基地からの通報がグレイの携帯に届いた頃、横浜の市街地。黄昏時から夜へと転じた大都市の中心部のとある一軒家。
カタカタ、カタ…。
両の掌サイズのリモコンを握る手が汗ばんでいる。瞬きもせずにブルーライトを凝視し続けて乾ききった瞳が瞬きを望むのを拒絶して、少年はゲームに熱中している。
カタカタ、カチカチ。
ゲーム機の頭上の時計の分針が夕食の時間を知らせていることすら目に入らずに、少年はゾンビを車で轢死させる奇抜なゲームに気を取られていた。
「ご飯よー!」
『グォオオオ!』
「ああっ!」
攻略一歩手前で自室の隔たりの向こうから聞こえてきた母の声に手元が狂うと『Game over.』と映し出された液晶画面に少年はリモコンを投げつけた。
ふぅと息を吐き出して昂った心を落ち着かせると、扉横の電気スイッチを触る。すっかり暗くなった室内が、天井の裸電球の灯して真昼のように照らし出されると少年はうんと満足げに指を鳴らしてリモコンを拾った。と、再び母の声が届く。
「ご飯ー!」
「今行く!」
苛立ちを込めて一言返すと、少年は観念して片付けを始めた。そんな時、住宅街では珍しい喧騒が窓の隙間から漏れて少年の耳朶をぽつりと打った。どばたばとコンクリートの地面を乱暴に叩く乱れた足音だ。
小学校の運動会、或いはだんじり祭でしか耳にしない群衆の行進音に好奇心を擽られた少年は窓を開けてみる。そして視界に飛び込んできた光景にギョッと目を剥いたのだった。
一方通行の路上の先を二人の男が大胆に逆走している。暴風に靡く袴を身に纏った男と、全力疾走には鈍重なスーツを着た男が凄まじい速さで。そして二人の後ろには…。
「グォオオオ!」
路幅を埋め尽くすほどの夥しい数の、目から血を流し雄叫びを上げる見るからに状態異常に陥ったゾンビ達が二人を追いかけているではないか。
「あっハハハハ!もっと逃げなよ!」
更に後方からは、ブォンブォンと排気音を鳴らして暴走する一台の車が群衆のすぐ後ろを着いて来ていた。しかも運転手と助手席に乗っているのは少年少女…特に少年は遠くからでも聞こえるほどに叫んでいる…と棒のようなものに首だけが刺さったバラバラ死体。
日本どころかアメリカでも生じないであろう怪奇現象に少年は瞼を擦ってみる。だが幻覚は消えてくれない。ゾンビに車、きっとゲームのやり過ぎだろうと見当をつけると折角だからリアルな幻覚を楽しもうと身を乗り出して、徐々に近づいてきた二人の男のうち袴の着物を着た男とカチリと目が合う。よくよく凝らして見ればその男は刀を腰に差していた。
男は少年の姿に眉根を寄せると緩慢に唇を動かす。少年はじっと彼の唇が紡ぐ文字を解析してみた。
ま、ど、を、し、め、よ…
「窓を閉めろって…なんで?」
しかし背後の群衆の脅威を理解していない少年は男の忠告を無視して怪奇を眺めていた。これを逃せば二度と脳は幻を視せてくれないかもしれない。まだまだ遊び心満載の少年は彼の脳の現実的な部分が送った興醒めな信号を棄却した。
すると、益々スピードを加速させて和風の男が少年の住まう一軒家へと近づいてくるではないか。
ーマジでリアルだな。
現実的な非現実をぼんやりと鑑賞していた少年だった。が、
「少年、窓を閉めよと言ったのだ。窓掛けも閉ざし喧騒が遠ざかるまでは決して開けてはならない。良いな?」
「ぇ?」
急接近してスタリと窓際に足を掛けると矢継ぎ早にそう言い放った男に少年は唖然とする。
「福沢殿!」
「分かっている…!」
吃驚仰天している少年をよそに、寸秒遅れで地上から声を張り上げるもう一人の男に和風の男は強制的にカーテンと窓を閉めると音もなく路上に飛び降りた。そして駆け比べを再開した二人は瞬く間に姿を消してしまった。また、彼等を追いかけていたゾンビの群れと謎の車も少年の一軒家を通り過ぎると曲がり角を曲がって騒音はやがて聞こえなくなった。
静けさを取り戻した住宅街、六畳ほどの広さの一人部屋にも当たり障りのない日常が戻ってきた。
「は、え?」
「ご飯って言ってるでしょう、早くしなさい!!」
暫くの間茫然自失となっていた少年だったが、堪忍袋の緒が切れた母の怒声に我に返ると弾かれたように部屋を後にしたのだった。
それから数分後。
