ガタンと物が動く音が頭上から聞こえてくると、居ても立ってもいられなくなり刀を片手に階段を登ろうとした福沢を森が止めた。
「…しかしいくら先生でも護衛の一人もつけずにあの男と対面するのは些か危険がすぎる。」
「あの夏目先生が問題ないと仰ったのです。ここは悠揚に構えていればよろしいでしょう。」
森が断言すると、福沢は少し躊躇ったものの壁にもたれ掛かった。探偵社、マフィア、特務課…三刻構想を実現させた男の逸話は福沢も森も知悉している。一言で表すならば、夏目はおっかないのである。もっともなことだ、神出鬼没の異能者が威儀の一片もなければ如何様に横浜の安寧を導いたというのか。おいそれとはいかない関門を相入れない者達を伴い潜り抜けてみせたからこそ男は伝説なのだ。
そこに、階段を上がってくる足音が響いた。
「どうやら間に合ったようだね。」
「ただいま。」
「鏡花ちゃん!それに太宰さんも…!」
頭頂部から徐々に輪郭を模った人影を目にするや否や敦は駆け寄った。激しい戦闘で若干ずれてしまった帯を元の位置に戻すと、鏡花は敦に微笑んだ。それから二人の後ろから姿を見せたのは太宰、中原、シグマ、そして立原兄弟。中原は森の姿を目に留めると即座に歩み寄って帽子を胸に当てて礼を示した。
「首領。」
「中也君、息災で何よりだ。今後ともポートマフィアに奉じてくれたまえ。」
「はい。」
森と中原の数歩ほど離れたところでは福沢が太宰たちにある眼差しを送っていた。情に乏しい面相の、しかし部下の安穏を確かめるような穏やかな眼差しだ。 そして探偵社とマフィアに含まれない部外者数名は...。 条野がいると聞き警戒していた春蝉だったが、当の本人はグレイに任じられた子守の役を全うせんとラケットを軽々と振り回しているので気抜けすることとなった。
「シュンゼン。」
「ルーシー、グレイに撃たれたって聞いたけど...」
「あんなのかすり傷よ。」
与謝野の治療で健康的な肉体を取り戻したルーシーはバトミントンで遊ぶ文とQと条野を眺めながら返した。
「それに手加減されたし....。」
言葉にした途端、忽ち脳裏に浮かび上がった元保護者の敵対者としての惨たる迫力にルーシーの衷心から冷たいものが込み上げ、目頭に達すると生温かい怖気となり視界をぐにゃりと歪ませた。
「うわあああん!怖かったよぉぉ…」
「そうだね、怖かったね。よく頑張った。」
押し留めていた緊張が堰を切って子供のように泣き出すルーシーを春蝉はあやすようにそっと抱きしめた。彼の背後では道造があわあわと所在なさげに両手を空で動かしている様子を綾辻や江戸川をはじめとした大人組は和やかに見守っていた。
そんな時、四足分の靴音が登り階段から迫ってくる。全員が語らいを止め上階から降りてくる気配に注目を注いだ。
カツリ、カツン。手足が痺れるような緊張感が静寂として降り落ちると誰もが微動だにせず男の一挙手一投足を精察している。隣り合うように並んで二階の床を踏み締めると、夏目の視線に促されたグレイは一同を見渡した。一歩、また一歩と歩みを進めるとグレイは江戸川の元まで接近する。案じて得物に手をかけようとした福沢を夏目は制した。どうやら心配は不要のようだ。
月明かりと部屋の隅の小さなスタンドランプだけが頼りの暗がりで、自らに歩み寄ってきたグレイの目鼻立ちがはっきりと捉えられるようになると、江戸川と彼の背後に立っていた数人は目を見開かせた。温白色の仄灯りが寂然とした光の筋を斜めに投影すると、男の笑窪と唇の境界線に深くも浅くもない傷を照らし出した。柘榴の粒のような赤が形を保てなくなり絹糸の細さになって肌を滴るとグレイはもうハンカチを取り出さずに手の甲で拭った。グレイを疵付けた夏目に対する畏怖、何よりもグレイがそれを受け入れたこと、そして彼に赤い血が通っていたという驚動。程度の差はあれど全員が本来ならば眼前にすることも叶わない現象に魂消た。
