目を焼くほどの眩さがおさまって恐る恐る瞼を開けると、そこはヘリポートではなくなっていた。
「此処は、」
高々と背伸びをする樹木、都会の喧騒を途絶した緑地、流動的に下方を流れる線路。視界に入るどれもが今し方の一大事変とはかけ離れた刺激の乏しさを映し出していた。頬を抓ってみる。それなりの鈍痛が遅れてやってきた。蒸気機関車のようなリアルな警笛が聞こえて橋から目線を落としてみると幾つも胴体を繋げた蟻のような、青いタンクを連結させたガソリン専用の貨車が特徴的な線路を軋ませながら車輪を回転させて遠ざかっていった。整備された連絡橋から眺望できる、船着場に行き交うシーバスは陽光を反射してキラキラと煌めく川の水面に一筋の錦繍を作り出している。船体から溢れるラトル音は聴覚の正常を教えてくれていた。少し目線をずらせば、連絡橋を隔てた東側と西側に、それぞれなだらかな遊歩道をランニングする人、何ら役に立たなそうなひさしの下のベンチで憩う一人の老人がいる。もしかしてと思い階段を降りてモニュメントを確認してみれば、やはり憶測は当たっていた。
「やっぱりここ、高島水際線公園…だよな。」
つと、あまりに卒爾の出来事に忘却しかけていた現実を思い出して今さっきタンク車が走り去った方角、桜木町を見渡す。清々しいほどの晴天で、物騒な気配どころか異能のいの字もなさそうな都市景観がそこにはあった。僕は頭を抱えて思案に暮れる。
「いったい何が起こってるんだ…」
もしも兵器が正常に発動されてその何らかの反動で僕がここに身を移したとして、特別閉鎖区間とされているはずの近辺の漣一つ立たなそうな安寧ぶりはいくら何でも異様だった。そも、横浜中の異能者が消滅したのなら僕が生きてること自体が不可解だし、散歩道を犬を連れ歩く女性やタンブラーを片手に笑言しながら歩く女子高生、それに平然と自転車を漕ぐお巡りさんの長閑けさを眺めていると寧ろ僕が経験してきた今の今までの事象が白昼夢だったのかとすら不安に駆り立てられてしまう。グレイさんは、ドストエフスキーは、芥川は…皆は何処へ消えた?体のない男はどうなった?それにもう一つ。
「異能が使えない。」
桜木町を望んだときに勘づいた、視力の低下。低下といっても異能による補正がなくなっただけで至って標準的な視力だけれど、僕にとってはいうなればマサイ族が文化の変容で電子機器を触りすぎて短期間のうちに著しく五感が退化してしまったかのような、妙な衰えを感じていた。決定的だったのはいつも僕の魂の奥底に存在していた虎の気配がしないことだ。僕が望もうと望むまいと臓器の一部のごとく在ったものが今では息吹すら伝わってこない。詮ずるところ、此処が僕の知っている世界かすら怪しくなってきた。
脳髄を絞っても答えが降ってくるはずもなく、愈々窮してしまった僕はその場に屈み込んだ。
「本当、グレイさんも芥川も、皆どこ行っちゃったんだ…というか僕は何をしてるんだ…?」
ひたすらうんうん唸っていると、不意に前方に影がかかる。季節外れの馥郁たる梅が香った。
「坊や、どうしたの?迷子?」
凛とした音色に顔をあげてみれば少し重たげな一重瞼と絹のように白い肌が相まって和装が似合いそうな女性が僕を覗いていた。
……………。
「それでね、夫がお弁当を忘れたから態々昼の頃合いに職場に持って行ってあげたのに彼ったらいないんだもの。今日は夕飯抜きにしちゃおうかしら。」
「はあ、」
ところ変わり高島町。先の高島水際線公園で親切な女性に声をかけられた僕は、成り行きで桜木町に行くまでの道筋を彼女と一緒にすることにしたのである。遠くからでもはっきりと見える大観覧車の軌道を目で追いながら不満そうに話す彼女はどことなくうら寂しさを漂わせている。女性の化粧なんて気にしたこともなかったけど、控えめに跳ね上がったアイラインが彼女の言い知れぬ魅力を助長させていると好感を抱いた。これもうずまきでルーシーが抜き打ち検査みたく僕に女性のメイク技術の何たるかを教えてくれた成果なのだろう。歩いて話して息を吸うたびに、日本の象徴的な花々を連想させる優雅な品性を醸し出す女性は独特の美しさがあった。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花はまさに彼女のような女性を現すに適していた。
