一ヶ月後…
魔人フョードル・ドストエフスキー、天空カジノの支配人シグマ、道化師ゴーゴリ、不死公主ブラム・ストーカー、英雄福地桜痴。世界各地で暗躍したテロ組織天人五衰による国家消滅、天人の世の終焉は成し遂げられることなく終わりを迎えた。世界大戦一歩手前まで進んだ闘いの爪痕は未だに深く残るものの、世界は薄紙を剝ぐように元の状態を取り戻しつつあった。
表面上はテロの大規模同時多発事件として報道されたけれども、一部の渦中の人々は人為的に破壊された日常の覆い隠された真実を心の奥に秘めたまま日々を過ごしている。…僕もその内の一人だ。多くの人々は絶え間なく繰り返される特別でない毎日が途方もない闇に蝕まれていたという事実にすら気付かずにいつも通り学校に通って、会社に出勤して、買い物をして太平な世を信じてる。脆く、一瞬で崩れてしまうような不確かさであるなどとは思わずに。
当初テロ組織として濡れ衣を着せられた僕達武装探偵社は事変を経て身の潔白が証明され、今では横浜の薄暮の守護者としての一翼を担っている。つまるところ、全てが元通りである。
虫太郎さんの異能力と証言によって福地さんは異能大戦以降グレイにより何らかの精神干渉を受けた犠牲者として責任能力を問われた為に極刑が下されるのは免れた。それが福地さん自身の危機回避だったのか、親友であるグレイさんの計らいだったのかは覚束無い。いくら何でも瓦解を目論んだ人間に対する警めが甘すぎると澱が残るのは否めない。けれど社長曰く、福地さんが立ててきた偉勲を鑑みれば一連のテロ騒動を条件付きで黙過する方が余得があると定めたのだという。なんとも欺瞞に満ちた大団円だと福地さんの立場を斟酌できるような気がした。
結局、各国機関の帰着点はグレイさんが黒幕ということで一致していた。天人五衰の空想的な信念諸々を吹き飛ばすほどグレイさんが表舞台に出たことが衝撃的だったらしい。太宰さんや江戸川さんを含めた探偵社の皆もあの人が天人五衰を陥穽に嵌めて故意に戦禍を広げたと確信している。というのも、今回の事件は最初から最後まで白紙の本を手に入れたグレイさんの一人勝ちでしかなかったから。風の噂だけど、種田長官は目覚めるな否や事の次第を報告されて再び病院のベッドに沈んだとか…。特に特務課や多くの各界隈の関係者がグレイさんが呼び起こすであろう禍害の蓋然性を討論する毎日だった。だけど僕は違う。僕だけはあの異能の存在しない不思議な世界で彼の核に根差す人情の類を知ってしまったから。
——大事なもんは手放しちゃならなかった。
ふと、彼は代え難い何かを失ってしまったんじゃないかと知る由もないことを思った。絶対悪と畏れられるグレイさん、それから時折見せる人の父親のような人間らしさ、相反する人格がどのような因果を振り撒いているのかはひょっとすると本人すら預かり知るところではないのかもしれない。若しかすると彼は…
「敦くーん、早くおいで。」
「あ、今行きます!」
思考を遮った谷崎さんの掛け声に我に返って立ち上がる。今日は待ちに待った打ち上げの日。岸壁に四方を阻まれ、闇夜の灯すら失い、四肢を奪われ…大自然の奇禍に人が抗えぬように己の無力を痛感した。それでも一進一退を繰り返し苦難を乗り越えた僕達は、今日もこの横浜という哀歓の風が吹く街で息をしている。
会議室の扉を開けば皆はもう集まっていた。
「太宰!貴様昨日のあの書類はいったいどういうことだ!?」
「いやーね国木田君、見積書に特務課の書類が混ざってるなんて愉快な展開、利用しない手はないじゃないか!」
「このっ…!」
「敦。」
「鏡花ちゃん…」
隅の席で首を絞められる太宰さんと眼鏡が割れそうな勢いで鼻息を荒げる国木田さん。日常茶飯事だと諦念を込めて頭を振る鏡花ちゃんに野暮なことは言うまいと唇を軽く引き締めた。
「敦、丁度良いところに来たね。ちょっと試してほしいことがあるんだよ…何、足の指を斬り落として…」
「え、遠慮します!」
「反応が早くなったね。」
「敦ー駄菓子持ってきてー!ラムネ忘れないでよ。」
平常運転の与謝野さんと乱歩さんの間の席で賢治君はすやすやと眠っている。そういえば今朝、国木田さんが財布を握り締めて天を仰いでいたような…。
「あれ、そういえば授与された弓はどうしたんですか?」
ついこの間まで壁に立て掛けられていたはずの祓魔梓弓章の証が消えている。すると、背後から渋い声が降りてきた。
「あれは返した。」
「社長!返したって…」
「我らには不要故、二度と斯様な翫具を押し付けるなと釘を刺しておいた。」
「ひゅーひゅー、流石社長。」
