脱税、汚職、ブラックビジネス、窃盗、買春…二十五兆円もの利益を生み出し国内GDPの規模にして十・八にも上る非公式経済活動を地下経済という。税務当局の監視が及ばぬ途方もない大金はなにも世界の昏い片隅で無貯蔵に湧き出てくるわけではない。政策により移民溢れる大都市で、繁華街に、旅行代理店に、風俗産業に、貧困ビジネスに、或いは行政警察活動に…ありとあらゆる人間社会の循環体系に小市民が出処の知る由のない金が周り、経済が回っている。清濁錯綜する営利局面に明白な甄別などもはやあらず、不透明な授受が日常を形成している。大多数の公民が己が日々取り交わす紙切れの源に行方に関心を示すことなく平和を享受しているのだ。
自由主義や共産主義、資本主義等の現代イデオロギーが都市経済の八点を促進する現代社会において国家と人権と法と正義に則り見過ぎする市井人らの日常の裏側で、アングラビジネスが堂々横行する腐敗の温床たるゴッサムシティの如き大都市が日本の首都圏に隣接して存在していた。それこそが曲直正邪併存の地、魔都横濱。これは、安穏の鐘と租界の不協和音が鳴り響く港湾都市に蠢く激動の芽生えの序言である。
——湿っぽく陰鬱とした空気が充満している。コンクリート打ちっぱなしの無機質な壁面が百平方メートルの敷地を他所他所しく囲うている。たった一台の空調の稼働が空間の至るところに結露を生じており、内部に夥しく繁殖するカビ臭さが充満している。それのみならず、煙感知器の不在を好都合とばかりに視界を不良にさせるほどに立ち込める紫煙が夏だか冬だか分からぬ根暗な重苦しさを助長させていた。
四方の壁に付き添う檻の中に襤褸切れを纏うた少年少女が啜り泣いている。留まるところを知らぬ宇宙の膨張の如き啼泣に、餌を求めて徘徊する溝鼠が地面を湿らす塩分にさぞ期待外れとばかりの小走りで闇へと消えていった。
「ロイヤルフラッシュだ。」
「はあ?ふざけんな絶対ェイカサマだろ!」
不潔の熱帯樹のような鬱蒼とした地下室の中心で、無垢な子供らの怖れを雑音と変わらぬ認識でポーカーに勤しむ男達がいた。
十人のうち誰も彼もが目を見張るほどに逞しく、暗闇に灯る一本の蝋燭灯に反射する鋼に等しき体躯が炎の揺らぎの度に空間を忽ち地下牢へと仕立てあげていた。何においても肩に刺繍された英国屈指の傭兵の身分を証明する紋章は身分の特異性を助長させていた。
「ハッ!運が良すぎんのも考えモンだな」
三戦を通して搾取を味わい尽くした男が怒髪天を衝いて荒々しく椅子をテーブルを蹴り上げる。ロイヤルフラッシュが皮肉にも華麗に舞い上がった。金髪を靡かせる勝者は手元に募った皺だらけの札束だけは手放さず、色をなす敗者の形相を鼻であしらうと噛みタバコを地面に吹き飛ばした。さもありなん、彼の侮辱的態度に益々苛立ちを募らせた男は仲間に代わって咽び泣く檻の向こうに唾を飛ばした。
「るっせえな、少しくらい黙ってらんねェのか!餓鬼ども!」
「おいおい、大事な商品に当たるな大人気ないぞ。」
静かになった。狂気が伝播する。
数秒を置かずして、更なる嗚咽が湧き上がる。堪え切れぬ恐怖に面輪を引き攣らせる幼子の口をすかさず傍の少年が抑えるも時既に遅し。到頭堪忍を知らぬ男は憤懣やる方なしと拳銃を取り出した。貴重な収入源の損害を危惧して、終始傍観を貫いていた周囲も腰を上げる。だが男は仲間の制止に耳を傾けるどころか煙たい室内で方角も定めずに銃口に火を吹かせんとした。
…直後、一発の銃声が響めいた。かつてない狂乱が四方で肥大する。責任者不在の最中の大失態が脳裏を過り男達の間を緊迫が駆け巡る。
「テメェ、イかれちまったのか!」素早く暴走を収めんと一人が胸ぐらを掴み上げて、
「カ…ゴォ…」
しかし目睫の間に迫った己の顔面に吐き散らされたものに硬直した。
