「茂木聡太、十五歳」
「横浜市会議員茂木隆也の一人息子や。」
——事件が事件なだけにな、下手に空振るわけにはいかんのや。
そう云った種田は大層顰蹙していた。ゆくりなくも、どんでん返しを喰らったといわんばかりの不快感が丸出しである。辻村は小首を傾げる。
「それは判りましたけど、彼の護衛任務が何故私に割り当てられたんですか。」
特一級危険異能力者の綾辻の監視役を担う彼女は、本来ならば今日も彼の嗜好が投影された不気味な事務所で任務に就く筈であった。それが今朝、直属の上司の坂口ではなく何故か種田に直接特務課へと呼び出され毛色の異なる任務を瀉されたのだ。
簡潔に纏められた資料には横浜市会議員茂木隆也の息子、茂木聡太の事件に纏わる詳細が記されている。それによれば、先日日曜日の朝十時頃、某邸宅が何者かによる奇襲を受けたのだという。恰幅の良い異邦人の三人組で、辛うじて擦り傷程度で難を逃れた父親の隆也は強盗だと主張している。そこで、同様に収納家具の中から一部始終を目撃していた聡太の心身のケアを頼みたいという議員たっての希望で異能特務課が担当を担うことになった。
「それに特務課案件とは思えないんですけど、」
すると種田はさも煩雑そうに書斎の上に乗せられた指先の第一関節を曲げた。何でも白羽の矢が立ったのが辻村だったそうだ。
「はぁ、議員が私をご指名で。」
されど茂木議員と顔馴染みどころか、言葉を交わした覚えもない。そもそも馴染みの薄い界隈人が如何やって自分を知ったのか。返答の代わりにまるで腑に落ちないと肩を竦める種田に、辻村は資料二枚目の顔写真を再度確認してみる。
「ん?」
前言訂正。極端な言い方をすれば非対称に釣り上がった眼が不躾な印象を与える四十路の顔面に辻村は既視感があった。
「何処かで見たことがあるような…」
だが彼女が記憶の旅に旅立つよりも先に種田が言葉を発した。
「茂木聡太は異能力者や。」
「彼が?」
「ああ。フォトグラフィック・メモリー…物事を一瞬で映像として記憶することができる能力でな。つい先々週にも偶然コンビニ強盗に遭遇した彼の異能力を用いて容疑者を有罪まで持ち込んだ。」
「そんなことが。」
「それがや、」
ピンと効果音がつきそうな雰囲気で人差し指の先を天井に向けた種田、今時のドラマの見過ぎではないだろうかと辻村は胸中で思った。
「事件に関しては何一つ覚えとらんっちゅうんや。」
覚えてない。それは奇妙な口述だ。全自動の異能力者に限って殊更衝撃的な事物を記憶していないなどということが有り得ようか。種田の真意は容易に察せられた。聡太は覚えていないのではない、断固として閉口するほどの酷い心理的損害を受けたのだ。辻村は思考する。言いたくない、事件の記憶を強引に葬り去りたいというのが本人の願いならば無理強いする必要などないのでは。彼女の意見を聞いて種田は何だか複雑な面相をつくった。
「いやな、儂やってそうしてやりたいのは山々なんやが…」
スルメイカでも噛むようにふにゃりと歯切れの悪くなった自身の長官に辻村は唇を一文字に結んだ。
入室時から穏やかではない気配を身に纏っていた為に、敢えて彼女は素知らぬふりをしていた。如何やら件の任務、雲の陰に隠れた太陽の幽暗の色合いを被っているらしい。そして辻村、公私ともに当たらぬ蜂には刺されぬを掲げる女である。尤も、斯様な左右の銘を彼女の監視対象が耳にすればすかさず巧みなレトリックであらゆる毒を吐き捨てるだろうが。
ともあれ、貴重な証人となり得る少年の護衛などお茶の子さいさい。辻村は一つ返事で一週間の護衛任務を請け負ったのだった。
…………。
「君が聡太君?私は辻村深月っていいます、よろしくね。」
異能特務課が拠点を構えるビルのフロント、受付付近に備えられたベージュのビンデンソファに腰掛ける聡太は反応がない。硬く握り締めた小さな拳を両膝に乗せて、俯いた面からは感情が伺えない。無理からぬことだ。押し込み強盗で奇跡的に父子共に命に別状はなかったものの、大柄な不審者が三人も快適な精神を保つはずの我が家に土足で侵入したトラウマは計り知れない。挙げ句、脳腫瘍で亡くなったという母親との死別から半年も経っていないというではないか。しこりを残したまま逝ってしまった疎遠な母親の影を思い出して、辻村の手袋に皺が寄った。
少年の心を開き事情聴取を行う?とんでもない。長官には恐縮だが、傷心した少年の傷を抉るような真似はとてもできない。先ずは聡太に対して己が胸襟を開くことから始めなければ。思い立って辻村は氣合を入れた。