「完敗だ、最終手段に夏目を引き連れてくるとは恐れ入ったよ。この際だから訓戒してやる……金輪際あの三毛猫を呼ぶな。」
完敗、その言葉が厄災と怖れられる男の口から紡ぎ出されたとは信じられずその場にいた多くの者が耳を疑った。この世で最も優れた名探偵は数々の苦難が実を結んだことに相好を崩した。
「おかげでこっちは命拾いしたよ。」
「判ってねェな、猫の爪は痛いんだ。」
話の通じていない江戸川にグレイは見切りをつけると薄暗い部屋に眉を寄せて照明のスイッチを押した。あ、と敦が小さな声を漏らしたがグレイの耳に届くことはなかった。不法侵入による通報を考慮した為のスタンドランプであったが、流石は犯罪者、通報など恐るるに足らずといったところかと辻村と国木田が密かに胸の内で筋違いな感動を覚えた。
真昼のように明るくなったオフィスで、グレイは近くの椅子に腰掛ける。懐から煙草を取り出すと火をつける。
「誰かクリスティに会ったか。」
「いや。けど彼女の部下と思しき…えーと、ザーズ、ザー…ジ」
「ジョーズ。」
「そうそれ。…ジョーズという風邪気味の異能力者と百名余りの時計塔の従騎士の一団から熱烈な歓迎は受けましたよ。」
半刻ほど前のヘリポートでの騒動を思い起こしてそう告げた太宰にシグマは思った。ジョージなんだが…。しかし哀れな男の名前の忘却を訂正してやるほどの善人はこの場にはいなかった。太宰の報告を聞いたグレイはそうかと一言だけ零すと天井を仰いで紫煙の行方を追う。
この方時に天才は数千億個もの神経細胞が一千兆の結合という極めて複雑な動作を脳髄で同時多発的に行なって一つの思考を練り上げているのだと、人類が長い歴史を経て発達させてきた理性と叡智の道のりを一人の男が体現しているような感じがして敦は生唾を飲み込んだ。暫くの間思索に耽っていたグレイだったが、やがて面を正面に戻すと口を開いた。
「まずは福地だな。条件つったら聞こえは悪ィが…敦。」
「ひゃい!」
突然名指しされた敦は飛び跳ねる勢いで直立して舌を噛んだ。
「最終的にアイツを伸すのはお前だ。」
「ぼ、僕がですか!?」
鏡花に背を撫でられながら敦は動転した。ライバルであり時には味方となる芥川すらいなくて、天下の軍神に実力も知能も足元にも及ばない己が勝利の旗を掲げる景色を想像することができなかった。蒼ざめた顔で憂える敦にグレイは起き上がると彼の頭を乱雑に撫でる。
「心配すんな。肝心なのはお前ら新世代の双黒がアイツに未来を見せてやることだ。お前はお前のままで戦えばいい。思いの丈を奴にぶちまけてやれ。」
双黒の言葉に太宰と中原が僅かに身動いだ。男はすべてを熟知していた。
「あの。」
「ん?」
「どうしてグレイさんはそんなに僕を信じてくれるんですか。」
それは敦を含めてグレイの贔屓を目の当たりにしてきた者たちが抱いていた疑念だった。軍警の地下でも結局グレイは敦に擦り傷一つつけることがなかった。敦が害されるのを避けているかのように…。敦の問いにグレイは目をぱちくりさせると、ふっと表情を緩和させた。
「お前が知らないだろうが、俺はお前をずっと昔から知っている。」
「え」
衝撃的な発言だった。当惑する敦の他に、静かに成り行きを見守っていた勘の鋭い数人がある突拍子もない真相に辿り着いてまさかと声を漏らした。が、グレイは身内に対するような温容な表情をすぐに収めると指揮官のような勇ましい顔つきになる。
「それとフェージャの異能を奪う。」
「え!?どういう意味ですか?」
「後にわかる。」
不言不語の質の男はそれ以上は語らなかった。
「だとしても双黒と云うなら芥川君がいないと話にならないと思うけど。」
「ブラムの処遇はどうする。」
「それについては問題ない。」
グレイの提示した条件に問題点を取り上げた太宰と綾辻にグレイは不敵な笑みを浮かべると懐から一枚の紙を取り出した。室内に動揺が起こる。自らを黒幕であると証明してみせた馬鹿息子に夏目は無意識のうちに胃のあたりを摩った。
