早朝、家主不在の家に呼び出し音を押さずに土足で入り込んだ綾辻と辻村は一直線に隠し部屋へと向かい、隅々を探し漁っていた。
ハロルドの隠れ家は幸いにも七號機関やその他公的機関に嗅ぎつけられることなく現場は綾辻達が初めて訪れた時のまま保たれていた。
狭い室内を二分して捜索すること三十分ほど、何を探しているかも分からぬまま指示の通りに手足を動かしていた辻村が根を上げた。
「綾辻先生、こっちはもう何も見つかりません。」
「ではもう一度探せ。」
間髪入れずに放たれた命令文に、辻村は面を膨らしてその場に腰を下ろす。所謂座り込み抗議であった。小学生以下の子供じみた態度に呵呵と笑ける京極と、いつもの如く呆れ返る綾辻。しかし此処へ足を運んだ頃より理由も訊かずに黙々と作業に取り組んだ辻村の誠意を評して、自身の手先を動かすのを止めて彼女に向き直った。
「必ずこの部屋にハロルドが残した何かがある。」
「…ハロルドさんの?」
先日グレイが消え去ったあと、探偵事務所に帰宅した綾辻は男の言動を悉に振り返っていた。秘密という単語に動揺を示したグレイは、しかし核心の異能について触れると途端に焦燥を納めたのだ。その反応は男の秘密が自身の異能に関するものではないことを暗示していた。故に綾辻は疑念を抱いた。果たして時渡りをも可能にする瞬間移動の異能以上の枢密があるのだろうか。グレイが七號機関に任せず自らの手でハロルドを殺し、綾辻に勘付かれるリスクを負ってまで探し求め隠蔽を図ったものとは一体何なのか。
綾辻の問題提起に辻村は深く思考を巡らしてみる。だが当然彼女の頭脳では閃きの一つも浮かんでこない。現実は推理小説や漫画のようにとんとん拍子には進まないものである。
無理矢理に気難しい顔で推理を試みる辻村を他所に、綾辻は今一度部屋全体を見渡してみる。丁寧に整頓された本棚、隅に設置された埃一つないテーブル、物置代わりであろう木製の簡素な収納ボックスが四つ。風景は変わらず几帳面なミニマリストの骨頂であった。
「ふむ、『三分間ミステリー』か。この類のクイズ集は以前儂も読んだことがある。何時しか眠っておったがな。」
「……………。」
何の脈絡もなく本棚に並べられた本の一冊を眺めながら呟いた京極。綾辻はふと視線を本棚の一点に留めた。
京極の述べた本はA5サイズ用の棚に均等に納められている。しかし左右両側の本のジャンルが歴史や暗号に纏わる専門書であるのに対してその一冊だけがミステリーに類していた。
綾辻は本を引き抜いてみる。ざらつきのあるハードーカバー、中身は京極の言った通り数頁で完結する推理クイズ。これといって不審な点はなく、メモらしきものも挟まっていない。次に綾辻は革手袋を付けたまま空白となった本棚に手を差し込んでみる。下部はやはり只の木製であった。滑らかな表面をなぞって側面、上部と指先を滑らせた時綾辻の指は止まった。
「……………。」
区間の上部に微細な出っ張りを感じた。極小のコブのような突出を。綾辻は頭を下げ中を覗いてみる。そこにはボールペンの天冠ほどの小さなボタンがあった。綾辻の様子に気づいた辻村が怪訝な顔つきで伺う。綾辻は辻村と京極を振り返ると、ボタンを押した。
ゴトン!
