横浜の港付近の平屋住宅街。開港当時の風情を残した自然と郷愁を掻き立てる観光地が一角。芸術的でレトロな西洋館が点在し、豪壮な庭園を備えた博物館や地元の衣食住商品を取り扱う多数の店舗が並んだ商店街、地域一帯が下町の雰囲気を存分に味わえる観光名所である。生来は海と共存した街並みを眺望しながら散策や買物を楽しむ人々で賑わう通俗的なこの街は、だがここ数日に限っては観光客はおろか住民の気配すらない磯の香りを含んだ汐風のみが街を支配していた…。
吸血種によるテロリスト騒動、ポートマフィアの管轄地区である此処は言わずもがな吸血種の攻勢被害に遭った。先立って特務課が避難訓練を名目に発した緊急事態宣言により地元警察の誘導の元付近の住民は避難した為に人的損害はなかったものの、景観は異能大戦直後の無惨な爪痕を残した都市へと回帰してしまった。シャッターの閉ざされた商店街、窓ガラスが割れ外壁が煤に汚れた展示施設、所々破損した家々。それら全てが数ヶ月前の組合戦末期を彷彿とさせ、それ以上の悲劇をありありと映し出していた。背景に溶け込んだ廃墟はしかしそれだけではない。人々に廃棄された退廃的な街の港近郊住宅街の一画は今も殺伐とした空気を纏い、部外者を震撼させる俗悪さに侵されつつあった――。
無数の怒号とともに石礫と超常の光線が飛び交っている。爆音が渦巻き、入り混じった土埃と硝煙が唸りを立てて遍く生命をおしつつむ。陰翳から這い出た悪が、慥かに平安を灰燼に帰さんと各々の猛威を奮っていた。
「わっはははは!はっは!どうだねミスター太宰、今頃になって軍門に降っておけば良かったと後悔しているのが私にはまざまざと見て取れる。」
「いや全く。」
「ほら見ろクソ青鯖、ちゃんと始末しとかねェから…」
「君はどうだね少年兵、白旗をあげるなら今が最後のチャンスだと思わないかね。」
「いや全く。」
「ププっ、少年兵…」
「ぶっ殺すぞ。」
炎の津波が押し寄せた。迫り来る熱気を中原と太宰は難なく躱した。背後から複数人が得物を振りかぶる。バランスの良い高脚が綺麗な曲線を横に描いて顔面に、腹部に、局所にめり込んだ。丁度飛躍した子供が沈んだ瞬間の冬の掛け布団程度に沈んだ柔らかな凹面から悲鳴とも謂えぬ、声にならない叫びが湧き上がり男達は四方に吹き飛んでいった。
「ヨコハマに訪れる前に私なりにリサーチしてみたのだがね。どうやら君たちは黒社会を脅かす双黒として名を馳せているようじゃないか。」
焔を纏わせて蝦蟇は喋る。
「双黒だぁ?んなモン俺一人で十分だ。」
「ふふ、私なしじゃ汚辱も使えないのに?」
「あ゛あ゛?」
「それに、双黒と謳われるのはもはや私たちじゃない。」
「ほぉ?」
追撃の手を緩め先を促すジョージを他所に、太宰は空の彼方を望んだ。遥か遠方、この住宅街よりも熾烈な戦争を開幕させたであろう空港で、探偵社ひいては世界の命運をかけて全身全霊の限りを尽くして奮闘しているであろう者達。五里霧中を彷徨う旅路の中で、太宰と同じように道に迷い居場所を求めた二人の迷い犬に想いを馳せて。
局所的に曇天の広がった不穏な天の、その向こうを眼差している太宰を横目にして中原は形容のし難い心地になった。かつては己と太宰を合わせて双黒と畏れられたものだ。初対面当初からそりが合わず、顔を合わせれば歪み合ってきた――以前うっかり痴話喧嘩と漏らした黒服の末路は言葉にすることすら危ぶまれる末路を辿った――二人だったが良くも悪くも腐れ縁と化し、だが中原が気付いた時には太宰はポートマフィアと袂を別っていた。自殺嗜好家の喪失は事あるごとに小衝かれてきた中原にとっては断然赤飯を炊きたくなるほどに同慶の至りであったが、人間関係の不思議とはこれ如何に。時の流れとともに如何なる断絶も多かれ少なかれ欠落感を生み出すものである。太宰は探偵社に転職し、彼の教え子の芥川はますます栄転した。中原のマフィア幹部としての地位も名声も強固としたものになった。されど過ぎた時は返らぬものである。いつしか双黒という単語すら脳裏を過ぎることがなくなった。そんな頃合いにこれまた何の縁か、旧懐の情を起こさせる出来事が起こった。