「見つけたっ!」
ゴミ箱用に道路脇に設置された群青色のポリ容器の蓋を開けると福沢はふくよかな三毛猫を抱き上げた。
に゛ゃあ。
「福沢殿、それは雌です。」
「……すまぬ。」
研ぎ澄まされた爪が手首に五本の赤線を引くと福沢は何度目かの失敗に、或いは彼が棲家を荒らしてしまった猫に対して痛恨の謝罪を溢した。彼此四半時横浜を走り続けている福沢と森であるが、未だ目的の猫には辿り着けていなかった。そも、彼等が猫探しに奔走しているのには訳があった。
それは遡ること半時間前、作戦会議を終えるや否や大至急横浜に引き返した福沢は太宰の助言通り夏目の捜索協力を願いに森の元へと赴いた。
今も拡散し続ける吸血種感染の影響かポートマフィアのビルは制御不能となった元マフィア構成員の吸血種の軍勢に囲まれていた。五大幹部は紅葉を除いて全員が国外での仕事に当たっていた為に主要戦力は森とエリス、紅葉、それから僅かに残った吸血種でない下級構成員のみであった。
福沢が煩わしい集団を避けて外壁伝いに最上階へと到達すると、今にも押し破られそうな扉の前で既に入り込んできた十数名の吸血種と激突する森たちがいた。正しく窮地に追い込まれている彼等に福沢は即座に援護に回りひと段落したところで彼等にことのあらましを話した。
それまでは傘下組織の援軍が来るまで籠城戦で耐え忍ぶ作戦を検討していた森であったが福沢の話を聞くや否や抜本的解決を図ることを決意。タイミング良く到着した傘下組織と紅葉と数名の部下に建物を任せて、吸血種の軍勢を攻略されつつあるビルから別の場所に誘導するべく福沢とビルを後にしたのだった。その僅か数分後に難局に突き当たることになるとは露ほども思わずに。
夏目探しの旅に出た二人は以前決闘をした際に夏目が猫から変化したのを振り返り、今回も猫に扮しているのではと結論づけて猫探しを始めた。しかし横浜を縄張りとする野良猫は星の数ほどいるため、彼等は大都市の端から端までを捜索するほかなかった。
尤も、横浜二大勢力の頭目が入り組んだ街並みの路地を並走し、挙句一匹の猫を探しているなど誰が信じられようか。もしこの場に回復した種田がいれば密かに腹を抱えていたことであろう。
ともあれ、とりわけ街づくりの歴史に所以のある箇所を中心に路地裏から民家の裏庭まで吸血種を引き連れながら隅々を探し回ったのだが一向に見つからず…。
ーあー!森さんじゃん!丁度良いや、一緒にアソボーよ!
挙句の果てには何故か交通違反取締の警察車両と明らかに異能により精神を侵された人々を引き連れたQが鬼ごとを仕掛けてきたのだ。
鬼役が一般市民であること、車を運転するQの隣に人質と思しき少女が乗っていること、彼女の膝にブラムがいることから福沢と森は下手に手出しできずかといい見過ごすわけにもいかずにまんまと鬼ごっこをする羽目になっていた。
「夏目殿を一向に見つけられる気配がしないのですが。」
「奇遇だな、私もそんな気がしてきた。」
全力で足を動かし続けて三十分、流石に足が棒のようになって二人は一度腰を下ろそうとして。
「ちょっと、奴らが来たわよ。ほら走った走った!」
空を浮遊するエリスの催促に、中年二人は肺の底から倦厭を吐き出すと嫌々足を動かし始めた——。
一方その頃、
「あっはは、見て見て文、ブラちゃん!これがカーチェイスって言うんだよ。」
「あかんあかんあかん!」
父親が元刑事であるゆえに今後、彼女の真っ白な経歴を塗り潰すであろう数々の罪状を思い浮かべて文は魂魄が上昇しかけていた。
約一日前、車を盗み空港から逃げ果せたQと文はハリウッドも仰天もののカーアクションを再現して、早々にパトカーに捕捉され逃走劇を繰り広げていた。道路という道路を闘牛の如き荒々しさで疾走し真夜中になってグレイのホテルへと帰還。バトミントンなど記憶の彼方に追いやり長時間のドライブに疲弊した彼等は泥のように眠りについた。
一難去ってまた一難、翌朝けたたましくドアをノックする音に三人は目を覚ました。
アポなし訪問は問答無用で撃退すべしというグレイの教えに従い閃光弾で不届者を撃退したQ。ところがここで問題が発生した。Qが撃退した予期せぬ来客は盗難車の通報を受けてやって来た警官だったのだ。これに魂消たのは常識人の文。Qが警官を気絶させるという凶行に完全にパニックに陥った彼女を落ち着かせる為に、Qとブラムは二日目の楽しいドライブの旅へと乗り出した。
