期末試験期間中の帰路は明るい。翌日の試験に備えろと教師は云うが、早々の帰宅が今更学力になんの影響をもたらしてくれようか。そんなことを思いながら、青年は憮然と透明の雨傘を差した。
瞼の裏に透ける赤い太陽は純白のポリエステルを易々と通り抜け目玉そのものをやけ焦がしてしまいそうなほどに輝いている。当然ながら月夜に提灯だった。そもそも今は梅雨時だろう、どうせあと数日後には世界を焼き尽くしてしまうような炎陽の出番はやってくるんだ、何も今から意気軒昂と精を出さずとも良いじゃないか。又、愚痴を声に乗せようとして結局青年は言葉を慎んだ。
幻影のようなプロミネンス、丸く大きな円形の中心にいるらしい不可視の三本足の烏…金烏…それらの何一つが視えなくとも、頭上高く慥かに存在する偉大な御天道様に泣訴したところで返ってくるのは灼熱の沈黙のみである。それこそが神の沈黙、自然を信仰たらしめる根幹なのだ。であればこのようなちっぽけな生命体が、被造物が五月雨の瑣末な願いを空に向かって届けんとする行為自体が凡愚である。
六月の上旬、来る夏期の手前に尚早に到来した蒸し暑さと学生特有の精神的圧迫感に見舞われ、ウジウジと不当な不満を並べ立てているが、つまるところ青年が言いたいのはこれに尽きる…。
「暑い。」
今度こそ豊は口に出して言った。
「あっつ、なんで梅雨なのに晴れてんだよ。いやあっつ。」
高校受験も来年に控えた中学の終わり、自他ともに志望校の合格は覆うべくもない確定された未来だと信じて疑わない豊にとって、学校の夏期休暇を控えた学期末試験など取るに足らないイベントだった。定例通り学校に通い三教科の試験を受けると、塾の時間まで時間があるからと汗で肌にぴったりと張り付いてしまった服を着替える為に家路に就いていたところであった。
幼少期から馴染んだ、路上のあらゆる障害物を瞼を閉ざしてでも避けれるくらいには慣れ親しんだ道のりを決まった歩幅で歩いていると、二、三角先から何かが聞こえてくる。
「...が……」
「……だ…ってし…よ、」
どうやら人の声のようだ。それも複数の男の。無理からぬことだ。先の小道はガラの悪い連中…主に不良学生が社会常識から外れた劣等な会議擬きを開ける公園を除いた数少ない集会場。どうせ今日も碌に学舎にも通わず各々の自慢の飾りつけたバットを片手に屯しているのだろう。毎度のように素知らぬふりで真っ直ぐにアスファルトを進もうとして、耳朶に触れた鳴き声に豊は足を止めた。
見慣れた通学路の路地裏、見飽きたチンピラ。ただ一つ馴染みがないのは田舎くさい不恰好で輪をつくる集団の中心にいる一匹の猫。黄朽葉色と黒鳶の明暗のはっきりした色合いを斑に体全体に広げた毛柄、複数の巨体に囲まれようと慄くどころか高尚な眼を隙間を縫ってこちらを射通す黒い瞳。それは不快な現場に直面した一学生ですらできぬ貫禄を秘めていた。
三毛猫だ。一匹の三毛猫が年甲斐のない不良どもに取り囲まれていたのだ。
しかし何故だろうか。咄嗟に歩みを止めた豊だったが、彼の鼓膜を揺さぶった束の間の混濁した鳴き声と彼の視界に映る猫とは到底同一とは思えぬ食い違いがあった。どうにも形容し難い、戦慄く小動物の鳴き声を耳にしたときのごく常識的な心の法則と実物を取り巻く印象との齟齬が、脳に不具合を起こしてしまいそうなほどに違和感を訴えていた。空気の一つ一つに纏う茹るような熱が頭に何らかの機能障害を起こしたのかもしれない、ぼんやりとそう思わずにはいられぬ奇妙な感覚が豊の喉仏まで差し迫っていた。額から頬を伝う一滴の塩が顎を離れると、ごくりと息を呑む。カラカラに渇いた喉は少しの唾液も流し通さなかった。
「とっととくたばれよぉ!」
に゛ゃア!!