…人虎だ。巷を騒がせていた災害指定猛獣が探偵社に入社し、ポートマフィア、組合の魔の手を乗り越えいつの間にか芥川と二人三脚で任務に当たるようになったのだ。一連の事態の裏で蠢くかつての腐れ縁の影、新時代の双黒、これは一体何の冗談かと中原は当人に詰め寄りたくなった。脅威的な異能力、犬猿の仲…だが行動に際しては一糸乱れぬ足並みを見せる二人の若者。認めざるを得ない、芥川と敦は確かに太宰と中原の跡を継ぐに相応しい双黒であった。それこそが中原が最も嫌い、最も信頼を寄せていた元ポートマフィア最年少幹部であり、現探偵社において江戸川乱歩に次ぐ秀才、卓越した先見の明をもつ男太宰治である。長い年月を超えての新旧世代交代、二組の双黒がそれぞれの責務を全うするべく脅威に立ち向かう構図はなんともヒーロー漫画臭いものだ。
――まァ、悪くはねェな。
そんな心胸はまかり間違っても表には出さない中原であった。…不本意にも中原と背中合わせで闘う太宰が果たして彼の胸中を読み取っているのかなどと野暮なことは考えるべきではない。
さて、ジョージ率いる時計塔一団だが、中原の重力操作と太宰の異能無効化の異能力の見事な組合せで着実に敵を減らしているものの如何せん数が多い。ジョージと複数の異能力者を除いては質より量で圧倒せんとする魂胆が見え見えだった。木っ端微塵に瓦礫が吹き飛び、弾丸の暴雨は四方八方から降り注ぐが決定的な一撃必殺なるものが一向に放たれないことを鑑みれば、単に実力不足か時間稼ぎの類だろうと太宰は推し図っていた。いずれにせよかの魔人と時計塔の女狐が結託しているに違いない。
「ったく雑魚ばっか湧きやがって。うじゃうじゃと揃いも揃ってゴキブリかよ。」
「一人一人相手取るよりも頭を叩いた方が良さそうだ。何だっけ、ジープ?ジージ?」
「ジョーズ、」
「それそれ。」
「私はジョージだ!」
運悪く語尾は本人の放射した火炎の煩わしい唸りにかき消された。彼の部下が巻き添えになっただけだった。太宰は接近してきた男の足を引っ掛けながら振り返る。
「ジョーズ君をもぐら叩きにするのが一番なんだけど…」
太宰は一度言葉を止め、顔面に接近した鉛玉を宙で受け止める中原に目を遣った。革手袋を嵌めた右手を胸元に掲げて中原は視線を返す。嗤った。意思疎通はそれだけで十分だ。観客も卒倒するホラー映画の悪鬼の如き粗暴さを笑窪に、残忍さを目尻に乗せて中原は音もなく跳躍する。
「ようはあの鬱陶しい蛙野郎を潰せば良いんだろ?んなモン朝飯前だ。」
「ヒューヒュー!やっちゃえ中也!よっ低身長!」
「てめェは一々嫌味言わなきゃ気が済まねェのか!?」
「中也限定でね。」
「よし殺す、あの鮫潰したら次はテメェだ…」
つくづく、太宰がマフィアを脱退してくれて良かったと中原は信じてもいない神に感謝したのであった。
平屋の屋根の辺りにまで浮上した中原が腕を一振りすると眼前で留まっていた鉛玉は素早く方向を転換し己が持ち主の元へと高速に戻っていく。弾丸は回転することなく空気を切り裂いて集団へと襲いかかる。断末魔とともにアスファルトに無数の赤い花が咲き乱れた。
「くっ、」
異能で赫々たる防壁を造り出し中原の反撃を防いだジョージは壮絶な弾丸雨注に一歩退く。だが腐っても近衛騎士長クリスティの側近、地獄すら焼き尽くさんばかりの紅を燃え上がらせると半径五メートルの有象無象を弾丸ごと焼き払った。
「ハッ!少しは楽しめそうだなァ、」
「残念、実に残念だよ少年兵。何故なら君がいくら許しを乞おうとも私は君を許さない。」
――見たまえ、この私の前髪を!
