猟犬の彼女に拿捕された敦は拘束を解除され燁子と向き合っていた。
福地の慚愧と無念が生み出した天人五衰と彼等の真の目的、その凡てを聞いて仕舞えば敦は忽ち戦意を喪失し立ち上がれなくなるだろう。そう告げた燁子の挑戦に敦は意欲的に応じた。
結果として心優しき青年がどれほど残酷な選択を迫られるかも知らずに。
スタンレーミルグラムという心理学者が行った権威下における人の服従の心理を検証した実験がある。
無作為に募った被験者を学習における罰の効果を検証する実験と称して教師役と生徒役にくじ引きで分ける。実際には被験者は必ず教師役に振り分けられ、教師は演者である生徒にクイズ形式の問題を出していく。生徒が間違えるたびに被験者の教師は罰として電気ショックを与えなければならず最小電圧15Vから最大450Vまで徐々に電圧を上げていく。実験を進めるにつれ、やめてくれと嘆願する生徒役に被験者の教師は神経衰弱に陥りはじめる。しかし躊躇する度に傍に控える白衣を着た研究者が続行するように促し、最終的に死に至る電圧レベルまでスイッチを押したのは六十五パーセントにまで達した。
その後もミルグラムは電圧の限界を下げた同様の実験を行ったが結果は八十五パーセントにまで上昇し、力ある権威者...この実験では白衣を着た研究者...の命令がどれほど人を服従させることができるかを結論づけた。無作為に選ばれた被験者は決して生粋の精神病質者などではなく健全な人間であった。その半数以上が自身が他人を死に至るまで傷つけているのを自覚していながら研究者の命令に逆らわなかったのだ。
ミライ村での老若男女大虐殺事件やホロコースト、紀元前にバビロン市がセンナケリブ王に破壊されたのと同じように古今東西、例えそれが倫理に反していても兵士たちに不人情な権力に抗う術はないのである。
さて、『英雄的行為とはあともう一歩の忍耐である』とアメリカの政治家であり歴史学者のジョージ・ケナンは述べている。如何に勇猛果敢な戦士でも無貯蔵に勇気と忍耐は湧いてこない。背中を押したまま二度と帰らぬ人となった部下たち、情報を持たぬ弱者を不必要に嬲った感触と悲鳴。福地はじわりじわりと憎悪の渦に飲み込まれ、とうとう限界を迎えた。それも敗戦という最悪の形で。
血塗られた戰野から生き永らえた帰還兵は冷ややかな眼差しで歓迎・・する社会にトラウマを悪化させた。誇るべき軍服で街を歩けば反戦論者に唾を吐かれ、ひとたびテレビのリモコンを付ければ戦犯呼ばわりするメディア。時には家族や恋人からも見放され社会での居場所を失くした復員軍人のホームレス化、自殺の頻発、離婚率の上昇、薬物の乱用が急速に起こり敗戦国の彼方此方で暴力が氾濫した。横浜も魔都と化した。そんな崩壊家庭で育った子供は大人になると自身がそうであったように子供を虐待し、離婚し、犯罪を犯した。探偵社、ポートマフィア、軍警や異能特務課を含めた抑制装置が機能するまでは戦後の横浜は、日本は悪漢で溢れ返り暴力の風潮は高まる一方だった。
福地は道義心の強い人間である。故に戦うための大義名分を必要とした。祖国のため、友のため、家族のため...国に従うがままに戦場で命を賭した彼等の血と汗と涙は何一つ報われなかったのだ。これを無念と云わずして何と云う。ミルグラム実験で彼等が自らの行いの責任を研究者に委ねたように、兵士たちが殺人の正当性を上司や仲間たちと分け合うように、福地は兵士を死地へ送り込み、女子供を拷問した罪を受け止めつつその責任を国家に委ねた。それが正解でも間違いでもないと知りながら。無慈悲な命令を下す国家というスケープゴートに責任を委ねずして彼は正気を保っていられなかった。
次に彼が求めたのは権威の廃止だった。見かけだけの崇高な理念を掲げて戦争を起こす世界中の国家という究極の権力概念を廃止し、二度とミルグラム効果が生まれぬよう平和な秩序を築き上げること。それが如何に迷走した計画であっても、戦場で踊らされ獅子の霊に取り憑かれた福地に足を止める路などないのである。