「何ていうか、染井吉野みたいだな…」
ぽつりと心中に留めておいた筈の感想が言葉となって表に出てしまう。焦って誤魔化そうとして、くすりと吹き出した彼女に呆気に取られる。
「ふふ。貴方、いつかの彼と同じことを言うのね。」
「彼、ですか?」
「今の夫よ。」
可憐に綻ぶ様子に、きっと彼女と結婚した人は幸せ者だろうなと感慨深い気持ちになった。
日本人の筈なのに馴染みのない日本車の、いつ建設されたのかすら不明な本社ギャラリーの中を通り抜けると、ランドマークタワーへと続く歩道橋へと辿り着く。此処から先はお互いに目指す道が分たれる。女の人はヒールの踵を軽く鳴らすと僕と向き合った。
「じゃあね、敦君。会えて嬉しかったわ、また元気でね。」
彼女は春の日だまりの温かみを笑窪に添えて踵を返す。その仕草が、何故か誰かと重なった気がした。
「ま、待ってください!お名前を…」
けれども優しい女の人は僕が名前を聞くよりも前に人混みに紛れてついぞ見えなくなってしまった。どこまでも彼に似て不思議に満ちた人だったな…。
気を取り直してタワーを仰ぎみる。案の定、平時と変わらぬ心地よい賑やかさの複合ビルが構えているだけだった。もう一度ヘリポートまで上がったところで慣れ親しんだ横浜の景観を眺望するだけとなるのは明々白々だ。手当たり次第市を探し回るのも骨が折れる。それに万一これがドストエフスキーや天人五衰の罠だとして、敵の奇襲を受けるやもしれない。なら一先ず探偵社に戻ってみるべきか…その場に立ち止まって頭を廻転させていると、自分が歩行者の通行の妨げになっていることに気付く。一度じっくりと腰を据えて思考に耽れる場所を探そうと体を反転させて、偶さかある不思議な現象を目撃してしまった。
耿々とした輝きを淡く抱擁する花緑青と群青の球体が、市街地へと続く路地の真ん中に浮揚している。ふよふよと虹彩を放ちながら上下左右に小さく揺れるそれは、明らかに異質であるのに付近を歩く人々は誰一人気にも留めない。というよりかは全く認識していないようだった。
そこで、昨日の真夜中に軍警基地の近くの建物で夏目さんが去り際に耳打ちした妙な言葉を思い起こす。
「そうだ、確か光を辿れって…まさかこのことを?」
それは一種の戦慄にも似た衝撃。社長やポートマフィアの首領でさえ危険視するグレイさんが口に傷をつくっても尚敬意を示す夏目漱石という人物の、怪しげなベールに包まれた真相を垣間見てしまったような気がして勝手に身震いが起こった。
凝視しているだけで身も心も浄化されてしまいそうな神聖さを秘めた光。直感的にあれに従うべきだと至ると、僕は光の跡を辿ることにした。
それからややあって、ごった返した主要名所を抜けて住宅街へと導かれた。
チリンとベルの音色が聞こえて路肩に避ければ、自転車が颯爽と走り過ぎて行った。観光地付近の家々とは異なり近代的で個々の嗜好を活かした住宅が碁盤の目のように立ち並ぶ街並みは静謐な異世界に迷い込んでしまったかのようだ。けれど申し訳程度に列をつくる街路樹も、雲間を洩れる日差しを取り入れようと窓を開ける住民のお婆さんも、木陰で日向ぼっこをする雀も、目に映るものは紛れもない日常でもあった。僕に家族がいれば、同年代の子達と同じように学校に通ってこんな風に清々しい風に撫でられて健やかに帰路につく普通の毎日を送っていたのかもしれない。なんてありもしない空想に思いを馳せていても詮無いことなのに思わずにはいられない。