ゴツゴツとした骨太の人差し指で自身の縮毛となった前髪を指すジョージ。勾配のある、吊し上げられた渋い眼光が二人を射抜く。くくく、ぷっくく。誰ともなしにせせら笑いが耳朶に触れると堪忍袋の緒が切れる音がした。
「良いだろう。受けてみたまえ我が奥義を…!」
両腕を胸前で重ね十字架を作るジョージ。めらめらと仄暗い紫の陽炎を纏わせはじめると、太宰と中原は少し揶揄いすぎたかと防御の姿勢に入った。依然として敗北の気配はせぬものの、ジョージが灯した憤怒の燎火は彼と共に立ちはだかった時計塔の下級構成員が顔面を蒼白にするほどの圧があった。火を吹くドラゴンのように、百度を超える急激な酸化が渦巻く。自身が異能で阻止するには距離がありすぎる、そう断ずるや否や太宰は叫んだ。
「中也!」
「わぁってる!」
来る攻撃に応じるべく中原は右手を頭上に掲げて重力を操作する。周囲の重力が凝縮され真黒の渦が生み出される。人工的な雨催いの空の下で炎の異能力者の究極の一撃と、重力操作の異能力者の技倆が今にも衝突しようとしていた。
…そよりと風が吹いた。嗅ぎ慣れつつある、好ましくない香りがふわりと太宰の鼻先を掠る。その正体を脳が認識する瞬きの瞬間よりも早く、男が現れた。
「っ!?」
「なッ、」
二種類のエネルギーはぶつかることなく空気の抜けた紙風船のように萎んでいった。時空間が静止したかのような静寂の中心に三人は佇立した。
「うっ、ぷ…」
瞬間的な転移の直後に汗と血腥さの混じった異臭が鼻腔から浸透すると、虎の過敏な聴覚を有する敦は思わず顔半分を覆った。
紛争地帯にも勝るとも劣らぬ街の崩壊具合、マフィアに属し無惨な殺傷を日常茶飯事とする芥川でさえ僅かに柳眉を顰めるほどの陰惨たる現実が広がっていた。空港から横浜に戻るはずが場所を間違えたのでは、そう言おうとして敦は隣を見上げて…愕然とした。グレイは笑っても表情を歪めてもいなかった。唯目前に広がる有様をさも平常の事象として、一つの景色として認識し彼の登場に瞠目する太宰と中原、それから時計塔の面々を見渡している。二、三度瞼を閉じれば男は既に現状を把握したようだ。
「これはこれは…貴方に御目通り願えるとは私も運が良い。」
今し方のブギーマンさながらの形相を一転して収め紳士然と振る舞うジョージに太宰と中原は幻滅した。
「初めまして、私はクリスティ様の…」
言うなればサッと微風が駆け巡るような擬音が幻覚として聴こえた。老いた手を伸ばして握手を求めたであろうジョージの真横を過ぎ去りグレイは太宰と中原の元まで歩み寄る。敦と芥川は奇妙に思いつつも彼の背中を追った。
「えーっと、」
二人を交互に見遣るだけで一言も発さないグレイに太宰が声をあげると、グレイは重ねるように言葉を発した。
「手伝おうか?」
「は?」
「中々厄介なのを相手にしているようだから、扶けてやろうかと聞いたんだ。」
まあ、俺じゃ力不足だろうが。誰かの肝心な糸が切れた。太宰と中原だけでは時計塔を相手取るには荷が重く、且つ間接的にジョージの格をも引き下げる絶対的な強者ならではの発言に捉えられたのだ。神経を逆撫でさせる挑発に米神に欠陥を浮かび上がらせるジョージと中原に傍で成り行きを見守っていた敦が及び腰になった。芥川は関心を持たず周囲の焼死体を煩わしげに眺めていた。少なからず癪に触った太宰が拒否をするよりも素早く中原が声を荒げた。
「いるかよ、あの程度の雑魚俺だけで十分だ…!」
「何だと?」
ポキポキと関節を鳴らし鼻息を荒くする中原にグレイは関心したとばかりに微笑む。端から回答が判っていたかのようにだろうな、と一言同意すると太宰を見た。反論しようとして絶対零度の双眼に瞥見され、鷹の前の雉もかくやの金縛りにあったジョージを敦は憐れんだ。
「江戸川と綾辻は。」