「聡太君、異能力って知ってるかな。私も異能力を持ってて、それで貴方のお父さんとご縁があって…」
「知ってるよ。つーかもう十五だし子供扱いすんな、召使。」
「誰が召使ですって!?」
出し抜けに強烈な台詞を放った聡太に辻村は思わず声を荒げた。いつものように反論しようとして、相手が子供であることを思い返してハッとして口元を抑える。そこで漸く、聡太は面をあげた。
濃い玉蜀黍色の短髪に、髪色に小麦色を混ぜたような双眸。上下ともにチェック柄で統一された朱色のニットベストにワイドパンツ、胸元の控えめな赤橙のリボンが如何にも良家の子息といった感じの装いである。しかし彼の服装以上に、辻村の脳天に雷鳴の如く迸る精神的打撃があった。
「聞いてんのかよ。め、し、つ、か、い」
「リ…」
「リ?」
間違いない。端正なアーモンドアイ、尊大な物言い…遮光眼鏡と煙管とキャスケットがないだけでものの見事に瓜二つ。椅子から腰をあげ、己の胸下程の丈から見上げる聡太に辻村は所嫌わず叫んだ。
「リトル綾辻だ…!」
——それから数時間後。
太陽はとっくに天頂を通り越し真西に鎮座している。底抜けに明るい市内の、繁華街付近は日陰と商店の娯楽を求めて逍遥する人々で溢れかえっていた。市場のように活気賑わう商店街の、すぐ近場のショッピングセンターに二人は訪れていた。
「次、かき氷。」
「この季節に?」
「何でも善いから早く焼きそばパン買ってこいよ。」
「いやどっち欲しいのよ?」
多種多様な品々が窓越しに陳列するショッピングセンターの、飲食店の立ち並ぶ階を回ること彼此一時間。手始めにホットドッグ、ラーメン、クリームサンド、カレーライス、チーズナン、おにぎり…。
手織り絨毯の隙間に散らばったビーズを吸引する掃除機の如く、凄まじい貪欲さで食べ物を平らげる聡太に辻村はだらしなくも開いた口を塞げずにいた。エッグタルトを二つ頬張りながら「どっちも」と口籠るリトル綾辻。気品は何処へいったのか。ぎゅるると奏でる腹を白けた眼で見下ろさずにはいられなかった。
尚も偉そうに食事を催促する聡太に、辻村はその胃に蓄積された食べ物が消化されるや否や毒舌のエネルギーへと変換されているような気がしてならなかった。
心身の守護などとけしからん指示を下したのは誰であったか。折角自他ともに認めるミステリアスなエージェントに貴重な職務が委任されたというのに、護衛というよりかは只の使いっ走りだった。たった一週間でも断ち切れぬ特一級異能力者との腐れ縁を感じてしまうと、辻村は密かに呪詛を剥げ散らかした長官に放たずにはいられなかった。一週間の任務における出費は経費として計上できるのが唯一の救いである。
気勢を削がれて猫背になった辻村は、伏目に俯いた拍子に聡太のメンズボウタイシャツの裾の隙間から包帯が覗いていることに気付いた。
「あれ、それどうしたの?大丈夫?」
「ッ」
丁寧に巻かれた包帯の下の状態は伺えないが、範囲から推察するにそれなりの怪我であることは伺える。少なくとも辻村と出会う頃には出来ていたのだろう。もしや強盗騒動で?だが資料では負傷者は隆也のみとあった。具合を確かめるべく腕を持ち上げようとして…
「触るな!」
「あ、」
乾いた音が彼女の手を振り払った。
「ごめんね、いきなり触っちゃって。」
「………。」
束の間の馴れ合いで上っ面の親身にすっかり浸っていた辻村は彼が事件の被害者であることを思い出し鉛を飲み込んだような心地になった。外傷体験の直後の未成年への対応としては不適切であったことに考え至り即座に謝意を口にするが、聡太は膨れっ面をつくってそっぽを向いてしまった。こうなっては致し方ない、今一度遠ざかった距離を縮めようと辻村は財布を片手に彼を休息椅子に促す。
「じゃあかき氷と焼きそばパン買ってくるからここで待っといて。絶対に勝手に歩き回っちゃ駄目からね。」
「………」
一切の返事のしなくなった聡太を残して辻村は急ぎ早にフードコートへと向かった。
…聡太の姿が消えたのは僅か三分後のことだった。
運よく行列の少ない売店で焼きそばパンを購入した辻村は、次いで隣接する氷菓専門店に並ぼうとして群衆の中から耳朶に届いた悲鳴に肩を跳ね上がらせた。手にしたパンを近くの家族連れに押し付けると弾かれるように足を動かし元に戻り…己の護衛対象が居なくなったことを悟った。
酷く抵抗したのか床に落ちた千切れたリボンは聡太の失踪が彼自身の意図でないことを証明していた。更には付近の一般客の「柄の悪い外人が連れ去った」という訴えを聞くと辻村は人混みを掻き分けフロアを捜索して回る。拳銃を表に晒して人々の動きを止めたいのを堪えて御手洗いから倉庫までの全てを巡り、だがついぞ聡太と誘拐犯を発見することは叶わなかった。