音の発生源は辻村の足元だった。木片の寄せ集めのパーケットフローリングの二マスが床から数センチ浮上していた。
「これ…」
手袋を嵌めた辻村は慎重に箱を持ち上げようとする。明るい市松の見た目以上に重量を感じて力を込めて持ち上げると、そっと床に置いた。
「辻村君、開けてみたまえ。」
「はい。」
綾辻の言葉に辻村は取手のない箱の上部を手袋の先を使い開けようと試みる。意外にも段ボールボックスのように蓋は簡単に上がった。三人は顔を覗かせる。
AからZまでのスイッチレターと回転ドラム、黒電話機のような操作レバー。蓋の開けた箱の中から現れたのは一昔前の暗号解読機のような機械であった。
「The Man Without a Body…顔のない男ですか。」
機械の名称であろう雑に貼り付けられたメモを読み取ると辻村が呟く。用途は不明だがハロルドの最後の隠し物がこの黒光りの不気味な機械であることはその場にいる全員が確信していた。
綾辻は箱の蓋を閉じると重量のある箱を易々と両手で抱えて踵を返す。
「行くぞ辻村君。」
「…行くって何処に?」
「決まっているだろう。」
部屋の出入口、振り向きざまに探偵は熱意の篭った瞳を覗かせた。
「特務課だ。」
*
ペラペラと本の頁を捲る音が響いている。
ペラり、ぺらり。
今度は態と机に放り投げてみる。
背表紙の角がガラス製のティッシュボックスに当たり澄んだ音が鳴り渡った。
虫太郎は目玉を動かしてみる。
彼の寛ぐソファーから斜め左の先のワークデスク、坂口は数秒前と同じ前のめりな体勢でデスクトップパソコンの画面を凝視していた。
打てる手は打った。奇声を上げ、背後で東欧の伝統舞踊を踊り、オペラを歌い、高らかに朗読をした。しかしながら退屈で仕方がない虫太郎の関心を引く行為は如何なるものも坂口には通用しなかった。何事も見切りが肝心である。虫太郎は諦めて居心地が良いとはいえぬソファに寝そべるとシミ一つない無聊な天井を仰ぐことにした。
さて、虫太郎が孤独に消閑している間、坂口は一心にパソコンに記録されたデータを遡っていた。以前彼がグレイ暗殺の現場に赴いた時の猟犬の無線機の録音を。
発端はほんの一時間前、爆発現場でグレイの刺客により致命的な重傷を負った坂口の部下青木と村社が目を覚ましたという連絡が届き、彼は惣忙の合間を縫って病院へと足を運んだ。そこで彼は二人から耳を疑う事実を聞くこととなった。
『安吾先輩、伝えなければならないことが…』
『あの日、俺たちを殺そうとしたのは…第三のグレイの刺客なんかじゃありません。』
二人の報告を聞くや否や坂口は時を移さず特務課へと舞い戻り記録を漁り始めたのだ。
画面をスクロールし続け、漸く到達した当時の日付へをクリックする。暗号化された通信記録のパスワードを解除すると坂口は音声を流し始めた。
『春蝉君から話は聞いてると思いますが、どうなさいます?』
ノイズの後に猟犬の条野が何者かに連絡をとっている。そして彼に応答したのは。
『何の話だ?』
『お戯を。我々は既に現場にいます。此処で私が皆殺しにしましょうか。』
『皆殺しはやめろ。』
『何故…嗚呼、坂口安吾は貴方のお気に入りですか。』
『お気に入りってわけじゃないがまあ彼奴がいなけりゃ支障が出そうだな。』
『……はい、判りましたではそのように。』
そこでぷつりと通話は途切れた。
不気味なほどの静寂が訪れた室内で、坂口は戦慄にわなわなと打ち震える。
なんということだ…!条野採菊は、立原春蝉はグレイの手駒だったのだ!種田の予想通り、敵は日本政府の最深部にまで潜入し国家を侵蝕していたのである。
震える手で頭を抱える坂口、とそこに部屋の扉が開いて綾辻と辻村が現れた。重量感のある木製の謎の箱を抱えて。
「坂口君、君に報告すべきことが……何があった。」
坂口を視界に捉えるや否や彼の余裕のなさげな様子に不測の事態を察知した綾辻は即座に尋ねる。今になり漸く異変に気づいた虫太郎も近寄ってきて。三人の視線を浴びた坂口は事のあらましを話し始めたのだった。
「実はお前達に言ってないことがある。」
坂口が話終えると、静まり返った室内でぽつりと虫太郎が囁いた。その眉字は歪められ、口元はきゅっと一文字に引き締められている。
「あの時は本人が前にいたから言い出せなかったが…私が七號機関に囚われている間、何度もグレイに関するありとあらゆる証拠の隠滅を迫られた。」