一方の福沢は手っ取り早く問題を解決することに長けているが、大局を見定め決断できる人間ではなかった。戦争擁護者を暗殺することはPTSDを負った兵士に麻薬を投与し再び戦場に送り出すのと同じように、一時的な解決策に過ぎなかった。死者を増やさない為の戦争終結という抜本的でない策では帝国主義という根深い問題を紐解くことはできなかったのだ。そして現在になり、彼が殺した政治家の息子が武装探偵社にテロリストの濡れ衣を着せた。
銀狼の刃は腐敗した汚職政治家の心臓を貫けど、巡り巡る負の連鎖を断ち切ることはできなかったのだ。それこそが戦争を機に引き裂かれた福沢と福地の三十六年の重荷であった。
*
「凡ては三十六年の月日の重み…。」
「そうじゃ、凡ては三十六年の。」
彼女の言葉が頭の中で反芻されると僕は膝から崩れ落ちた。
天道は是は非か。一葉の刃を上天に掲げ高らかに宣言した福地の言葉が蘇ってくる。
彼は表明したかった。国家に根差す闇を、腐敗され蝕まれた行政構造の変革の必要性についてを。福地はただ白紙の書や大指令という強制力をもたなければ世界を変えられないと信じて行動に移しただけだった。全てはより良き世界のために。
福地はテロリストでも犯罪者でもない、平和の唱導者であり同時に国家の反逆者なのだ。
信じてきた正義と悪の境界線が揺らいでいく。燁子さんの話は強靭な岩を砕くように呆気なく僕の決心を挫かせた。誰も悪くないのなら、僕たちはいったい何と戦えばいい?
探偵社の皆の安否も、ブラムの回収も、大指令の奪取も、果たすべき任務があるというのに脚が麻痺してしまったかのように動かない。探偵社はこのまま福地を倒すべきなのか、様々な思いが交錯して拮抗する理非が僕を雁字搦めにする。
どうすればいい、こんなときあの人ならどんな言葉を掛けてくれる…?
そのとき、脳裡に鋭く暗晦な稲妻が迸った。
闇を裂く電光は一本の剣のように真っ直ぐに僕の心の臓へと到達し、底に渦巻く濃い霧を貫いた。跡形もなく消え失せた澱みから現れたのは一つの灰色の真実。
歯茎に刺さった魚の骨のような、釈然としない引っ掛かりをずっと感じていた。まだ乱歩さんが正式に依頼をする前、天人五衰の全貌の見えないときからグレイさんは探偵社側の味方でいてくれた。けれども彼が何の益もなしに誰かに与するような人でないのは共喰い事件を経て判っている。乱歩さんの話では彼は政府高官の人質事件が起きる以前から総てを知っていたと謂う。それに関しては、太宰さんや乱歩さんが己を超えるとすら賛辞する神がかった知謀家だから別段不思議なことではない。だからこそ疑問を感じていた。
彼の強力な異能と卓越した戦闘能力と頭脳は敵にとって脅威でしかない。ならば何故天人五衰は最初にグレイさんを無力化しなかったのか。現実改変を成せる白紙の頁という奥の手があればいくらあの人でも敵わなかったはずなのに。
軍警への情報伝達が早すぎるのも気がかりだった。僕たちが行動を起こすたびに敵はまるでこちらの作戦を関知しているように立ち回り、結果双方が一進一退を繰り返してきた。
極め付けは船上での神威との対決。展望の見えない怒涛の状況で我が身を守る事しかできず、促されるがままに潜水艇に乗って逃亡した。今、よくよく振り返れば二つ奇妙な点が浮き彫りになってくる。あの時、流石というべきかグレイさんは芥川に迫る福地の刃を正確に防いだ。
そう、まるで船上の何処かで傍観してタイミングを見計らい登場したみたいに。福地は戦争の英雄と謳われる猛者だ。であれば芥川への追撃をさしものグレイさんでも防げなかったのも無理からぬ悲劇だ。万が一にも彼が落命せぬよう祈ってすらいた。だというのにグレイさんは傷一つなく帰還し、沖に流れ着いた僕を救出した。福地との交戦などなかったかのように。
カジノでシグマと握手したときに感じた、運命の鍵を握る黒幕の威圧感。銀の大蛇に睨まれたかのように全身が粟立ちそうなほど慄然とした殺意。あの悍ましい恐怖を僕は以前身を以て体感したことがある。去年のハロウィンの夜に貧民街の廃墟で。話の流れでそれが神威のものであると思い込んでいた…いや、そう自分を信じ込ませた。けど…
「グレイさんは、」
