芥川と敦が船上で熾烈な一戦を交えていたのと時を同じくして、ポートマフィアの本拠地では火花の散らぬ冷戦が繰り広げられていた。
横浜市内に聳え立つ五棟の超高層ビルの内一棟の地下深く、行政機関を含めた敵対組織の防諜を目的として違法掘削された隠し地下層。内一層に設られた地下牢では探偵社が一隅太宰とマフィア五幹部が一角中原が真向かっていた。数日前に街頭で鏡花に捕らえられ地下牢に拘束された——実際には奇計を案じた太宰がマフィア本部に潜入する為に敢えて捕縛されたのであるが——太宰は、彼の真意を知らずに錠に繋がれる無様を嘲笑いに現れた中原に洗いざらいを打ち明けていた。
マフィアの裏切り者たる太宰が処罰の危険を犯してまで本拠地に赴いた由は二つ。
「一番は敦君について。彼の為に七十億の賞典を賭けた御大臣が誰なのか知りたくてね。」
「はっ、部下の為に身を危険に晒してまで?泣かせる話じゃあねェか。」
「そうでもないよ。」
「あ゛?」
進行する解氷のような揶揄を笑窪に深める太宰に、中原は遣る方ない憤懣を突きつけたナイフの鋒に昏く光らせた。その程度の脅かしで理知的な自殺常習犯に動揺は与えられない。対照的にともすれば重大な会議の最中でも感情が表面化しやすい中原は不快を著しく露わにしていた。
「私の話を聞けば君は自ら情報提供せざるを得なくなる。」
「とんだ戯言だな。」
喉元に食い込む刀身を伝って生温い血がたらりと垂れ落ちる。このまま忌々しい裏切り者の首を掻き切ってしまおう、中原は柄を握る己の手に一層力を込めようとして、ゆくりなく緩和させた。
二年前、最年少幹部の地位に就き自身とともに悪行の数々を犯してきた太宰は初対面の頃より首領を除いては
見ざるべし聞かざるべし、そう第六感が訴えかけているのにも関わらず真剣味を帯びた太宰の声音に中原は退けなくなった。冷ややかな殺意が次第に弱まっていくのを首元の感覚で感じ取ると、太宰は従容として言葉を続ける。
「横浜にグレイが現れた。」
発言の意を理解するまでに寸秒掛かった。横浜、グレイ、現れた…宇宙語を紐解くように単語の一つ一つを繋ぎ合わせて、含意もなく単純な羅列が脳漿を駆け巡った。直後、マフィア幹部の絶叫が地下牢に反響した。
………。
五大幹部の一人として魔都横浜のみならず天下に悪名を鳴り響かせる中原は西方での小競り合いを鎮圧する為に半年間市から出払っていた。その為、横浜でのグレイに纏わる一連の騒動を聞き及ぶ機会に恵まれなかったのだ。謂うなれば処女受胎が全くのまやかしで教会のプロパガンダだったと神父に告白されるかの精神的衝撃に、意識が途切れかける中原。だが外れんばかりに呆ける顎を戻す暇も与えずに太宰は畳み掛ける。
「信じられないなら今すぐ森さんに確認してくるといい。」
まるで己の動顛を嘲謔混じりに鑑賞するかの物言い。取り落としたナイフの代わりにわなわなと拳を震わせるが中々腕ば持ち上がらない。仕様なしに太宰を睨めつけるが相変わらず底辺の見えぬ黒褐色の虹彩は真実を語っていた。
…中原にとってグレイの名は太宰との不本意な諍い以上に強い憤りを憶える、最大の忌避の対象であった。実際に出くわしたのは片手で数える程度だが、一度きりの命を的に懸けた交戦で呆気なく苦杯を喫し、天災を引き起こす怪物と畏れられる男と自身との力量差を思い知らされることとなった。赤子の手を捻るように容易く中原を這いつくばらせた圧倒的実力、権威。欠けそうな歯軋りに添えられた屈辱とそれ以上の畏怖を抱かせたのは森鴎外を除いて永らく他にいなかった。異能の奥義を以てしても中原が勝つことのできなかった相手、それがグレイだった。
「吐け。俺が留守の間に何があった。」