そして時は流れ…再び警察車両とカーチェイスをしながら偶さか鉢合った森と福沢。長きに渡りマフィアに監禁されていたQはこれ幸いと積年の恨みをぶつけることにした。…福沢に関しては貰い事故である。
因みに現在Q達が乗車している車種はトヨタスープラA80型。そう、幼きグレイはまたもや盗難の罪を重ねたのである。
「Qちゃんスピード下げて!これはほんまに不味いて…」
今も尚壮烈な追跡劇を展開しているQに助手席でシートベルトを握り込んで文は涙声で懇願する。せめて法定速度を守ってほしいという文の訴えは、残念ながらサイレンや発狂する人々、吸血種の絶叫に掻き消された。
自動車窃盗、器物損害、交通法違反、一般市民への異能干渉、おまけに警官への暴行。保護者不在の間に好き放題に悪逆の限りを尽くす犯罪者の卵。捕まればいくら年端もいかぬ子供とて少年院送りは避けられないだろう。だが何を隠そう、少年は世界最悪の犯罪者の養子であった。即ち、彼にとって警察も特務課も軍警も恐るるに足らず…唯一おっかないのは保護者の説教のみ。
「おお!」
ぐわんぐわんとジェットコースター並みに重力を失う車に身を竦ませる文に反して、もう一人の同乗者は興奮の最中にいた。最初こそ戦馬車を遥かに凌ぐ現代車の速度に震撼していたブラムであったが、二度目の乗車ともなれば感覚も追いつき荒っぽい運転を愉しんですらいた。
「未来の馬車が斯様に疾風迅雷であったとは。童、其方騎士見習いなのか。」
「うん!大きくなったらグレイの仕事を手伝うんだ。」
「いや親父さんが今日のこと知ってもうたら絶対拳骨食らうで!?」
「げ。」
文の言葉に、一ヶ月ほど前にホテル周辺のビジネス街の非常ボタンを押して回った際の真顔の阿修羅を思い出しQは若干踏む力を緩める。だが、
「見事であるぞQ、褒めて遣わす。それと獲物が彼処を曲がったのを見た。」
「ありがとうブラちゃん、じゃあ僕もっと頑張るね!」
「えっちょ、あかんってぇぇええぇ!?」
ブラムに褒め称えられるとQは刹那の後悔を忘れてアクセルを踏み込んだ。
暴走車が巻き起こす狂飆に、文の切願と涙は虚しく流れていったのだった。
Q達との距離が縮まる中、猫の気配を感じた二人は狭い路地から交差点へと出た。
にゃお。
最後の記憶とは異なり細身ではあるが、赤の他人に迫られても微動だにしない雄々しさは他の猫と一線を画していた。
「いやはや、こんなところに居られるとは…探しましたよ夏目先生。」
膝をつき夏目と思しき三毛猫に声をかける森。しかし推定夏目は答えない。
「先生?」
訝しく思った福沢は猫の首元を覗いてみて、気まずそうに森から目線を逸らした。
「森医師、これは飼い猫だ。」
「……失礼。」
「ねぇ、さっきから間抜け過ぎない?歳とったせいかしら。」
一部始終を傍観していたエリスの歯に衣着せぬ物言いに中年二人の心は大いに傷ついた。
日本を一周してでも夏目を探し出してみせる、短時間の全力の持久走と過誤の繰り返しに二人はもはや意地を張っていた。幸運なことに探求すべき猫の種類は限られている。一先ずもう一度横浜中を回ろうと二人は進行方向を変えようとして。
「……福沢殿。」
「ああ。その前に掃除が要るな。」
森と福沢の位置する直線道路が交わる交差点のど真ん中。二人を囲むように四方から現れた追手に森と福沢はそれぞれに得物を構えた。と、モーゼのように一通が開けてエンジンを鳴らしながら一台の車が近づいてくる。
「やぁっと追いついた。僕の勝ちだね、森さん。」
「その執念に免じて鬼ごっこの勝利は君に譲ろう、Q。」
「Qよ、少女とブラムを渡せ。」
「…なんで?」
二人ははらはらと頬を濡らす文がQの服の裾を掴んでいるのを見逃さなかった。Qがどのような説明をしたのかは判らないが、状況も呑み込めないままに人質になった幼い少女にとって同年代のQと特別な連帯感を抱いてしまってもおかしくはない。所謂ストックホルム症候群を患っているであろう文を想い福沢は顔を顰めずにはいられなかった。