臭い。何度も匂ったことのある臭さだ。それは有害なニコチンでも、秘密の地下室に充満する子供の涙と汚物の匂いでも、況してやコンクリートの床を這いずる醜き溝鼠でもない。一ヶ月前までは香水のように浴びてきた鉄と錆が朽ちた生臭さだ。
「規律を守れん屑など道端の物乞いにも劣る。」
「大尉!」
空気を振動させる程に深みのある声調が突として空間に放たれた。傭兵らは弾けるようにして敬礼する。一人だけが制服を衣擦れさせて地面に斃れた。なんとも呆気ない末路である。
大尉と呼称され最大限の敬意を注がれた壮年の男は、死んだ傭兵をさも賤しい汚物を見るかの目で一瞥すると空白となった椅子に腰掛けた。
炎上中の動物園もかくやの周囲を見渡し商品の状態を見定める。情の一切を介さぬ面持ちで一人の齢五歳ほどの少女の右腕に微かな擦り傷を発見すると、詮無いとばかりの超嘆息を吐き出した。真隣の部下がたじろいだ。「棄却」一言そう呟くと、カビ臭さを掻き消さんと一等の葉巻に火を点ける。
ギィ、アルミ製の粗雑な檻が無遠慮な開閉に非難めいた歯軋りをした。決死の抵抗も虚しく欠陥品となった哀れな少女は金髪の男に引き摺られて煙の闇の向こうへと消えていった。
「今し方、取引先が連絡を寄越してきた。」
際限なく増大し続ける絶望の満ち満ちる地下室で、金髪の男の程ない帰還を待ってから大尉は口火を切った。
「「取引のメールが外部に漏れた為先手を打った。近く特務課が探りを入れるだろう」とな。」
「特務課つったら非公式の異能力警察じゃないですか。他国ならともかく、
「怖気付いてんのか?所詮寄せ集めのイエローモンキーに過ぎん、柔軟体操にすらならんねェよ。」
「元SAS対異能部隊の実力を見せつけてやろうぜ。」
SAS、それは英国陸軍が誇る少数精鋭の特殊部隊、その中でも抜きん出て秘匿性の高い対異能力実働体は僅か五部隊の少数精鋭部署である。かつてはイギリス国内の国家警察的な役割も果たし、一時は日本に換言すると特高の異端活動に匹敵する情報と権力を有していた特殊セクターだった。それが約十五年前の異能大戦後を経て国家権力の再改革が進捗する中で中央政権的な組織弾圧の力が及び極度に縮小するに至った。その後、特殊部隊の支持者諸共政界から追放され過去の遺物となりかけた部署は、解散寸前の連合参謀本部の議定により大多数が異能力者占められる時計塔の従騎士の管轄下に天下りすることとなった。詰まるところ、いくら戦時最大の憲兵的役割を果たしたとはいえ異能者の認知が拡大した現代において精鋭の非異能者部隊はお役御免とされたのだ。
偉大なるイギリス帝国の実質的な影の守護者の権威を奪われ、剰え左遷の出向を命じられた秘密部署隊員らの痛烈な屈辱と復讐心は筆舌に尽くし難いものであろう。新体制の導入以来息の詰まるような険悪な関係を引き摺ること早数年、苛烈な支配体制を存立してきた最高峰の特殊部隊を蔑ろにして彗星の如く存在感を強め始めた異能力者ら——たとえ時計塔の騎士団に由緒があるとはいえ——と和する道を択んだ為政者を彼等は赦すことができなかった。そして昨今、長きに渡り中枢と権力の相克を続けてきたSAS対異能部隊は国との対立を決意した。国防を最大の目的として防衛の主戦力に据え置かれた時計塔に反して、彼等はどう足掻こうとも権威主義の骨頂だったのだ。とりもなおさず、当部署が長年に渡り固執してきた強権性、弾圧性、統制性が顕在化しただけの展開である。
非異能力者とはいえ、遡っては対異能力兵との戦闘、ないしは国家警察として急先鋒を務めた精鋭を容易く捕縛することは叶わず…時計塔の従騎士からの追跡を躱した五部隊は世界へと散らばり国際武装ゲリラ専門傭兵及びテロ組織としての脅威を振るい始めたのだった。爾後、書いた物事が現実化する異能の本が街の何処かに封印されていると噂される横濱に至るまでの経緯は諸述するまでもなかろう。尤も、イギリス脱出時に相手取った追手が時計塔の階層においては中層の異能者部隊に過ぎぬことなど彼等は知る由もない。
