文豪アウトサイダー   作:れいめい よる

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Raison d'etre(OE)

 

 

蚊の羽音が重複するような電子音

左から右、右から左へとタイルを踏み鳴らす大勢の足音

空気を震わす朗々とした声...... 

 

「狼狽えるな!」

「顧客番号A4098番のラザルスは不安症だ、専属の警備を送れ。」

「心臓に持病を持つE2988番には医務院の回診を…」

「理解したら早く行け!」

 

「はいっ!」 

 

鶴の一声により催促されキビキビと迅速に動き出す従業員達。その後も的確な支持を下し続けると、やがて人の捌けた通信室で無機質な機械音だけが反響するようになる。 

 

「うっ、おぇ」 

 

すると、男は蹲り口元を抑えた。込み上げてきた生理的な不快感を如何にか斯うにか胃に戻すが、一度全身を駆け巡った血液は嫌な熱を保ったままだった。 

 

ー最悪だ、最悪だ最悪だ…最悪だ!! 

 

音にすれば言霊となり現実が悪化するような気さえして、男は…シグマは総支配人としての矜持でぐっと堪えた。 

 

其処は天空カジノ。異能大戦後に建設された高空浮遊娯楽施設。何らかの異能による補助により高度を維持しているそれは戦後の戦勝国が監視と威嚇を目的にして創設したという都市伝説もある。国際法上いかなる国家の警察権も適用されない独立国となっている。 

 

ではそのような治外法権の領域に位置する天空カジノで一体何が起きているのか。それは十五分前にまで遡る。 

 

 

『天空カジノを封鎖しろだと?』 

 

予告もなく訪れた軍警からの使者、道造と輝子にシグマは不快感を隠すことなく訊き返す。手元には二人に渡された彼等がテロリストの協力者と暫定しているルーシーの顔写真が。

 

『うむ、この施設にはテロリストが潜入しておる。』

『では捜索班を…』

『無駄じゃ、彼女自身部屋の異能で姿を眩ますことができる。』

『ではどうしろと?』

『カジノを封鎖する。一月も待てば連中も出てこよう。』 

 

詰まるところ二人が選んだ戦略は兵糧攻めであった。しかし彼等は知らない。軍警が追跡すべき真のテロリストこそカジノの総支配人であり天人五衰が一人シグマであることを。天空カジノこそが次なるテロの中核であることを。そして何より、 

 

『断る。』 

 

己にとって人生そのものであるカジノを政府の犬如きに良いようにさせるわけにはいかなかった。 

 

尚も引き下がろうとしない道造と輝子にシグマは指向性共振銃を差し向けた。音波が脳を直接揺さぶることで対象を十秒足らずで死に至らしめる、鉛の効かない対異能者用の銃である。その銃口を向けることは即ち彼等との訣別を意味していた。

強硬姿勢を取ったシグマに猟犬の二人が大人しく退いたと安堵したのが間違いであった。 

 

それから数分後、巨大な爆音と共にカジノの出入口は物理的に封鎖されてしまったのだった。 

 

 

「うっぷ…はぁ、」 

 

吐き気が治るとシグマは状況を整理する。 

 

カジノに使用されている硬貨は全て硬貨爆弾であり実物との判別が困難なほどに精巧に造られている。だが、日本国内最強の部隊を相手に隠し通せると確信的でいられるほど彼は浅薄ではなかった。

出入口を封鎖した道造と輝子が次に取る行動はカジノ全域の徹底調査。ある一室の床下に眠る硬貨爆弾の備蓄を発見されるのも時間の問題であった。おまけに武装探偵社もカジノの何処かに潜伏しているという。 

 

状況は最悪、他の天人五衰のメンバーに意見を仰ぐことも不可能。しかし万策が尽きたわけではない。

 

シグマは面を上げる。

腹を据えたような表情で、度重なる嘔吐に血色の薄まった口を横一文字に引き締める。 

 

ー奴らがまだ油断しているうちに…殺す…!  