電車が忙しなくレールを滑るのが遠音に響いている。歩道橋の下で遭遇した例の光玉は天の川のように白白と証を伸ばしながら曲がり角の先々で停止して僕を待ち詫びる。僕以外の誰にも識別できない道標、蜜に誘われる蝶のように引き寄せられていくと程なくしてやけに鄙びた路地に行き当たった。
中通りから外れた袋小路、生活音の欠片もない閑散とした細道。流れる空気も時間すらも停止してしまったのか、この一角だけが昼間に眠っているかのようだ。右側の連なる家屋の外壁に管理の行き届いていない蔦が蛇みたいに絡まり合って這いずっている。…一箇所だけ取り繕ったように蔦が払われた家屋の、随分と古ぼけた木製扉が半端に開かれたまま放置されている。ふよふよ、光は仕上げとばかりに上下に舞いながら吸収されるように中へと入っていった。後に続いてみる。
「こほっ、こほ…」
酷い埃だ。何十年も掃除されずに、人手の干渉すらなかったのだろう木材が腐朽した臭いが鼻腔をツンと刺激する。咳き込みながらもぐるりと室内を改めてみる。何が入っているかも分からない埃で濁ってしまったガラス瓶や小物が、おそらく整頓された時の状態を保って陳列している棚や入口手前に設置されている机には電卓が置かれている。もしかすると骨董品屋さんだったのかもしれない。
「流石に花袋さんでも住めないだろうな…」
国木田さんがどれだけ洗っても取れなかったケチャップの染みついた布団が脳裏に浮かんで何だかおかしくなって苦笑してしまう。そんな時、奥から馴染んだ低音が耳に流れ込んできた。
「来たか、敦。」
「ぇ…?」
孤独を癒してくれる浩然とした声音に僕は足を進める。棚の合間を通り抜けた先にいたのは彼だった。
「グレイさん。」
「なんだ、またしけた面してんな。」
グレイさんはいつも通り笑っていた。
「あの、僕たちなんで此処に…というか何が起こったんですか。」
「特異点だ。」
「え?」
僕に背を向けて、壁際に備え付けられた円形のハイテーブルに肘をついてグレイさんは言葉を紡ぐ。
「例えば、必ず先制攻撃する異能を持った二人が戦えばどうなると思う?」
「必ず先制攻撃する異能…えっと、」
「過去に数秒先の未来を見通せる異能力を持つ二人が一騎討ちをした。双方、互いの未来を先取りし続け時空間が永遠に引き延ばされたかのような感覚の中で死闘を繰り広げ…そして相討ちとなった。」
詳しい話は太宰に聞くといい。怜悧そうな横顔が晒された。彼は話を続ける。
「こんな感じで複数の似通った異能力が互いに干渉した結果、予想もできない全く別の結果が引き起こされる現象を特異点という。あの時、瞬間移動系異能力者を原料に作られた体のない男と俺の転移能力が同時に発動し接触した。そして白紙の本への道標たるお前が居合わせた。だから俺たちは此処にいる。」
難解な話だが何となくは理解できた。要するにグレイさんと兵器、それから以前フィッツジェラルドもタイガービートルと呼んだ僕が同じタイミングで干渉してしまったことで予想もできない異常事態が発生した…そういうことだろう。
「けど、此処は何処なんですか。ドストエフスキーも探偵社の皆もいない。それに僕の中にいる虎を感じられないんです。」
「何らおかしくはねェな、ここは異能の存在しない世界だから。」
「異能が存在しない世界!?」
僕が孤児院にいたときですら一度は超常現象の類の噂を耳にしたことがある。だというのに、この妙に街並みの異なる横浜は異能力という概念すらない世界だと彼ははっきりと言い放った。であれば虎を感じないのも腑に落ちるというものだが、果たして本当にこんなことが起こりうるのだろうか。驚いて詰め寄ると、グレイさんは僕を見下ろして何かに気付いたように瞠目した。
「お前…誰かに会ったか。」
「誰か、ですか?」
「あー、一重の息を呑むほどにたおやかな…いやいい、会えばきっと戻れなくなる。」
「はぁ、」
