走れども走れどもゴールはない。ゴールはないが鬼はいる。鞭を打たれた馬のように手足を全力で交代させながら背後を見返れば…血走った般若の能面を無理矢理微笑に変えたかのような形相で鬼は追跡してくる。
鬼ごっこって、こんなに命懸けだったっけ。辻村は余裕のない頭でぽつりと疑問を呈した。
「ぎゃあああ!」
「あれは拙いあれは拙いあれは拙い…!」
雄牛が首を絞められているような絶叫をあげながら辻村は失踪していた。生憎女らしさは鬼ごとを始めた直後、基地に置いてきてしまった。彼女の隣を並走しているのは、同じく異常事態に冷静さを欠き溢れんばかりの冷や汗を滲ませる国木田。鬼気迫るとはこのことを云うのだと妙に納得してしまう自分がいた。
何を隠そう、二人の後を気が触れたカバのような獰猛さで追いかけるその人物は条野であった。軍警基地の外周をぐるりと周回すること十数回目、鬼の足跡がコンクリートに亀裂を走らせるほどには彼等は駆け続けていた。鬼ごとが次第に周回リレーへと種目を変じてきていた。無論、決して追い付かれてはならない命懸けのリレーだ。
遡及すれば暫く前に辻村が条野を盛大に煽ったのが発端であった。
地下へと続く唯一の入り口を塞ぐ条野、三手先を読み通すことのできる江戸川と太宰、そして穎才な綾辻の考案で万が一にも敵が出入口を封鎖するような事態になればなんとしてでも阻止するようにと国木田と辻村は大任を任されていた。そして探偵二人と自殺愛好家の見込み通り、最も厄介な猟犬が二人の前に立ち塞がった。ある意味事前に予想した範囲の状況に辻村と国木田は顔を見合わせた。正念場はここから、想像したくもないが腕の一本や二本を犠牲にしてでも条野の気を江戸川たち、ひいてはグレイから逸らす必要があった。そこで辻村が一つの迷案を発起した。…後になり反省しようともこの時に講じられた措置はそれしかなかったと国木田も諒解している。
案と云うのは、辻村名付けて『条野を煽り散らかそう』作戦である。いわば条野の敷き詰まった地雷の上でブレイクダンスを決めれば善いのだ。それによって条野の関心を地下から二人へと移行させることが目的だった。が、少々怒らせすぎたようだ。
条野の忠誠心を怪訝するばかりか、グレイの器量を罵り挙げ句の果てには小学生並みの程度の低い悪口三昧。流石に煽りすぎではと国木田が間に入ろうとした時には遅かった。
ー殺す。
純粋な殺意を軍刀に掲げて条野は襲ってきた。条野のグレイに対する狂気的なまでの信仰と純情を冒涜した辻村と国木田...煽り立てたのは主に辻村だが....の過失であった。
鎖を引きちぎった猟犬から逃げる為代わり映えのない景色をループすること彼此十数分、僅かに追手と間隔が生じるのを尻目に確認すると二人は付近の三階建てのビルへと駆け込んだ。
定休日であるからか、もぬけの殻の三階の最奥のオフィスらしきへやに辿り着くと辻村はばたりと力が抜けたように座り込む。酷い疲労に肩で喘ぐと暮夜の下のいくつかの建築物の輪郭が透明なガラス越しに視界に入ってくる。息を荒らげる辻村の傍らで国木田は前のめりに膝についた両腕で上半身を支えた。普段より体育会系の仕事を請け負う武装探偵社だが、二十歳を超えてからの勁烈や鬼ごっこは精神的にも肉体的にもくるものがある。探偵社に入社したことは後悔してないが平穏な数学教師の過去を懐かしむくらいには疲弊していた。
「はぁはぁ、ここまで来れば..」
「追いつきました。」
「ぎゃあああ!?」
「うおおおおお!?」
ここまで来れば、身を潜めていれば居場所は明かせまいと座り込もうとして、突如闇に溶け込んだ下り階段から忍び寄った悪鬼に二人は忽ち慄いた。
「嘘、息切れてない!?あの人サイボーグかなんかですか!?」
「そんな悠長なこと言ってる場合か!立てっ逃げるぞ!」
驚愕を超えて感嘆を零す辻村に顔面を青白くさせた国木田が腕を引いて立たせる。ガシャァンと強力な肘で窓ガラスを割って、骨折御免と窓から飛び降りようとしたその時だった。
「ッグ、」
「国木田さんっ!」
「お前は行け...!」