「…まず最初に彼の存在を確認したのは異能特務課さ。」
束の間の悶着も因縁も頭から消し飛ばして詰め寄る中原に太宰は整然と事のあらましを諸述しだした。
周知の通り、眠れる龍が覚醒するが如く史上最悪の大悪党が横浜で事を起こしたのは特務課。一時は不倶戴天の敵とまで真しやかに取り沙汰されていた種田との再会でグレイはその伝説に相応しく暴虐の限りを尽くしたわけではなく、あまりに不祥な警告を残してその場を去った。それから数日も経たぬうちに探偵社の真下に店を構える喫茶うずまきで黒蜥蜴による襲撃が起こった。ところが殲滅されたのは当時店内に二人きりだった客と店主ではなく襲撃者たる中層構成員のみ。仮にも一定の実戦経験を得た黒服達の眉間の中心に寸分の狂いもなく鉛玉を貫通させたのは現代に用いるには珍しいワルサーP38…そう、グレイの愛銃である。福沢の直様の通報により特務課と軍警が派遣され綿密な捜査が行われたが終ぞ神出鬼没の男の痕跡を辿ることは叶わなかった。
「おかしいと思わないかい?彼が異能特務課に現れた数時間後に敦君が武装探偵社を訪れた。それも
「………。」
「私は最初、敦君があの男の息がかかった間者だと踏んでいた。だが彼は身に余る力をコントロールできずに居場所を失くしただけの不憫な孤児だった。それだけじゃない、グレイは特務課で何の資料を奪ったと思う?」
——
「なッ、冗談も休み休み言えよ…!」
「この期に及んで私が冗談を言ってるように見えるかい?」
幻の秘密結社、組合。北米を拠点にする異能力者集団、莫大な資産を所有し先進国の大都の不動産どころか都市経営を掌握できるとさえ謂わしめられているブルジョワジーの権化。金に物を言わせて凡ゆる営利の妙味を喰らい尽くす出鱈目さ故に彼方の海を隔てた横浜においては都市伝説と一笑される組織。実際にポートマフィア在籍中に彼の組織と対峙するような事態には発生しなかったものの太宰は米国において隠然たる権力を奮う都市伝説の真偽に疑念を抱いたことはなかった。グレイ、闇世界の王座に君臨するという非現実的な男が居るのにどうして秘密結社が有り得ぬなどと明言できようか。
太宰はまた、敦に七十億もの莫大な懸賞金を賭けた組織こそが組合だと九分九厘確信していた。言わずもがな、奸計の奏者として悪魔のトリルを奏でているのはグレイであるとも。
魂胆は定かではないが、異能大戦を契機に男の伝説は幕を開けた。計り知れぬほどに緻密な悪徳なる陰謀の数々が、恐るべし人身掌握術で己の手を汚さずして犯されてきた。端倪すべからざる戦後の世で、己らが思惑通りに踊らされているとは露ほども思わぬ多くの法執行機関、犯罪シンジケートが苦杯を喫してきた。
「今回の敦君を巡る一件、臭うんだよ。魔神の悪臭が。」
伝説が伝説足り得るには相応の所以がある。まるで絶壁の寸前で途切れた軌道を走らされているような、何もかもが壮大な仮構世界の裡側であるかのような気味悪さ纏わり付いて離れない。
「この街が戦火に見舞われるのも時間の問題かもしれない。そうなったら最後、もう誰にも厄災を止められない。」
自分達が悠長に話し合っている間にもその魔手で高等な旋律を奏で続ける魔神は、横浜に住まうありとあらゆる生命が彼の繊細な陥穽に惹き寄せられるのを虎視眈々と狙っているのかもしれない。絶好の時機を窺って、今か今かと悪の根を地中に張り巡らしているのやも。
最後にそう附言して太宰は口篭った。敵対関係にありながらもある種の危機的状況においては気脈を通じ合わせてきた元相棒の反応を待ち侘びていた。
中原は摯実な姿勢で太宰を見据えていた。常日頃より戯言を繰り返し周囲を苛立たせる道化者が斯様な場面で己を囃し立てるような無恥ではないことは十二分に承知していた。斯くの如き不協和音を聴かされて拱手傍観しているほど彼は愚鈍ではない。