まただ。共喰い事件の際にグレイさんに助けを求めた時、彼はエレベーターで今と同じような表情をした。普段の途轍もない底深さとは真反対の、果てのない荒野で一人佇むようなどうしようもない寂寥を抱いた双眼を。誰かを慈しむことができる、普通の人の面貌をみせるグレイさんに僕はどんな言葉を掛ければ良いのか分からなかった。つと、グレイさんが手にする物が気になった。
「それは、」
「ああ、これか。」
文字が敷き詰められた見開き二頁を読んでみる――。
『「っ!?グレイさん、これって...」雷にでも打たれたように敦は声をあげる。驚愕とばかりの彼の面相にグレイはふっと小さく息を吐くように頬を緩めた。「ご覧の通り、白紙の本だ。」』
…そこには今起こっている出来事がこまごまと、一つの物語のように紡がれていた。
これは夢か現か、自分の正気すら疑うほどの思いも寄らないに只々愕然と呆けることしかできない僕に、対して珍しくもなんともないといったふうな涼しい表情のグレイさんは胸元から一本のペンを取り出した。すらすらと何かを書いている。
「持ち主が結末を書かずに放棄したもんだから、自立しちまったのさ。」
「……………。」
「っと、こんなもんか。さあ敦。」
――お前が完結させろ。
唐突な言葉に喫驚を漏らす。グレイさんはそんな僕を他所に半ば強引にペンを持たせた。
「完結つったって無限に続く一幕にすぎねェ。」
「いや、あの。」
「一つ、前の頁は捲ってくれるなよ?きっと後悔する。…ったく本当に、大事なもんは手放しちゃならなかった。」
グレイさんに再度催促されるとおずおずと新しい頁を開く。伝説に相応しい汚れひとつない真っ新な表面を撫でる。試しに一文字書いてみれば淡い光が放たれた。隣を見てみれば、グレイさんは僕を真っ直ぐに見返してくる。その眼差しには曇りがなく、純真な信頼だけが秘められていた。だから僕は彼の温かさに促されるがままにペンを握り込み、頁に文字を紡ぎはじめた――。
*
全てが一刹那のうちに起こった。横浜全体を皓々たる超常が包み込み、異能力者が消滅したかと思われた。実際、消滅した。だが次の瞬間には肉体を構成する元素ごと吹飛んだはずの己が感覚を持って存在していることにドストエフスキーは硬直する。魔人の、それこそ西から日がでるくらいには有り得ぬ愕然とした有様に現状を正確に認識しているグレイが意地の悪い薄ら笑いを浮かべた。しかしドストエフスキー、際立った怪傑はグレイの反応から直ちにその並外れた智慧袋で現実を理会した。そうすると、峡谷から吹き上がる暴風の如く勃然と激情が湧き上がってきた。
「何故、よりにもよって貴方が…!」
目の前が真っ白になるほどの憤怒というものを、過去に一度として経験したことのない男は魂の唸りに密かに戸惑いつつも地を這うような声を滲み出す。いつの間にやら現場に駆けつけたゴーゴリと福地が猛るドストエフスキーに世にも稀代だと驚き入った。間違いない、直前の直前でグレイは特異点を発生させて兵器の威力を相殺したのだ。異能を忌まわしいと語った男が事もあろうに己の悲願を妨害した、その事実がドストエフスキーには許し難かった。だが…
「ッ、」
何の予告もなく右頬に訪れた衝撃にドストエフスキーの脳漿が急激にひっくり返った。時をおかずにすぐ傍で鈍い音が響く。
「痛ったァ!頬骨が折れた!?なんで僕まで!?」
「…五月蝿ェな。」
「待った待った!その拳が入ったら今度こそ私の端正な顔面がお亡くなりあそばせる!取り敢えず謝っとくよ!!」
「反省はなし、か。」
そんな茶番すら耳に届かぬほどドストエフスキーは衝撃に打ちひしがれていた。寸秒遅れて頬が痺れを訴えてくる。火照る箇所に手を添えると、グレイがゴーゴリを引き摺ってドストエフスキーの前に仁王立ちする。
「少しは目ェ覚めたか。」
「は?」
一部始終を蚊帳の外で見守っていた敦と福地は困惑げに視線を合わせた。顔を見合わせる天人五衰の首魁と敦、両頬を地面に押し付け今にも泣き出しそうなゴーゴリと虚無感を催すドストエフスキーの二人、彼等と忿懣やるかたないといった雰囲気で正対する最大のテロリスト。丁度ヘリポートまで追いついた芥川が一番の被害者のようにも思われる。一人の男を除いて混乱に混乱を極めた場でグレイは長嘆息を吐き出す。心労が辛いのはこっちだと福地は指摘したくなった。