「先方の要請により俺は取引先の護衛へと回る。貴君らは引き続き
「アイ、サー!」
規則正しく前腕から手先を一直線に掲げると、ポーカーに感けた先刻の濫りがわしさはどこへいったのか、傭兵達は各々の持ち場へ戻っていった。
隊員の身分を剥奪されようとも栄華を手放さぬとばかりの威勢の良い背中を見送るうちに、大尉の拳は固く握られた。
己らの存在意義が国家機構そのものから乖離し、かつて自分達が断罪せしめた傭兵の身分へと成り下がろうとも…概念的精緻化を怠った自国の民衆にイギリス帝国の瑕疵だと漫罵されようとも。何においても母国を見棄て、己こそが新時代の聖ゲオルギウス成り得る蓋然性に賭けてくれた同胞に応えるためにも。大戦終結後に襤褸雑巾のように影の守護者の崇高を踏み躙ってみせた厭わしき新体制に、そして居場所を奪いせしめた時計塔の従騎士に必ずや報復を果たさねばならぬ。
「荒場での実務経験すらない異能など無力なごまめに過ぎん。不透明な超常現象なんぞを盲信する国政など笑止千万、今こそ我々が白紙の書で輝かしいイギリス帝国の権威を取り戻してみせよう。今に見ていろよクリスティ…薄汚い陰売め。」
大尉にとって唯一憂慮すべきは昨今巷間に広まりつつあるとある男の芳しくない噂。
脳裏を克明に過ぎるのは、かつてSAS部署が健在だった頃のゲリラ討伐任務にて遭遇した東洋人。出会い頭に互いに標的と認識した両者は凄まじい交戦に至った。…忘れもしない地獄絵図。予兆なく火炎に包まれる修羅場、もうもうと空を覆い尽くす黒煙が幾許か鎮まり取り戻しつつあった視界の限りに映り込んだ光景。焼け野原に転がるのは敵味方の判別もつかぬ焼死体の夥しい苦悶の念、数十ヤード離れた場所に佇む敵。その背後で到着したての一機の攻撃ヘリコプターが墜落し木っ端微塵に爆裂した。イギリス帝国の治安の元締めとして猖獗極める島国で、ある時は戦野で目覚ましい功績を残してきた複数部隊があっという間に壊滅状態へと追い込まれたのだ。
それから数年後、横濱における秘密工作の任務に就いていた男は致死的な活動を展開していた過激派異能組織と現地犯罪組織との対立の最中にその者との二度目の再会を果たした。間断なく熾烈な戦闘が火蓋を切ったものの、片や一人の異能力者だというのにも関わらず僅か数分足らずで援助部隊が迎撃され彼等は敗走へと追いやられた。
——お前はイギリス人か?
他者の汗と血で塗れた擦り傷一つない能面が茜色に陽炎の如く揺らめいた。二挺の銃を駆使した男は使い物にならなくなった一挺を恰も子供のおもちゃを弄るように回転させながら、足を潰された男に問うた。あの瞬間に男を襲った得体の知れぬ、何か深淵からじわりじわりと這い上がってくる怖気を如何に形容できようか。究極の脅威を目前にして研ぎ澄まされた生存本能が死に物狂いの遁走をう促なければ今頃は表面上の大尉の身分は中級士官あたりに昇進していただろう。尤も、物言わぬ亡骸が地面に埋ずもれているだけであるが。
——もし奴が本当にこの地にいるのならば…あるいは此度の任務に
そこまで考え至り、男は煩慮を払拭するように頭を振った。今回の取引の結果次第では彼等は日本での大きな後ろ盾を得られることになる。そしてそれは彼等が愛した島国へと凱旋する為の足掛かりになるであろう。それ故に、
「何があろうと失敗は許されん。」
緊張感を帯びた声色が依然として煙の濃厚な地下室に静かに溶け入った。自身を奮い立たせるように、もう一度呟くと大尉は其処を後にした。
…事もあろうに、彼が見限った本国の行政機関の女狐が災厄の嵐を呼び起こしていたなどとは夢想だに及ばずに。