歴史の大いなる影に包み隠された誰も知ることのない事件や事変。そのどれもが白日の元に晒されれば世界が混乱に陥るようなものばかり。綾辻達が見つけ出したグレイの異能にまつわる証明写真も元は虫太郎が消したものだった。そして彼が七號機関で最後に抹消した証拠は大戦以降幾度となく開かれたのグレイと福地の秘密会議を捜査機関が記録した資料。
坂口は先日、江戸川にグレイの異能についてを知らせた時の彼の反応を思い出す。
『僕の予想じゃ今回の一件は天人五衰だけじゃ終わらない。今僕たちに降りかかっている災いはあくまで福地とドストエフスキーが謀ったことだ。』
『しかしグレイは、』
『こういえばわかる?福地は自覚すらなく糸繰り人形のように思い通りに動かされている。途方もなく壮大な歯車のネジに過ぎない。』
『…その人形の遣い手は。』
否定を望んで溢した希望は翡翠色の眼差しにより打ち砕かれた。
『どうせグレイには僕が相互監視の為に依頼したことなんてお見通しなんだ。なら直前まで粘って彼の出方を見定めたい。』
現状、グレイは傍観者として両陣営の鍔迫り合いを愉しんでいるだけであり男の目的はその先にあると江戸川は語った。だがそれ以前に福地とグレイの共謀者説が疑惑ではなく確実となってしまった今、空港での作戦は地雷原をいくようなものである。今からでも探偵社を引き戻すべきだ。そこまで判断して立ち上がった坂口を綾辻は呼び止める。
「待て坂口君。グレイの弱点と思しき代物を発見した。」
「弱点?」
扉に手をかけつつも興味を示した坂口に綾辻は即座に箱を開く。中身は暗号解読機に酷似した不思議な見た目の機械。辻村が機械に貼られていた一枚のメモを全員が見えるように掲げると、虫太郎が喫驚を漏らした。
「The Man Without a Body…まさか。」
「虫太郎君、これが何か知ってるのですか。」
坂口の問いにぶつぶつと何事かを呟いていた虫太郎はかぶりを振り否定する。
「いや、その箱が何かは知らない。」
「けど名前は知ってるんですね?」
辻村の問いに今度は首を縦に振った。
「…それは俺が七號機関で隠滅したとある代物の名称だ。」
「その代物というのは?」
虫太郎は言葉を区切ると、三人と一人一人目を合わせた。冷や汗が滲んだ顔と焦燥の篭った瞳に一同に不吉な影が這い寄ってくる。虫太郎は徐に息を吐き出し、そしてはっきりとした語調で言い放った。
「The Man Without a Body体のない男…異能大戦で生み出された幻の第四の厄災兵器だ。」
*
備忘録弐
旧態依然とした秩序の破壊者。光と闇を超越した存在。千言万語を尽くしてもかの存在を表そうには陳腐な言辞と成り果てる。
敗北の味を初めて知ったあの日、混沌とした景色は眩い光に包まれた。それはあまりにも偉大で暴君的で、この世のものとは思えない美しさを放っていた。
彼は言った。
見えない人間の方が余程豊かに世界を見透かしていると。彼の前には広大な世界が広がっていた。太陽の恵みに彩られる空も夜闇に包まれる街も、シャボン玉のように輝いては消えゆく星々も。情緒的な恵みを目前にしていながら多くの人々は目を開いたままその尊さに気付かない。そのような人間に比べればモノクロの人生の方がよっぽど意義があると。
彼には高邁なる計画があると云う。何者も彼を理解し得ないならば私が添おう。理解できなくとも、彼が私に寄り添ったように。
私の五感が、研ぎ澄まされた第六感が告げていた。だから私は、条野採菊は孤高の王を盲目的に信奉する。
「条野、天人五衰になれ。」
神威による唐突なカミングアウトに条野の思考は一瞬停止した。決して福地が己の正体を明かしたからではない。彼の背後にあるのが吸血種蔓延の元凶のブラムが眠る棺桶だからでもない。その右手に掲げられている物が白紙の頁だからである。
数分前、個人的に福地に呼び出された条野は天人五衰の正体とその計画についてのあらましを告げられた。証拠の頁を見せたのは想定外であったが…各勢力の実情を把握し随時グレイへと報告を上げていた条野からすれば福地の話は百回読み直した物語のあらすじを聞かされるのに等しい既知のものであった。途中で居眠りをしそうなくらいには。しかし条野は腐っても軍警最強部隊に属する精鋭隊員であり何よりグレイの誇るべき懐刀。溢れかけた欠伸を堪えポーカーフェイスを保ったまま一先ず福地の話に傾聴することにした。