一人の男が釘の刺さった趣味の悪いバットを振りかぶると、三毛猫は予期していたかのように身軽な身のこなしでそれを躱した。ごぉんと除夜の鐘のような立派な振動が男の腕に伝わると、忽ち腕を抑える男に他の不良が下卑た嗤いをあげた。その不愉快な騒音に豊は我に返る。もう我慢ならなかった。
「アンタら何してんだ!」
決して己が勇猛果敢であると感じたことはない、されど眼前で公然と成される悪事を看過できぬ倫理的な青年は己の身を顧みず集団の前に躍り出た。
「アア?なんだテメェは。」
「おいガキ、さっさと失せろ。」
輪に割り込んで三毛猫を抱き上げると豊は男たちを睨みあげる。如何なる道理があろうとも真昼間に堂々とよってたかって猫を嬲っていい筈がない。豊にとって彼等の行いは到底許し難い唾棄すべき所業であった。じりじりと詰め寄ってくる長躯に物怖じせずに豊は怒りを張り上げる。
「古代エジプトじゃ猫を殺したやつは死刑なんだぞ…!自分より弱いからって虐めるなんて見下げた奴らだな!」
もしかすると、西方砂漠の天空に坐する赫々たる化身が、遥か彼方の路地裏で最も小さき者を守護せんとする、これもまた小さき者に感銘を受けて邪な存在を辱めるために天晴れな勇気を陽射と共に降り注いだのかもしれない。しかしこの場においてこの勇気という健全な精神力は強靭な物理的現実には敵わないものである。
「なんだトォ?」
雑魚もかくやあらむの台詞で、別の男が一人の落としたバットを振りかぶった。年下の中学生に見下されたのが余程気に食わなかったらしい。
豊は勢いよく転がった。けれども三毛猫は決して離さない。脇腹に食い込んだ釘の丸頭が皮膚を貫かなかったのだけは幸いであった。
豊は面を上げるとキッと集団を睨め付ける。不思議なことに、肚のすわった青年の面相は、彼が数刻前に一種の怪奇を抱いた気高い小動物の目鼻立ちと瓜二つであった。不浄の一切を寄せ付けぬ尊い魂が頭部に、肩に、指先に、腰から足の先の隅々に渡るまでに如実に描かれていた。
そしてそんな信念のある眼に射竦められては粗末な野郎とて地歩がなくなるというもの。猫に続いて年下の人間の小生意気な視線に、おさまりの悪さが火の玉となり身体中を駆け抜けた男たちは後先考えずにそれぞれが手足と棍棒を豊へと向けた。豊は瞬間的に逃げ道となり得る隙間を探そうとして、鼠一匹逃さぬ肉壁の内にいることを早々に理会するとせめて腕の中の小さな命だけは救おうと強く抱きしめた。男たちの憤怒が接触する寸前、衷心から浮かび上がってきたのは一人の愛しい少女の面影だった——。
次に豊が瞼を開けると凡てが変わっていた。体感としては一秒、いや一分だったかもしれない。確実に無傷では済まない苦痛を受け入れる心構えを豊は確かに整えて待ち受けていたはずであった。
「…へ?」
…だというのにこの現状は何事か。
一、二、三…六……豊を取り囲んでいたはずの男たちはいつの間にか太々しい五体を熱を帯びたアスファルトに投げ出しているではないか。そしてもう一つ。
にゃあ。
自身が胸に抱いていたはずの猫がいつしか彼の腕から離れ小道沿いにある古ぼけた木扉の前でエジプト座りをしているのだ。そう、とりわけ道に面する店も家屋もない、感興すら沸かない袋小路の存在するはずがない扉の前で。
夢を視ているようだった。実際、豊は己の脳漿がこの梅雨の異常な蒸し暑さに幻覚を双眸に投影しているのではないかと二度三度瞼を擦った。だが事象に変化はない。どうやらこれはまごうことなき現実のようだ。
に゛ゃあ。
雄雄しい三毛猫がもう一度鳴いた。今度は何かを主張するように錆びついた取手と豊を交互に見上げながら強めな抑揚で。そこで豊はようやくその猫が扉の開錠を願っていることを悟った。猫と扉の前に立ち真鍮金具を見極めると鍵を探すが見当たらない。と、ピッキングをしようと代用品を探す視界に程よい重量のバットが留まるとそれを拾い上げる。そして、豊は大きくバットを振り下ろした。
ガシャン!