吸血種とQの異能に犯された一般人。対してポートマフィアの首領と武装探偵社の社長。黒山のように集まる人だかりに数の差が負けていようと、実力を鑑みれば二人の方が圧倒的に優位であった。
「うーん、渡してあげても良いけど先ずはグレイに聞いてからかな。」
「ならぬ。」
「っQちゃん!」
交渉決裂を合図にボンネットに仁王立ちするQを文は咄嗟に引き留めようとする。さもありなん、Qの杜撰な説明は森と福沢に対する文の認識を凶悪マフィア組織の実力者に仕立て上げていた。彼女にとっては悪のマフィア対正義の警察の息子であった。
「大丈夫だよ、文。」
Qは文とブラムに微笑みかけるとズボンの後ろに挟んでいた指向性共振銃を両手で構える。
「私が吸血種と一般市民を引きつけましょう。」
「頼んだ。」
子供といえど相手は精神干渉系の異能力者。その上グレイによって悪知恵を植え付けられた無垢なる悪鬼。舐めてかかればこちらが損害を被ることになる、そう判っていながら福沢は抜きかけた刀身を収めた。いくら油断大敵であろうと子供に対して剣を抜くのは銀狼の主義に反していた。
雑音は闇に呑み込まれ、互いの息遣いだけが風を伝って鼓膜に届いてきた。夜の帷が下りた交差点で大規模な乱闘が今にも始まろうとしていた。
トンっと軽やかにボンネットから着地したQに、福沢は一足一刀の間合いまで躙り寄る。ブラムと文は頼もしいQの背中をただひたすらに見守っていた。
カッコー。赤信号が戦闘を促すかのように青色に変化した。
森はエリスを伴い群衆に突撃、福沢は一撃でQを気絶させようと踏み込み、迫り来る福沢にQは迎え討とうと指向性共振銃を放たんとして......突として交差点の中心部に何かが飛び込んできた。
「なっ、」
視界がチカチカと点滅するほどに何かが閃々と発光すると、目を開けていられないほどの眩さに全員が動きを止めて顔を覆った——。
強い光が収まった頃、一同は徐に瞼を上げてみる。そこに居たのは…
「全く、儂は休む暇もないのか。」
人型をとった夏目だった。
「夏目先生!」
「先生!」
待ち望んだ救世主の登場に福沢と森は周囲の状況も忘れて駆け寄る。夏目は露骨にやれやれと言わんばかりの面相をしてQの首根っこを掴んでいた。
「ありゃ?」
「これ童、碌でなしの馬鹿息子に似おって。」
「き、Qちゃん…。」
不安げに車から降りてきた文に夏目は近所の子供を扱うようにQを彼女の前に降ろした。
「えっと…誰?」
「それはまた何れ話してやろう。ひとまずはお前の親の知り合いとだけ識しておけ。」
「うーん、よくわかんないけどまあいいや。」
「夏目先生。」
首を傾げさせる子供達と夏目が和やかに言葉を交わしていると、状況が状況なだけに辛抱堪らなくなった福沢が会話に割って入る。すると、夏目は何でも知悉しているかのような容貌で福沢と森を見遣った。
「天人五衰の事であろう、心得ておる。」
「それだけではありません。連中は厄災兵器を使いこの街を焼却せんとしているのです。」
「うむ、それについても把握しておる。じゃがそれは二の次じゃ。先ずは基地に向かうぞ。」
「基地?…横浜軍警第五基地のことですか?」
森の問いに夏目は深く頷くことで返した。不穏な胸騒ぎに福沢と森は顔を見交わす。二人の脳裏に浮かぶのは一人の男。
そこに、一匹の白い野良猫がやってきた。夏目は目線を合わせるように屈まると白猫から何かを受け取る。それは一つの小さな記憶媒体だった。続いてにゃあにゃあと鳴いて何かを訴える白猫に夏目は渋面を作った。
「頭痛の種が芽吹く予感がする。…何をしておる、早く運転せい。」
Qが運転してきた車に乗り込むと夏目は一同を振り返った。
「あの天文学的に傍迷惑な平凡人を止めに行くぞ。」
「平凡人…」
「奴を止められるのですか?」
老人の皮肉か、超人を平凡人と呼んだ夏目に些か頬を引き攣らせる福沢と森。反して夏目は助手席に置かれたブラムを聖剣ごと掴んで後部座席の隣に置いた。
「いや、儂に奴の行いを止めることはできん。なんせ
「それは一体…。」
「じゃが、」
妙な物言いにすかさず尋ねようとした福沢を夏目は遮った。今さっき野良猫から受け取った記憶媒体を片手に掲げて、莞爾と笑って。
「奴の考えを改めさせることはできる。」
そう言い放ったのだった。