvefmviJzokpwfli』
同封されていたのは二枚の紙、各八文字と二十二文字とのアルファベットの羅列だった。辻村は文字を逆さ読みしてみるが無意味な試みであった。次に共通の文字rl、wflikvを抜いたり敢えて鏡文字のように反転してみせたりするがやはり解読は不可能。被害者が死を悟って送ったメッセージがただの悪戯であるはずがない。犯人を示すダイイングメッセージか、もしくは何らかの場所や秘密を指す手がかりか。
「西村君、彼に好みの数字はあるか。」
「は、はい。誕生日が九月九日だからラッキーナンバーも九だって昔言ってました。」
「そうか。」
綾辻と西村が問答する傍らで一人あれこれと頭を捻らせてみるが一向に読み解くことはできず、辻村は意見を仰いでみる。
「先生は何か…って何してるんですか?」
思考に耽っている間にいつの間やら席を立ち、外套を羽織り見慣れた帽子を被っている綾辻。外出時のお決まりの格好に辻村は嫌な予感が迫り上がってくる。最後に煙管をポケットに仕舞いカーテンの隙間から外を覗くと、こともなげに二人を振り返った。
「ぼさっとするな、早く行くぞ。」
無論、不運にも予感は的中した。
「……………。」
「……あの、」
窓を開けると瞬く間に外へと姿を消した綾辻。暫く棒立ちしていた辻村だったが、綾辻と同じく窓に足を掛けこちらの様子を伺う西村に急いで後を追いかけたのだった。
場所は変わり桜木町駅、横浜で最初に鉄道が開通した初代横浜駅に一同は訪れていた。
平日の昼時であるからか駅周辺の飲み屋街や商業施設に立ち寄る会社員で混雑していた。左から右へと移動する群衆を縫うように進むと綾辻たちは関内、磯子方面の南改札口のコインロッカーへと向かう。
「シーザー暗号…結構単純だったんですね。」
「成程、桜木町駅のコインロッカーを表してたなんて、全然分かりませんでした…。」
道すがら綾辻から暗号解読の手解きを受けた辻村と西村は合点がいったとばかりに呑み込み顔をする。
複雑に思えた文字の羅列は古代ローマの政務官、かの有名なガイウス・ユリウス・カエサルが使用したことで知られているシーザー暗号と呼ばれる著名な暗号だった。文章の各文字をそれぞれ他の文字に置換することで暗号化する誰でも作成できる単純作業。シフトできるアルファベット二十五のうちハロルドの幸運の数字九を選択すると、AがR、BがS、CがT…という風に一文字ずつずれていく。
封筒に入れられた二つの暗号を復号化し繋げると『Sakuragichou Fourteen over Sixtyfour』となる。単純化すれば『桜木町 14/64』。
そこからは知識量と簡単な活用能力の問題だ。
14/64を分数ではなく区切り線とみなすと桜木町と相関するとされるのは桜木町駅のコインロッカー。駅にはそれぞれ収納数が異なる六箇所のコインロッカーがあり、そのうち六十四台あるのは南改札口のみに限定されている。
自称ホワイトハッカーは未だしも、これ程までに簡単な問題を曲がりなりにも特務課のエージェントが解けないのは単純に頭の回転の問題では。妥当な指摘をしようとして結局綾辻は口を閉ざした。瑣末な事で真横で肩を落とされるのは鬱陶しくてかなわないものである。
「此処ですね。」
十四番のロッカーを見つけると左右を確認して辻村が二本のピンを取り出す。育成学校で学んだピッキングの技術を駆使すると、カチャカチャと二、三度中身が擦れる音が鳴り直ぐに鍵は開いた。
「…君の友人はよっぽど人に知られたくない秘密があるようだな。」
「こ、これは。」
「…また?」
開かれたロッカーに入っていたのは一枚の紙だった。
新たに彼等が手に入れた暗号カードは綾辻が解読し辻村が破棄した。アルファベットの文字の並びはスキュタレー暗号という棒状のものに紙紐を巻き付けることで復号できる紀元前五世紀の転換式暗号で、幸いにも解読に必要な棒は綾辻が持参した煙管の本体と辻村が常備するノートとペンで補うことができた。その後、彼等が赴いたのは港付近の平屋住宅だった。
三十坪ほどの家族暮らしには平均的な広さの一戸建て。内装は白を基調としたダイニング、リビング、キッチン、お手洗いと寝室からなる簡素な造りだった。
三人は手分けをして各部屋を捜索する。外見に反して一部屋のスペースは狭小で物色できる範囲は多くなかった。それに加え室内は生活感を感じられないミニマリストの部屋のように家具が少なく、最後に彼等が調べたのは八畳ほどの窓のないベッドルームだった。
「本当に何もないですね。」
「場所を間違えたのかも…」
「そんなわけないじゃないですか。」
ベッドの裏やローテブルに置かれた一本のペンを触りながら首を傾げる西村を辻村は強めに嗜める。しかし男の懸念も辻村には理解できた。その平屋は如何せん手がかりがなさすぎたのだ。
トイレの中、照明の隙間、床下の配管…隅々まで調べたが不審なものはおろか、何かを示すような封筒の一枚すらない。だが却って何も無いのが綾辻の嗅覚を掠めた。
ーこの部屋は臭う
探偵の直感が白一色の部屋を捜索しろと電波を送っているのだ。綾辻は優れた観察力をフル回転させる。
「…………、」
そしてふと、西村が弄っているリモコンを注視した。
「それはこの部屋にあったものか?」
「え?...はい、そうですけど。」