「俺の許可なく体のない男を掘り起こすばかりか勝手に使いやがるとは。反抗期か?」
――いや、反抗期というには度が過ぎてますけど。
敦は黙り込んだ。徐々に平静を取り戻したドストエフスキーは淡々と物申した。
「貴方が言ったのではないですか、大胆になれと。」
「馬鹿野郎、こういうことじゃねェよ。」
「何故。」
性懲りもなくドストエフスキーは問い詰める。グレイはもう一度青息を漏らした。
「お前は何でも難しく考え過ぎなんだよ、天才の性ってやつか。…良いか、異能力っつーのは生得的に人間に備わっている生きる原動力だ。」
それは魂に潜む闇が何らかの強い影響によって異能という怪奇として顕在化したものであり、異能力とは所詮人間が身勝手にも非凡人と凡人の境界線として分け隔てただけだと。異能とは各々が自身の闇と向き合い、和解するべき生命の源であり他人に都合よく侵害されるべきものではないと、グレイは語る。
自身の片割れを受け入れるまでは野蛮な虎だと嫌悪していたからこそ、敦は男の言葉が道理に叶っていると感じずにはいられなかった。
「フェージャ、生きたいと願うことの、異能という心の闇と向き合うことの何が罪だ?」
この人間社会のもっとも深いところに座する男の似つかわしくない台詞にドストエフスキーばかりかゴーゴリと福地は言葉を失ってしまった。グレイは自身の人生観をもって重々承知している。異能力が人間の抱える本質の一部であるならば、人が人である限り野蛮性と攻撃性という種の不可欠要素が潰えることはないことを。
「争い事は絶えねェよ、既存の秩序を刷新したところで結局は新しい
それは福地に向けられた御説でもあった。異能力者を消し去ったところで今度は凡人が科学の力を駆使して何万、何億の罪を犯していく。非異能力者も異能力者に負けず劣らず、凄惨な畜生道に堕ちる。この碧い惑星で大地を踏み締めて息をしている限り目を背けたくなるような現実から逃れる術などないのだ。
「どうせ百年も待たずに死ぬんだ、なら夢幻泡影の人生のなかで自分の罪と現実とどう向き合っていくかに焦点を当てた方がよっぽど有意義だろう。」
「……………」
激烈な導入からはじまった説教はやはり怪物が口にするには生き様と相違が大きすぎる。どういう風の吹き回しか改心を果たしたのか、否、天地がひっくり返ってもこの破壊的な男に至ってはドストエフスキーよりも有り得ぬ…福地は意図の読めないグレイを注視した。今し方の言葉を胸の裡で反芻しながら。各々が心慮するなかでグレイは次にゴーゴリへと意識を向ける。ぎくりと効果音がつきそうなほど道化師は肩を揺らした。ダラダラと嫌な汗が背を伝っている。しかし幸いなことに愛の拳とやらは二度と襲いかかってはこなかった。
「そこにこそ神の慈悲があり、自由意志がある…そうは思わねェか?ゴーゴリ。」
言いながら、我ながら理屈臭いとグレイは内心苦々しさに全身が弛緩してしまいそうになった。それでも彼は込み上げた想いを言葉にするのを躊躇わなかった。息が詰まりそうなほどの現実に溺れても、何度でももがけばいい。それが
「はは、これは一本取られたな。」
他でもないグレイだからこそ静聴したといった感じで、二人は依然として不得要領を得ない面持ちをしていた。グレイはいつにも増して寡黙なドストエフスキーから視線を逸らし敦を一顧だにする。
「ところで敦、何故コイツから異能を奪わなかった。」
異能のない世界でグレイは確かに敦に対して、ドストエフスキーの異能を奪うように柔らかく指示した。三割は勝手に兵器を持ち出したドストエフスキーへの意趣返しで当然敦も世界を破滅に追いやった彼に何らかの制裁を与えるものだと思っていたのだが…いざこちらの世界に戻ってみればドストエフスキーの異能は顕在ではないか。グレイが疑問を抱くのも無理はなかった。グレイの問いかけに敦は数秒前の彼の言葉を胸中に甦らせる。あの一字一句が敦にとっては神の啓示に等しい真理に思えてならなかった。