ぞくりと怖気を感じて直ちに辻村を突き飛ばすと、代わりに腹に澄んだ一太刀で貫かれた国木田が苦悶を漏らす。辻村は直ぐに駆け寄ろうとして国木田に制されると唇を噛み締めた。
辻村には決意があった。公的機関の歯車として国家の秩序の崩壊という己の根幹すらも揺らぎかねない一大事に命を賭す所存であった。それは母の死後訓練学校を経て特務課に採用されてからも、綾辻の監視役を担った時も、そして今も普遍の心意気。故に彼女にとってグレイの悪しき陰謀も、それを支持する条野の忠義も断じて許し難いものだった。ここで己が大人しく死を受け入れ国木田のみを救おうとも目前の怒れる猟犬は見逃さないだろう。辻村は偉業の一助となることも叶わずに果てることになる。何より呆気なく一人退散しても国木田の犠牲は相応しくない。残された道など端から一つしかなかった。
「......................。」
「辻村っ、」
「おや、もう逃げるのは諦めたので?」
腰に携帯した銃を取り出すと辻村は国木田の前に立つ。銃口は正確に条野の急所を捉えていた。
「逃げる?冗談言わないで。尻尾を巻いて逃げ出すのは....貴方です!」
バンッ! 乾いた銃声が響いた。
殺意のない、しかし心臓を定めた凶弾が真っ直ぐに回転しながら条野へと迸った。刹那、辻村の異能が発動した。
「ッ、」
弾丸を斬り落とした条野は続けざまに強襲してきた重々しい一撃をすんでのところで受け止めた。新たな重撃は一梃の鎌とともに訪れた。
「影の仔ですか。小賢しいことを。」
「出た....出てきてくれた...?」
幾度となく命令を下しても一度として追従することはなかった影の仔は彼女の母の命令に従い、辻村が殺そうとしている対象をその直前に殺すべく鎌を振るった。だが、超越した戦闘力を有する条野は難なく攻撃を防いだ。更に連続的に繰り出される影の仔の攻めの手に条野は数歩ずつ引き下がりながらも軍刀を交えて応戦する。その間辻村は自身の異能生命体が影に戻ってしまわぬよう断続的に発砲していた。弾倉を交換し粗方撃ち続けると、益々影の仔が勢いを増しているのを確認して腹を押さえて屈み込む国木田をの片腕を引っ張り上げた。
「うっ、」
「国木田さん、しっかり捕まってください。」
逃げるなら今の内。隙をついて今度こそ窓から退避しようとして国木田の腕を首に回して…。
「辻村っ避けろ!!」
「ぇ」
肺腑を抉る掛声に辻村は小さな惑いを漏らした。前触れもなく彼女の眼球の寸前に、一振りの刀の先端が。間に合わ——
カキン、
俄に押し寄せた胸への衝撃に耐えられず辻村は国木田を手放して流れのままに後退した。と、誰かに肩を受け止められる感覚に辻村は面を振り返らせる。するとそこにはコントラストな髪色の頭部に山高帽を深く被りインバネスコートを羽織った初老の男が、そして彼女を支えたのは…
「貴方はポートマフィアの…」
「怪我はないかね。」
「え?あ、はい。」
深紅の瞳を儀礼的に三日月型に緩めた森に辻村と国木田は困惑に顔を見合わせる。そこに、剣戟が鳴り響いたことで二人は即座に視線を正面に戻して、条野と兵刃を交えているもう一人に大層喫驚した。
「社長!」
数度斬り合って悉く攻撃が阻まれると二人はザザと退いて柄を握り直す。
「これはこれは、大仰なお出迎えですね。」
構えの体勢を保ち小隙を見せずに条野が紡ぐと、夏目が福沢の前に出た。
「小僧、そこまでにしておけ。」
「夏目殿。」
意外な人物の登場に然しもの条野も黙り込んだ。と云うのも、彼は以前グレイと夏目の面会の席に立ち会ったことがあるために、自身の上司が敬意を払う相手を無下にすることはできなかったのだ。再び攻撃を試みることはなくとも、刃を納めない条野に夏目は再度言葉を投げかける。
「早く仕舞わんか。老耄とはいえ客人の細やかな望みを捨て置くでない。」
客人、即ちグレイへの来訪を包容する言葉に条野はしばし思考を巡らせるとやがて刀身を鞘へと収めた。それを見届けると福沢も刀を元に戻す。条野は夏目に一礼した。
「どうか無礼をお許しください。」