男の内は燃えたぎる炎のように激しく燃え盛っていた。

 

そんな時、通信室の自動ドアが開かれる。 

 

「そういう顔をしてる奴の末路は大抵自決っていうのがお決まりの展開だな。」

「っお前は…!?」 

 

足元に横たわる自身の部下を踏み越え、中へと入ってきた人物にシグマは大いに瞠目したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

最新巻がでると少年は本を片手に図書室へと駆け込んだ。 

 

「なあキヨ!十八巻読んだか?」

「丁度さっき読んだわ。それより静かにしてちょうだい豊。」

「あワリィ。」 

 

よく通る声で諌められると豊は素直に謝罪する。そして少女が本棚に設置されている梯子をスライドさせているのを見るとその先にある一冊の本に手を伸ばした。 

 

「ほらよ。」

「ありがとう。」 

 

制服の外ポケットから図書委員のバッジを取り出し胸元につけるとお揃いの装いになったことに頬を緩ませて豊は少女の横に並んだ。 

 

 

中根キヨ。

彼女は幼稚園来の幼馴染であり豊が密かに想いを寄せている相手である。

 

透き通るように白い肌、腰まで伸びる濡羽色の艶やかな黒髪、楚々とした一重瞼。たおやかな大和撫子を一目見たときから豊は運命を確信していた。尤も、少年の猛アピールが功を成したことはなく、ませた口説き文句は悉く五十鈴川のせせらぎのように流されるのである。それでも豊は諦めず、古今東西の恋愛マニュアル本を登校前に読み漁っては口説き術を学んでいた。

 

恋人ではなくとも二人は好い親友だった。 

 

平日の学校、塾、部活から休日まで親同士の縁もあり何をするにも一緒であった。暇があっては本屋や映画館に足を運び物語の世界についての考察を深め広げる文学的な趣味を共有していた。 

 

近頃の彼等の話題はとある漫画について。現実の文豪が擬人化して異能バトルを繰り広げるというバトルアクション系漫画、文豪ストレイドッグス。実在した文豪に準えた人間味のあるキャラクター、巧みに伏線の張られた心理戦、頭脳戦による予測不能な展開は考察好きな彼等の興味を見事に惹きつけたのだ。 

 

 

「シグマって面白いキャラクターよね。」 

 

蔵書の整理整頓を行いながらキヨが呟いた。上段を整頓しながら豊は聞き返す。 

 

「というと?」

「だって彼絶対に現実世界の人間じゃない。」

「あー、頁から生まれたわけじゃないってことか?」

「ええ、だって白紙の書に描かれる物語には整合性がなければならないのよ。」 

 

キヨの話に豊は原作を振り返る。シグマというキャラクターが初登場したのは十七巻、その後の十八巻でドストエフスキーが彼の出生を明言するまでは彼はただのカジノの支配人であり天人五衰のメンバーの一人に過ぎなかった。 

 

「全ての出来事には原因となる事象が明記されなければならない。ある日無から肉体が存在したというのは完全に因果律を無視してるわ。」

 

人は男と女の営みから誕生し赤子から子供、子供から青年、そして大人に育ちあがる。だがムルソーでドストエフスキーはシグマがその過程を飛び越えて青年の姿である日忽然と砂漠に現れたと太宰に述べたのだ。それが事実であれば摩訶不思議この上なし。 

 

「ドストエフスキーは前にも虫太郎に坂口安吾が政府の闇の機関の人間だって嘘をついてたでしょ?なら今回も同様に彼がシグマの真実を偽ってると考えていいんじゃないかしら。」 

 

聡明な少女の考察に豊は考えを巡らせる。

カジノ編の後半ではシグマはドストエフスキーが送り込んだホーソーンにより胸を撃たれカジノから転落してしまう。だが地上では元天人五衰のゴーゴリが何故か彼を待ち伏せていて命を救うのだが…となれば魔人がシグマを死に追い遣らんとした理由にも合点が行く。

 

豊は思案する。

丁度探偵社が政府要人を人質にした立て篭もり事件を担当していた頃、特務課の種田はシグマに接触し天人五衰の陰謀を暴かんとした。だが結局はそれもドストエフスキーの策略であった。シグマの異能は互いの知識の中でそれぞれが最も知りたい情報を交換する能力。その後、天人五衰の目的と引き換えに頁の在処を敵に明かして凶刃に倒れた種田は、その後意識不明の重体となってしまった。 

 

「天人五衰は白紙の頁の在処を探し当てるためにシグマの記憶を改竄し利用した…。」 

 