太宰は尋ねられるがままに後方の一軒家を示す。三六〇度新鮮な災禍に見舞われた住宅街で唯一、一切の被害を被ることなく清潔な外観を保つハロルドの家を。太宰と中原が頑としてこの場を離れず時計塔の敵勢と交戦していたのは、ひとえにハロルドの家の中でより優先度の高い任務にあたる江戸川達の円滑な活動を支援する為であった。太宰の視線の先の家に早速歩みを進めようとしたグレイたちを太宰は呼び止めた。異様なまでの口数の少なさが彼等を不安に駆り立てた。…精神年齢が仙人の見た目中年の只の疲労だと信じる者などこの場にいるはずもなかった。現状を超える未曾有の有事が発生したのではないか、そう問いかける太宰にグレイは睫毛を瞬かせた。
「心配すんな、福地は敦と芥川が無力化した。」
「えっ。」
その台詞は新双黒の二人にとって口には出さずとも聞き捨てならないものだった。どちらかと云えば無力化以前に、既に残息奄々のボス戦を強いられたようなものであった。しかし満身創痍の福地はそれでも手強かった。芥川と敦が悪戦苦闘の末に勝利を掴んだことすら、今振り返っても奇跡としか思えぬ程に。
そんな敦と芥川を差し置いてグレイは簡潔に太宰達に事のあらましを伝える。クリスティと結託したドストエフスキーは既に兵器を手にしており横浜の何処かで起動させる腹積りだと。遺憾にもクリスティが摑まされた情報は偽りのもので、実際の彼の居場所はゴーゴリとイワンを除いて誰一人関知していないことを。されど虱潰しにドストエフスキーを探す訳にもいかず、一先ず制御装置を引き取りに此処へ赴いたと…。後半は敦が補足すると太宰と中原は顔を見合わせた。
「アイツらなら中にいる、そろそろ出来上がってる頃合いだろ。」
「そうか、判った。お前らもさっさと片付けて来い。」
そう言うとグレイは敦と芥川を伴いハロルドの家へと向かった。
――この程度の奴らに手間取るな。
去り際の混濁した瞳孔が暗に釘を刺しているのを理会して太宰と中原の背筋を冷たい汗が伝った。いわば男の眼は森や福沢が決断を下す際の、あの薄暮から闇夜へと移りゆくような厳かな重みを孕んでいたのだ。
グレイ達の姿が完全に視界から消えるとその場の停滞していた時空間が蘇ってくる。はっと、首を絞められたような息苦しさから解放されたジョージが浅く呼吸する音だけが響いていた。
「やれやれ、私達も舐められたものだ。」
「テメェがぐずぐずしてたからだろうが、クソ太宰が。」
「なら今すぐ挽回するしかない、そう思わないかい?」
試すような眼差しを受けて中原は鼻を鳴らすことで答えた。前方で熱量が上がってゆくのを二人は肌で感じる。面を戻せば、度重なる恥の上塗りに満面朱をそそぐジョージがわなわなと全身を震わせていた。彼の威圧に当てられて、地面に伏していた異能力者と下っ端も起き上がってきた。太宰と中原は再び背中合わせになる。もはや言葉は要るまい。
敵が炎を灯したのを合図に、二人は息を合わせて一歩を踏み出した――。
*
「うわぁぁあ!私の馬鹿っ、馬鹿阿呆愚図!」
「よく判ってるじゃないか辻村君。」
「はは。君、良い相棒と組んでるね。」
「ごめんなさいぃ…」
ハロルドの家の秘密の地下室、散乱した書類に囲まれながら奇声を発する辻村。この世の終わりとでも言いたげな悲愴な面相を華奢な両手で覆い隠して己に落胆する彼女を、氷点下を通り越しもはや海底に投げ込まれた石を見る魚のような眼で見下ろす綾辻と、駄菓子を頬張りわかりやすく嘲る江戸川、微かな同情を潜めて呆然と目視するしかない国木田。そんなカオス極まった場面を空中で京極はひたすらに捧腹大笑していた。
「くかかか!これは滑稽…綾辻君、欣快の至りじゃ。儂は君を選択した己の判断を礼賛しておるよ。」
笑壺に入る妖怪の高笑いを唯一聞き取ることのできる殺人探偵は心底忌まわしげに、辻村の煎れた酸味の強い珈琲を飲み下すような顰めっ面をつくった。
遡及することグレイ到着の半刻前、封鎖地帯となった付近一帯で待ち構えていた時計塔の従騎士たちを太宰と中原に委ねて江戸川達は足早にハロルドの隠れ家へと身を運んだ。寝室、リビング、風呂場、キッチン…一通り部屋を見て周った彼等は最後に隠し部屋へと降りた。そして意外にも、俊傑な江戸川が目当ての物の隠し場所を割り当てるよりも先に、ひょんな流れで物色を始めた辻村により設計図は発見された。有ろう事か辻村が以前暗号解読機を掘り起こした床下に。二重底でも、種も仕掛けもなく箱が眠っていた底に束ねられた状態で保管されていた。九割方、箱を取り出した直後に蓋を締めた辻村が矢面に立たされるべきだったが、ここまでは辛うじて彼女の杜撰さを軽んじていた綾辻の連帯責任で片付けられた。問題はここからだった。