「グレイさんの仰った通り、異能はその人の本質そのものだから。道から外れてしまった、間違ってしまった…そんなことで他人が個性を排除してしまうのはそれこそ違うんじゃないかって思ったんです。」
「……………。」
それは草木が生い茂る前の、冴え返った陽光を浴びて瑞々しく伸び盛る一本の青草のような清純さであった。若い、世間ずれしてない青雲のごとき若さだと福地とグレイは思った。だが悪くない。この時はじめて、ドストエフスキーは中島敦という人間を眼中に映した。不思議なことに反応を示すだけの心緒も思考の余白も持ち合わせていなかった。
「何でも良いけど慰謝料出るよね、間違いなくヒビ入ったんだけど。」
「厚かましくて何より。」
横浜の街を全方位展望できるヘリポートを清冽なそよ風が流動している。まだ浅春にも突入していないというのに、突然初夏がやってきたかのように暖かい陽射しが街を包んでいた。大空が描き出すうららかさ眠気を催されそうになりながらもグレイは景色を眺望する。己の役目は終わりだが、世界はこれにて一件落着とはおいそれとはいかぬものである。少し目を凝らせば、景観の隅々で街並みは荒廃をみせていた。
一瞬、元の世界で敦と再会したときのことが脳裏を掠める。卯月の真昼中の、まさに潔く閑雅な白梅の調和が仄かに敦から漂ってきた。一別以来嗅いでいない薫香をどうして彼女だと断ずることができようか。だが彼にはあの咄嗟に我が身を旧懐の情へと陥れたものが、精神すらもノスタルジックな時間移動に誘ってしまうほどの感受性というものが働いた途端に一人の愛してやまぬ女に胸を締め付けられることしかできなかった。今すぐにでも敦を置いて外へと駆け出すことができたのならば…。それでも歯を食いしばり耐え忍べたのは、ひたすらに彼の歩んできた二生のうちに培った克己心の賜物に尽きる。主人公を元の世界へと送り届け事態を収束させるという責任感が彼を不可視の鎖で錆びた家屋に留まらせた。
——せっかく元の世界に戻れたっていうのに…
「…また振り出しからか。」
今の今まで一種の平和を説いていた男の呟きに一同は慄いた。それもそのはず、福地のそもそもの動機は他ならぬこの生きる厄災と呼ばれる男であったからだ。だというのに、天人五衰の思惑を悉く水の泡にするばかりか人道を語り、間も無く策謀の再構成を独言する大いなる矛盾。とうとう彼等はグレイという男の思考体系がわからなくなった。再び横浜が、正しくは己が在処たるポートマフィアが脅威に晒されるというのならば今ここで男を始末してしまおうか。荊を隆起させ一撃で仕留めるが善かと芥川は羅生門を操ろうとして、
「っ」
よりにもよって都合よく顧みたグレイに己の無謀さを痛感した。偶然の産物であるが、先入観というのは恐ろしいものである…。
「まあいい、欲しいものは手に入った。」
そう云ってグレイはスーツの内から一冊の分厚い本の背を覗かせた。格調高い装丁が成されたそれは実際に目にしたことがなくとも一目瞭然の代物で…。一同は白紙の本を持つグレイに度肝を抜かれた。中でもこちらの世界に帰還する際に本の行方を確認しなかった敦は仮にも犯罪者が不可能を可能にする魔法の書を獲得してしまったことにわかりやすく狼狽した。ある種の負い目である。震撼する面々を差し置いてグレイは本を懐に戻す。と、雲を貫く高笑いが響いた。
「あーハッハッハ!そうか、そういうことだったのか!」
涙を滲ませて破顔大笑する存在はゴーゴリであった。白紙の本、自由思想という人間学的考察、生存競争の壟断に君臨する男。
「貴方が神だったんだ…フハハ!!」
——どうやら殴った所為で狂気が限界突破しちまったらしい。
遮るものが何もない中天の真下で、磊落な笑い声と共に一幕は締め括られたのだった。