ドストエフスキーの異能『罪と罰』に関する彼等の予測は対象と接触することで脳を操作することができるというものであった。要するに白紙の書を使わなくともドストエフスキーにはシグマの記憶を改竄する術があったというのが二人の考察であった。シグマに自身の異能の詳細が暴露されるのを恐れたために彼を抹消しようとしたのではないかと。

記憶を失い砂漠を彷徨う空虚なシグマは居場所を求めていた。そこでカジノという居場所を与えてシグマを都合の良い使い捨ての駒にすることがドストエフスキーの企みではないかと。

 

 

「まあ推測の域を出ないけどね。」 

 

桃色の柔い唇が動くたびに福鈴のような声が豊の心を揺さぶった。いつもの流れでキヨを褒め称えようとして、少年はふと塾の課題を思い出す。 

 

「そういやもう課題済ませた?ほら、もし超能力が使えるなら何がいいかってやつ。」

「ああ、あれね。」 

 

任意の課題ではあるがあどけなさの残る小学四年の少年少女にとっては無限な想像力を掻き立てる心踊る作文であった。豊が訊くとキヨは髪を一束掬い上げ細い指先に絡ませる。 

 

「私は猫になりたいかな。」

「猫?」

「うん。自由奔放で好奇心旺盛、気分の赴くままに今を生きるの。」 

 

黒曜石のような瞳に照明を反射させ微笑むキヨ。瞬く二つの瞼の縁に生えた程よい長さの睫毛は雄蕊のよう。蕾がパッと花開くようだと豊は想った。 

 

「今日も染井吉野のように可憐だな。」

「あら、私の魅力は模造品の真珠と同じと言いたいの?」

「......秋桜…秋桜みたいに調和と純真さで溢れてるに変更だ!」

「思いついた花を挙げてるだけでしょ。」

「それは違う!お前の魅力を表せる花が五万とありすぎて選び切れないだけだっ。そもそも花言葉なんかじゃ俺の気持ちは伝えきれない…!」 

 

珍妙なしじまが降りおちた。

恥じらいもなく殺し文句を垂れた己に我に返った豊は盛大に顔を俯かせる。

どうすれば彼女を靡かせられるのか、そんな試みに夢中になるあまり此度も醜態を晒してしまったのではと猛省するが....。いつもであれば「そういうのいいから。」と一蹴する少女から言葉の棘が飛んでこないことを不思議に思った豊は顔を上げてみる。 

 

キヨは華奢な手で横に背けた顔を覆っていた。その指の隙間からほんのりと熱った素肌が見えると豊は目玉が飛び出んばかりに瞠目する。まさか...。 

 

「もしかして惚れ…」

「てないわよこのすけこまし。」

「いだた、」 

 

天邪鬼な少女にとっての最大の褒め言葉と共に豊の頬が餅のように伸びたのだった。  

 

「それで、貴方はどうなの。」

「何が?」 

 

まだ赤みの残る顔面を互いに突き合わせながら豊とキヨは本を本棚へと直していく。 

 

「課題の話よ。まだ貴方の望みを聞いてないわ。」

「ああ……そうだな、俺はテレポート一択かな。」 

 

豊の言葉にキヨはあからさまに呆れ果てる。 

 

「豊って本当に好きよね。そういう厨二病じみたの。」

「何を言う、ただの瞬間移動なんかじゃないんだぞ!」

「へぇ。」 

 

頬を膨らませる少年に、挑発的な視線を送るキヨ。

挑戦を受けてふんすと鼻を鳴らすと豊は得意げな表情を浮かべた。 

 

「瞬間移動…言うなればそれは瞬間的な次元空間移動だ!」

 

 

 

 

 

 

 

強烈な振動が全身を揺さぶる感覚に意識が浮上する。

寝起きで倦怠感のある体を起こせば見慣れない部屋が広がっていた。 

 

「…そういや此処はカジノだったか。」 

 

うずまきを出た後、Qに昼飯を食わせて天空カジノへと飛んだ記憶が徐々に呼び起こされてくる。

それにしても、最近やけに懐かしい夢を視るもんだ。起きた途端に全部忘れちまうのだが、泣きたくなるほどのもの懐かしさだけが確かに胸に残っている。涙を拭うなんてセンチメンタルな性格は持ち合わせちゃいないので寝る前に緩めたネクタイを締めていると、部屋の外から複数の足音が耳に届いてきた。 

 

「騒がしいな。」 

 