失態を挽回しようと紙束を手に立ち上がった辻村は…仕舞い忘れた床蓋に盛大に足を滑らせた。その後何が起こったかは言わずとも解るだろう。床との顔面衝突を恐れた辻村は綾辻がその腕を掴み取るよりも早く、手摺代わりに書類を束ねていたクリップを誤って摘み外し、紙はクラッカーのちり紙よろしく散乱。続けて良く言えば華麗なタップダンスのような足捌きによって重要な数枚が散り散りに裂けたのだ。屋外での戦闘に備えて靴の仕込みナイフを剥き出しにしていたのが仇となった。斯くして、綾辻と江戸川に遠回しに酷評される哀れな特務課エージェントの図が出来上がったのだった。
だが覆水盆に返らず、タイムリミットが迫っているなかで膠着しているわけにはいかなかった。忽ち気を取り直した綾辻と江戸川は国木田がせっせと集めた書類と塵紙を検分し復元を試み始めた。
それから三十分後、
「っはぁー疲れた。」
「実に無駄な労力だった。」
難解な外国語の文字と数字が羅列する設計図の説明書は無事に元の姿を取り戻した。
「す、すみませんでした。」
「もういい。」
「まぁ、あまり気にするな。」
無愛想な許容を許容と受け取ることができなかった辻村が益々肩を落とすと、すかさず国木田が慰めに入る。しかしこの男、対人に関しては滅法拙劣がゆえに大した労りにはならなかった。
そんな時、部屋へと繋がる金属製扉が開かれ外光が流れ込んできた。コツコツと靴音が階段を踏み締める。辻村と国木田は直様武器を手に迫る気配に身構える。
コツ、カツ…。木製の階段が軋む。徐々に全貌を明らめたのは…
「敦?」
「国木田さん、」
意想外な人物の登場に国木田が驚嘆を漏らした。敦は国木田と江戸川を目にすると顔に喜びを浮かべて、たまさか視界に映った辻村に戦いた。
「何かあったんですか…」
「な、なんで分かるんですか!?」
「いや…」
誰だって陰鬱な陰を漂わせていれば気付くだろう、だが国木田は黙った。なんとなしに敦も控えた。敦と芥川の間からグレイが前に出る。
「終わったか。」
「今準備ができたとこ。そういうそっちはもう片付いたんだ。」
「今し方な。」
綾辻が抱える紙束の一枚を摘み上げるグレイ。一同は――特に辻村と国木田は――その場凌ぎで繋ぎ合わせた紙が再び破れてしまわぬかとはらはらしていた。文字の詰まった紙面の上から下までをざっと一瞥して紙を戻すとグレイは四人を見据える。
「時間がねェから今すぐ完成させろ。」
「ちょっと待って。」
江戸川が声をあげた。
「僕たちも確認したけどこれは机上の理論でしかない。っていうかハロルドすら実際の制御装置を見ることなく想像力で作り上げたものだから、よしんば国木田が制御装置を図面通りに作れても正常に作動するかすら怪しい。」
其となしに江戸川が、グレイがハロルドを早々に殺害したことを非難しているのを察すると綾辻は心中で密かに相槌を打った。当然グレイがその意を看做しているはずもなく、彼は芥川と敦を見返る。
「どうするお前ら。」
「え?僕ですか?」
「他に誰がいる。」
「…………。」
二人は視線を合わせた。終始無言の芥川は一言、「貴様が決めろ人虎。」と呟くとそっぽを向いた。愈々重大な選択肢を委ねられた敦は混迷してしまう。そもグレイが帰趨を左右する決断に迫られる度に敦と芥川に質すこと自体が理解できなかった。二人の資質を図っているのか、全面的な信頼を青二才においているのか、将又夏目との取引など別の意図があるのか。何にせよ慎重な裁定が単に荷厄介だとは誰も思いつくまい。これもまた、主人公に放り投げる作戦の一環であった。