スマートフォンサイズのそれはテレビのない寝室には場違いであった。西村からリモコンを受け取ると綾辻は壁に掛けられた二枚の肖像画を観察する。安全ピンを取り外し額縁を下ろすとベッドの上に横並びに置いた。
「ああ、ハロルドの父親ですよ。あいつ結構なファザコンって言ってたんで。でそっちは、」
「ブレーズ・ド・ヴィジュネル。」
「フランスの外交官ですね、ヴィジュネル暗号を生み出した…親子揃って謎々好きだったんでしょうか。」
呑気な感想を述べる召使に綾辻は次元の違う生物を見るような皮肉げな視線を送った。恥のあまり茹蛸のように赤面する辻村に京極が嗤った。
綾辻は額縁から肖像画を取り用紙に触れてみる。両面ともに肖像画に使用される画用紙にしては薄く平滑な手触り。
「どうしたんですか?」
突然黙り込んだ綾辻を怪しむ二人を残し、綾辻はリモコンと二枚の用紙を持ちリビングに移動する。
そしてレースカーテンをスライドさせると燦々と輝く太陽に向かって二人の肖像画を掲げた。
「これは…!」
綾辻を追ってきた二人が喫驚した声を漏らす。先程までは白紙だった裏面にはアルファベットとヴィジュネル方陣が浮かび上がっていた。
「紫外線用の不可視インクですね。それも特殊な材質の紙に塗った時だけ見えなくなるレア物の。」
「だから寝室だけ窓がなかったのか!凄いぞハロルド!」
シーザー暗号と同じ要領で綾辻は早速文字を並べ替えていく。ヴィジュネル方陣を頼りに単語を繋げていくと、見る見るうちに人名が出来上がった。
「Thomas Harold Flowers」
続いてリモコンのボタンを試しに押してみる。三度、四度…数回かけて文字を打ち直すと、ピピっという機械音が鳴った。
ゴゴゴ、重量感のある何かが床を引き摺る音に一同はリビングを見渡す。
発生源は白い壁との差分が分からぬくらい器用に壁に埋め込まれた収納棚だった。棚は重々しい擬音を立てながら表に出っ張ると右へスライドして止まった。
ー呵っ呵っ呵っ!
「面白くなってきたな、絢辻君。」
「嗚呼、全くだ。」
家具の向こうから現れた一扇の金属製扉に綾辻と京極は白い歯を見せて嗤った。それは奇遇にも彼等が足跡を辿る男とさほど変わらない、獰猛な笑みであった。
その部屋はリビングと同じ間取りの空間だった。
必要最低限のインテリアしか設えられておらず実務的で殺風景な室内。入口付近には長方形の作業机があり、卓上にはハッカーらしく三台のデスクトップパソコンが、壁の二面に隙間なく固定された四台の本棚には数学や社会学などの学問的な本や学術論文がびっしりと並べられている。冷暖房の取り付けられていない部屋は静寂も相まって妙に冷え冷えとしていた。
辻村は一度パソコンから目線を外すと悴んだ両手を摩り息を吹きかける。他の部屋と違い寒気を閉じ込める造りであるのか、気霜が吐き出された。無意識に身震が起こる体を頬を叩くことで収めると、辻村は再びパソコンのデータを調べはじめる。横目に見た西村は底冷えするフローリングに胡座をかき一冊の本を熟読していた。
彼等が秘密の部屋を発見してから十五分が経過していた。
キーボードとマウスを忙しなく動かしながら画面を眺める続けること更に数分、辻村はモニターに表示された内容に指を止めた。
「『アンタの秘密を世間にバラす…』」
それはハロルドが何者かに送ったと思われる一通のメールだった。物騒な書き出しの後には父親の名前、ハロルドが死んだマンションへの招待の旨と住所と時間が記されていた。簡潔な内容には受信者以外には汲み取れない暗示が含まれているようだった。
「匿名化されてますね、俺が調べてみます。」
辻村の右斜め後ろから西村が顔を覗かせた。
「できるんですか?」
「で、できますよこのくらい!これでもハッカーなんですから。」
「じゃあお願いします。」
「あっ、えっと自分の部屋で集中したいんで一旦持ち帰らせてください。」
「…はぁ、まあ良いでしょう。」
事務所に現れた時から頼りなげな言動を繰り返す三十六歳に不安を禁じ得ない辻村だったが、すべき事が山積みであったために大人しく席を譲ると部屋を出た。
リビングに向かうと秘密部屋の卓上に置かれていた分厚いファイルを五冊分を広げて綾辻が作業に耽っていた。
「綾辻先生、進行状況はどうですか。そろそろ戻らないと坂口先輩が…」
「辻村君、奴の異能の分類は何だ。」
「え?えっと…」
言葉を遮られた辻村は一瞬思考を止めるが、すぐさま記憶を呼び起こす。
グレイの異能は異能力名、詳細ともに不明なもののテレポート系の中でも格上のA級に分類されている。自身にも瞬間移動のような便利な能力があれば犯人の追跡に苦労しないだろうに、と楽天的なことを考えながら伝えれば綾辻はそうかと一言だけ返した。俯いた表情は辻村の位置からは見えないが、その拳は強く握り締められているのを目にすると辻村はようやく綾辻の異変に気づく。
「若しこれが真実ならば…奴は、グレイの異能は……」
滅多にない困惑を隠さぬ音色が耳朶に触れた。
「先生?一体どうしたと云うんです。」
様子のおかしい綾辻に辻村は机に無造作に置かれたそれらを観察してみる。何十枚にも及ぶグレイの姿が映った白黒写真だった。その中には二人が司法省から与えられた数万枚の資料になかった文書もある。
そこで初めて綾辻は目線を合わせた。
金色の双眸が動揺に揺らめいている。
拍動する心の臓が血液を流れ全身に響くと、綾辻は言葉を紡いだ。
「奴は超越者だ。」