「これで芥川の問題は解決だな、ブラムは殺せば善いだろ。」
「なっ!?絶対あかん!」
「む。」
平然と言ってのけたグレイにこっそりと耳を攲てていた文がブラムを抱き締めた。文は周囲の制止を振り切ってグレイの足元まで駆け寄った。
「あんた警察やろ?」
「ん?」
「警察のお偉いさんなんやろ?」
「ん?」
「正義の味方なんやろ!?」
「ん?」
男のイメージとはかけ離れた発言が連ねられて誰ともなく疑問符があがった。
「ブラちゃんは確かに悪いことしたかもしれへんけど、そんなんで処刑してまうん可哀想やん!ブラちゃんやって反省してるんやし…」
文はブラムも丁寧に机に置いてやるとグレイの腕に縋り付いた。下瞼には堪えきれなくなった涙が滲んでいる。
「後生一生やからブラちゃんを助けたって!」
子供に泣きつかれるとどうにも退路を塞がれた気分になったグレイは思い惑うと白紙の頁を文の手に握らせた。そんなことよりも疾く警察関係者ではないことを打ち明けろと、福沢と森は思わずにはいられなかった。
「文だったか?」
「ぐすっ、うん…。」
「なら文、これをあそこにいる二人に渡すといい。」
指示された綾辻と江戸川は面倒事を予感した。
「あいつらが上手くブラムと聖剣の接続を断ち切ってくれるだろう。さあ、」
「う、うん。」
グレイに促されると文は二人の元に頁を持って行った。残されたブラムは興味深げな視線を送った。
「其方、誠に騎士団長であったか。」
「黙ってろ。」
「む。」
「内容は整合性が取れていなければならないんだったな。」
「うーん、ブラムかぁ。ちょっと時間頂戴、考えるから。」
いたいけな少女の冀望を乗せて頁を手渡された綾辻と江戸川は然無顔で互いを見ると早速利発な頭脳を回転させて話し込み始めた。徐々に内容が曖昧模糊な点と点が引き寄せ合い対天人五衰戦の大綱を示しはじめると円滑になった空気の流れに室内の照明が更に明るくなったような気さえした。
「そうだな、あとは…」
漸進的に一から十までの懸念材料を検証するとグレイが卒然と言葉を発した。一連の出来事が勃発したばかりの頃、グレイは大戦時の因縁を間接的にもつ男に呼び出された時の言葉を思い返した。ケイネスはしかと言い残した。暗号の解読機と制御装置の設計図があると。
「嬢ちゃん、ケイネスの家から制御装置の設計図は見つかったか。」
「私ですか?え、えっと、」
話題を振られた辻村は狼狽しつつも記憶を呼び起こす。
「彼の隠れ家に暗号機はありましたけど制御装置の設計図なんてものは…」
「あるはずだ、もう一度探せ。」
続けてグレイは云う。
「太宰、中原、国木田…それと綾辻。お前らは深月と行動だ。」
「はァ?何で俺が…」
「できねェか?」
「ッ、」
挑発的な視線を受けて中原は青筋を立てる。だが森と福沢はグレイが無闇に人選を取捨選択しているわけではないと推察すると敢えて部下を送り出すことに賛同した。言うまでもなく過大評価である。
「中也君、行ってきなさい。」
「首領…分りました。」
グレイが着々と指示を下している間、敦の元に夏目が近付いてきた。
「敦。」
「は、はい。」
グレイですら態度を改める超大物が己の資質を探るような目線で見下ろされると敦はほとんどない唾液を溜飲して直立不動になった。初めての就職活動の面接候補者のような堅苦しさで見返してくる若い青年を夏目はじっと見透かして、再び瞬きをした時には素朴な老人の双眸があった。
「光を辿れ。」
「はい…え?」
不可解な言葉の意味を問い返そうとして、猫のように呑気にも踵を返した夏目はグレイの肩に手を添えると何かを呟いて建物を後にした。グレイと同じく伝説の肩書きをもつ老人は空気のように掴みどころがないのだと敦は改めて感じたのだった。
結末へと歩み始めた物語、もう一人の主人公であるグレイは切実に願った。想定しうる幾つかの最悪の事態が実現しなければ善いと——。