色のはげたアンティークの金具はあっさりと破壊を許して地面に転がった。
小道から差し込む肩幅ほどの光が内装を露わにすると、豊は時間旅行を経験するかのような心地に陥った。
扉の向こうに電燈はなく、壁の所々にヒビが入っている。今にも崩れ落ちそうな天井からは外から流れ込んできた微風に靡いて埃が落ちてきている。藁屋根と形容しても過言ではないほどに内装は老朽化していた。骨董品屋、或いは使われなくなった古い倉庫、数秒前に豊が壊した真鍮金具と似たり寄ったりのアンティーク調の家具が設られた場所だった。
一歩踏み入れれば、前人未踏の地に訪れたかのような、己がまるで古き良き時代の造形の名残りに無遠慮に及んでしまったかのような不屈とも大胆とも云うべき感情が一緒くたになって光と風と匂いに表れた。
「あれ、親爺?」
ふと、豊は先程まで足元に寄り添っていた小さき存在がいないことに気づいて当たりを見渡してみる。余談だが、親父というのは彼が三毛猫の純粋無垢な、それでいて威風堂々たる猫らしからぬ佇まいから速攻で名付けた渾名である。七坪ほどの室内の東から西に一直線に備え付けられた木製の重厚感のある三つの棚の上から下、隙間の隅々を覗いてみるが親爺はいない。流浪は猫にとって呼吸に等しい習性であると行き着くと豊は探すのを諦めた。きっと住処にでも帰ったのだろうと口端を仄かに緩めて。
「いつか恩返ししてくれよ、きっとだぞ。」
何処へ去ったかもわからぬ一日一善の成果にほんの僅かな好意への報いを願ったのだった。
その時、カタンと奥の方で音がした。あの恰幅のよい親爺が出しそうもない軽快な音色だった。
ポルダーガイストという単語が豊の脳裏に一瞬浮かぶ。しかし豊は即座にその心根を涼ませてくれそうな物の気の気配を振り払った。男たるもの聡明にして重厚、威厳にして謙沖であるべき。幽霊如きに動揺を起こしているようでは到底想い人を幸せにはできまい。三毛猫を助けた時の度胸を半減させて豊は恐る恐る軋む床を踏み締めた。
「…箱?」
その先にあったのは一個の箱だった。側面を新聞紙で貼り付けた随分と形崩れの紙箱、その蓋が風か何かで床に落ちてしまったようだ。勿論、生き霊の類の可能性をまだ四十パーセントほど胸裏に秘めていた年頃の青年はそれは大層胸を撫で下ろした。同時に彼は痛感した。真実とは蓋を開けば案外つまらぬものであると。 得体の知れない身に迫る予感が消え去ると、豊はすっかり善い気になって箱の中を覗き込んだ。そこには…
「なんだ、これ。」
手に取った一冊の本を豊はまじまじと観察してみる。純白のハードカバーに櫨染色の美しい装丁が施されたそれを捲ってみる。ぺらり、ペラリ。だがどれだけ捲っても中身は夜空の一点に浮かぶ月のように、混じりけのない雪白のように無垢な一面をみせた。
途端、本は魔力を放った。
物理的に見えない力が働いて、荘重な惑星や天体を取り巻く引き寄せの力が巨大なエネルギーの渦となり、抗いようのない引力の神秘が豊と本を概括して襲いかかったのだった。
豊は躊躇いもなく本を片手に持つと家屋を出た。
その後、平坦な壁が小道の対向と同様に蔓植物に覆われ、古ぼけた骨董品屋の痕跡が消滅していたことを、そも其処に古寂びた木扉があったことすら一人の青年と一匹の猫を除いて承知するものはいなかった。
それから数日後、憂鬱な梅雨と試験期間が明けると時期を同じくして休暇前の複数の行事を終わらせたキヨが豊の家にやってきた。
「アウトサイダーって知ってるか?」
「組織や団体の外の人、部外者、社会の枠にはまらない独特な思想の持主、社会から外れた孤立者、異端者。」