ソファから立ち上がり廊下へ出てみると駆足音の正体はカジノの従業員だった。客である俺の姿を捉えると揃って笑顔でお辞儀をすると男達は足早に去っていく。平静を装っているようだが表情には焦りが滲んでいた。 

大方何か問題が起きたのだろう。警備員や従業員を総動員しなければならないような異常事態が。

 

今頃此処には敦達や猟犬が一同に介しているはずだ。既にテロリストの容疑がかかっている探偵社は事を荒立てたくないはず。となると猟犬とカジノ側に一悶着があったのかもしれない。 

 

「ま、俺にとっちゃ他人事だな。…さて、」 

 

仕事がてらオーナーの顔でも見に行くか。懐に隠された膨らみを確認すると、俺は下層へと向かった。

 

 

 

中央通信室まで辿り着くと二人の屈強な警備員が入口を立ち塞いでいた。 

 

「止まれ。」

「此処は立ち入り禁止だ。」 

 

忠告を無視して歩を進めれば、警備員も遠慮することなくいかつい拳銃を構えてくる。 

 

「オーナーと少し話したい。」

「支配人はお忙しい、後にしろ。」

「なら仕方ない。」 

 

残念ながら悠長に交渉している時間はない。

ああくそ、なんでこんなにも次々と面倒事が舞い込んで来るんだ。せめて別の日に分割して欲しかった。 

 

少しの間黙り込んだ俺に怪訝そうに銃を構えたまま動向を窺ってくる二人。

刹那、俺は素早く二梃を抜くとその心の臓に向かって至近距離から引き金を引いた。流石に照準は外さなかった。

 

「悪ィな。」 

 

音を立てずに崩れ落ちた男の腰元に下げられたカードキーを引っこ抜く。そして非接触式のそれを扉横の端末に翳すとウィーンと機械的な音を立ててドアは開かれていった。

 

 

人の出払った通信室には一人の男がいた。この天空カジノの支配人であるシグマだ。人が入ってきたことにも気づかず思考に耽るシグマは覚悟に満ちた面持ちをしている。よく復讐映画とか戦争映画なんかで観る最終決戦前の主人公の顔だ。 

 

「そういう顔をしてる奴の末路は大抵自決っていうのがお決まりの展開だな。」

「っお前は…!?」 

 

勝手に漏れ出た胸中に、シグマが驚愕に顔色を染める。俺は軽く片手を挙げるとシグマの元まで歩み寄った。

鳩羽色と銀色のツートーンという奇抜な髪型だが絶妙な初心加減を纏わせる顔つきと自然な様にみえる。 

 

「自己紹介はするまでもないな?」

「…知っている。ドストエフスキーがお前が必ず来ると予言していた。」

「フェージャが?」 

 

警戒心を露わに後ずさるシグマにまるで悪人のような気分にさせられる。...いや一応悪人だったな。

 

それにしても成程、ドストエフスキーなら超越した頭脳で俺の動きも予測することができるのだろう。だが俺からしたら只々怖い以外のなにものでもないわ。どう計算をすれば人の将来の言動を割り出すことができるというのか。もはや未来予知の域じゃないか。この調子じゃ俺が何時に飯食って用を足して入浴して就寝してるのかすら赤裸々に見破られてそうで羞恥心が膨れ上がっちまうもんだ。今度会ったら他人のプライバシーは覗かないように注意しておこう。  

 

思わず頭を抱えたくなる手をすんでのところで抑え込んで、俺は至って冷静にシグマを真っ直ぐに見つめた。 

 

「別に大した用事じゃねぇ、少し観察させてもらいたいってだけだ。」

「ならこっちとしても都合が良い。」

「何か悶着が起きたようだな。」

「猟犬が出入口を封鎖したせいで人手が足りてない。」

「それは御愁傷様。」 

 

気持ち程度に憂いてやるとシグマは恨めしそうにモニターに視線を戻した。

 

 

何台もの画面に建物中の何百という部屋が監視カメラを通して交代交代で映し出されている。空中要塞のような外観もそうだが実に立派な建築物だ。こんなにも豪壮な娯楽施設が実際は八日前に頁の力で生み出されたとは俄かには信じ難いものだ。仕事でなければ俺もゲーミングエリアで一儲けしたかった。 

 