「何が知りたい。」
「最初に言っただろう。」
二年越しのマフィア本拠地への来訪、その二つ目の目的は通信保管所への侵入。一連の擾乱の渦中にいる敦に忍び寄る陰を祓うにはマフィアが把握する情報を得て総合的に太宰の予測を裏付ける必要がある。地下牢に繋がれていれば必ず己の首を処刑せんと中原が現れるのを見越して、唯それだけの為に芥川から下命された鏡花の捕縛任務に乗じたのだ。
「…ったく、本当にテメエは癪に障るな。」
「愛情の裏返しかい?」
「ほざけ!…人虎がどうとかの話なら芥川が仕切ってた。奴は二階の通信保管所に記録を残してる筈だ。」
「あ、そう。予想はついてたけどね。」
顳顬に青筋が浮き上がった。けれども僅かの間に夥しいまでの錯綜を齎された中原は珍しくも挑発に応じず、一気に疲弊した脳に喝を入れるように舌打ちを溢した。
踵を返した中原を見送ると、太宰は予め開錠していた手錠を放り捨て二階へと歩み始めた。
「この街を魔神の好きにはさせない。たとえあの男と対峙することになろうとも。 」
…尤も、当人の知らぬところで悪評が加速しているなどグレイ本人は夢想だにしていなかった。
*
場面は切り替わり、横須賀本港より海軍施設を旋回して北東に三マイル進んだ東京湾上に漂う一隻の豪華客船。遡っては西海岸のカイザー造船所で建造された貨物船を改造して生まれ変わらせた特質な外観で、寓話に登場する巨大な鯨さながらの存在感を放つクルーズ船は富裕層の飽くなき道楽と化している。セントポールから出港し北中米から東洋の各都市を一年掛かりで寄港する長期クルーズ旅であるが、プエルトケツァル以降のマンサニージョ、ホノルルへの通航は貸切となっており最終地のシンガポールを前倒して横浜を帰港地に定めたのであった。
十五階建ての規格外の巨大船体の内部、弘大な非日常のグランドスイートルーム。迎賓室として設計された本船に二部屋限りの希少な部屋には豪奢な家具一揃いが著名インテリアデザイナーの腕によりをかけた巧みな按配で設られている。ワンルーム四万ドルの奢侈な室内、南北戦争末期から続く家具の老舗の普遍的な機能美を取り入れたカウチソファに一人の男が腰掛けていた。
厳選素材で織り上げられた仄かな光沢のある肌触りのスーツを身に纏っている。フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド。彼こそが人虎を狙い横浜へと魔の手を伸ばす秘密結社組合の団長である。さも己が神であるかのような高慢な姿勢で頬杖を付き、天然に脱色された金髪と波長の優れるマリンブルーの双眼は滄海を臨むよりも卓上のパソコンを見下ろしている。如何にも成金といった風貌のその男こそがフランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド、組合の長である。
「懸賞金作戦は失敗、どうしたものか。」
多額の前金を叩いて
『どうぞお好きに。私達が
フィッツジェラルドの空振りをティータイムの小咄に仕立てたのは、端正な彼の顔立ちと比しても遜色ない麗しさを香水のように纏う淑女。古より存在する欧州の異能組織、時計塔の従騎士の近衛騎士長を務めるデイム・アガサ・クリスティ爵。薄香色の髪をふわりと揺らし、優雅な仕草で薔薇のコサージュに触れると彼女は興味を削がれたとでもいう風にティーカップに視線を戻した。
『全て予想の通りです。何れにしても僕たちは勝手にやらせてもらいますよ。…神と悪霊の右手が示す通りに。』