「まあ、よくよく振り返ればあれはもはや悪夢の象徴も同然だな。」
いつの間にかやってきた太宰さんが惜しみない拍手を送り、国木田さんが苦虫を噛み潰してしまったような顔をした。鏡花ちゃんがくすりと笑った。上座へと向かう社長の心なしか清々しい背を見つめていると、再び乱歩さんが駄々を捏ねる。
「敦早くしてよ。」
「ああっ、はい今すぐ持ってきます!」
「私先に座ってる。オレンジジュースで良い?」
「うん、ありがとう。」
草履を鳴らしてドリンクサーバーを目指す鏡花ちゃんを見送って僕も踵を返す。去り際に乱歩さんが「あ、あとドア開けてあげてね。」と不可思議な事を言うのを聞き届けて会議室を後にした。
「えーっと、ラムネがないな…」
大事な慰労会だというのに冷蔵庫にはラムネはおろかサイダーの一本もなかった。これは買い走り確定だなとポケットの小銭を確かめていると、俄かに出入口の扉がノックされる。定休日の看板を掲げているのにお客さんだろうか。小走りに厨房を出て出入り口へと行く。コンコン。
「はい、今開けま…」
ドアノブを捻って開かれた扉の先にいたのは、
「ぁ」
忘れもしない。最初は敵として、次に再会したときは探偵社の頼もしい味方として一緒に戦った人物。心の空白を埋めようと、昔の僕のように居場所を求めた温良篤厚な彷徨い人。特務課にいるはずの男の急な訪問に目を丸くする僕にシグマさんは視線を泳がせる。
「えっとその…探偵社に依頼があって、その…」
私の正体を…あの男が…。歯切れの悪さと耳を凝らしても聞こえない囁き声にシグマさんが何を言っているのかは微塵も伝わってこなかった。けど依頼という単語だけは聞き取って僕は一先ず半身をずらして中に入るように促す。
「取り敢えず中にどうぞ…あ、ラムネ!」
「ラムネ?」
「すみませんシグマさん、一緒にコンビニ着いて来て下さい!」
「は?」
うっかり頭から去ってしまった乱歩さんの大切な飲み物を思い出して、臍を曲げる彼の姿を思い浮かべた僕は困惑するシグマさんを伴って探偵社から駆け出したのだった。
小さな幸せを抱きしめて、僕達が生きる街は今日も今日とてかけがえのないもので溢れていた。
*
探偵社の窓のサイズは標準的だが、対面する建物の屋上から眺める分には問題なく室内を一望できる。誰かに呼ばれたのか敦が席を立つと奥の部屋へと入っていった。
「これで本当に一件落着だな。」
俺は懐から本を取り出すと左隣で同様に探偵社を眺める初老に差し出した。夏目はペラペラと頁を捲ると内容を改めてから真っ新な一枚を千切って一個の記憶媒体とともに俺に渡してきた。無言の内に意を汲み取るとそれを受け取りジャケットの裡に大切に仕舞った。ある意味世界一危険な物々交換である。
「落とすなよ。」
「互いにな。」
今度は絶対に誰の手にも渡らないように手元に保管しておこう。既に隠し場所の目星はつけてある。小さな記憶媒体をポケットに入れたところで、探偵社の中で動きがあった。姿を見せた敦の前に自信なさげに佇んでいるのはシグマ。流石に会話は聞こえないが、おそらく俺が天人五衰解体後に掛けた助言を実直に間に受けたのだろう。己の真実を知りたくば探偵社を頼れといった、簡潔な助言をな。きっと探偵社ならアイツも居場所を見出せるだろう。
「アンタはこの結末に満足か…ってもういねェ。」
横を向けば気まぐれな猫は新たな放浪の旅へと出発していた。相変わらず自由な親爺なこった。視線を戻せば、何やら針に突かれたように飛び上がった敦が大慌てでシグマと一緒に探偵社を出て行った。
チリン。今度は耳障りの良い鈴の音が鳴った。首を顧みる間もなく夏目がいた場所に条野とQが並ぶ。うずまきの前を駆けてゆく敦たちを聴覚で傍観していた。
「ねぇねぇあの人たち何してんの。」
「晩飯でも買い忘れたんじゃねェのか。」
「まだ朝なのに?」
細かいことは善いんだよ。
「グレイ、一つお聞きしても?」
「なんだ。」
「中島敦は若しや…いえ、何でもありません。」
中途半端に中断されると気になってしょうがないんだが。どうせ条野のことだ、いつもみたく突拍子もない思考回路を言語化しようとしていい加減に断念したのだろう。大した内容ではないと信じてこの場では聞き逃しておく。そういやコイツ軍服を着てねェな。
「猟犬は辞めたのか。」
「ええ、将官に辞表を出して来ました。」
「阿鼻叫喚だな。」
理由は不明だが条野は天人五衰のテロに関与した重罪人として指名手配を受けていた。冗談半ばに俺と同じく犯罪者の仲間入りだなと云えば頬を染めるものだからこの世で最も恐ろしいのは条野かもしれないと真面目に思ってしまう。