敦は試すような視線を受けて暫し勘案する。先程から部屋の壁に掛けられた時計のチクタクという針音がやけに脳に響く。己がこうしてぐずついている間にもドストエフスキーが装置を起動しているのではないかという憂慮が脳裏を過ぎるだけで敦は居ても立ってもいられなかった。僅かな猶予で彼は自身の考えを精算すると、グレイを正面にした。
「それでもないよりはずっと良いと思います。」
「なら決まりだな。」
綾辻が設計図を国木田へと手渡した。制御装置の大きさが手帳と同等のサイズであったのは幸いだった。事務処理の達人とも称される国木田は速読で精確に制御装置の構造を把握していく。手帳を取り出した。達筆が連ねられると、一枚を破り…
「独歩吟客!」
瞬間、常磐緑の光線が紙から放たれた。時を置かず常磐緑は曲線を描いて国木田の掌に濃縮されてゆく。そして具現化されたのは小さな立方体だった。上部に一つのトグルスイッチボタンが備えられているだけの装置を国木田から譲渡された敦はまじまじと観察してみる。
やはりとても世界を救う最終兵器とは思えぬ外面をしている。心做しか隣の芥川も顔を覗かせはせぬものの怪しげな感情を瞳の色に乗せているのが敦には分かった。だが二人を差し置いてグレイは話を進める。
「んで江戸川、綾辻。ドストエフスキーの居場所だが何処にいると思う?」
「何故俺達に聞く。」
それもそのはず、ドストエフスキーの居場所など超越した頭脳の二人とはいえ知る由もない。だというのに、二人に問い質す全ての元凶たるグレイの双眼はまるで自身は一切関知していないとでも言いたげである。
「また惚ける気。」
「何言ってる、俺は何も知らないぞ。何もな・・・。」
肩を竦めるグレイ。肝心な事実を彼等は失念していた。この男は元より天人五衰側なのだ。要するに夏目が目と爪を光らせていない今、協力的な姿勢を見せてやる筋合いもないのである。そう思い至った綾辻と江戸川は、しかし一刻を争う状況なだけに気まぐれな悪党の説得を諦め地図を開いて討議をはじめたのだった。
「ほんとに癪だけど正確な場所は掴めそうにない。てわけで今のところ三つの候補があるんだけど、」
机に広げられた地図の三ヶ所を敦は確かめてみる。駅、広場、交差点。どれも兵器を発動すれば最後、横浜中の異能力者を一掃してしまうに足る要衝だ。と、何故かグレイが敦たちを見下ろした。
「お前らは何処だと思う?」
「ええっ!?」
いくらなんでも無茶振りが過ぎる、そう云おうとしてグレイの至って真面目な面相と対面してしまえば何も言葉にできなかった。不本意ながらも好敵手に意見を求める。視線を逸らされた。この無言の内に交わされる絶妙なやり取りがいつかの訓練生時代の自身と鬼教官のようだと、辻村は記憶の世界に没入する。今思えば一張一弛に手馴れた教官の鑑であった。 遂に縋り付く藁すらなくなったような表情で、暫し勘案すると敦は結論を下した。
「桜木町駅は、どうで...しょうか。」
次第に語尾が蚊の羽音のように弱まっていく。もし誤れば取り返しのつかない事態になるという切迫感が敦を締め付ける。根拠はと責め立てられる可能性だって...。しかし降ってきたのは否定でも反問でもなく温かな温もりだった。「そうだな。」とグレイはいつも通り敦の頭に大きな手を添えると、口元を和らげた。ほらみろ最初から知っていた癖にと、江戸川と綾辻は内心非難を送った。目的地は定まった。
「じゃあ俺らは先に行くからお前らは片付けてから来い。…もう終わる頃合いだろうがな。」
言い終えるよりも先に天井が振動した。パラパラときな粉をまぶしたような塵が翅のような睫毛に絡まると辻村は指先でそれを払う。
「頃合いって、もしかして地上で大乱闘起こってるんじゃ…ってあれ?」
辻村はすかさず尋ねようと顔を動かして、話しかけるべき相手がいないことに気付いた。幽霊でも探すかのように左右を見回す彼女に綾辻が「もう行ったぞ。」と教えると「え、もう?」と辻村は驚愕する。その後揺れが収まるまでの束の間、彼等はじわりと込み上げる徒労感に束の間腰を下ろしたのだった。
一ヶ月も遅れてすみません。後四話程でOE完結です。