「そうそれ。」
間髪おかずに返された解に豊は満足げに頷いた。或る特定の話をする際に豊はきまって眉頭を持ち上げる奇怪な癖があった。キヨは嫌気が差すような心地が表に出るのを抑えて黙って言葉を待つ。こういう時は大抵厭世的な考えていても詮無いことを思いつくのが年頃の青年である。例えば…
「俺、アウトサイダーになりたい。」
後光を差さんばかりの時を得顔で言い放った豊にほらみろとキヨはチクチク言葉を思いのままに発散しようとして、やめた。美というものが内から滲みでるのであれば、同伴して表面化した毒舌は可憐な花弁ではなく茎に刺さる禍々しい荊棘になるであろう。聡明が肌艶に直結するならば辛辣な習慣は月毎にやってくる月経前のあの煩わしい吹き出物に違いない。であればこそ齢を重ねるにつれ大和撫子は言葉を慎むものである。とりわけ傍にいるだけで心の臓のあたりが不思議と温かくなるような幼馴染が相手であれば。...猶猶キヨも中学生、早熟ではあれど伸びかけの梢に止まる小鳥のような年頃の少女に恋うという純真なときめきに自覚がないのは仕様がないことだ。
「それで、どんなアウトサイダーになりたいのかしら。」
キヨは出来立ての紙飛行機を持ってきた幼な子を扱うように、豊に尋ねた。すると豊は待っていたとばかりに一枚の紙を鞄から取り出した。何やら文字が書き連ねられている。
「記念すべき最初の物語に文ストの世界を選んだんだ。まあちょっくら聞いてくれ。うーん、取り敢えず主人公はAにしよう。このAはある日本人も自覚してなかった異能の力で大戦時の戦場に現れるんだ。それで…」
弱一時間、豊の空想の全体像を聞き届けるとキヨは思った。意外と面白い。それもそのはず、文字を覚え始めた頃から豊は度々頭が描く空想を文字に書き起こしてはキヨに読ませていたのである。駄作半分、傑作半分の出来栄えだったが。兎も角、豊の話を聞き終えるや否やキヨは暑い季節に備えて顎の位置までバッサリと切り落とした髪の先端をサラリと甲で撫でた。
「良いと思うわ。折角なら本にでも書いてみれば。」
キヨにしては珍しい賛美に豊は天にも昇る心地になった。そしてゴソゴソと鞄から新たな物を取り出す。一冊の本を。
「これさ、こないだ××町の裏道で拾ったもんなんだけど…」
そういって豊は語り始めた。やけに猫らしくない三毛猫との出会い、不良の集団、突如現れて消えた謎の家屋。キヨは彼の話を懐疑的に聞いていた。無理からぬことだ、一体現実的な少女が如何やって小説や映画の中だけで起こりうる超常現象を信じることができようか。代わりにキヨの関心を引いたのは三毛猫の為に果敢に大人に立ち向かった豊の武勇伝だった。彼は確かに勲章を脇腹に残していた。それは乙女の女心を悪戯に擽り、気を揉ませるには十分で。
「貴方、ちょっと鈍臭いところあるから気をつけなさい。勿論猫を助けたのは素晴らしいけど、次からは警察に通報するとか非衝動的な行動を取らないと次こそ大怪我を負うかもしれないわよ。」
「心配してくれてんのか?」
「...別に。」
真意を読み取られると極端に言葉数が少なくなるのはキヨの癖であった。
「ありがとな!次から気をつけるよ!」
満足そうに白い歯を見せて笑う豊に、キヨも月に咲く花のように口元を優しく綻ばせた。
その晩、豊は早速執筆を始めた。戦場に突として舞い降りた一人のアウトサイダーの物語を。白紙の本は新たな主人公の紡ぐ一言一句が滲んでいくのを只沈黙のうちに受け入れた。
この日、この場所で凡ては始まった。