「構わん、奴は何処におる。」
「…グレイは現在取り込み中ですが、呼んで参りましょうか。」
「いや、儂が直接行く。」
「畏まりました。」
今頃グレイが地下で何をしているのか、別れ際に瞳孔の開き切った眼光を目にしてしまえば既に手遅れと思わざるを得ない条野であったが、客人の意思を尊重して彼等を案内するべく静かに踵を返した。
*
丁度軍警基地で国木田と辻村、そして条野の追跡劇が始まった頃、横浜内のとあるヘリポートでは毛色の異なる一幕が展開していた。
空の長旅を終え東北で飛行機からヘリコプターに乗り換えた太宰、中原、シグマは集合場所に最も近いヘリポートに向かったところで予期せぬ刺客により喜ばしくない接待を受けることとなった。欧州列強屈指の異能組織、時計塔の従騎士による急襲だ。ムルソー収監中の坂口との秘密のやり取りでは彼の組織が大指令の封印解除に最も意欲的であったという話も、実際に掘の外に逃げ果せてからの世間の雑音からも仄聞していた。
太宰自身、異能組織の総本山の一角とも謳われる時計塔が此度の戦争に参戦する可能性はなきしにもあらずと読んでいた。だが白紙の本そのものではなく一切れの頁という不確定要素が天人五衰の謀計の基幹であるが故に、極東の一指揮官に組織の存続を委ねる局面になりかねない計画への依存は敬遠される見込みの方が高いとも踏んでいたのだ。その為、時計塔の直接的な奇襲は太宰にとっても完全の予想外であった。
銃が火を噴く衝撃音、異能により時空が圧縮される音波、大小多様な武器が衝突し合う音響…。
「頑張れ中也ー!ほらシグマも応援しないと…!」
「が、頑張れ…?」
「巫山戯んなテメエら!あとでぶっ殺す!」
「俺は悪くないぞ!」
目を逆立てて異能を駆使するポートマフィアの幹部と律儀に彼の悪態に反応する元天人五衰の一員、そして百人以上に及ぶ時計塔の戦闘員たちの中から漏れ出るようにやってくる複数の下っ端らしき者達を蹴散らしながら太宰は思惟する。
強欲を極めた悪魔の如き秘密結社でありながら獲物を手にいれる寸前までは人畜無害な鹿の皮を被ったチーターのように思慮深い上層部が万場一致で天人五衰の為に人員を派遣する決断を下したとは考えにくい。であれば残る推理のうち最も有効なものは…。組合戦の際にも死の家の鼠と組合の頭領と密談を開催した一際狡辛い騎士団長、クリスティの妖気が異能戦争という陰翳に朧げに浮遊してくると太宰は無言の吐息を漏らした。
「これは愈々面倒くさくなってきたねぇ。」
『そこまで!』
そんな時、イギリス英語と認識するには些か古すぎるウェールズ語の調が囂々とした空気を貫いた。
一同がピタリと動きを止めると乱雑した群衆の中から中年くらいの男が姿を見せる。いかにも時計塔らしい、十七世紀初頭のイギリスの貿易会社がアジア各地に活発に派遣した兵士の絵画にでも描写されていそうな制服を着こなした男だった。男の歩みに合わせて続々と道を開ける下の者たちに太宰たちはこの人物こそがこの戦場における責任者であると理解する。カツ、カツと歩みを進めて男は三人から十歩ほど離れた位置で直立すると一人一人と目線を合わせ、そして優雅に笑った。
「やあ初めまして、私はジョージという。気軽にジョーと呼んでくれたまえ。」
コントラバスのような地面から唸る低音が言葉を紡ぐと中原たちは思った。
ーこいつ、風邪でも引いてんのか。
或いはフィッシュアンドチップスにタバスコをかけすぎて喉がお陀仏になってしまったのかもしれない。どうであれ、酷い濁声の男は当方の内心に汲み取ることなく話を続ける。
「素晴らしい!実に傑出した能力をお持ちのようだね、特にそこのポートマフィアの少年兵。」
「ア゛ア?」
「クスッ、中也君少年だって…ねぇねぇ少年だって。」
「ふ、ふふ。」
「重力で押し潰すぞ…。」
忌諱に触れて色をなす中原は甚だしい憤りに震えている。拳を握り込み今にも自ら汚辱を発動しそうな中原を太宰は盛大に焚き附け、シグマは直ちに閉口し空気を纏った。陰険さを情調させる少年兵にジョージはさっさと興醒めすると本題に入った。