「肉体はどうする。維持には異能技師が必要だろう。」
「優秀な技師など世界中に腐るほどいます。」
「それもそうだな。」
また、後方で靴音が重なった。振り返ってみれば長らく会っていなかったルーシーと春蝉がいた。二人の隣り合う肩が大きく揺れた。スカートの裾を握りしめて皺をつくるルーシー、春蝉を見遣れば罰が悪そうに目を逸らすもんだからお手上げだ。これは間違いなく反抗期だな…。大抵思春期の子供を手懐ける良策は一つ。
「買い物、行くか。」
「っ!?」
「うわぁーい!!」
Qを除いて全員が俺を凝視した。まるで信じられないものを見るような目線は極めて無礼だ。特にルーシーは誤って発砲してしまった負い目があるので家でも車でも何でも買ってやる所存だ。
「ルーシー、お前は何が欲しい。言ってみろ。」
「車!」
「何でお前が答えるんだ。」
代わりに爛々と挙手するQに呆れ返る。この間文とブラムを乗せて街を暴走した際に施した説教はもうすっぽ抜けてるようだ。
「どうして、」
ルーシーが弱りきった音色を零す。心情が掴みとれずに内心首を傾げる。俯いていた春蝉が面をあげた。
「グレイ、僕達は裏切ったんだよ。」
「裏切り?何のことだ。」
瞬間、光よりも速く一歩を踏み出したルーシーが抱き付いてきた。パラペットから落ちないように踏ん張って腕を回してやると、Qが「僕も僕も!」と突進してきた。やめろやめろ、落ちるだろうが。胸元で押し殺したような嗚咽が聞こえてくる。これまでの会話のどこに泣く要素があるのかが判らず対応に迷うが、この感受性豊かな子供の気が済むまで慰めることにした。
「ごめんなざぃぃぃ…!」
「何も悪ィことなんかしてねェだろ、謝るなよ。」
「うわぁぁああん!」
「参ったな。」
「グレイの、抱擁…羨ま厚かましいですよ。」
一人的外れな感想を呟く条野を無視してルーシーを抱いたまま片腕を広げると、もれなく春蝉たちも飛び込んできた。日頃から腹筋を鍛えているとこういう時に役立つものだ。息子と娘を想えばこんな風にこの世界で子供四人を抱擁するのも案外悪くないと、俺は両手いっぱいの幸せを暫くの間味わっていた。
程なくしてルーシーの涙が収まると俺たちは輪になって顔をあわせる。
「それで、何処に行きたい。春蝉。」
「え、僕?…んーと、海外なんてどうかな。」
「賛成!」
それぞれが思うままの国名を挙げだすのを脳内で纏める。ルーシーはうずまきで、春蝉は日本で新たな仕事に就きたいらしいから切り詰めたスケジュールになるだろう。まずはホテルに戻ってゆっくり美味い珈琲でも作ってから話し合うか。ちびっ子達を促して歩き始めると、Qが手を繋いでくる。
「ねーねーグレイ。」
「ん?」
「異能力って名前があるよね。」
「ああ。」
Qは『ドグラ・マグラ』、ルーシーは『深淵の赤毛のアン』、条野は『千金の涙』。因みに春蝉は『優しき歌』と謂うらしい。憶測だが縁者ということで道造の影響を受けているのだろう。名前からして春蝉らしいもんだ。
「じゃあさ、グレイのはなんていうの?」
「それ、僕も気になるな。」
「私も。」
「…………。」
全員が好奇な眼差しで見つめてくると俺は空を仰いでみた。
風景画のように雲一つない冴え切った群青が一面に広がっている。立派な御天道様が次元が異なれど素晴らしい横浜の街を燦々と照らしていた。四人よりも一歩前に出て、もう一度武装探偵社を一瞥すると俺は爽快な笑みを溢れさせた。
「俺の異能力はな、————。」
——文豪アウトサイダー OE終
こんばんは、黎明夜です。
いつもご拝読いただきありがとうございます。
これにて、文豪アウトサイダー(OE)のハーメルン投稿も最後となります。実に一年あまりの長編となりましたが最後までお付き合いいただいた皆様には頭が下がる思いです。本当にありがとうございました。
元々本作は、作者が描き進めていた一次創作の悪役グレイの味を増すために試行錯誤した挙句に文スト勘違い小説となったものです。機会があればグレイが活躍する本来の作品の方もお披露目できればと思っております。
OE(原作に沿わないオリジナルエンディング)はこれにて完結となりますが、これからは原作に沿った原作エンドに向けてゆっくりと番外編を挟みながら進めていく所存ですので是非、お付き合い頂けると幸いです。
また、一部番外編のうちにはOE後日談等こちらに投稿予定のない作品もございますので、興味がある方はお手数をおかけしますが支部にてマイピク申請をお願い致します。
改めて、文豪アウトサイダーをご拝読いただきありがとうございました。これからも宜しくお願い致します。
黎明夜