なんて腹の内でぼやいていると宿泊層の廊下に敦とその後を尾行する見慣れた軍服を発見する。興味深いことに、敦は客室の前でキョロキョロと左右を見渡すと身を隠すように部屋に入りルーシーの異能でアンの部屋へと姿を眩ました。間をおかずして立原の弟も敦の消えた部屋へと突入してそして、 

 

「なっ、何故奴らがあれを…!?」 

 

部屋の床下に設置された金庫、その中に大量に貯蔵されている硬貨爆弾の存在が猟犬に暴かれてしまった。焦燥感の詰まった声音を零すシグマの隣で俺は内心感嘆する。 

 

爆弾の起動装置は此処中央通信室にある。硬貨爆弾が次のテロ作戦であることに気づいた猟犬は急務を通信室の制圧へと変更するだろう。だがシグマとて無為無策でカジノを営業していたわけではない。緊急事態に備えて天空カジノを警備する警備員達は対異能者戦の訓練を詰んだ腕利き。加え彼等が装備する武器は最先端の科学技術が搭載されている。いくら猟犬とて易々と抑え込むことはできないだろう。

そこで探偵社の出番というわけだ。苦戦する猟犬に助太刀し共にシグマを捕縛することで無実を証明。テロを事前に阻止し、シグマから頁の在処を聞き出すこともできる。

正に一石三鳥の妙計。ドストエフスキーの究極の対抗馬、おそらく太宰の画策だろうな。 

 

「マ、そう首尾よく行くかな。」 

 

事は進み、画面の向こうでは燁子と合流した道造が彼女にこのカジノの正体についてを明かしているところだった。ギリギリと歯を軋ませるシグマは可哀想なほどに狼狽していた。 

 

瞼を硬く閉ざし苦悩を浮かべると、程なくして目を開く。その瞳に一寸の迷いもなかった。

各部屋のテレビ画面に猟犬の二人の写真を映し出すとシグマは通信マイクを手に取って。 

 

「全ての宿泊客に告ぐ!この二人を攻撃した者はカジノの負債を帳消しとする!負傷させれば一万ドル!気絶で十万、殺せば百万ドルの報奨金を与える!早い者勝ちだぞ!」

「ほぅ。」 

 

国家の治安機関に属する猟犬は一般人を相手に反撃することができない。それを見越した故の狡猾な先制攻撃、必死になった常人ほど恐ろしいものはないものである。

 

 

シグマの作戦に対する猟犬の対抗策は燁子の異能による年齢操作。老婆と少年に変わった二人を敵と識別できる客がいるはずもなく…。二人は速い進行で宿泊層から俺たちのいる下層へと移動していた。残された時間は五分にも満たないだろう。 

 

「もうすぐ此処にやってくるぞ。」 

 

握り込んだ拳から血と焦りを滲ませる男に警告してやると、判っていると短い返事が返ってくる。 

 

「投降したらどうだ?命だけは保証されるかもしれない。」

「それだけは駄目だっ!」 

 

荒々しい怒声が被せ気味に重なった。小刻みに揺れる両肩、睨め付けてくる面差しは憤然としているがその瞳は恐怖と不安に揺れている。 

 

「お前は魂を他人に譲れるのか!?」 

 

純白の燕尾服が男の激情に合わせてはためいた。テロの阻止よりも、自身が死ぬことよりも、唯一の居場所であるカジノを失うことをシグマは怖れていた。 

 

砂漠で意識が覚醒してからというもの自身の異能を求め人の悪意に利用され続けてきたシグマにとって、この世に信じられるものなど何一つなかった。最後に彼の元に現れたドストエフスキーも結局は彼の異能が目当てだった。しかし彼は他の悪人とは違いシグマが最も求めるものを…天空カジノという家を与えた。従業員と客という家族を、カジノという家を、唯一の帰る居場所をシグマは決して手放さない。 

 

「私の家族はっ、私が守る…!」 

 

腹の底から湧き上がった叫びが心の琴線に触れた。俺にはそれが幼子の慟哭にも聞こえてしまった。 

 

「そうか。」 

 

嗚呼、こんな所でも迷い犬は足掻いているのだとらしくもなく心が突き動かされた。 

その時、

 

 

「ご機嫌よう支配人殿。投降の準備はできたか?」 

 

開けっ広げの通信室の向こう側。

堺のなくなった廊下の先で牙を剥き出しにした猟犬が低く唸った。

 

 

 

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