クリスティに乗じてフィッツジェラルドを嘲謔するでもなく、殷賑を極める二組織とは寧ろ一線を画した領域で彼岸の管理者とでも主張したげな澄まし顔をつくる男はフョードル・ドストエフスキー。地下組織、死の家の鼠の頭目である。病的な色白さに映える深紅は虚無を湛えており、年齢不詳の薄幸の美貌は陰険な印象を抱かせる。
『…で、俺を呼んだ理由は?』
近隣の米軍が感知すれば直ちに艦船を送り込むであろう名だたる道化の密議にはあまりに場違いの男が一人。超越者殺し、生きる厄災…ではなく単なるアラウンド・フォーティ。通称グレイは市内の仮住まいから会議に参加していた。
*
クリスティから個人的な依頼のついでにオンラインミーティングに誘われたのは今朝方のこと。参加者を聞かずに好い加減な心持ちで挑んだ所為で開始と同時に画面いっぱいに広がった顔ぶれに思わず椅子からひっくり返りそうになった俺は悪くない。時計塔は法執行機関のはずだがいつから犯罪組織とつるむようになったのか、世界中の法執行機関が泡を吹きそうな猛者どもが集結しておりこ終始ミサイルが飛んでくるんじゃないかと肝が縮む思いだ。
『ミスター、貴方が横浜で虎と接触したと風の便りに聞いたのです。内務省や港のマフィアとも戯れていてらっしゃるそうで…貴方が直々に盤上に乗り出すとは思ってなかったもので三百年もののシュガーポットを取り落としてしまいましたわ。是非理由をお聞かせ願えますか。』
女狐ことクリスティは重たげな二重を瞬かせて、奇麗に歪んだ口端に悪徳を滲ませる。蠱惑的な目配せ一つで月下香の香気が漂ってくるが、如何してだろうか。クラナッハのヨハネの生首を盆に乗せるサロメの狂気的な微笑みと重なって背中を悪寒が駆け巡った。
それにしても耳聡い奴らだ。一介の便利屋の瑣末な動向に耳をそば立てるくらいなら国家元首の明日の献立を詮索した方がよっぽど意義があるだろうに。おっさん如きが主人公に関わるなと刺々しく警告されるのが容易に察せられた。
「なに、大したことじゃない。ただ路頭に迷ってた哀れな青年を導いてやっただけさ。」
『ふむ、教える気はないということですね。』
根暗な鼠が心底つまらなそうに呟く。どいつもこいつも人の言い分を聞かないのは何度注意しても治らない悪癖だ。
『私は必要ないと言ったのだが、彼等が君にも計画を伝えておくべきだと譲らなかったのでな。』
『当然でしょう。さもなくば我々は彼の気まぐれに引っ掻き回されてしまいますから。』
『あら、勝手に話を進めないでいただけるかしら。彼を呼んだのは私ですわ。』
『協調性のない貧乏人どもめ…』
『何か言ったかしら、ミスターフィッツジェラルド。』
画面越しに殺伐となりゆく空気に眉間を抑える。歩み寄りの精神を参道に置き忘れちまったらしい連中は人の話も碌に聞けないようだ。
腹の探り合いどころか小学生のガキの喧嘩が始まったのを他所に、俺は冷えゆく空気に暖を取ろうと煙草に火をつけた。
…………。
『ボルシチでも蓄えて冬に備えると宜しくって。』
『栄養が偏った大味のフィッシュアンドチップスばかりを食べるイギリス人はご存知ないでしょうが、ボルシチは酸味のあるスープ料理で間違っても穀物や豆類のように土壌から湧き出るものではありません。』
『ハッ、これは一本取られたなクリスティ。』
今日の夕飯はロシア料理にしよう。ボルシチが良いな。フィッシュアンドチップスも悪くはないが、生憎脂モンの気分じゃない。ビーツの土っぽい香りが堪らない、あの酸味がウォッカと絶妙に合うのだ。
デザートはクランベリーの砂糖漬けで良いだろう。カロリーが恐ろしいが…
『白紙の本を手に入れた暁には妻を癒すだけでなく貴様らを歴史書から屠ってやろう。』
『野蛮なアメリカンが歴史を語るとは至極滑稽。僕はより崇高な世界の為に。』
