フォトグラフィック・メモリー(前)
『ある三連休半ばの朝旦のこと。
横浜市内のその一軒家は利便性の高い都市部に位置している。かつての開港後には外国人居留地とされた区域で今でも西欧文化の歴史情緒を感じられる優れた街並みをしている。土地そのものが立地の良さ故に底堅い需要を生み、会社経営者から資産家に至る多くの富裕層が邸宅を構える中区山手町。
落ち着いた住宅街の立地の魅力を活かして、個々の住民は細やかな休日を喧騒から離れ安息の世界に浸るべく邸宅に閉じ籠っている。無論、常套の観光名所や近所の喫茶店、或いは小旅行に乗り出す者もいた。しかし町内に佇うM邸の父子は周囲の喧騒から外壁とそれを囲む植栽で隔たれた粛然たる一軒家で休暇を過ごしていた...。
「聡太、明後日の宿題は終わったのか。」
アールヌーヴォー調の美しい曲線を描いた片開き窓のステンドグラスを鑑賞する。職人の芸術を重んじる感性がひしひしと色感を魅せる柔らかく自由な美術品だ。
窓を開けてみる。 ふっと、目に見えない質量が自身の周辺で掻き混ぜられるような気がした。
「聡太、」
丁度、照らし出した陽光に透けて色鮮やかな光芒を放つのは三朶の薔薇。ステンドパネルの透明な輝きが薔薇の王道の美貌を際立たせている。
「次は俺の番な。」
「じゃあ私チョーク持ってくる!」
「待ってあたしも行く!」
フェイジョアやシマトネリコの濃緑な花壇の先で、近所の同年代の子供達が和気藹々と遊んでいる。自動散水装置が活動の時を迎えて朝に浮かぶ星空のように水飛沫をあげると、ステンドグラスの薔薇と子供達と水飛沫とが一つの風景となった。
日常だ。ありふれた日常がそこには存在した。なら自分は何処に在る?個の空間に浸る邸宅、成程確かに正しいがそれはあの完結した現実と自分とを隔てる不可視の壁に過ぎないのではないだろうか。年も変わらぬ少年少女が享受する安寧を決して辿り着けぬ対岸で眼差しているだけの自分が求めているものとは…。
「聡太、返事をしなさい。」
「っ、ごめんなさい」
錯乱の渦へと思考が飛び込みそうになって、突として肩にのしかかった重みに聡太は飛び跳ねる。咄嗟に振り向き、相手の顔を見極めもせずに頭を下げると深い溜息が降りかかった。重くて一層視線が沈んでしまう。...顔を上げてみる。父親は詮無いとでもいいたげに額を抑えていた。
そうこうしているうちに窓が閉ざされた。益々現実は遠のいてしまった。
「全く、人の話を聞かないのは誰に似たんだか。碌に友達も作らず家に篭ってばかり…こんなことでは死んだあいつも浮かばれないな。」
拳が握り締められた。白むほどに握ったのは何方だったか。昨今の母親の死を転機に顛落への階段を急降下しているような気がしてならない。…否、ひょっとすると遥か前から二人は理不尽の悪循環に陥っていたのかも。天へ還った幸福者の晴れやかな空模様が浮かんで、聡太は素直に言葉にしようとして。
「…宿題は終わってます。」
結局、普段通りの角が立たない返答を選択した。父親は「そうか。」と一言返した。そんな時、玄関のチャイムが鳴った。
父親が横顔を流す。
もう一度鳴り響いた。心なしか一音高く。
「今行く。」
しかしチャイムは鳴り止まない。無礼な客人に邸宅の主人は神経質な性を眉間にひけらかして大股に歩んだ。
天地が覆り、平生に躍り出る幻想を抱いていたからか。猛り狂う風雨のように、全てはあまりにも唐突に前触れなく過ぎ去った。
「——聡太っ、隠れなさい!」
「ぇ」
強引に押し込められると聡太の視界が暗闇へと誘われる。
ガシャン!硝子のように重々しい何かが壊れる音がした。迫り来る心臓を掴まれるようなもの恐ろしさに聡太は両耳を塞ぐ。けれども小さな掌は外界の音を遮断してはくれなかった。ぐっと瞼を閉じれば、暗黒に今し方の光景が焼き映される。
薔薇、男、三…。象徴的な衝撃を脳内で反芻しているうちに、三発の銃声が指の隙間から鼓膜に漏れ入った。
助けてくれ。最後に父親の悲鳴が聞こえた。』
ここからはオリジナルではない、原作に沿った本編へと突入します。といっても、まだ原作の天人五衰編が完結してないのでゆるりと番外編に本編を混ぜながら時間稼ぎをしていくつもりです。
宜しくお願いします。