「私がお仕えするやんごとなきお方が君たちのような有能な人材を欲していてね、どうだい?この際探偵社もポートマフィアも捨てて我々の元へ来ないかい?」
「つまり貴方は私達に寝返ろと言ってるのかな。」
「否定はしないな。」
「猶予は?」
「ミスター太宰、君ほどの頭脳ならばその先は言わずとも判るだろう。」
要するに寝返るか降参するかの何れかを選ばなければこの辺鄙なヘリポートを最期に不帰の人となる、ジョージは上司に似た化け狐のような薄気味悪い薄笑いを浮かべて暗示していた。それに対する三人の返答は言うべくもあらず。
「断る。」
口を開いた太宰に被さるように中原が食い気味に答えた。彼には波瀾万丈を乗り越えた末に恭順の意を示した森が存在していた。太宰とて、吐き気を催すほどに黒く血塗られた過去を超克し見出した居場所がある。シグマは…彼はカジノの喪失のショックから抜け出せていないのに加え単純に濁声のイギリス人の配下に下るのだけは御免被りたかった。とこのように、特にコンプレックスをストレートに刺激された中原が速やかに拒絶の意を表すとジョージは一瞬噤んだ。
「良いのかい?破格の待遇を用意しているというのに。」
「何度も言わせんじゃねえ、却下だ。耳糞が詰まってんなら掃除しろやカス。」
何か酷く穢らわしいものでも卑しめる絶対零度の双眸に流石のジョージも頬を引き攣らせる。度重なる難事に限界値を超えた不快感に追随するように中原の煽り能力は満点に達していた。交渉は決裂、ともあれ元より成立するなどとは思ってもいなかったジョージは特段窮することもなく、寧ろクリスティの指示に背いて敵を殲滅する大義名分ができたと奸佞の愉楽を染み入らせていた。ジョージは紳士に似つかわしくない油ぎった太い指と連なる手を緩慢に持ち上げる。時計塔からの栄誉ある提案を一蹴した賊を討伐せんと掌が顔の位置に到達した瞬間が合図だ。対する太宰たちは先程の小手調べではない、本格的な戦闘の気配を感じて構えの姿勢をとる。そして、ジョージの手が狼煙を今にもあげようとした瞬間。
「ヤァ!」
「ゲェエェ!?」
何処からか横殴りに飛び込んできた両脚にジョージは吹っ飛んだ。それはもう盛大に、華麗に、芸術的に。
ージ、ジョーが蝦蟇みたいな奇声をあげて飛んだ…!
誠実に男の渾名を記憶していた外見大人の三歳児は度肝を抜かれた。シグマとして産声をあげて以来、人生は良くも悪くも驚きの連続である。
遠方で尚も煙を立ち昇らせる追突したヘリコプターに曲線を描いて衝突したジョージ、第三勢力が現れたのかと中原は乱入者を見遣って唖然とした。
「なあ兄貴、俺勢いで蹴っちまったけどあれ人間だったか?なんか蛙みてえな汚ぇ鳴き声したんだけど。」
「うーん、大丈夫じゃないかな。蛙系の異能力者かもしれない。」
「そっか!だよな!」
漸く現場に駆けつけた春蝉と道造、そして鏡花に太宰は待ち侘びていたとばかりに両腕を広げた。
「遅れてごめん。」
「やぁ、鏡花ちゃん、それと立原兄弟。気に止むことはない、私達も丁度ジョージに退場願おうと思っていたところさ。ナイスタイミングだ。」
予めかけておいた保険の成果が発揮されると、終始鷹揚な態度を貫いていた太宰に、シグマと中原はこの自殺愛好家がせめて俊傑であったことをつくづく感謝した。ジョージは予期せぬドロップキックから回復してないものの上司の意を汲んで配下の者達が六人を囲んだ。依然として戦力比はかけ離れているが最上級の戦闘員が加わったことにより相殺していた。これで心置きなく暴れられるというもの、と血の気の荒い中原と兄との共闘の機会に心を躍らせる道造。
「一六〇の恨みィ!!」
「俺が一番乗だっ!」
意気盛んな二人が早速集団に突入すると、寸秒置いて困惑げな鏡花と失笑気味の春蝉が参戦した。そんな彼等を見送ったシグマは非戦闘員の自分も助太刀すべきかと逡巡して、
「るるるる心中はー、一人じゃ出来ないー…ウォウウォウ、」
地面に座り込み世にも卦体な心中の歌を歌い始めた太宰を後方に認めて自らも腰を下ろしたのだった。