『植民地が戯言を。大変遺憾ですが鼠の彼と同意見ですわ。』
『合衆国は一七八三年に正式に独立している。痛ましいな、大英帝国ではまともな教育が受けられないのか。ああすまない、グレートブリテンは大昔に没落していたな。』
白紙の本、書いた事柄が現実化する夢のような異能現象とでもいうべきか。この世界の鍵であり根源に近い存在だ。元いた世界にそんな代物が存在すればさぞ大規模な争奪戦が勃発しただろう。
『独立祝いは贈呈されたでしょう。植民地へ帰っては如何かしら。ああ失礼、アメリカ合衆国でしたわね。』
『ハハッ!ブリティッシュ・ジョークもここまでいくと愚作を超えて傑作だな。』
二本を吸い終えた。灰皿の代わりに翻した鯖缶の蓋には見るからに有害な燃え滓が退屈な時間を証明していた。中華街の店頭に鎮座していた珍しい中華の箱から新たな一本を取り出して先端を燻す。ピースやトレジャーを連想させる甘酸っぱい柑橘系の絢爛さが鼻腔と肺を充たす。日常的に喫するような銘柄でないだけあってタール十二ミリのガツンとした香ばしさが余韻を余すところなく味わわせてくれる。
俺は画面に目線を戻す。立ち込める煙の向こうでは留まるところを知らない舌戦が喧々囂々と繰り広げられている。これが広東語なら雰囲気は完璧だった。さしずめブリカス、アメカス、ロシカスの能辯三つ巴といったところか。もう依頼断って退散してもいいだろうか。
愈々眠気に襲われて机に肘を付くと、肺に溜まったニコチンを全部吐き出す勢いで超嘆息した。…突如として喧騒がぴたりと止む。家の外で帰路につく学生の話し声が聞こえるほどに静まり返った場に機械の故障を疑ってパソコンを見下す。
先程まで口論を白熱化させていた面々が穴が開きそうなほどにこちらを凝視している。やめろやめろ、おっかなくて悪夢に出てくるだろ。 チチ、と小鳥の囀りが音声として伝わると問題はスピーカーではなくコイツらであると悟った。ともあれ、全員が俺に注目している今なら閉会を促す絶好の機会だ。
「気は済んだか。」
点けたばっかの紙巻を躙り潰して一言告げる。数拍の後、一足早く頭を冷やしたらしいドストエフスキーが口を開いた。
『失礼。貴方にまみえる機会など滅多にないので少しばかり昂っていたようです。』
『ええ、私としたことが醜態を晒してしまうとは。』
『………。』
意想外にも素直に謝意を口にする二人に内心魂消た。剛毅果断なこの界隈で己の主義主張を貫く為に偏屈に転じただけで存外本来の気質は春風のように妥協的なのかもしれない。
如何であれ譬え稚拙な言い争いだとしても仲直りは素晴らしいことである。精神的には何十年も年下の若者の成長を目の当たりにできたような感覚に俺は満足げに頷いた。
「クリスティ、依頼は」
『…愚かにも時計塔を裏切り、あろうことか英国に反旗を翻そうとした傭兵部隊が先日横浜に逃亡したのです。本来なら私が自ら出向くべきなのですが、生憎仕事が立て込んでおりまして。』
「俺にお灸を据えてほしいと?」
『ええ、そうですの。』
時計塔から逃げ果せる程の実力とあれば厄介極まりないが、クリスティの表情から推察するに危険度は低いのだろう。
「生死は問わないんだな。」
『できるだけ残酷に。』
「それは俺のポリシーに反する。」
時計塔は服従と沈黙を重んじるイタリアンマフィアの如く鉄の結束を貴んでいる。掟の遵守が国家安全保障に直結しているからだ。そうでなくとも由緒正しき組織の秩序を乱した輩が度し難いのだろう、さぞ凄惨な制裁を下して他への見せしめとしたいに違いない。だが俺だって人を甚振り殺す趣味は毛頭ない。
所用が済んだのでカーソル退出に合わせる。と、言い残したことを思い出す。