大指令の受渡の合間、ブラムの警備が手薄になる為に条野に警護について欲しいと云うというのが福地の第一の要求であった。そして第二に…
「大量の蝶が飛んできてな、一瞬視界を奪われた隙に立原を奪還されてしまった。鉄の蝶だ。」
己の企みに勘づいた道造を吸血種へと変えんとした際、道造を救いに割り込んできた謎の異能力者に福地は心当たりがあった。
「確かに、鉄の蝶といえば春蝉君の異能力が浮かびますね。」
道造の謀反、その一件に関しては初耳だった。
条野は思考する。
天人五衰への全面的な支援、それが当初グレイにより条野たちに課せられた任務であった。グレイは最終的な勝者は探偵社だと言っていたが、まだ福地を闇討つ旨の指令は下されていない。つまり立原兄弟の騒動は春蝉の独断の可能性がある。それが意味するところは…。
仮借なき背信の気配に全身の血液が沸騰しそうになるのを条野は静かに息を吸い込むことで抑える。先決すべきは眼前にいる福地の対処であった。現状、猟犬脱退の指示は下されていない…であれば参画するのが適宜な処置だろう。
自身の回答を待ち侘びる福地に条野は朗らかな笑みを向けた。
「隊長、私にも隠していたことがあります。」
「………聞こう。」
立原兄弟の返り忠の直後であるのもあり、秘密という単語に僅かながら身構える福地。条野は掴みどころのない目顔で言葉を紡いだ。
「私は無彩三人衆です。」
「…………ん?」
「ですから、最初から我々は同じ陣営なのですよ。因みに私の主人はグレイ唯一人なので貴方を仰いだことはありません。」
「ちょっと待ってくれぬか。」
頁を懐に戻すと福地は片手を眼前に掲げ待ったをかける。タンマのポーズであった。条野はさして憚ることなく毒舌を吐き散らす。
「元犯罪組織の幹部である私が本当に国家の番犬になったと思っていたのですか?しかも貴方のような英雄の狛犬に?」
「...儂もしかして指導者の器ない?」
「悲しくもグレイには及びませんね。」
「士気失くすわ。」
ガックリと肩を落とし目に見えて孤影を漂わせる福地。だが作戦開始の時間が迫っているのもあり直ぐに佇まいを整える。そして猟犬の長らしい厳粛とした顔つきで条野を正視した。
「して、お前は乗るのだな?」
「...はい、それがグレイの望みなら・・・・・・・・・・・。」
そう、この戦争の勝者は探偵社。天人五衰の事件が始まる前にグレイは条野を呼び出してそう告げたのである。頃合いを見計らい大一番で探偵社側に有利な展開になるよう取り計らう。無論グレイはそのような内容は一言も口にしていないが、如何せん重大な局面になると決まって言葉数が少なくなるのが仇となった。ともあれ条野はグレイの希みに応じて天人五衰の味方を演じ、その裏では探偵社にグレイ伝いに有益な情報を送ったりと様々な工作を行っていたのである。現に今も、福地と条野とブラムの三人が内緒話を繰り広げている間に部屋の外で一人の民間人の少女が真のテロリストの話を盗み聞きをしているのである。
ー嗚呼、愉悦の味がする。
つくづく条野は悦に浸っていた。
実際、彼はブラムを護衛するつもりなど毛頭なかった。ぶっちゃけて言うならば、「何それ面倒くさ。」である。やる気のなさはグレイ同様、良くも悪くも飼い主に似るものだ。
そんな時、条野の頭にとある名案が掠めた。福地が懐に大事に仕舞っている白紙の頁。それを奪えばグレイは大儀であったと褒めてくれるのでは…。続いてグレイが自身の頭を撫でる情景を思い描き、条野は居ても立ってもいられなくなった。
「…なんだ。」
なんの前触れも無く両腕を広げ歩み寄ってきた条野に福地は怪訝な顔つきをする。
「ほら、お互いに騙してたでしょう?こういう時は仲直りのハグが有効だとグレイに学びました。」
「彼奴はまた碌でもないことばかり教えるな。」
グレイに対する陰口に苛立ちを覚える条野だったが、グッと堪えて目と鼻の先まで近づいた福地に腕を回す。それに福地は困惑を抱きつつも添える程度に条野の背に腕を回したのだった。条野お得意の手忠実で自身の懐から頁が抜き取られているとも知らずに。
部屋の外で鳴ったカメラのシャッター音に被さるように、条野の耳飾りの鈴が音色を奏でた。それは来る波瀾万丈を予知した愉悦の音色であった。