辛うじて発された声音は自分でも驚くほどにか細く掠れていた。目線だけを上げれば燁子さんが僕を俯瞰していた。その眼差しには惻隠の情が潜んでいる。それは答えに等しかった。
「グレイさんは…最初からそちら側だったんですか。」
聞きたくない、知りたくない。それでもたとえ受け止められなくても知る義務がある。だから勇気ともいえない微かな気力を奮って問いかけた。
数秒間沈黙が続く。縋るように燁子さんを見つめると、やがて彼女は静かな息を吐き出した。
「儂も聞いたときは喫驚したものよ。隊長が最初に頼られたのがあの大賊であったとは。」
「っ!」
「グレイは隊長殿にとって兄弟も同然と謂う。戦場に生まれ、修羅場を駆け、業を学んだ唯一の戦友じゃと。」
「そんなっ…」
体の芯に灯っていた一本の蝋燭が吹き消される音がした。勇気も気力も、夢も誇りも。中島敦を動かしていた心の焚火が絶やされて燃え尽きた石炭の灰殻だけが希薄な熱を残していた。
グレイさん第二の父が福地に賛同した。その事実だけで世界が僕を否定しているような気さえした。
「さあ、話したぞ。後は好きにするがいい。儂は少し席を外す。」
完全に腑抜けてしまった僕に燁子さんはそう言い残すと部屋を出ていった。
それからどれくらいの時が経ったのだろうか。
膝を抱えて蹲っていると不意に扉が開かれる音がした。何となしに顔を上げるとそこには僕がよく知る人物が。
「やっと見つけたわ!」
「ルーシー?」
顔色を郎色に染めたルーシーは僕の元まで近付くと手を差し伸ばしてくる。
「屋上で貴方の仲間が絶賛ピンチなの、早く助けに行くわよ。」
けれども僕は華奢でしなやかなその手先を眺めていた。異変を察知したルーシーは腕を下ろして顔を覗き込んでくる。気遣わしけな優しさを向けてくれる彼女に、情けなくもぽつりと弱音が溢れてきた。
「立てないんだ…もうッ、」
「何があったの?」
「グレイさんが敵だった、福地には戦う理由があった。……分からなくなった、僕は何に抗えばいい…?」
粛然とした室内に嗚咽だけが響いている。
なんてしおたれた気骨のないやつだと、己ながらに声を殺そうと唇を噛み締めるがやっぱり上手くいかない。重力に押しつぶされるように身も心も重たくて憂いに沈んでいく。
「ねぇ。」
ついと落ち着き払った調子の声が落とされる。失望しただろうかと、滲んだ視界を動かしてみる。すると、
パチン!
右頬に鋭い衝撃が走った。
気づけば顔は斜めを向いていて、少し遅れてヒリヒリと表面が熱を帯び始める。打たれた。呆然と刹那の出来事を飲み込みだすと、おっかなびっくりしてルーシーを見た。
「シャキッとしなさい中島敦!」
「ひっ、」
凄まじい剣幕で胸ぐらを掴まれると臆病な奇声が上がってしまう。目下の頬を真っ赤に染めるルーシーは更に顔を寄せてきた。
「貴方には世界を救うという任務があるんじゃなかったの!?」
「だからそれはっ、」
「いい?もう沢山の人たちが傷つき命を落としてるの…あたしも犠牲を払ったわ。なんでか分かる?どれだけ倒されてもネヴァリャーシュカみたいに奮い起きる貴方達が、格好良くて眩しかったからよ!何を聞かされたのかは知らないけど、天人五衰が屍を築いた理由が足を止める理由にはならない。何も知らずにテロと戦う人々の想いを踏み躙っていい理由にはならない。」
「っ!!」
「ていうか今更私が後に引けないの!!」
彼女の言葉に胸を痞えていた灰色の燃え滓が爽快な輝きとともに薙ぎ払われた。燃え尽きたはずの蝋燭が蘇り赫焉とした心意気が灯った。活力の注がれた魂は揚々と快哉を叫んでいた。
そうだ、ルーシーの言う通りだ。例え正当な理屈があっても天人五衰のしてきた行いは立派なテロで、その犠牲になった人々の無念を見て見ぬふりはできない。
互いの正義が違うだけ。なら僕は……。
「ルーシー。」
握った拳に力を込めると僕は立ち上がる。二本の脚でしっかりと地面を踏み締めて。見据えたルーシーはふんわりと綻んでいた。もう迷いも憂いもない。
「皆を助けにいく。力を貸してくれ。」
覚悟を込めてそう言うと、今度は僕が腕を伸ばした。
重なった掌は冬暁を照らす春の陽気のように温もりに満ちていた。