「勘違いするなよ。俺は
だから頼むから俺を軽率に争い事に巻き込まないでくれ。もう二度と戦争は御免だ、そんな意を込めて正直な懇願を残してから通信を切った。
*
一人の参加者枠が暗転するのと同時に、氷柱が突き刺すような厳粛な空気が秋麗の適温に解けてゆくのを一同は肌で感じた。クリスティは無意識下に引き締められた眉字を緩和させた。張り詰めていた緊張の糸が弛む心地だった。
『底の知れない男だ。』
フィッツジェラルドの感想に彼女は黙したまま裡で同意を示した。
世の悪漢が創り上げた理想の巨悪像とまで謂われる男の貫目を現実として知悉していても尚、支配者層にとっても気圧される不可視の力が働いていた。
グレイが溜息を溢した時、心の臓が凍てつきそうな音色で制止を掛けた時、クリスティの衷心を刺すような顫動が突き抜けたのは無理からぬことである。遠隔通信でありながらグレイが空間を移動して己の背後ら銃口を突きつけているような戦慄がクリスティを襲った。机の下で拳を握り締めていなければ、深淵の如き双の眼に引き摺りこまれてしまいそうだった。グレイが紫煙とともに横槍を入れた際に即座に発言を慎んだ残り二名を顧みるに、大方彼等もグレイの醸し出す暗澹に呑まれたと当たりをつけるのは容易いものだ。
——勘違いするなよ。俺はお前らが紡ぐ物語に興味はない。
極め付けは最後の一言。密議と謂いながら、心根では瞞着撃砕を目論む者達の邪鬼どものおのがじしの意中を看破しているとでも言いたげな忠告には慥かな愉悦が滲んでいた。
グレイを会議に招じ入れるよう提案したのはドストエフスキーであった。敢えて間近で挙動を観察することで予測不能な男の目的を洞察する算段だったのだが…手応えを感じる小隙もなく画策は逆手に取られ、挙げ句の果てに釘を刺されたのは三人の権力者となった。
矢張りグレイは計画を見抜いている。世の真理に通暁する男は自身の魂の形質すらも正確に掴み取っており、その上で果然己が定めた宿命を全うできるかどうか価値を値踏みしている。ドストエフスキーの直感は益々強まる一方だった。されども彼が嬉悲の入り混じった演劇を傍観者として観劇する心積りならば幸先は良好である。どうせ為すべき段取りに変更はないのだ。
ドストエフスキーはタッチパッドに女のように細い指先を添える。皮肉にも優雅な仕草はバイオリンの奏者のようだった。
『彼のことは考えるだけ無駄でしょう。精々彼の起こす竜巻に巻き込まれないように、僕は僕の設計を進めます。』
『ええ、ええ。そうですわね、その通りです。』
それ以上の言葉は不要とばかりに鼠と狐は会議から退出した。残された画面に唯一人残されたフィッツジェラルドはパソコンを閉じる。拍子に卓上のフォトスタンドが床に転がり落ちた。
かつて下層労働者として数えきれない傷をつくった腕を伸ばしてそれを掴み上げる。愛妻ゼルダと今は亡き娘との家族写真が決して巻き戻りはしない追憶に胸を焦がした。…そう、白紙の書の存在を知るまでは娘の死に狂った妻を無力に介抱するだけの男だった。妻子の前では粉骨砕身の末に実現した地位も富も名声も、単なる紙屑と概念に過ぎないのだ。
常温に戻ったワインを流し込む。芳醇だった味わいは時間の経過とともに風味を飛ばし、酸味だけが舌を仄かに刺激した。不味い、まるで最愛を失った彼の空虚な心のように。
広がる蒼は凪いでおり緩やかに流れる表世界の情景だけを再現していた。されども
「譬えどんな邪魔が入ろうとも我らの足を止めることはできない。約定の地は組合が必ず頂く。」
この無限の美しき波の綾は酸いも甘いも噛み分けねばならぬ人生のようだと、遥か彼方で燃え盛る密輸戦を眺めて、フィッツジェラルドは一気にグラスを傾けた。