まだそう遠くヘは逃げ果せていないはず。辻村は通信も忘れて聡太の行方を探した。そうして近辺を駆けずり回っている間に日が暮れてしまった。
厚い闇に閉ざされた冷ややかな暮六つ。沈んだ斜陽の代わりに深々とした宵闇が我こそはと港町を覆い包んでいる。目眩がしそうなほどに暗い隘路の、足場を失うほどに積み重ねられた瓦礫、本来あるべき建造物の外角に点々と建てられた街灯を頼りに歩を進めれば目的地に到達した。
倒壊した雑居ビル。その路地に面した一階部分だけが神の加護でも受けたかのように正常な外観を保っている。周辺の建造物が消し飛んだ中心部付近で、遠方のコンテナターミナル、それから泥のように黒々とした夜凪を背後に抱えて佇む物件の倒錯的魅惑といえば言語を絶するものがあった。
辻村は電光看板を見上げてみる。ノスタルジー漂う光源を受けて、怪盗が鋭い眼光で睨みを効かせている。秘密基地へと忍び込むような心持ちでドアノブを捻る。早速地下へと続く階段が見えた。一歩、一歩と足を進めるたびに木製の階段が痛々しげに軋む。あっという間に店内に降りると、複数人の男性客と熟年のマスターの視線が出迎えた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか。」
「はい、」
促されるまま男達から一席離れたカウンター席に座り、サラトガクーラーを注文する。
「サラトガじゃなくてか?」
「ククッ」
無作法な横槍には素知らぬふりを装った。
「マスター、ルシアンを。」
「…畏まりました。」
さもしさを全面に押し出した顔面の男達に普段ならば軍警の特別捜査官の身分証をひけらかして遠ざけるところであるが、打ち明けるところ、彼等こそがポートマフィアの上等構成員であり辻村の目的であった。
ショッピングセンターで図らずも聡太と離別してから数時間にも及んで辻村は街中を探し回った。だがしかし目撃情報も潰えて愈々万事休し...されども万策尽きたわけではない。横浜の捜索活動において捜査官の地取りの一環として、秘匿された非合法組織関係者への聴取というものが事実定着している。凡ゆる暗数の多い魔都横浜で実態調査をするに際してポートマフィアや租界を取り巻く非合法組織との暗黙の協調は密接不可分だ。横浜市内の異能力者専用のバーから、違法クラブの幾許かを転々とし聡太の行方を追跡した辻村だったが、目ぼしい情報は得られなかった。
そこで彼女は最後の頼みの綱というべきポートマフィア管区のバールパンに身を運ぶことにしたのだ。以前上司の坂口も情報収集目当てに通ったというこのバーのマスターは、曰く蛤のように口が堅く捜査官の不透明な活動も緘黙のうちに呑み込んでしまうのだという。他の店で実りがなかったのであれば、残るは泣く子も黙るマフィアの上等構成員に縋る以外の道はない。実際、これぞ堅物といったスーツ姿で来店した彼女の魂胆を即座に見抜いた男達は早くも不文律の要求に応じることにしたのである。彼等のアイコンタクトを他者が目の当たりにすれば、単なる色事の応酬だと勘違いするに違いない。
ともあれ、思わず渋面をつくりたくなるような男達の物色の眼差しを受けて辻村は空になったサラトガクーラーの代わりに、贈られたルシアンを掲げる。そして大胆軽薄にも一気に煽った。喉を通り過ぎた熱に、胃が爆発してしまいそうだ。何を隠そう、彼女は下戸である。男達が心底愉快そうに喉を鳴らした。辻村はマスターに呼びかける。
「マスター、マティーニを下さい。」
糅てて加えてこの特務課エージェント、酒に詳しくない。こういった趣旨のバーでの駆け引きなど毛ほども知らぬ。だが彼女には一つ分かっていることがあった。以前独りで鑑賞したスパイ映画の男主人公が現状と似通った折衝の場面でマティーニを嗜んでいたのだ。即ち、マティーニはミステリアスな捜査官には不可欠な装飾である。知的な愛、棘のある美しさ…左様、ミステリアスな女を自称するにはこれ以上ないカクテルだろう。この場に彼女の監視対象が同席していたならばすかさず道理に適ったぐうの音も出ない駄目だしに辻村はテーブルに沈没していただろうが。生憎、彼女の半ば保護者たる殺人探偵は己の事務所で入浴前の優雅な読書に耽っていた。そして辻村、斯様な老舗バーには些か相応しくない豪快さで無法者の挑戦に応じて限界を迎えるのに時間は要さなかった。